大和徒然草子

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中世武家居館の面影を残す中家住宅と伝多聞山城門

皆さんこんにちは。

 

奈良県は稗田環濠集落をはじめ、中世環濠が良好な形で残っている例が多いことで知られていますが、中世武士の居館の佇まいを、現代に伝える場所があることをご存知でしょうか。

奈良県安堵町の「中家住宅」は、二重の堀がほぼ完全な形で残り、中世在地領主の居館の様相を現代に伝える貴重な場所といえます。

特筆すべきは、現在なお中家のご子孫が居住しておられる、現役の住宅ということ。

堀まで備えた中世的な武家居館が、「遺構」ではなく、現役の住居として受け継がれているところが、とてつもなく貴重な文化財だと思います。

 

場所はこちらになります。かつて奈良と五條を結んだ下街道のほど近くにあります。

GoogleMAPにもくっきりと表示される二重の堀。

これが個人宅というのが信じられません。

 

こちらは表門前に設置された案内板。

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宅地内の主屋をはじめとした建築物はもちろん、内堀と外堀、そして城郭における外郭ともいえる竹藪までもが国指定の重要文化財に指定されています。

今でも中家のご子孫がお住いの場所ですので、内部見学の場合は、前日までに予約が必要となります。

私は散歩の途中立ち寄ったので、堀を中心とした外観だけを見学させていただくことにしました。

 

配置図を拡大したものです。

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外堀、内堀と二重の堀がほぼ完全な形で残されていますね。

ここまで完全な形で堀が残っている中世武家居館の遺構は、栃木の足利氏居館跡である鑁阿寺くらいしか、管見の限り見当たらないかと思います。

 

中家住宅表門、内堀

こちらは中家住宅の表門。立派な長屋門です。

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中家は元は足立氏と称し、現在の三重県鈴鹿市付近の土豪でしたが、南北朝時代足利尊氏に随って大和へ移住。新たに領地とした「窪田」を名字として窪田氏を称しましたが、1391(明徳2)年に中氏に改称しました。

その後、興福寺の有力な官符衆徒であった筒井氏と姻戚を結び、筒井一族の武士として活動しましたが、1585(天正13)年の筒井氏の伊賀転封には従わず、その後帰農して大地主となり、江戸から現在に至ります。

中世在地領主の武士であったことから、屋敷の周囲に環濠をめぐらせた館城の様式を遺しつつ、江戸時代初期に建てられた主屋を中心とする農家造りの建築を併せ持つ住居となっています。

 

表門の前に板橋が架けられています。この板橋は取り外しが可能で、かつて夜は外され、屋敷内への外敵の侵入を防いでいたとのこと。鉄壁の防犯対策ですね。

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屋敷地を囲む内堀は見事な水堀です。

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中世武士の館城そのままの姿を目の当たりにできる、大変貴重な場所ですね。

 

石田家側内堀

環濠の西側は、石田家の宅地となっています。石田家も中家の一族とのことですが、現在はこちらにお住まいではないらしく、お屋敷もかなり荒れてきています。

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石田家表門(伝多聞山城移築門)

こちらは石田家の表門で、松永久秀が奈良の支配拠点としていた多聞山城の城門を移築したものと伝わる門です。

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多聞山城は1577(天正5)年に織田信長の命で筒井順慶の手により破却され、櫓などの建材は京都における信長の邸である二条殿の造営に流用されたほか、石垣も筒井城や郡山城に転用され、こちらの門もその際にこの地に転用されたということでしょうか。

 

門の前には門の由緒と「多聞城門」と刻まれた石碑が立ちます。

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「豆福堂石田邸ギャラリー多聞庵」という骨董屋さんだったようですが、現在はこちらではご商売はされていないようですね。お店の電話番号から現在は大阪の方で商いをされておられるようです。

こちらの門は文化財指定も受けておらず、手入れもされていないようで荒廃が進んでいます。かつての備中松山城のような状態ですね。。。

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多聞山城の移築門であることが事実であるなら、間違いなく重要文化財級の遺構なのですが、調査などは入っているのかなあ。

外堀

こちらは外郭を取り囲む外堀です。

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雑草も刈られており、非常に手入れが行き届いていて綺麗に遺っています。
道路から見学させていただいているときも、堀の清掃をしておられる方がいらっしゃいました。

 

それにしても、外郭まで備えた館城が現在に伝えられていることは本当に驚きです。

かつては筒井城や十市城など、大和各地に中家住宅のような大小の館城が点在したいたのですが、そのほとんどが田畑や宅地と化して姿を消す中、ほぼ完全な形で維持してこられた、ご子孫の不断のご努力には脱帽するほかありません。

 

自宅から比較的近く、一度は訪れたいと考えていた場所だったのですが、初めて訪れてお堀の状態のよさに驚かされました。

個人宅として維持管理していかれるのは、大変なご苦労があるかと思いますが、この貴重な遺構を次代に受け継いでいただきたいと思います。