大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

もう一つの「伝統の一戦」、甲子園球場に巨人戦より観客を呼んだカードとは。いかに阪神は関西屈指の人気球団となったのか?阪神タイガースの歴史を読み直す(2)

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皆さんこんにちは。

前回は、読売戦しか甲子園が満員にならなかった頃のお話をしました。

 

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長らく観客動員は読売戦頼みだった阪神ですが、これは球団創立以来のことだったのでしょうか。

プロ野球黎明期まで遡ると、阪神に、実は意外なライバル球団があったことがわかります。

 

 

伝統の一戦

 

今の阪神ファンなら不倶戴天のライバルはどこかと問われれば、もちろん読売ジャイアンツと答える人が多いんじゃないでしょうか。

阪神と読売の一戦は「伝統の一戦」と、巷間広く称されています。

現存するプロ野球の球団で最も歴史が長いのが読売で、読売創設の翌年生まれたのが阪神です。

2球団しか無かった時期もあり、確かに現在最も伝統のあるカードであることに間違いありません。

では、プロ野球草創期の読売戦がいかほどの観客を集めたのでしょう。

阪神創設の翌年、1936(昭和11)年6月、甲子園球場東京巨人軍(現読売)を迎えて行われたオープン戦は、土曜日にも関わらず2407人しか集まりませんでした。

当時、野球の興行で最も集客力があったのは東京6大学野球。始まったばかりのプロ野球は読売戦といえども、今のような大勢の観客を集めることはまだまだできなかったのです。

そんな当時にあって、甲子園球場に巨人戦以上の観客が詰めかけるカードがありました。

 

それは対阪急戦です。

 

現在、阪神と阪急は同じグループの企業ですが、村上ファンドによる阪神株の買収問題から両社が合併するまでは、激しいつばぜり合いを行うライバル企業でした。

鉄道路線では三宮、梅田間の競合区間を巡り、国鉄も含めた三つ巴の旅客獲得競争をはじめ、梅田の百貨店も御堂筋を挟んでにらみあっていました。

そんな電鉄会社同士を親会社にもつ両球団が直接ぶつかり合うのですから、両球団とも対戦前には「阪急だけには負けるな」「大阪タイガースにだけは負けるな」と、各電鉄や球団首脳から選手達も発破をかけられていました。

そんな遺恨めいたストーリーに観客も興味をそそられ、公式戦以外に興行していた「阪神阪急定期戦」では、連日5000から7000人の観客が押し寄せたと言います。

京阪神地域に住んでいる方はピンとくるかと思いますが、関西は非常に沿線意識が強いというか、沿線同士が意識しあう、ライバル視しあう風潮が強いと感じます。

三宮と梅田の間を並走しながら、沿線気質も随分違う阪神と阪急ですから、両者の激突がよりいっそう盛り上がったのではないでしょうか。

 

ちなみに阪神阪急定期戦は、1936(昭和11)年から1988(昭和63)年まで、阪急がオリックスに球団を譲渡するまで続いた定期戦で、この一戦もまた「伝統の一戦」とする向きもあったようです。もっとも2リーグ分立以降は阪急の低迷もあって、草創期ほどの盛り上がりも「格」も失っていくのですが・・・。

 

後世の野球史の書籍を読めば、この時期、東の沢村、西の景浦のライバル対決が、プロ野球草創期の名勝負であったと当然のように書かれています。

しかしながら、関西では親会社同士の相克もあってか、もっとも集客を見込める対戦相手は巨人ではなく阪急でした。

両者の対戦は「西の早慶戦」になぞらえられるカードとなって巨人戦を上回る人気を博していたのです。

最初の阪神のライバル球団は、少なくとも関西では読売ではなく阪急だったのは意外と思うかたも多いんじゃないでしょうか。

 

読売、阪神より早くプロ球団を設立した阪急

 

実は阪急、阪神はもとより、読売よりも先に一度プロ野球の球団を保有していたのをご存じでしょうか。

宝塚運動協会」という、1924(大正13)年日本で3番目に設立されたプロ野球球団です。

この球団は、1920(大正9)年設立された日本初のプロ野球球団である「日本運動協会」が、関東大震災の影響で解散したのを受け、これを引き継ぐ形で設立されました。

ちなみに日本で2番目にできたプロ球団は「天勝野球団」といい、この球団も関東大震災のあおりを受けて消滅しています。

 

阪急の社長だった小林一三は阪急、阪神、京阪、大阪鉄道(現近鉄線の前身の一つ)といった関西私鉄各社がそれぞれ本拠地球場とプロ野球球団を持ってリーグ戦を行う、プロ野球のリーグ構想を持っていました。

鉄道を中心とした独創的なアイデアを次々と実現していった小林ならではのアイデアですね。宝塚運動協会はそのプロ野球リーグ構想の第一歩となるものでした。

小林はこのリーグ構想を大阪毎日新聞とともに進めようと画策していたらしいですが、結局阪神を含め、阪急のあとに続く球団は設立されず、1929(昭和4)年「昭和金融恐慌」による経済悪化が原因で宝塚運動協会は解散してしまいます。

 

それから5年間、日本にはプロ野球の空白期間があり、1934(昭和9)年、日本で4番目のプロ野球球団として「大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)」が読売新聞によって設立されるのです。

読売の社長正力松太郎は数球団によるプロ野球リーグを構想しており、東京、大阪、名古屋での興行を目指していました。

そんな正力が関西で声をかけたのは、かつてプロ野球球団を保有してプロ野球にも積極的と思われた阪急ではなく、日本最大の球場、甲子園球場を擁する阪神でした。

 

阪神は、阪急からプロ野球に誘われたときは、結局誘いには乗りませんでした。

今回読売からの誘いに対しても、慎重な阪神はすぐにゴーサインは出しません。

全大阪という臨時のチームを作って、東京巨人軍甲子園球場で試合をおこない、客の入りを確かめたのです。

観客は4000人を超えるまずまずの入りで、この結果を受けてようやく阪神は球団設立の決心を固めました。

こうして読売に誘われる形で、日本で5番目のプロ野球球団「大阪タイガース」が発足するのです。

 

阪神プロ野球球団を持つというニュースを、小林は外遊中のワシントンで耳にし、すぐに阪急もそれまで極秘裏にすすめていた西宮北口での新スタジアム建設計画と新チーム結成を急ぐよう指示を出します。

小林にすれば「出し抜かれた」という思いもあったことでしょう。

「俺が誘った時には断ったくせに」と、阪神の手のひら返しをなじる思いもあったかもしれません。

 

読売の正力がまず阪神を誘った理由については、井上章一さん著作の『阪神タイガースの正体』で述べられているように「読売と阪急の暗闘があった」と思われます。

小林のプロ野球構想の背後に大阪毎日新聞があったため、プロ野球リーグの主導権を握りたい読売としては阪急をけん制したというところでしょうか。

結果的に阪急はプロ野球では後手を踏むことになってしまいました。

そういった設立時のいきさつも、当時の阪神、阪急の一戦を、とくに阪急側で盛り上げた原因にもなっていたのかもしれませんね。 

 

読売と毎日、阪急の暗闘はこのあとプロ野球界に激震を引き起こし、阪神もその渦中に巻き込まれていくことになります。

 

参考文献

阪神タイガースの虚実を赤裸々に描き出す一冊ですが、阪神だけでなく、草創期から現在に至るプロ野球の歴史をたどる内容となっており、プロ野球ファンならば非常に興味深い内容となっていると思います。 

 

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