歴史好きの大和徒然草子

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全山廃寺で神社となったが、寺院への復活をとげた寺。廃仏毀釈(7)金峯山寺

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皆さんこんにちは。

 

前回は、全村廃寺となり、いまだに復興された寺院がほとんど皆無という十津川村についてご紹介しました。

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さて、前回の十津川村もそうでしたが、吉野といえば「修験道」のメッカですね。

今現在、修験道の中心的な場所となっている、桜で有名な吉野山がどのような状況であったのか。

今回は吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)についてご紹介していきたいと思います。

 

修験道の中心地

 

吉野山の峰に建つ金峯山寺は、東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇る本堂、蔵王(国宝)と、その中に祀られた、3体の巨大な蔵王権現で知られています。

7世紀末に、修験道の開祖、役行者によって創建されたと伝わりますが、正確な創建年は不明です。

9世紀には一時荒廃しましたが、894(寛平6)年、京都醍醐寺の開祖としても知られる真言宗の僧、聖宝が再興して、参詣路の整備と堂宇の建立を進めました。

以後、宇多上皇白河上皇などの皇族や、藤原道長、頼通父子といった貴族が参詣するなど、広く信仰を集めることになります。

中世になると修験道は、天台宗系の「本山派」と真言宗系の「当山派」の2つに大きく分かれ、本山派が聖護院を総本山として熊野を中心に活動したのに対し、当山派は醍醐寺三宝を総本山として吉野を中心に活動します。

金峯山寺は中興した聖宝との関係もあって、当山派との強いつながりを持ちました。

 

中世に入ると「山下の蔵王堂」が建つ吉野山から「山上の蔵王堂」の建つ大峰山山上ヶ岳にわたる広大な寺域に多くの子院、塔頭をもって栄え、他の大和の大寺院同様、強力な僧兵を有し、吉野大衆と呼ばれて、その力は南都北嶺興福寺延暦寺)に匹敵するともいわれました。

実際に鎌倉末期の争乱では、後醍醐天皇の皇子である護良親王が、倒幕の拠点としたり、後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を興すなどは、吉野大衆の軍事力を背景とした動きでした。

しかし1585(天正13)年、大和の支配者となった豊臣秀長により吉野大衆は武装解除され、金峯山寺の中世に終止符が打たれることになります。

 

1614(慶長19)年、徳川家康の命令により、上野寛永寺を開創したことで知られる南光坊天海金峯山寺の学頭になると、金峯山寺天台宗である日光輪王院の参加に入ることになりました。

 

全山廃寺で神社化、そして寺院への再帰

 

明治初年からはじまる廃仏毀釈は、神仏習合の消滅を図るものであったことから、その信仰の根本が神仏習合にある修験道は、危機的な状況に追い込まれます。

修験道の中心地のひとつであった金峯山寺も大きな打撃を受け、塔頭のほとんどは消滅して、吉水院(現吉水神社)のように神社となることを強く要求されます。

 

1872(明治5)年には修験道廃止令が発布されるに及んで、弾圧はさらに強化され、僧侶は複飾神勤(還俗して神官となる)することを命じられます。

この流れには抗しきれず、ついに1874(明治7)年に金峯山寺は廃寺となって神社化されることになりました。

もともと金峯山寺の地主神であった金精明神を祭る社を金峰神社として本社とし、山下の蔵王堂は口宮、山上の蔵王堂が奥宮とされます。

仏具はすべて撤去されましたが、山下の蔵王堂に安置されていた秘仏蔵王権現はあまりの巨大さから移動させることができず、幕をかけて隠しました。

そして僧侶は、一部の葬式寺の僧侶を除いて全員還俗して、神職となりました。

この時、本尊の蔵王権現が破壊されてしまわなかったのは、やはり寺僧たちのささやかな抵抗があったのではと思います。

 

ここまでは、談山神社となった妙楽寺や、同じ山岳信仰霊場で神社と化した山形の羽黒権現や讃岐の松尾寺金光院などと同じような道をたどったといえるでしょう。

しかし、吉野山では僧侶や修験者、門前の吉野の人々たちによる復興運動が粘り強く行われます。

吉野は修験道の開祖である役行者が、修験道の本尊である蔵王権現を示現した地でもあり、寺院を取り巻く人々の信仰への思いが非常に強かったのかもしれません。

この運動は、行き過ぎた廃仏毀釈の施策が見直される中で身を結び、1886(明治19)年に、山下の蔵王堂を本堂として、ついに金峯山寺の再興が果たされるのです。

このとき、金峰神社の奥宮となっていた山上の蔵王堂も仏教寺院として再興され、大峯山寺なって金峯山寺とは分離しました。

 

こうして大幅に規模は縮小されたものの、金峯山寺修験道金峯山修験本宗の総本山として現在に至ります。

廃仏毀釈のとき、神社になった寺院は、先に述べた妙楽寺羽黒権現、金光院をはじめ、下関の阿弥陀寺(現、赤間神宮)などいくつかありますが、金峯山寺は神社となったあと、再び寺院として再興を果たした稀有な例といえるでしょう。

2004年には世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の一つとして登録された金峯山寺は、寺院ながら銅鳥居があるなど、明治以前の由緒正しき日本人の信仰の形が、今なお信仰の場所として残る貴重な場所になっています。

 

明治以前、千年以上も日本人が守り続けた伝統に触れられる場所として、大事にしていかねばならない場所ではないでしょうか。

 

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