大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

2リーグ分裂は、阪神に何をもたらしたか。いかに阪神は関西屈指の人気球団となったのか?阪神タイガースの歴史を読み直す(3)

f:id:yamatkohriyaman:20190727232636j:plain皆さんこんにちは。

前回はプロ野球草創期、関西では阪神の一番のライバル球団と目された阪急とのお話を中心にご紹介しました。

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今回は球団草創期から2リーグ分裂までの阪神の歴史を追っていきます。

 

 

最強の時代

 

さて、ファンとしては毎年期待を裏切られることが少なくない(というか裏切られることのほうが多い)阪神ですが、「最強の時代はいつか」と問われたとき、皆さんはどの時代を思い浮かべられるでしょう。

近年では2003年、2005年とリーグ優勝した今岡、赤星、矢野、そして金本らが主力だった時代があげられるでしょう。

2000年代最初の10年ほどは、シーツやマートンといった外国人選手にも恵まれ、戦力的に大変充実した時代だったと考えられます。(中日の黄金時代と時期が重なり、優勝回数を増やせなかったのはファンとしては残念です。)

また、インパクトでいえば1985年日本一のメンバーを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし長い球団の歴史を見渡した時、球団創設から戦前、戦後間もない時期の阪神は間違いなく最強の時代だったといえます。

 

1リーグ時代のプロ野球は読売一強の時代であったとみる向きもありますが、決してそうではありません。

この当時、阪神の実力も相当に高かったことは戦績を見れば明白です。

まず、戦前のリーグ戦で読売以外に優勝したことのあるチームは阪神だけです。

 

また1949年までのリーグ戦の成績を見ると、優勝回数こそ読売9回、阪神4回と差があるものの、直接対決は85勝84敗3分とほぼ拮抗(1勝阪神が勝ち越し)しており、読売と匹敵するチーム力を有していたとみることができるでしょう。

戦前から戦中にかけては、若林、御園生、西村といった安定した主力投手陣に加え、松木、景浦を主軸とする強力打線で、読売と常に優勝を争う強豪だったのです。

 

戦後、主軸の景浦を戦争で失いながらも、初代ミスタータイガースとなる藤村が主軸に成長し、呉、土井垣といった強打者を並べた打線はダイナマイト打線と称されました。

1947年には戦後初めて優勝し、翌年には慶応大の強打者、別当を獲得してまさに最強打線が完成したのです。

 

戦前から戦後にかけ、10年あまりの期間に4回の優勝。

初期の頃は春秋の2シーズン制だったとはいえ、2リーグ分裂から69年間で5回しか優勝できていないことを考えれば、やはり1リーグ時代の戦前から戦後まもなくが、阪神の最強時代であったと言えるでしょう。

しかし、この最強時代は思わぬことから突然終止符を打たれることになるのです。

 

2リーグ分裂。崩壊したダイナマイト打線

 

1945年のリーグ戦中断を経て、プロ野球は1946年から再開されました。

戦争で娯楽に餓えていた民衆からプロ野球は支持され、野球に好意的なGHQの働きかけもあってか戦前を大きく上回る人気を集めるようになります。

戦前は六大学野球や中学野球(現在の高校野球)等の学生スポーツに比べ、観客動員に苦戦していたプロ野球でしたが、戦後、国民的娯楽としてまさに成長しつつあったのです。

プロ野球は儲かる。」

人気に火が付きつつあったプロ野球に、続々と新規に参入したいという企業が現れてきます。

その中に、かつて阪急とともにプロ野球の構想を持っていた毎日新聞がありました。

読売新聞がプロ野球人気もあって発行部数を伸ばすなか、毎日もプロ野球への参入を希望してきたのです。

毎日の参入に強硬に反対したのは、同業の読売と中日でした。

客が集まらない時代から苦労を重ね、ようやく軌道にのり始めて人気が上向き、新聞の売上も好調になってきた矢先で、商売がたきの参入は到底認められないことでした。

一方、かつて独自のプロ野球構想を持ち、毎日新聞とも連携をしていた阪急や、主戦の別所を引き抜かれるなど読売中心のプロ野球に不満があった南海などは毎日の参入支持に回り、読売派と毎日派でプロ野球は分裂状態となります。

このときの読売派がセリーグ、毎日派がパリーグになっていくわけです。

さて、阪神はどちらの派に与していたか。

当初、他の大阪私鉄各社と同じく毎日参入賛成の姿勢を示したことから、パリーグに参入すると見られていました。

パリーグ阪神が加入する可能性がこのときは現実味を帯びていたのです。

 

毎日派に与する阪急、南海などは毎日新聞によるメディア効果を大いに期待していました。

読売新聞との相乗効果で後楽園球場の観客動員を伸ばすジャイアンツに対し、在阪球団の阪急、南海、阪神は観客動員で大いに苦戦を強いられていたのです。

ちなみに、戦前、読売新聞以外のほとんどの新聞はプロ野球のことなど記事にしませんでした。

プロ野球は「読売の興行」という目で見られていたことが大きな原因でしょう。
しかし戦後になると、毎日や朝日もちらほらと報道を始めるようになります。

とはいえ、プロ野球を大々的に報道するのは読売新聞だけという状況で、この当時、読売新聞はまだ関西では売られていませんでした。

それに対して毎日は大阪毎日新聞があり、とくに阪急、南海は巨大な宣伝メディアである毎日新聞に試合を大々的に報じてもらうことで、観客動員アップを期待したのです。

かつて、大阪にはパリーグの球団が3球団ありました。

阪急、南海、近鉄という大手私鉄の球団です。

この球団がなぜパリーグに在籍したのかといえば、ひとえに毎日新聞のメディア効果を期待した結果だったのです。

 

読売派と毎日派の対立はいよいよ先鋭化し、すでに2リーグに分裂するしかないという状況になります。

ここに至って毎日派の5球団、大映、東急、南海、阪急、阪神はリーグが分裂しても離れないという協定を結び、阪神もこれに加わります。

ところが、いよいよリーグ分裂というところで阪神は突如協定を反故にして、なんと急転直下でセリーグに参加しました。

毎日、大映、東急、南海、阪急からみれば、まさに「裏切り」というべき阪神の寝返り劇でした。

 

実のところ、阪神の方針は内々には当初から決まっていたようです。

「毎日の参入は容認する。しかし読売とは離れない。」

これが最初から阪神の揺るがぬ方針だったのです。

1949年、この年の読売戦はまさにドル箱カードで、しばしば甲子園球場を満員にしています。

圧倒的な動員力を誇り、まさに球団経営の根幹をなすカードとなっていた読売戦を、阪神は失うことはできないと考えたのです。

どうなるか不透明な毎日新聞のメディア力よりもすでに実績があり安定した観客動員を見込める読売戦を選択する。

いかにも阪神「らしさ」がにじみ出る堅実な選択だったといえるでしょう。

 

こうして日本のプロ野球セリーグパリーグという現在につながる2リーグ体制に分裂しました。

毎日新聞毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)を結成し、パリーグに参入します。

ようやくプロ野球に参入を果たした毎日ですが、他の新規球団と同様、深刻な選手不足に陥っていました。

それを補うため毎日がとった手段は、「裏切り」への報復ともいうべき阪神からの選手引き抜きでした。

主力投手の若林をはじめ、打撃の中心ともいうべき別当、呉、土井垣、本堂をなりふり構わぬ札束攻勢で引き抜いたのです。

主力をごっそりと引き抜かれ、阪神ダイナマイト打線は完全に崩壊しました。

この毎日の引き抜きに、阪神ファンは憤り、尼崎などの一部の地域では毎日の不買運動なども起こったようです。

販売促進を狙って球団を創設したのに、一部の地域では不買運動が巻き起こるとはなんとも皮肉な結果です。

 

さて、怒るファンとは対照的に、当の阪神は引き抜かれた選手を積極的に引き留めようとしたのかといえば、実はしませんでした。

 

当時、新規球団による既存球団からの選手引き抜きは、阪神と毎日の間以外にも行われており、その激しさから、問題化している引き抜きも多数あったようで、両リーグの会長から「旧状に復するように」という申し合わせまででているくらいです。

にもかかわらず、阪神は主力選手を引き留めませんでした。

引き抜かれた主力のかわりに莫大な移籍金が毎日から阪神に支払われています。

「金で主力を売った」といわれても仕方がないかもしれませんが、なんとも「現金」な、阪神「らしさ」がここでも発揮されたというべきでしょうか。


ちなみにこのとき阪神に残留した数少ない主力の一人が藤村富美男であり、彼はこのあと、ミスタータイガースとして阪神ファンの人気を一身に受け、伝説となっていくのです。

 

2リーグ分裂が阪神にもたらしたものとは

 

毎日による大量の選手引き抜きによって崩壊したダイナマイト打線

この戦力減が大いに響き、阪神はこのあと12年にわたってリーグ優勝から遠ざかります。

金で主力を売った代償はあまりにも大きかったというべきでしょうか。

 

一方、毎日は1950年、阪神から引き抜いた別当らの活躍もあり、パリーグを圧倒的な強さで制すると、日本シリーズでは松竹(横浜DeNAベイスターズの前身球団の一つ)を打ち破って日本一に輝くのです。

もし、このときの選手引き抜きがなければ、1リーグ時代の最強時代がもうしばらく続いたのではないか。

そういう思いに駆られます。

しかし、毎日の栄光も続きませんでした。

翌年以降は優勝から遠ざかり、50年代のパリーグをリードするのは南海、西鉄となります。

セリーグにおける読売のように、毎日はパリーグで脚光を得られるような球団になれなかったのです。

50年代、パリーグで最大の観客動員力を有したのは南海でした。

一方、成績的にパッとしない毎日には客がなかなか集まりません。

 

ここで、パリーグの当初の構想が崩れだします。

当初は大新聞の宣伝力に支えられた毎日が大きな集客力を誇り、それをパリーグ各球団が迎え撃ち、パリーグ全体を全国紙である毎日新聞が盛り上げる。

そのような青写真を各球団は描いていたものの、期待は完全に裏切られることになります。

 

とくに観客動員についてはセパで如実に差が出始めます。

2リーグ分裂後、プロ野球の観客動員は、一時大きく落ち込みます。

新規参入した球団の人気は押しなべて低く、不人気カードが増えたことが原因でした。

セリーグが1リーグ時代の水準に回復するのは1953年くらいからで、1954年からは1試合平均1万人の水準になりました。

それに対し、パリーグは長らく停滞が続き、1試合平均1万人の水準になるのは1970年代になってからです。

 

毎日が成績的に低迷した中、一方のセリーグで群を抜いたのは読売でした。

読売は1リーグ時代のライバルであった阪神が、主力の抜けた穴を埋められない中、常勝チームに成長して不動の人気を獲得してリーグの人気を引っ張ります。

毎日は50年代末にようやく勢いを盛り返し、1960年には久々にパリーグを制覇しました。

このときは大映と合併して大毎オリオンズとなっています。

しかし、やはり大毎に人気は集まりません。

なんと2位だった前年よりも観客動員を落としたのです。

弱いから人気が出なかったといわれていたが、強くなっても一向に人気が出ない。

強くなっても観客を集めることができなかったのです。

この状況に絶望したのか、毎日新聞は1963年を最後にプロ野球の経営から手を引いてしまいました。

毎日は最後までパリーグにおける「読売」にはなれず、リーグの牽引車とはなれなかったのです。

 

さて、阪神はというと、大幅な戦力減で成績は長期低迷期にはいったものの、ドル箱であった読売戦を温存できたため経営は安定します。

選手の年俸も抑えられ、経営もそれなりに儲かる。

事業の優先度で「強くなる」が決して高くないという、後々の「ダメ」な球団経営の素地がここで作られたといえましょうか。

 

もし、リーグ分裂時に阪神パリーグに参加していたらどうなっていたことでしょう。

南海、阪急、そして近鉄のような運命が待っていたかもしれません。

それも、あの堅実な電鉄本社のことです。きっと南海、阪急、近鉄よりずっと早い時点で売却、消滅という運命になっていた可能性が高かったと思います。

裏切り者となじられようとも、堅実な経営観から読売戦を手放さなかった阪神の選択は正しかったといえるでしょう。

そして読売から離れなかったことで、阪神は人気球団へと成長していくのです。

 

参考資料

日本プロ野球記録

参考文献

阪神タイガースの虚実を赤裸々に描き出す一冊ですが、阪神だけでなく、草創期から現在に至るプロ野球の歴史をたどる内容となっており、プロ野球ファンならば非常に興味深い内容となっていると思います。 

 

次回はこちら。

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