皆さんこんにちは。
以前、中世武家館城の面影を残す「中家住宅」をご紹介しました。
中家住宅のほど近くを、中世から近世にかけて、奈良と五條を結ぶ下街道が通っています。
中家住宅から下街道に沿って北東、郡山の方へ少し進むと額田部地区という歴史ある地域があり、大和郡山市民ながら、今まで訪れる機会がなかったので、中家住宅を訪れたこの機会に足を延ばしてみました。
歴史ある古寺、古跡に趣ある旧街道筋の風情が残る場所でしたので、今回ご紹介したいと思います。
額安寺(かくあんじ)
場所はこちら。大和郡山市の南端、佐保川と大和川の合流地点に面した地にあります。
別名額田寺(ぬかだでら)とも呼ばれ、発祥は額田郷を本拠地とした古代豪族、額田部氏の氏寺、あるいは、621年に聖徳太子によって創建された熊凝精舎(奈良大安寺の前身寺院)と伝える史料(「聖徳太子伝私記」(鎌倉時代))もあり、諸説あります。
額安寺に伝来していた額田寺の伽藍配置図である国宝「額田寺伽藍並条里図(国立民俗博物館蔵)」は、奈良時代の天平宝字年間(757~765年)の作成と推定されるため、遅くとも奈良時代中期以前には存在していたと見られます。
また、当寺から出土した創建時のものと見られる瓦は「単弁六弁蓮華文軒丸瓦」で、この様式は7世紀の飛鳥時代の瓦と比定されることから、かなりの古寺であることは間違いありません。
現在の額安寺の遠景。
奈良時代には南北218m、東西327mという広大な境内に南大門、中門、金堂、三重塔、講堂、僧坊などを備えた巨大伽藍でした。
平安時代に衰退しましたが、鎌倉時代に西大寺の僧で真言律宗の祖、叡尊とその弟子忍性により復興されました。
ちなみに叡尊は現在の奈良県大和郡山市白土町、忍性は奈良県三宅町と、ともに額安寺近郷の出身です。
叡尊も忍性も、鎌倉仏教における巨人なのですが、法然、親鸞、日蓮、道元といった面々に比べると、旧仏教系の人々と見られたせいか、いささか影が薄い印象がありますね。
鎌倉仏教といえば従来の国家と結びついた旧仏教と一線を画した新仏教がメインという流れが、ずっと教科書で続いていることが大きいと思うのですが、朝廷から自立した点では真言律宗は旧仏教の再興活動というより、新仏教ととらえた方が適当で、非人救済などの社会活動を熱心に行った点からも、叡尊、忍性はもっとスポットが当たってよい人物なんじゃないかと思います。
閑話休題。額安寺に話を戻しましょう。
戦国時代、1499(明応8)年に管領細川政元と大和国人の対立に巻き込まれ、政元の命で大和国に侵攻した赤沢朝経によって焼き討ちにされ、再び荒廃します。
1580(天正8)年には織田信長の検地で寺領180石を没収されましたが、豊臣秀吉によって五重塔を四天王寺に移築することを条件に寺領を与えられて、なんとか復興しました。
1600(慶長5)年に秀頼の手によって五重塔は四天王寺に移築され、本堂以外のすべての堂宇を失います。ちなみにこの時移築された五重塔は、1614(慶長19)年の大坂冬の陣で焼失しています。
その後、明治まで存続したものの、1871(明治4)年と1875(明治8)年の2度にわたる上知令でほとんどの寺領を失い、廃寺寸前に追い込まれていたところを、1975(昭和50)年、近郷出身の喜多亮快氏が廃墟と化していた名刹の消失を恐れ、復興事業に取り組んで現在に至ります。
こちらが表門になります。
表門脇の大和郡山市が設置した案内板。
お寺の西側に受付があり、境内は拝観可能です。
拝観時間:9:00~16:00
拝観料:¥100
駐車場:6台
境内にある額安寺宝篋印(ほうきょういん)塔。奈良県指定文化財となっています。
元々額安寺門前に建てられていたものを、修復・移築したもので、内部の銘文に1260(文応元)年とあり、銘のあるものとしては国内で3番目に古い宝篋印塔となります。
ちなみに文献上最古の作塔例が1239(暦仁2)年で、現存する最古の銘文を持つものは1248(宝治2)年のものになりますから、同種の塔としては最古級のものになります。
本堂は1606(慶長11)年に再建されたものになります。
本堂内には室町時代の作と伝わる十一面観音立像をはじめとした仏像や奉納された絵画が安置されています。堂内は撮影禁止なので、ぜひお寺のホームページでご確認いただきたいです。
十一面観音立像とそれを収める厨子は、作成から500年以上の年月が経っているとは信じられないほど、美しい彩色が残っています。
厨子に脇侍している仏様も大変魅力的で、仏像好きの方は是非一度お参りいただければと思います。
下街道沿い(推古神社、額安寺五輪塔、額田部窯跡)
額安寺の東側に鎮座する推古神社です。御祭神は推古天皇。推古帝の本名は額田部皇女ですので、土地とのご縁を感じるのですが、直接の関係は調べましたがよくわかりませんでした。
写真奥に見える拝殿の背後の森は実は古墳です。古墳時代後期の前方後円墳になります。
推古神社から旧下街道を北に進むと、街道沿いに建つ大神宮の常夜灯がありました。
古くから続く街道、集落にはお馴染みの常夜灯ですね。
旧下街道を北上すると、国の重要文化財に指定されている額安寺五輪塔があります。
場所はこちらです。かつてはこの辺りまで額安寺の境内でした。
通称鎌倉墓と呼ばれており、L字型に並んだ8基の五輪塔で、鎌倉時代後期に造立されたことが判明しています。
一番左端の最も大きな五輪塔が忍性の墓であることがわかっています。
忍性死後、その遺骨は遺言により鎌倉の極楽寺、生駒の竹林寺、そして額安寺に分骨され、額安寺の忍性墓からは、竹林寺で出土したものと同じ、瓶子型の独特な形状をもつ骨蔵器が出土しました。
五輪塔のすぐ西側には、鎌倉時代の額安寺再興の際に瓦を焼いた窯の跡が残されています。
遺跡保護のため覆屋で囲まれていますが、中の様子は窓から覗けます。
大和郡山市の都市計画課文化財保存活用係に連絡すれば、中の見学も可能とのこと。
再び下街道を北上すると、石の道標がありました。
南面に「右 ざい所 すぐ奈良 郡山 道」とあります。ちなみに昔の道標で「すぐ」とは「まっすぐ」という意味になります。
なので「道なりにまっすぐ行けば奈良、郡山の町に着くよ」ってことですね。
場所はこちらになります。
道標に従って東に進むと現在の県道108号線につきあたり、筒井、郡山へと続きます。
平端駅近辺(法隆寺線跡、筒井順慶五輪塔覆堂)
下街道を少し離れて近鉄平端駅へ向かいます。
平端駅前ロータリーの南側には、廃線となった近鉄法隆寺線の築堤が残されています。
正面民家が建つコンクリートの構造物が築堤です。
近鉄法隆寺線は、かつて天理と新法隆寺間を結んだ天理軽便鉄道をルーツとした路線で、1920(大正9)年に大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)が天理軽便鉄道を買収すると、旧天理軽便鉄道線はその路線を縦断する平端駅で東西に分断されます。
平端駅以東は大軌畝傍線(現近鉄橿原線)と接続されて現在の近鉄天理線となり、以西は平端から新法隆寺を結ぶ法隆寺線となりました。
天理線が橿原線と直通運転のため改軌、電化されたのに対して、法隆寺線は軽便鉄道のまま非電化のままで、1945(昭和20)年に戦況悪化のため不要不急線として運転停止となり、1952(昭和27)年に正式に廃線となりました。
※天理軽便鉄道の詳細については、下記の過去記事をぜひご参照ください。
かつての平端駅からまっすぐ伸びる軌道跡は、現在生活用道路となっています。
平端駅の少し北側に、戦国時代の大和国を代表する戦国武将、筒井順慶の墓があります。
墓標である五輪塔を覆う五輪塔覆堂が国の重要文化財に指定されています。
場所はこちら。平端駅から徒歩5分ほどの場所にあります。
大和郡山市の案内板。
覆堂の正面。
筒井順慶については、簡単にその生涯をまとめた記事がありますので、ぜひご一読ください。
菓楽
さて、最後に今回ご紹介した地域でおすすめのスイーツ店をご紹介したいと思います。
菓楽さんの「ケーキ工場の小さな直売所」です。
場所はこちらになります。昭和工業団地のタマノイ酢の工場の南側です。
ネット通販などで販売されているロールケーキやクッキーが工場直販価格で購入できます。
クッキー、シフォンケーキ、ロールケーキが個人的には超おすすめです!
あと、サイドロールはロールケーキの「端」を詰め合わせたものですが、250円と驚きの価格です。
また菓楽さんのお菓子は、奈良ええもんストアからも購入可能なので、ぜひ一度お試しください。