大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

仏法の種をまいた名僧、高田好胤(6)

皆さんこんにちは。

 

百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を興した、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。

 

前回は金堂再建のために講演と写経勧進に東奔西走する好胤と、日本建築界を代表する碩学たちが結集し、不世出の宮大工西岡常一を棟梁に迎えて、いよいよ実現に向けて動き出した伽藍復興の姿をご紹介しました。


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設計も固まり、再建にあたって最後に残った課題は、木材の調達でした。

千年のヒノキ

好胤が金堂再建にあたって、強く要望したのは以下の三つです。

一、金堂は木造とすること

一、用材は日本の木を使うこと

一、火事があっても本尊の薬師三尊に大事がないようにすること

木造と防火対策の両立は、難しい課題でしたが、内陣を防火シャッター付きの鉄筋コンクリート製として、それを木造の堂で覆うというアイデアで、なんとかクリアしました。

しかし、「用材は日本の木を使うこと」。この実現が、大きく難航したのです。

というのも、木であれば何でもよいというものではなく、大規模な木造建築となる寺院の造営は、早々建て替えを行うというものではないため、耐久性の高い用材を用いる必要がありました。

具体的には、法隆寺薬師寺東塔で用いられた、樹齢1000年を越えるヒノキが最適なのですが、すでに日本ではそのようなヒノキは残っておらず、入手することは不可能となっていたのです。

しかし、好胤は頑なまでに国産ヒノキによる再建を望んでいました。

外国産の木材を使うくらいなら鉄筋コンクリートでよい、とまで考えていたのです。

 

木材の調達に難航する中、台湾産ヒノキを使ってはどうかという、好意的な申し出がありました。

あくまで国産ヒノキにこだわる好胤は、気が進まない様子でしたが、執事の一人が「話だけでも聞いたらどうですか。大人げない」と窘め、「会って断ってもよいという条件なら」と、好胤は沖縄への慰霊訪問の帰りに台湾へ立ち寄りました。

そこで、材木会社の社長、劉圳松と面談します。

当初、断りを入れるつもりで面談した好胤でしたが、劉社長との対話をとおして、国産ヒノキへのこだわりが消え、台湾の木を使うことこそ金堂復興にふさわしいとまで考えを改めます。

面談の仔細は不明ですが、後に「台湾にこそ日本人の心が残っている」と述懐していることから、劉社長を通して、台湾の人々の心性を感じ、好胤の琴線に触れたのでしょう。

こうして急転直下で台湾産ヒノキを用材とすることが決まったのですが、具体的な売買交渉が再び難航します。

薬師寺側は樹齢千年のヒノキのみ原木で300本ほどを希望していたのですが、台湾側は若い木も抱き合わせで購入してほしいと、条件面で中々折り合いがつかなかったのです。

交渉が難航する中、薬師寺側に大きな助け舟を出してくれたのが、劉社長の77歳になる母親でした。

大変熱心な仏教徒だったそうで、息子の劉社長にこう言って説き伏せました。

「日本の由緒あるお寺で仏さまを安置するお堂をお建てになるのだから、しっかりお手伝いをしなさい。私への親孝行だと思って協力しなさい。もしも欠損が出るようなら、私の財産をまわしてもよろしい」

 

台湾産ヒノキの調達めどがつくと、棟梁の西岡常一は、金堂設計委員の浅野清大阪工業大学教授)と薬師寺の執事一名を伴って、1970(昭和45)年の11月、現地台湾へ飛びました。

法隆寺宮大工に受け継がれた口伝、「堂塔の建立には、木は買わず、山を買え」を実践するためです。

木は生えている地理により、生育条件が変わるため、どのような部位に適した材になるかが変わってしまう。そのために山ごと買って、生えていた場所ごとに適材適所で木材を用いることが大事だという教えでした。

実際に切り出す木を見て、買い付けを行いたいという、西岡のたっての希望でした。

 

足を向けて寝られない

台湾に渡った西岡らが向かったのは、台湾中部の標高1800~2500mにもなる山地でした。

日本に比べはるか南方にあり、気候が温暖な台湾ですが、高山地域で冬には雪が降るといい、西岡は日本のヒノキ産地と気候がよく似ていると、好感触を得ました。

岩山に生えているヒノキの巨木は、植林されたものではなく、樹齢3千年をこえるものもあったと言います。

西岡自ら用材となる木を見定め、切り出したものを割り、製材して検査の上、材木に仕上げたものを買い付けるという段取りで進められました。

原木で300本を超える大量の買い付けは、後にも先にもなく、また、その後台湾では森林保護の観点から、古木の伐採規制が強まって調達が困難になったことから、この時期の買い付けは、薬師寺にとっては最初で最後のチャンスとも言えました。

翌1971(昭和46)年8月、用材は船で大阪に運ばれ、薬師寺に届きます。

劉社長は薬師寺を訪れ、木材の引き渡しが無事に完了したことを見届けると、好胤の手を握り「管長さん、ありがとう。家門の誉れです。私一世一代の親孝行をさせていただけました。仏様のお導きです。ありがたいです」と涙ながらに言いました。

台湾からの木材により、金堂再建の最後の課題は解決の道が開き、好胤はそれまで北枕で寝ていたのをやめました。

台湾のある南に向かって足を向けては寝られない。

以来、好胤は西枕で寝るようになったそうです。

 

金堂の棟札

時間は前後しますが、1971(昭和46)年4月3日、金堂の起工式が行われました。

写経の数は日に日に増え、この時期には18万巻に達していたと言います。

社会的にも大きく認知されつつあった薬師寺金堂復興の起工式には、好胤の晋山式に集まった人々の10倍以上、2万人近い人々が集まることになりました。

これは当初の予想をはるかに超える数で、場所やトイレ等起こりうる様々な問題を想定し、準備を進める必要があります。

特に数万規模の人々が押し寄せるこの人波をどのように整理するかが、大きな問題となりました。将棋倒しでも起きれば大惨事につながります。

これに協力したのが、天理教でした。

天理教は毎年春と秋の大祭で、全国から数万人の信者が天理市内の本部に集まるため、大勢の人々の流れをコントロールするノウハウを持っていました。

当時天理教山善真柱と好胤は昵懇の間柄でもあったため、薬師寺からの協力要請を天理教側も快諾し、起工式当日は200人の天理教のメンバーが、白いジャンパーを着て人員整理にあたりました。

天理教と言えば「天理教」と白く染め抜かれた黒い法被姿を思い浮かべますが、場所柄そぐわないと天理教側が配慮して、白いジャンパーに身を包んだのだそうです。

様々な問題をクリアし、起工式は無事が無事に終わると、まもなく粗末ながらも300年間、本尊である薬師三尊を守り続けた仮金堂の取り壊しが始まり、復興工事が本格的に動き出しました。

 

そして同年12月、工事は順調に進んで、上棟式が挙行されることになりました。

上棟式は日本の建築儀礼では最も重要視されるものであり、大工たちの晴れの舞台でもあります。

式当日、棟梁である西岡は、束帯姿の正装で控え場所のテントで式の開始を待っていましたが、そこへ好胤が血相を変えて飛び込んできました。

「西岡さん、なんでこういうことをしたんですか!」

好胤は若い僧に持たせた棟札に書かれた、「高田好胤」という文字を指さしていました。

棟札は建物の建設・修築を記念して取り付けられるもので、通常、施主か棟梁の名が書かれ、後世に残る大切なものですが、好胤は事務所の者に、棟梁である西岡の名を書いておくよう命じていました。

しかし、誰も名前を書くものがなく、直前になってそれに気づいた好胤の師である橋本凝胤が「わしが書いてやろう」と言って「高田好胤」と書いていたのです。

そうとは知らず、好胤は西岡が書いたものと思い込んで、血相を変えて飛び込んできたのでした。

「自分の名は棟札から消すようにと、さんざん言っておいたのに。西岡さんの名前書きなはれ。」「管長の私の言うことを、誰も聞かんのや」

好胤は本気で怒っていました。

好胤は生涯、自身の栄誉に興味はなく、賞や褒章は頑なまでに辞退し続けた人でした。

出家し仏道を修める沙門に栄誉は不要という強い信念を持っていたからです。

棟札にその名が記されるのは、寺が続く限り、その名を後世に伝えられる最大の栄誉となります。

自分に栄誉は不要。棟梁である西岡こそ金堂再建の栄誉を受けるにふさわしいと、心から好胤は考えていたのでしょう。

西岡はこの一件で、完全に好胤に心服しました。

我執なく、身を捨てられる人

西岡はこの人なら、伽藍の復興もできるのではないかと、強く考えるようになりました。

 

上棟式の後、西岡は好胤にある思いを打ち明けます。

「ぜひ西の塔も作ってほしい」

元々薬師寺は、東西二つの三重塔を持つ伽藍配置で、戦国の兵火で焼かれて以来、基壇のみ残り廃墟と化していた西塔跡を、毎日見ていた西岡は、両塔並び立ってこそ薬師寺の伽藍であるとの思いが、強くなっていたのです。

これに好胤は、こう答えます。

「まったくそのとおりや。そやけれども金堂を完成させることで私は精一杯や。塔も建てたいけれども、それは次の世代に譲りますわ」

この時点で、好胤の考えは金堂復興までで、その先の伽藍復興は全く考えてはいませんでした。

しかし、薬師寺の中で、一人、白鳳伽藍の復興を志す僧侶がいました。

当時、薬師寺執事長であった安田瑛胤です。

瑛胤は、西岡が好胤に西塔復興を願い出たことを聞くと、そっと西岡に尋ねました。

「西岡さん、その塔というのは、木がどれほどいりますねん?」

「ざっと計算しまして、2200石ほどでっかな」

「お金ありますのか」

「ちょうどありまんねん」

このようなやりとりがあり、好胤には内緒で瑛胤と西岡は、後の伽藍復興も見越して余分に台湾から木材の調達を進めました。

前述の通り、後に台湾では古木の伐採規制が厳しくなりましたから、瑛胤のいささか先走り気味の英断がなければ、後の伽藍復興は実現しなかったかもしれません。

その後、大量に持ち込まれる木材を不審に思った好胤が、西岡に「何してはんねん」と尋ねると、西岡は、こういう大きな伽藍を守っていくために必要。台風やら地震やらで壊れた時、急に用材が必要になったとき、すぐに修繕できるようにあらかじめ用意しといていると、言いくるめたとか。

こうして、金堂再建とその後の伽藍復興への道は、静かに着々と進められていったのです。

 

始めた時には万里の道と思われた写経勧進も、1973(昭和48)年8月8日の薬師縁日には、ようやく半数の50万巻に手が届きました。

当初薬師寺では50万巻を1巻でも上回ればよしとしよう、というぐらい、勧進でどれほど納経が進むか、全く見通せないでいました。

よくここまで来たものだという思いが、薬師寺全体を包んだことでしょう。

その後も写経勧進は、予想をはるかに上回るペースで進み、1975(昭和50)年11月、ついに百万巻の写経勧進は達成されるのです。

 

<参考文献>

好胤さんのちょっとほっこりするエピソードがたくさん詰まった伝記です。

 

不世出の宮大工、西岡常一棟梁のエピソードや言葉、関係者のインタビューなどが収められた本です。

次回はこちらです。

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