歴史好きの大和徒然草子

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大阪球場が関西プロ野球のメッカだった時代。いかに阪神は関西屈指の人気球団となったのか?阪神タイガースの歴史を読み直す(4)

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皆さんこんにちは。

前回は2リーグ分裂に関わるエピソードを紹介しました。 

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さて、戦中から戦後間もなくの1リーグ時代が阪神の黄金時代であったと前回ご紹介しました。

ちょうど同じころ、戦後まもなく黄金期を迎えた関西の球団ありました。

南海ホークスです。

 

 

関西のプロ野球人気を2分した阪神と南海

 

南海は、1938(昭和13)年にプロ野球に加盟しています。

これは戦前では最も遅い加盟で、新規参入球団の宿命ともいうべき戦力不足から戦前の成績はさえないものでした。

しかし戦後、選手兼任監督であった鶴岡に率いられた南海はエース別所昭の活躍もあり、戦後再開された1946(昭和21)年に初優勝を飾ります。

翌年1947(昭和22)年は阪神が優勝を飾り、1948(昭和23)年には再び南海が優勝。

戦後復活したプロ野球の最初の3年間はいずれも関西の球団が優勝を果たしたのです。

戦後、プロ野球の人気が急騰したことは前回ご紹介しましたが、阪神は戦前からの人気をさらに高め、南海も1948年の優勝で強豪という評価を確固たるものとして大きく人気を高めました。

もちろん読売もファンを大幅に増やしており、成績も戦後3年間優勝なしではありましたが、1946、48年は南海相手に優勝争いを繰り広げ2位につけています。

戦後まもなくは、南海、阪神そして読売の3強時代であったといえるでしょう。

さて、読売は戦後3年連続で優勝を逃し、1949(昭和24)年は必勝を期して、南海のエースであった別所を引き抜きます。

これに南海もだまってはおらず、連盟に提訴しますがまだ野球協約もなかった時代です。読売側は罰金を科せられ、別所も開幕から2か月は出場が認められない処分を受けたものの、結局移籍は認められました。

この読売による別所引き抜きは南海と大きな遺恨を残すことになります。

その遺恨は早くも1949年、後楽園球場での最初の両者の3連戦最終日に表出します。

読売三原監督が、南海選手のプレーに腹を立て、衆人環視の中殴打するという事件が起こり、一躍南海と読売のカードは注目の人気カードと化すのです。

この余波があったのかどうか、三原の暴行事件の10日後に甲子園で行われた阪神、読売のダブルヘッダーには8万人という空前の観客が押し寄せることになります。

この年、プロ野球の人気は一つの頂点となり、多くの観客が球場に足を運びました。

南海から別所を引き抜いた読売がこのシーズンを制します。

なお、別所は50年代、読売の黄金期を支えるエースとして活躍することになります。

ところが、プロ野球人気の沸騰がこのまま続くかに見えた1950(昭和25)年、一気にプロ野球の人気は下火となります。

原因は2リーグ分裂でした。

それまで8チームで1つのリーグを構成していたのが、2リーグで15チームと一気にチーム数が倍増することになります。

新規に創設されたチームは戦力も整っておらず、さらにファンの開拓も一年目ではなかなか進みません。要するに人気のある球団が少なかったわけです。

選手のレベルも下がり、不人気球団のカードが大半になったとあれば、観客動員が振るわなくなるのも道理というわけです。

阪神の凋落ぶりは特にひどく、1950年にはドル箱の巨人戦ですら春先1万人を切るほどでした。

原因は2リーグ分裂時に毎日に別当をはじめとした主力のほとんどを引き抜かれ、阪神自体の魅力が大きく落ち込んだことと思われます。

さらに1954(昭和29)、1955(昭和30)年には阪神主催の読売戦の平均入場者数は年平均で1万7千人台に落ち込みます。

1950年には大甲子園を満員にして、なお入りきらない観衆がいた盛況ぶりはもはや過去の話となっていました。

この頃の阪神はトータルの戦績としてはおおむね2位、3位につけ、大きな主力引き抜きに遭いながらも奮戦しているといえました。

しかし、対読売戦に限ると、以前のようには勝てなくなります。

1962(昭和37)年、阪神が2リーグ分裂後初優勝を飾るその年に14勝12敗2分で勝ち越すまで、11シーズンを負け越し、1シーズンが13勝13敗の勝率5割と惨憺たるものです。

スター選手の多くが去り、勝てない読売戦の不入りが深刻化して、1950年代前半の阪神は観客動員で大いに苦戦することになりました。

 

その一方で南海は成績の面でも観客動員の面でも健闘します。

南海は1950年こそ毎日に優勝を譲ったものの、その後3シーズン連続でパリーグを制し、1954年には西鉄の後塵を拝して2位に終わりましたが、翌年にはペナントを奪還しています。

1955年まで4度の日本シリーズの相手はすべて読売。

あのエース別所を引き抜いた因縁の相手です。

結果は南海の全敗。

エースを引き抜きぬいた「東京」の巨大戦力を相手に悲劇的な敗戦を繰り返す「大阪」の南海には、判官びいき的な人気が集まります。

後に阪神に仮託される「反主流」「反中央」「反権力」といった、いわゆるアンチ巨人ロマン主義は、この頃間違いなく南海に投影されていました。

こうして南海は2リーグ分裂後の好成績もあって大阪を代表するチームとして人気を博し、1950年代前半は阪神を上回る観客動員を誇ります。

甲子園球場に比べ最大収容人数が3万人強という大阪球場が本拠地であり、なおかつ読売戦のないパリーグに属しているにもかかわらず、甲子園を擁する阪神を観客動員で上回るのは、当時の南海人気を示すものと思われます。

 

西のプロ野球のメッカ

 

かつて大阪の難波に南海ホークスの本拠地、大阪球場(正式名称は大阪スタヂアム)がありました。

現在のなんばパークスがその跡地になります。

私が小学1年生の時、生まれて初めてプロ野球を見たのはこの大阪球場での南海西武戦でした。

門田、田淵のホームランと、カクテル光線がまぶしく観客席も含めてとても明るかったこと、あとは階段が急で怖かったことをとても印象深く覚えています。

関西で最初にナイター設備を整えた球場は大阪球場でした。

後楽園球場がナイター設備を整えた翌年、1951(昭和26)年のことです。

今や平日のプロ野球といえば「ナイター」と相場が決まっていますが、日本でプロ野球のナイターが興行されるようになるのは1950年代からで、大阪球場は日本で最初期のナイターが行われた球場となります。

平日昼間の試合では、なかなか観客を集めることはできません。

しかしナイターなら昼間、会社や工場で働く人々も仕事終わりにプロ野球を楽しむことができます。

 

ナイターの普及により、2リーグ分裂で低下したプロ野球の観客動員は再び増加に転じました。

ナイターの効果がいかに劇的だったかを示す事例があります。

1953(昭和28)年4月にナイター化を完了した阪急は、前年たったの15万人であった観客を62万人ほどまで増加させました。

前年の15万人があまりにひどい動員数ともいえますが、4倍増は驚異的な数字です。

 

さて、阪神の本拠地、甲子園球場にナイター設備ができるのは1956(昭和31)年でした。

後楽園球場に遅れること6年、関西では大阪球場に遅れること5年と、日常的にプロ野球の興行が打たれる球場の中では最も遅いナイター設備の設置です。

平日のプロ野球興行がナイター中心となる中、甲子園球場の動員力は大幅に低下します。

本拠地にナイター設備がないとはいえ、ナイター中心の時流には逆らえません。

結局のところ阪神はナイター設備を求め、大阪球場で主宰試合を行うようになります。

1953(昭和28)年から1955(昭和30)年まで、甲子園球場大阪球場での試合数と年間の動員数を見てみましょう。

 

1953(昭和28)年
甲子園球場:29試合(288,857・平均9,960)
大阪球場:17試合(191,774・平均11,280)

1954(昭和29)年
甲子園球場:27試合(143,335・平均5,309)
大阪球場:24試合(324,552・平均13,523)

1955(昭和30)年
甲子園球場:23試合(138,978・平均6,042)
大阪球場:29試合(297,534・平均10,259)
(参考資料:『阪神タイガースの正体』井上章一著)

 

大阪球場は3年続けてコンスタントに毎試合平均1万人を超える観客が詰めかけています。
それに対し甲子園球場の観客動員は惨憺たるものといえるでしょう。

3年間で平均1万人を超すことはなく、この間平日の試合ともなれば当時最大収容8万人と号されたマンモススタンドに「千か2千」しか入らなかったこともしばしばであったといいます。

集客の振るわない甲子園球場にくらべ、大阪球場でのナイターは阪神にとってもまさに「ドル箱」の興行となっていきます。

 

年々大阪球場での試合数が増え、1955年にはついに甲子園球場より多くの試合を大阪球場で主催することになります。

そのシーズンで最も多くの主催試合をおこなったのが本拠地球場ではないというのは、現在ではちょっと考えられない現象ですね。

「ナイターにより集客を見込めるのなら甲子園にもナイター設備を設ければいいじゃないか」という声が聞こえてきそうな気もします。

甲子園にわざわざナイター設備を設けるより、すでにある大阪球場を借りたほうが安上がりやとでもいうのでしょうか。さすがは主力を金で売った球団やと、そんな声も聞こえてきそうですよね。

実際は、甲子園球場という巨大球場にナイター設備を設置するのは、当時、技術的にもコスト的にも他球場に比べ大変だったようで、たんに阪神が「ケチ」だったからとばっさり切り捨てるのは少々酷かと思います。

しかし、ナイター万能の時代が到来しているのに本拠地にナイター設備を持たない阪神は、こと夜間の試合については読売戦でさえ大阪球場に頼らざるを得なかったのです。

 

先に1950年代前半は南海が阪神よりも観客動員を上回っていたと述べました。
これは2リーグ分裂後の両チームの成績による側面ももちろんありますが、ナイターによる本拠地球場の集客力の差も、大きな要因であったと思います。

ナイター設備に大阪を代表する巨大ターミナル難波という好立地もあり、大阪球場の集客力は関西では抜群でした。

そのため当時の大阪球場は、常勝球団となっていた南海の本拠地であるばかりでなく、阪神近鉄そして洋松(現横浜DeNAベイスターズ)といった阪急を除くすべての関西の球団が主催試合を行っていました。

このように、大阪球場は、読売、国鉄、毎日、東映大映の5球団が主催試合を行っていた東京の後楽園球場に比肩する、まさに関西プロ野球の中心地だったのです。

 

次回はこちら。

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参考文献

阪神タイガースの虚実を赤裸々に描き出す一冊ですが、阪神だけでなく、草創期から現在に至るプロ野球の歴史をたどる内容となっており、プロ野球ファンならば非常に興味深い内容となっていると思います。 

 

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