皆さんこんにちは。
2リーグ分裂後の1952(昭和27)年から1985(昭和60)年まで、阪神を取り巻く出来事と観客動員の推移についてご紹介しました。
今日は、1985年に2リーグ分裂後、初の日本一に輝いた阪神のその後を見ていきたいと思います。
栄光からの転落と亀新フィーバー
1985年に21年ぶりのセリーグ優勝と、1リーグ時代以来38年ぶりの日本一に輝いた阪神は、この年の観客動員が2,602,000人と、球団史上初めて200万人を突破しました。
翌1986(昭和61)年はランディ・バースが2年連続三冠王に輝いたものの、不動の4番打者であった掛布雅之や主力投手の池田親興がけがで長期離脱するなど3位に終わり、観客動員は前年を下回り2,360,000人となります。
そして翌1987(昭和62)年は日本一からわずか2年で最下位に沈み、ここから阪神は10年以上に及ぶ長期低迷期、いわゆる暗黒時代を迎えることになりました。
1987年と1988年は2年連続で最下位ながら、ともにぎりぎりで200万人を維持したものの、1988年に掛布が引退したこともあってか、1989(平成元)年にはついに184万人と200万人を割り込みます。
以後、1991(平成3)年までの3年間、成績も5位、最下位、最下位と低迷して180万人台で推移することになりました。
阪神は1987年以降、最下位付近がすっかり定位置になった感がありました。
1985年の日本一の年に本格的に阪神ファンとなった私などは、弱いチームのファンになったという意識はもちろんなく、随分と裏切られた気分になったものです。
このような中、観客動員が低迷するのも無理はないわけですが、ファンの数が減ってしまったわけではないことを証明したのが1992(平成4)年となります。
この年は、1985年の日本一で主力であった真弓明信や岡田彰布らに代わり、若手の亀山努や新庄剛志が台頭。中堅の和田豊や八木裕、2年目のトーマス・オマリーや大洋から移籍してきたジム・パチョレック、新人の久慈照嘉らも活躍して、ヤクルトと最後まで優勝争いを繰り広げ、最終的に久々のAクラスとなる2位に終わります。
いわゆる「亀新フィーバー」に沸いたこの年、観客動員もそれまでの球団史上最多となる2,853,000人を集めます。
それまで下位低迷でフラストレーションを溜めていた阪神ファンが、久々に「強い阪神」を見たいと球場に詰めかけ、前年からいっきに100万人も観客を増やし、1985年を上回る観客動員を記録したのです。
このまま新世代の戦力が育ち、強い阪神が生まれるのかと期待も生まれましたが、翌1993(平成5)年、その翌年1994(平成6)年はともに4位と、成績的にもやや低迷します。
それでも暗黒時代にあっては比較的「好成績」であったということでしょうか、年間観客動員は270万人を突破します。
しかし、1995(平成7)年には球団ワーストの84敗で最下位に沈み、観客動員も200万人と激減。
翌年1996(平成8)年も最下位で、観客動員は186万人と大きく落ち込み、ついに球団経営も28年ぶりの赤字になってしまいました。
やはり、弱い阪神にはファンもそっぽを向いたということでしょう。
1997(平成9)年には、1985年の優勝監督、吉田義男が三度目の監督に就任。
この年は5位で何とか最下位を免れ、吉田監督への期待もあったのか観客動員も220万人まで回復したものの、翌1998(平成10)年にはまたもや最下位に転落。観客動員も再び198万人と200万人を割り込むことになります。
成績的には最下位付近が定位置となっていた阪神ですが、1997年、98年は今岡誠、矢野輝弘(現、燿大)、井川慶といった、2000年代の阪神を支えた選手たちが入団した時期でした。
1987年の最下位から10年余りで、Aクラスは1992年の一度だけ。
あとはすべてBクラスで最下位は7度に及び、球団経営でついに赤字を出すに及んで、ようやく阪神球団も抜本的な改革が必要と考えたのでしょう。
1998年オフ、阪神は同年ヤクルトを退団した野村克也を次期監督に招聘するという荒技に出るのです。
4年連続最下位から強豪球団へ
前年までライバル球団の監督であった野村を、なりふり構わず監督に迎え入れるという球団の姿勢に「本気」を感じたのか、1999(平成11)年は2年連続の最下位でありながら、観客動員は260万人を突破します。
野村監督に対する「期待感」が亀新フィーバーに匹敵する数のファンを球場に引き寄せたといえるでしょう。
なお、この年以後、阪神の観客動員が200万人を割り込むことはなくなりました。
ミレニアムであった2000(平成12)年には球団史上初の3年連続最下位に沈むも240万人もの観客が甲子園に押し寄せます。
21世紀を迎えた2001(平成13)年も最下位。
しかし、この年も観客動員は200万人を維持します。
結果的に成績は振るわなかったものの、野村監督の3年間は、矢野が正捕手、井川がエースとして成長し、福原忍、赤星憲広、藤本敦史といった面々が加わって、ファンにとっても将来への期待感が大変高かった3年間だったといえるでしょう。
また、野村監督はヤクルト時代から読売を挑発してファンの対抗心を煽るなど、メディアをうまく使ってきた人物であり、試合後のボヤキやその発言が関西マスコミを通じて広く関西のファンの心をつかみ、期待感を煽ったともいえるんじゃないでしょうか。
2001年オフ、野村監督が夫人の問題で辞任すると、阪神はまたもや、この年までドラゴンズの監督であった星野仙一を監督に招聘します。
星野監督は野村監督以上にうまくマスコミを利用し、ファンの心をつかみます。
2002(平成14)年は開幕から7連勝を飾るなど、劇的なスタートを切って奮闘し、4位ながら観客動員は267万人を数えました。
この年以後、阪神の観客動員が260万人を下回ることがなくなります。
ほぼ毎試合、満員のスタンドが常態化するのはこの年からだろうと思います。
この年のオフには支配下選手の大規模な解雇を断行して、人材の入れ替えを断行。
FAで広島から金本知憲を獲得し、日本ハムから下柳剛らをトレードで獲得、元ニューヨークヤンキースの伊良部秀輝も獲得します。
さらに、後に藤川球児とともに、鉄壁のリリーフ陣を構成するジェフ・ウィリアムズ、久保田智之が新外国人、新人として加入するなど、大幅な戦力増強を行いました。
そして迎えた2003(平成15)年。
阪神は序盤から活発な打線を軸に勝ち進み、7月8日にはマジックを点灯させ、ついに18年ぶりにセリーグ優勝を飾ります。
日本シリーズではダイエーに敗れたものの、この年、観客動員はついに300万人を突破、3,340,000人を記録します。
後任は岡田彰布が務めることになります。
この年のオフのドラフトでは、自由獲得枠で鳥谷敬を獲得。
2000年代の阪神の顔となる面々が出そろった感がありますね。
2004(平成16)年は最終的に4位に終わるものの、観客動員は3,523,000人と史上最多となります。
翌、2005(平成17)年はジェフ・ウィリアムズ、藤川球児のWセットアッパーと守護神、久保田がいわゆるJFKと呼ばれた「勝利の方程式」を構成、2年ぶりのセリーグ優勝を果たしました。
この年の観客動員は3,132,224人。
おや、と思われた方もいらっしゃるのではと思います。
そう、優勝したのに前年から減っているではないかと。
実はこの年、2005年からプロ野球はシーズン中の観客数について「実数」を発表するようになりました。
それまでは、だいたいのスタンドの埋まり具合で「今日は3万5千」、「今日は5万」など、かなりの「どんぶり勘定」で観客数を公表していたのです。
東京ドームの読売戦などは、毎日「5万5千人」の超満員。
空席があったとしてもです。
というわけで、読売の動員数は大幅減となり、阪神も前年より動員数を減らしたものの、この年、ついに観客動員で読売を上回り、プロ野球で一番の動員を誇る球団となりました。
その後は2011(平成23)年まで、優勝には届かないものの成績は2009(平成21)年の4位を除き、Aクラスで安定し、観客動員はおおよそ300万人で推移。
この時期は金本、矢野、今岡、赤星、鳥谷や広島からFA移籍してきた新井貴浩などの主力陣がチームの中核を担い、高い攻撃力と安定した守備力を誇って、阪神の球団史上、間違いなく最強の時代の一つだったと思われます。
安定した観客動員
しかし、2012(平成24)年は、00年代を支えた主力たちが相次いで引退するなど大きな転換点を迎え、特に打線が低迷して5位に後退。
観客動員も270万人とやや減少しています。
この頃から、打線、投手ともに外国人選手のウェイトが非常に高まり、打者ではマット・マートン、投手ではランディ・メッセンジャーが、主力としてチームを引っ張りました。
2014(平成26)年は2位からクライマックスシリーズを勝ち上がり、ファイナルステージでは東京ドームで読売に4連勝して日本シリーズにコマを進めますが、ソフトバンクに敗れ、日本一は逃します。
10月は劇的な展開を見せてくれた年でしたが、観客動員は268万人と、2003年の優勝以降最低を記録しました。
すでに「強い阪神」に慣れてきた阪神ファンは、優勝しなければ満足してくれなくなってきたのかもしれませんね。
そういう意味では、星野監督が就任の時、なんや2位か、そういわれるような強いチームを作りたいと語った、その球団像に、00年代を通して阪神は近づいたのかもしれません。
2014年以降は、チームの世代交代に苦労していることもあり、成績はやや下降気味となっています。
観客動員も2017(平成29)年に300万人を突破したものの、2018(平成30)年は本拠地甲子園で球団史上ワーストとなる39敗を喫し、最下位に転落。
しかし、これほどまでに甲子園で勝てないながら、289万人ものファンが甲子園に詰めかけたのは逆に驚きでもあります。
そして2019(平成31、令和元)年、00年代の阪神を引っ張った金本から監督を引き継いだ矢野監督のもと、貧打と先発投手不足に苦しみながらも、抜群のブルペン投手陣と驚異的な粘りを発揮。
クライマックスシリーズ出場には最終戦まで、1敗もできない状況から、驚異の残り試合全勝を果たして貯金1の3位でシーズンを終えます。
クライマックスシリーズも1stステージを何とか突破。
ファイナルステージで読売に敗れたものの、最後の1試合までファンに夢を与えつづけることはできたかと思います。
そして、この年の観客動員数は3,091,335人。
2年ぶりに300万人を突破し、動員数も12球団1位に返り咲きます。
さて、ここまで駆け足で、阪神の観客動員の推移をみてきました。
かつて読売戦以外は空席が目立ち、セリーグの中でもっとも読売戦依存度が高かった阪神でしたが、2003年の優勝以来、完全に読売依存の状況からは脱却できたといっていいでしょう。
もっとも2009年以降、地上波による読売戦のテレビ中継がほぼ消滅していく中、セリーグ各球団が読売戦への経営的依存度を下げる取り組みを行い、その流れの中で、阪神の観客も増えていったとみるべきかもしれません。
実際に2012年以降、セリーグ全体の観客動員数も年々増加しています。
ファンクラブの立ち上げや、インターネットによりチケット購入が容易になったこと、各種イベント、来場者への記念品プレゼントなど、阪神を含め、各球団の努力が実った結果ともいえるでしょう。
チームを強くすることが一番のファンサービスであり、営業改善であることを、かつて金で主力を売っていた球団も、すでに気づいてくれてることと信じつつ、来年以降も阪神を見守りたいと思います。
参考文献
阪神タイガースの虚実を赤裸々に描き出す一冊ですが、阪神だけでなく、草創期から現在に至るプロ野球の歴史をたどる内容となっており、プロ野球ファンならば非常に興味深い内容となっていると思います。