大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

関西メディアはプロ野球をどう伝えたか。いかに阪神は関西屈指の人気球団となったのか?阪神タイガースの歴史を読み直す(7)

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皆さん、こんにちは。

前回は天覧試合と、それがどのように阪神と読売のその後の人気に影響を与えていったかをご紹介しました。

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さて、現在関西のテレビ、ラジオでプロ野球中継といえば、主に阪神を中心に取り上げるのが常態化していると思います。

今回はプロ野球の中継が草創期はどのような状況で、どのように今日のような状況に移り変わってきたのかを見ていきたいと思います。

 

人気を博した南海戦

 

現在では関西の広域テレビ放送局、朝日放送毎日放送読売テレビ関西テレビテレビ大阪の各局プロ野球中継は完全に阪神戦を中心に組まれているといっていいでしょう。

同じ関西の球団であるオリックス戦に関しては、現在、対戦相手が阪神である場合を除いて、レギュラーシーズンの試合が生中継されることは、ほとんどありません。

独立局でも開局以来、阪神中心の放送を行ってきたサンテレビを中心に、京都テレビ、テレビ和歌山、奈良テレビ(最近はテレビ大阪からネットを受けている)など、やはり阪神戦中心の放送で、西武グループ近江鉄道を大株主とするびわ湖放送ですら、最近はテレビ大阪からネットされる阪神戦の中継を増やしている状況です。

 

しかし、このような状況はごく最近はじまった状況と言えるでしょう。

かつて関西広域局のプロ野球中継といえば読売戦がほとんど。

特にナイターは顕著で、サンテレビ京都テレビが映らない地域のテレビでは読売が相手の時以外、阪神の試合をナイターを見ることはほとんどなかったと記憶しています。

 

戦後、プロ野球の中継が始まったころの状況を見てみましょう。

今では局をあげて阪神を応援している感のある朝日放送(ABC)ですが、ラジオで初めて中継を行ったのは1952(昭和27)年2月の末、大阪球場で行われた南海・読売の定期戦(オープン戦)で、阪神戦ではありませんでした。

公式戦の初中継も同年4月、中日球場で行われた中日・読売戦でこれまた阪神戦ではありません。

同年10月には南海・読売で争われた日本シリーズを全試合中継しています。

この時点では阪神中心の中継方針ではなく、どちらかといえば読売、南海中心といってもよかったのではないでしょうか。

これまでの記事でも述べたとおり、1950(昭和25)年の2リーグ分裂以降、戦力も人気も低迷していた阪神に比べ、関西、ことに大阪のファンの心をつかんでいたのは南海でした。

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 朝日放送のライバル局であった毎日放送MBS)も当初は南海戦を中心に中継を行います。

もっとも、毎日放送の場合は人気だけではなく、ホークスの親会社である南海電鉄と資本関係があったことも、関連していたのかもしれません。

特に1959(昭和34)年、毎日放送は同年開始したテレビ放送の目玉コンテンツとして、南海の大阪球場における試合の独占中継権を獲得します。

この年は宿敵読売を打倒して、南海が悲願の日本一を果たした年でもあり、毎日放送の南海戦中継は大成功をおさめたのです。

これに気をよくした毎日放送は翌年も南海戦の独占中継を継続しようとしますが、ここで問題が発生します。

南海が放映権料の大幅アップを要求してきたのです。

 

前年の優勝と球団の人気に南海も強気に出たのでしょう。

厳しい条件でしたが毎日放送はこれを受け入れ、南海主催試合の70%の独占放映で妥結します。

しかし、翌1961(昭和36)年には高騰した放映権料に、ついに毎日放送は南海戦の独占中継をあきらめ、プロ野球そのものの放送を大幅に減らしていきます。

以前の記事で、1959年以降、南海の観客数が頭打ちしたとご紹介しました。

今にして思えば、南海の強気な放映権料のアップとそれによる中継数の激減は、一つのターニングポイントになったといえるんじゃないでしょうか。

 

毎日放送は1970年代、再びプロ野球中継の参入を試みます。

しかし、その時に中継を目指したのは阪神・読売戦でした。

1960年代、関西エリアにおける阪神の人気は南海を圧倒し、1970年代になると、その趨勢はもはや覆しようもない差となっていました。

また、南海が長期低迷期に入ってしまったこともあり、毎日放送は、かつて局を挙げて放映権獲得にやっきになった南海戦を一顧だにすることなく、阪神・読売戦の人気にすがったのです。

 

読売戦を争う関西広域局

 

毎日放送が、かつて南海戦をメインに当初テレビ中継を行っていたことをご紹介しました。

それでは、他の関西広域の放送局がどのような状況であったかといえば、朝日放送(ABC)は近鉄関西テレビは同じ阪急・東宝グループということもあり、阪急をメインに中継を行っていました。

阪神は1950年代、関西のテレビ草創期には特にテレビの露出度が高い球団というわけではなかったといえるでしょう。

しかし、1960年代中ごろ、とくに1965(昭和40)年から始まる読売黄金期、いわゆる読売のV9時代が始まると、関西の各局も他の地方と足並みをそろえるように、読売戦中心の中継へとシフトします。

 

特に関西テレビにその傾向は顕著で、かつては年間30試合前後あった阪急戦の中継が1966(昭和41)年には8試合にまで激減します。

2000年代初頭まで続く、「プロ野球のナイターテレビ中継といえば読売戦」という状況が、1960年代中ごろ以降、関西広域の放送局で始まったわけです。

プロ野球中継全体が読売戦中心にシフトする中、関西で唯一レギュラーシーズンで読売と戦う、セリーグに所属する阪神の露出度が、関西のプロ野球球団の中で格段に上がるのは自明のことでした。

なにせ甲子園と後楽園で年間26試合以上は中継されるのです。

 

逆に関西で読売戦中心の放送の割を食ったのはパリーグの3球団でした。

それまで優先契約を結んでいた各放送局が読売戦にシフトしたため、先に述べた阪急の例が示すよう、南海、近鉄、阪急の中継は押し出されるように中継数が激減してしまったのです。

 

阪神中心を最初に打ち出したのは

 

関西のメディアで最初に「阪神中心」を打ち出したのは、地元神戸の独立UHF局サンテレビでしょう。

開局したのは1969(昭和44)年。開局したその年から、同局は目玉コンテンツとして阪神を中心としたプロ野球中継に踏み切ります。

最初の放送は同年5月6日、甲子園球場で行われた阪神・広島戦。

サンテレビボックス席」と銘打ったこのプロ野球中継は、2019年現在なお同じ番組名で続く、サンテレビの名物番組となっています。

このプロ野球中継の最大の特徴は、試合開始から終了までの完全中継。

これは民放のプロ野球中継としては画期的で、現在でもこの放送スタイルを守っています。

サンテレビ兵庫県大阪府の北部を中心に視聴可能であり、またサンテレビプロ野球中継は、京都府奈良県北部等で視聴が可能だった京都テレビでもネット受けで放送されており、関西の人口過密地帯の多くで、読売戦以外の阪神戦が視聴可能となったのです。

奈良が地元の私も、最初に読売戦以外の阪神の試合をテレビで見たのは、京都テレビの「エキサイトナイター」でした。

両親が阪神ファンであったため、阪神戦の中継を目当てに電波の増幅ブースターを購入して、砂嵐交じりの中継を楽しんでいたのを覚えています。

当時の奈良は基本的にサンテレビが受信できず、京都テレビもブースターなしでは視聴できなかったので、私の周りは読売ファンばかりという印象で、いわゆる「アンチ巨人」はそれなりにいましたが、阪神ファンは多数派ではなかったと思います。

今では各種調査で、奈良県阪神ファンが多数を占める地域となっていますが、あれだけいた読売ファンはどこへ消えてしまったかとも思いますね。

 

関西で「阪神中心」の放送を語るとき、避けて通れないのが朝日放送のラジオ番組、「おはようパーソナリティ」でしょう。

1971(昭和46)年、「おはようパーソナリティ中村鋭一です」として始まったこの番組の特徴は、それまで「アナウンスは標準語」、「内容は不偏不党」という放送業界の暗黙の了解事項をうちやぶり、パーソナリティの中村鋭一が全編関西弁と独断で生放送を行うという画期的なものでした。

この放送の中で、中村は個人的にファンであった阪神を全面的に応援します。

この型破りな放送が、関西の阪神ファンを含めて多くの支持を集め、放送期間中は日本のラジオ放送で一番の聴取率を誇る人気番組となりました。

阪神が勝った翌日の放送では、それまでは阪神球団内の社歌程度の知名度しかなく、決してファンの間で親しまれていたというわけでもなかった「阪神タイガースの歌」を必ず熱唱しました。

通称「六甲おろし」は、この番組をきっかけとして関西の阪神ファンはおろか、阪神ファン以外の関西人にも馴染みの唱歌と化します。

中村の「おはようパーソナリティ」は1977(昭和52)年、中村の参議院立候補でパーソナリティが道上洋三に変わって現在に至りますが、中村の築いたこのスタイルは、現在に至るも引き継がれています。

 

思えば、私自身、歌詞を三番まで諳んじられる歌は、毎週のように歌わされた小学校の校歌と、小学生のころ毎朝のように母のラジオから流れた道上さんの歌う「六甲おろし」だけ。それくらい日常に染み付いた歌になっていたといえるでしょう。

 

このように、当初阪神は、関西の放送メディアで特別に取り上げられる存在ではありませんでした。

しかし、1960年代中ごろから、まず読売の全国的な人気に乗りかかるかたちで露出度を高め、後発の独立UHF局の目玉コンテンツとなり、テレビに押され気味であったラジオの挑戦的な取り組みで取り上げられることで、阪神は関西におけるプレゼンスを確立していきました。

 

ここでも1950(昭和25)年、2リーグ分裂時に読売戦を絶対に手放さないという、当時の阪神首脳部の選択は、結果「吉」と出たといえるでしょう。

そして、読売の「添え物」としての人気も、1960年代末からは変質を始めます。

サンテレビによる中継開始や「おはようパーソナリティ」など、阪神を応援するメディアの登場によって、より純粋な阪神球団への人気が高まっていくことになっていくのです。

 

参考文献

阪神タイガースの虚実を赤裸々に描き出す一冊ですが、阪神だけでなく、草創期から現在に至るプロ野球の歴史をたどる内容となっており、プロ野球ファンならば非常に興味深い内容となっていると思います。 

 

次回はこちら。

 

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