大和徒然草子

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柳生(石舟斎)宗厳(2)国人領主柳生氏はいかに戦国大和を生き残ったのか。

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皆さんこんにちは。

のちに剣豪、柳生石舟斎として知られることになる柳生宗厳は、若き日、父家厳とともに筒井順昭との戦いに敗れ、その支配下にはいることを余儀なくされました。

 

 

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今回は宗厳のその後を変えた男の登場から紹介したいと思います。

 

松永久秀の大和侵入

 

1559(永禄2)年5月、三好長慶は当時河内の守護畠山高政を追放して河内で権勢をふるっていた安見宗房を討伐するため、高政と連動して河内に出兵します。

宗房はもともと越智氏家臣の出身といわれ、畠山氏に仕えて頭角を現した人物で、ついには守護の高政を追放するほどの力を持った武将でした。

長慶の河内出兵はこの畠山家中の内紛に介入して、畠山氏を自らの影響下におさめる狙いがあったようです。

6月にはこの河内出兵に連動し、長慶は大和にも岩成友通らの軍勢を差し向けます。

大和には筒井氏をはじめ親宗房派の国人たちが多かったため、これを討伐または牽制する動きを見せたといえます。

この動きににわかに大和国にも緊張が走ったのでしょう。同月7月には筒井氏は柳生氏に白土(奈良県大和郡山市白土町)の領地を新たに与え、引き留め工作を行っています。

8月になり宗房が長慶に敗れて故郷の大和に逐電すると、長慶は重臣松永久秀に命じて大和の親宗房勢力の掃討を命じます。

これは事実上、筒井氏の掃討を意味しました。

大和に侵攻した久秀は瞬く間に大和を席捲。筒井順慶を東山中に逼塞させ、多くの大和国人が久秀に帰順します。

このとき柳生氏も筒井氏を離れ松永方につき、以後、柳生宗厳は久秀に従うことになります。

なお、まだこの頃は柳生氏の当主は宗厳の父、家厳であったので宗厳は久秀の側近くで働いていたと思われます。

柳生家に残された「柳生文書」には、久秀が宗厳に宛てた書状だけでなく、久秀が重臣竹内秀勝らに宛てた書状や、「同僚」というべき三好氏の重臣岩成友通三好長逸に宛てた書状も多く伝えられており、これは久秀の側近として書状を取り次ぎ、使者の役目を終えたのち書状を自家で保存したため残ったと考えられます。

その書状の内容は、多聞山城の普請の指示書から、合戦の状況報告まで、機密ともいえる情報も含み、宗厳が久秀の近習として奔走する姿を示唆するものといえるでしょう。

 

1562(永禄5)年、三好長慶は近江から六角氏、紀伊、河内から畠山氏の挟撃を受けて窮地に陥ります

同年3月の久米田の戦い三好政権の支柱ともいえる三好十休が戦死すると、三好家中は大きな動揺に包まれますが、このとき宗厳は久秀に加勢すべく手勢を率いて奈良の多聞山城に入り、久秀を盛り立ててその信頼を深めます。

 

また、翌年1563(永禄6)年1月、久秀は大和南部で反抗をつづける多武峰衆徒を討伐するため出兵し、宗厳もこれに参加します。

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多武峰妙楽寺(現談山神社)。多武峰衆徒の根拠地となった。

1月27日に多武峰東口で激戦となり、この戦いで宗厳は「槍」を振るって奮戦し、「数輩」の首級を挙げる軍功を挙げました。

すでにこの頃は剣の達人と知られていた宗厳ですが、やはり合戦では「槍」なんですね。

宝蔵院流十文字槍の創始者と知られる宝蔵院胤栄とは親交があったようですので、槍の腕前も高かったのかなと連想されますね。

この多武峰合戦で松永方は大敗し、宗厳も拳を矢で射られて窮地に陥り、家臣を失うなどの被害を受けましたが、戦後久秀から「比類なき働き」と、その功を激賞されています。

その功もあってか、同年6月には筒井氏から与えられていた白土の替地として、秋篠(奈良市)を与えられるなど、主従の関係を強化されているようです。

また、この年、三好家嫡男の三好義興が危篤状態となっていますが、このことを嘆く久秀の岩成友通宛書状が柳生家に残されています。

当時三好家中で最大の機密事項であった義興危篤という事項を宗厳が扱っており、久秀から厚い信頼を受けていたことがうかがえます。

 

 

新陰流への入門

 

さて、1563(永禄6)年という年は、剣豪、柳生宗厳としても一大転機を迎える年でもありました。

新陰流創始者上泉信綱との邂逅です。

上泉信綱上野国出身で、宗厳同様に小領主の出身だったようです。

関東管領上杉憲政の旧臣で上野国箕輪城に割拠した長野氏に仕えていましたが、主家長野氏が武田信玄に滅ぼされた後、信玄への出仕を辞して剣術の高弟たちを従えて諸国流浪の旅に出たという人物です。

その信綱が奈良の町にやってきたと聞きつけた宗厳。当時すでに剣客として腕に自信もあったのでしょう。早速腕試しとばかりに信綱へ面会し、試合を申し込むのです。

多武峰合戦で拳を負傷していたはずなのですが、当時の武士は怪我にも強かったんでしょうか。

また、剣術の試合となると、最悪事故死も考えられます。やはりまだ若殿という気楽さも伺えますね。当主となればそうそう命の危険を伴う行動には慎重になると思いますので。

宗厳に試合を申し込まれた信綱でしたが、本人は立ち合わず弟子に相手をさせます。

いたく自尊心を傷つけられた扱いとも思いますが、宗厳は信綱の弟子に完敗を喫してしまうのです。

この完敗で新陰流に心服した宗厳は即座に信綱へ弟子入り。信綱を柳生庄に招いて、その剣を学びます。

 

また、宗厳の新陰流兵法については、松永久秀の近臣になったことで、影響を受けた部分もあります。

幕府奉公衆から久秀家臣となった結城忠正という人物がいます。

かの「日本史」の著者ルイス・フロイスから学問・芸術に優れ、剣客にして降霊術師と評された、なんとも特異な人物なのですが、宗厳が伝えた新陰流の構え「左太刀」は忠正から伝えられたといいます。

信綱に師事しつつも、様々な流儀、流派の良い点を吸収し、宗厳の剣術は完成されていったといえるでしょう。

 

信綱は翌1564(永禄7)年、宗厳に「無刀取り」の考案を託して柳生庄をいったん去ります。

弟子に大きな宿題を残して出ていったわけです。

宗厳はこの宿題にこたえ、独自に無刀取りを編み出して、翌1565(永禄8)年に再び柳生庄を訪れ信綱に披露し、ついに「一国一人印可」を授かるのです。

 

1563年から1565年にかけては、筒井順慶らが北和から駆逐され、松永久秀による大和支配が安定期を迎えていた時期ではありました。

しかし、1564年に三好長慶が没して、将軍足利義輝三好政権の緊張が高まった時期でもあり、久秀の近習として多忙の中、剣術修行もこなすというのは大変なバイタリティだと思います。

 

三好氏の内訌から信長上洛

 

さて、1564(永禄7)年、畿内の覇者であった三好長慶が病没すると、畿内の政局の混沌ぶりは頂点を迎えることになります。

将軍権力のさらなる伸張を目指す足利義輝と、三好家を実質的に運営している三好三人衆松永久秀との対立が顕在化してくるのです。

この対立は翌1565(永禄8)年に三好三人衆と三好義継による、将軍義輝暗殺(永禄の変)というかたちで破局を迎え、宗厳が従う松永久秀も将軍暗殺を黙認しました。

 

しかし、将軍暗殺後も畿内の情勢は定まらず、今度は三好三人衆松永久秀との間に対立が生まれます。

久秀は永禄の変に際して、当寺奈良にいた義輝の弟、義昭を助命して保護していましたが、越前の朝倉義景の策謀で、義昭の脱出を許してしまいます。

この義昭の脱出をきっかけに、反三好包囲網が形成されて三好家は丹波を失陥するなど、苦しい立場に陥ります。

義昭を逃がしてしまった久秀に対し三好三人衆が責任追及の声を上げ、11月には当主三好義継に迫って、久秀の排除を求めるに至るのです。

三好三人衆は大和の国人たちにも協力を呼びかけ、筒井順慶を筆頭に三好三人衆と同盟を結び、大和においても久秀は孤立状態となります。

翌1566(永禄9)年には順慶に筒井城を奪回されるなど、久秀は三好家中での孤立を深め、窮地に陥りました。

しかし、このとき柳生氏は久秀を見限ることなく久秀方として踏みとどまる選択をします。

 

久秀側に好転の兆しが出るのは翌1567(永禄10)年です。

三好家当主であった三好義継が、阿波から迎えた将軍候補の足利義栄を重んじるようになった三好三人衆に対する不満から、突如久秀のもとに身を寄せるという事態が発生します。

三好家当主を迎えた久秀は息を吹き返し、それまで劣勢を強いられていた三好三人衆筒井順慶に対してようやく反撃を開始します。

久秀は、三好三人衆らを追い落とす策として、当時前将軍義輝の弟、義昭を奉じて上洛を画策していた、岐阜の織田信長に接近しようとしていました。

その取次に宗厳も奔走しており、8月には信長から上洛の通路確保に関する要請や、上洛が遅延する旨の弁明を、信長重臣佐久間信盛から受けるなどしています。

ちょうどこの頃は、東大寺で三好義継、松永久秀方と三好三人衆筒井順慶方が対峙している時期で、宗厳も久秀幕下の将として在陣していたのではないでしょうか。

この年、4月から東大寺周辺でにらみ合っていた両軍ですが、10月10日に久秀は膠着した戦況を打破すべく、東大寺に陣取る三好三人衆の軍に奇襲を仕掛けます。

東大寺大仏殿の戦いです。

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この松永勢の奇襲で三好三人衆の軍は瓦解し、大和から敗走、筒井順慶も居城筒井城へ引き上げます。

大仏殿他、東大寺の主だった堂宇が灰燼に帰したあと、宗厳は軍勢を率いて興福寺に駐屯していたとみられます。

さて、この頃、宗厳と久秀との関係にも微妙な変化が生まれています。

久秀配下として多くの大物たちと接する機会も多く、名が売れたからか、信長や三好家当主義継から、直接自分あての書状を受け始めるようになってきました。

とくに義継からは直接武功に対する感状が発給されてもいます。

久秀の弱体化もあり、国人領主として柳生氏の存在感が増して、独立した勢力になりつつあったことを示唆するものと思います。

 

東大寺大仏殿の戦いで勝利したとはいえ、久秀の劣勢はその後も続き、大和で久秀についた大きな勢力としては箸尾氏くらいでした。

信長の上洛準備が予定より遅れ、12月には興福寺に在陣している宗厳に信長から「必ず自分は上洛して久秀を見捨てることはないから、久秀、久通父子と連携すること」を求める書状が届いています。

畿内で孤立する久秀から、これ以上離反者が出ないようにという信長の苦心が伺えますね。

しかしながら、翌1568(永禄11)年6月には、ついに信貴山城が三好三人衆の手に落ちるなど、久秀は危機的な状況に追い込まれます。

ここいたるも柳生氏は久秀と行動を共にします。

直接信長と外交チャンネルを持ったこともあり、信長の上洛が間近であり、十分巻き返しが図れると家厳、宗厳父子は判断したと考えられます。

落ち目の久秀に従い続けたのは、久秀への忠義心ではなく、ち密な情勢判断からだったのでしょう。戦国の冷徹なリアリズムを感じますね。

 

同年9月、ついに、織田信長足利義昭を奉じ、近江の六角氏、畿内三好三人衆らを駆逐して上洛を果たしました。

この上洛によって大和の情勢は一気に松永方に傾きます。

筒井順慶は再び東山中への逼塞を余儀なくされ、細川藤孝らを中心とする織田の援軍2万が大和になだれ込むと、筒井氏のもとに服属していた国人たちの多くが久秀に寝返りました。

この時、宗厳も長男厳勝をともなって織田家の宿老柴田勝家に接見し、十市氏らとの協力を求められるなど、独自に織田家と連携の動きを見せます。

家厳、宗厳父子にとっては目論見通りとなって、ほっと胸をなでおろしたことでしょう。

 

こうして柳生氏は信長上洛という、多くの大和国人には青天の霹靂ともいうべき事態に迅速に対処しすることができました。

久秀が窮地に追い込まれ多くの大和国人が久秀から離れる中、久秀のもとに残る道を選択したのは、久秀家臣として重要な機密事項を取り扱う立場や、領地が笠置街道に面して多くの情報を得やすいという利点もフル活用して、畿内情勢を適切に判断した結果であり、決して幸運だけで勝ち馬に乗ったとは考えられません。

 

この頃の柳生氏からは、大勢力に振り回されるだけでなく、戦国に生きる小領主のしたたかさを強く感じることができますね。