大和徒然草子

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なぜ日本一大きな村から仏教寺院が消え去ったのか。廃仏毀釈(6)十津川村、玉置神社

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皆さんこんにちは。

前回は、世界最古の木造建築群で知られる法隆寺をご紹介しました。

 

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今回は、奈良県でもっとも徹底的な廃仏毀釈が広範囲で行われ、全村廃寺となった十津川村にスポットを当ててご紹介したいと思います。

 

十津川の歴史

 

さて、奈良県吉野郡十津川村は、現在日本最大の村として知られます。

その面積は広大で672.38平方キロと、東京23区の面積よりも広く、奈良県全体の18.2%を占めます。

十津川は中央からは遠い南和の山郷でしたが、中央での騒乱へは敏感に行動し、7世紀から十津川の人々は常に免租の特権を保証する勢力に味方してその特権を維持し続け、19世紀の明治維新まで1000年以上免租の地としてあり続けました。

 

古代においては壬申の乱平治の乱など、中央の騒乱にも出兵して免租を勝ち取ります。

中世、南北朝時代には南朝方につきましたが、米による収入が見込めない山中であることから、室町時代も守護の影響を受けませんでした。

近世になると太閤検地でも年貢は免除。

地侍の力が強かった紀州などでも、検地と年貢の徴収は徹底されたので、農耕に適さない土地であったことが、大きな要因であると思われます。

1614(慶長19)年から始まる大坂冬の陣、夏の陣では徳川方につき、近隣の豊臣勢力を鎮圧した功からやはり免租され、幕府より「郷士」の名乗りを許されています。

 

十津川の人々は神武東征で神武天皇が大和に入る際に道案内をした霊獣「八咫烏」を祖霊とするなど、一貫して素朴な勤王の姿勢をもっていました。

そのため、幕末になると勤王の志士となるものも多く、1,000人規模の動員力を期待されて薩摩、長州、土佐と並んで禁裏の警護にも当たります。

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また、幕末の大和で巻き起こった天誅組の変では天誅組の主力となります。

しかし、もともと天誅組に参加した十津川郷士は不承不承で従ったものがほとんどで、戦意は低かったようです。

天誅組の首謀者、中山忠光が朝廷から逆賊であるとの令旨が下されると、十津川郷士たちは速やかに天誅組から離脱して、天誅組は瓦解しました。

その後、十津川郷士たちは新政府軍に従って越後から会津へ転戦し、維新後は「全員士族」となります。

なお、十津川郷士の一部には過激な思想にとらわれ、1869(明治2)年、新政府の近代化政策に反発した十津川郷士6名が、新政府参与であった横井小楠を京都で暗殺する事件を起こしました。

 

仏教と十津川郷

さて、ここで十津川と仏教の関係を振り返りたいと思います。

吉野といえば修験道が盛んな場所と知られますが、十津川もその例にもれませんでした。

吉野と熊野を結ぶ大峰山系の山々を縦走する大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)が郷内を走り、霊山である玉置山に鎮座する玉置神社は、神仏習合後には修験霊場として大いに栄えました。

また、1672(寛文12)年には、郷民は禅宗に帰依し、郷内に53か所の寺院があり、51の寺が檀家を持っていたといいます。

明治以前の十津川では、他の郷村と同じく寺請制度に基づき、それぞれの集落に寺があり、また、修験道の霊地を抱えて仏教が信奉されていたことがうかがえます。

しかし、戦国末期頃から、郷民たちと僧侶、とくに玉置神社の社僧との間で確執が見られるようになってきます。

 

玉置神社は社伝によれば紀元前37(崇神天皇61)年に熊野本宮とともに創建されたといわれます。

この創建年をそのまま鵜呑みにはできないかと思いますが、たいへん歴史の古い古社で十津川郷の鎮守でした。

先述のとおり、神仏習合が進んでからは、「熊野奥の院」という位置づけで大峯奥駈行の重要な宿となり、塔頭、社坊が建ち並ぶ修験道の重要な霊場となります。

また、当時の寺院のご多分に漏れず、多くの僧兵を抱えていました。

 

さて、 江戸時代の最初期である慶長年間、玉置神社の社僧たちが、僧兵の武力を背景に十津川郷の山林を支配し、住民から税を取り立てるなど、領主のように振る舞いだします。

これに反発した十津川の人々は幕府へ訴訟を起こし、この社僧たちの追放に成功しました。

いったんは社僧の横暴を封じたものの、莫大な利益をもたらす十津川の木材に目を付けた京都の門跡寺院天皇・上流貴族の子弟が住職を務める寺院)「聖護院」が、玉置山の支配に乗り出します。

そして、1727(享保12)年には玉置神社に別当寺院「牟婁」を建立。ここに聖護院門跡による玉置神社の支配が確立しました。

全国修験者を統括する本山派修験の中心寺院、聖護院の支配下に入ったことにより、7坊15か寺を従えて社僧たちが栄える一方、僧兵の力にものをいわせ、実力で収納物を横領するなど、その横暴に社家神職や十津川の住民の不満が高まっていきます。

牟婁院の社僧たちによる専横を、玉置神社の社家神職は幕府の京都奉行に訴えますが、門跡寺院である聖護院の権威の前に訴えは実らず、社家は以後衰えます。

玉置山は完全に寺僧たちの支配するところとなって、十津川の住民たちは自分たちの鎮守でありながら神祭りも許されず、神事も社僧たちにより仏式で執り行われました。

ここに至って十津川郷の住民たちと玉置神社は完全に隔絶されてしまったのです。

 

この状況は江戸時代を通じて続き、そして幕末、明治を迎えることになります。

 

玉置山復古と全村廃寺

明治の初年に神仏分離令が布告されると聖護院は、高牟婁院の僧侶たちを還俗させたうえで、引き続き神官として玉置山の支配を続けようという動きを見せます。f:id:yamatkohriyaman:20190912230650j:plain

玉置神社社務所

しかし十津川の人々はこれに猛反発。即座に高牟婁院の立ち退きと山林や田畑の証文引き渡し、社務の一切を十津川の人々が行うことをもとめ、新政府に訴えたのです。

最終的には十津川の人々の訴えが認められ、1872(明治3)年に没落していた社家神職4家に、玉置神社奉仕が委任されることになりました。

まさに、近世以来、寺院権力に信仰の拠点を壟断された十津川郷士たちの悲願が、達成された瞬間でもありました。

このとき、ほぼすべての堂宇は破却されましたが、高牟婁院の主殿と庫裏は玉置神社の社務所として現在も使用され、国の重要文化財に指定されています。

また、仏像、寺宝もことごとく廃棄されましたが、平安時代に奉納されたとみられる梵鐘が十津川村歴史民俗資料館に寄託されており、こちらも国の重要文化財に指定されています。

 

寺院権力による積年の横暴への反発は激しく、この玉置神社で始まった廃仏の流れは、瞬く間に十津川全村へ波及することになりました。

1875(明治6)年には、明治初年には51か寺を数えた村内寺院のすべてが廃寺となり、寺僧はすべて還俗。全村、葬祭儀礼を有する教派神道である大社教に改宗したといいます。

 

全国的には廃仏後、地元住民らにより寺院復興されるケースも多いのですが、十津川村では全くそのような動きは起こらず、1990年代になってようやく「龍泉寺」という曹洞宗のお寺が復興されますが、それまでは復興寺院が0という状況でした。

ここからも、積年の仏教権力に対する忌避感の強さがうかがえると思います。

 

さて、奈良県の中でも高い独自性で知られる十津川村ですが、廃仏毀釈においても今回ご紹介したとおり、県内では異例の経過をたどります。

しかし、全国的に廃仏毀釈が激しく行われた地域とは、以下のような共通点も見られます。

・寺院権力による横暴に住民が苛まれていたこと。

・社家が寺僧の迫害を受けていたこと。

・寺院と住民との関係が希薄であること。

これらに、勤王思想が根強い地域性が結びつき、激しい廃仏運動に発展したといえるでしょう。

それにしても、復興寺院が一つしかないというのは全国的にも少ないと思われます。

鹿児島県など古来の寺院をすべて廃寺にした地でも、後に浄土真宗などが教線を伸ばして、仏教寺院が建立されたりしているのですが、十津川村にはそれすらほとんど見当たりません。

江戸時代以降、専横を極めた高牟婁院の負の感情が、今なお残っているのかもしれませんね。

 

明治の廃仏で多くの仏像が廃棄、流出しましたが、こっそりと匿われた仏像もあるようで、それらを十津川村歴史民俗資料館で見学することができます。

totsukawa.info

それまで大事にお祭りしてきた仏様を、バッサリ割り切って捨ててしまうということは、やっぱりできなかったのでしょう。

人々の素直な感情がうかがえますね。

水害などで失われたものも多いと思いますが、まだ十津川の古い民家に眠ってらっしゃる仏様たちもいるのかもしれません。

また、現在も十津川に続く仏教由来の文化としては「大踊り」と呼ばれる盆踊りがあります。

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特に小原、武蔵、西川の3地区は中世以来の古典的な踊りが伝承されており、「十津川の大踊り」として国の重要無形民俗文化財に登録されています。

廃仏毀釈で全村廃寺となった後も、人々の文化伝承の中に、脈々と古くからの仏教文化が 伝え残されているのです。

 

参考サイト

十津川地域中高一貫教育 ふるさと学 > 歴史・文化分野 > 十津川の寺

日下古文書研究会

参考文献


 

次回はこちら。

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