歴史好きの大和徒然草子

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異端の天才、世阿弥はなぜ忘れられたのか(5)

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皆さんこんにちは。

 

能の大成者世阿弥は、その晩年から死後、20世紀初頭まで一般には忘れ去られた存在でした。

現在では史上最も有名な能楽師の一人である世阿弥はなぜ忘れられたのか、彼の人生から追っていくシリーズの今回5回目です。  

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足利義満死後、大きな庇護者を失った世阿弥は、大衆の支持も得られない中、大きな苦境に陥ります。

甥の元重、後の音阿弥が6代将軍足利義教の寵愛を受けて独自の地位を築くと、その苦境はますます深いものとなっていきました。

1429(永享元)年、室町御所多武峰様猿楽における長男で観世太夫元雅、甥、音阿弥の共演から、世阿弥は次々と苦難に見舞われることになりました。

佐渡配流

1429年の多武峰様猿楽の直後、世阿弥と元雅は仙洞御所(上皇の御所)への出入りを禁止されたのを皮切りに、伝統ある興福寺薪能からも締め出されます。

1430(永享2)年には僅かながらも大事な収入源であった醍醐寺清滝宮の楽頭職も音阿弥に交替。

都市部での興行が振るわない中、大きな収入の柱を失った世阿弥父子は、いよいよ窮地に追い込まれました。

このような状況を悲観したのか、次男元能が突如出家遁世して世阿弥のもとを去り、1432(永享4)年、長男元雅も、興行先の伊勢安濃津で急死します。

 

この元雅の急死について、その死因は残念ながら史料上伝わっていません。

一説には、南朝勢力と結びついたため、義教から暗殺されたとされるものもあります。

1428(正長元)年、称光天皇が後継ぎなく崩御して北朝嫡流が絶えると、後小松上皇は、称光天皇の三従兄弟(曾祖父の兄弟姉妹の曽孫)と、極めて遠い血縁ながら持明院統伏見宮彦仁王後花園天皇として皇位に就けました。

ちなみにこの時皇位についた後花園天皇の系統が、現在の皇室につながっており、現皇室が北朝系統とされるのはこのためです。

南北朝合一後、北朝南朝の両統から交代で天皇を出すという約束を反故にされていた南朝方は、北朝の皇統が絶えたとして強く反発し、伊勢の北畠満雅南朝最後の天皇後亀山天皇の孫を推戴して挙兵するなど、幕府と旧南朝勢力の緊張関係が再び再燃した時期でもありました。

元雅は死の前年に天河神社で演能していますが、天河神社南朝との関係が深く、客死した伊勢も南朝方の中心勢力である北畠氏の勢力圏であることから、元雅と南朝方の関わりが深くなり、それを快く思わなかった義教が刺客を差し向けて暗殺してしまったとするのが義教暗殺説です。

実際に元雅が深く南朝勢力と関係があったのかは定かではありませんが、将軍家から排斥された元雅が、対立勢力である南朝勢力を頼る蓋然性は、低くないといえるでしょう。

実際、元雅の遺児である十郎は大和の南朝方中心勢力であった越智氏の後援を受け、越智観世として活動しています。

また、義教の執念深い性格を考えると、どこまでも追い詰めて殺害するというのも、いかにもありそうなことですね。

 

観世太夫元雅の死により、空位となった観世太夫の座は、ついに音阿弥に移ります。

世阿弥の次男、元能は出家しており、その弟もまだ若年で、元雅の子十郎も幼年であったため、音阿弥以外にその名跡を継げる者はいませんでした。

以後、観世宗家の系統は音阿弥の子孫が代々引き継ぐことになりました。

こういった経緯もあってか、観世宗家では初代観阿弥に始まる観世太夫の歴代に、元雅は加えず、音阿弥を三代目としています。

事実上、現在に続く観世家を興したのは、音阿弥といえるでしょう。

この音阿弥の観世太夫襲名披露となったのが1423(永享5)年の醍醐寺清滝宮の祭礼で、このとき初めて元重が、「観世太夫」として記録されており、続いて糺河原勧進猿楽が盛大に興行されました。

 

音阿弥が着々と地位を築いていく一方、世阿弥は1424(永享6)年、突如として佐渡に配流されてしまいます。

すでに72歳。

理由は不明で、元雅の死と同様、南朝方との関係性が原因とする説もありますが、義教から新太夫である音阿弥に、秘中の伝書等を相伝するよう命じられたのを拒否したからという説が、世阿弥の性格からいっても蓋然性が高いのではと思われます。

実際に音阿弥の流れをくむ現在の観世家には、弟四郎に相伝された伝書以降、世阿弥から直接伝えられた書がほとんど伝わっていないことが、それを物語っているといえるでしょう。

 

単身京をを出た世阿弥は、若狭の小浜から船に乗り、海路佐渡に渡りました。

配所については、世阿弥から娘婿の金春禅竹に送った書状によれば「しんほ」の「満福寺」に最初入り、三か月後、戦が起こって「泉」という場所に移ったといいます。

この三か所がどこなのか、「しんほ」については旧金井町新保、旧新穂村(ともに現佐渡氏)のいずれかとされ、「泉」については旧金井町内、もしくは真野川周辺のいずれかとされており、定かではありません。

旧金井町新保の満福寺から同町泉の正法寺に移ったのが従来の通説で、正法寺には世阿弥の腰掛石が伝えられています。

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寿椿を禅竹に預け、世阿弥は最晩年の何年かを、佐渡の地で暮らすことになりました。

 

最晩年の世阿弥

さて、72歳という老齢で佐渡に一人流された世阿弥でしたが、その創作意欲が衰えることはなく、佐渡に流されて2年後の1426(永享8)年、八編の小謡からなる「金島書」を著します。

「金島書」は、京を出て小浜に到着して、流刑地にわたる感慨を謡う「若狭」から始まり、佐渡への海路で目の当たりにした能登半島や白山の雄大な風景を謡う「海路」、佐渡に到着して陸路を進む中で「長谷観音」など、都でなじんだ名との出会いに喜びながら、都を離れた配所で眺める月の感慨を謡う「配処」と続きます。

自らの実体験を、小謡としており、世阿弥佐渡配流の道程や配流後の動静の一端を、この「金島書」から現在知ることができるのです。

老齢での流刑というとてつもない困難の中で、世阿弥の旺盛な創作意欲は萎えることなく、その苦難すら芸として昇華するところに世阿弥の凄みを感じますね。

もっとも、都での再演を目指して創作することが、世阿弥にとって生きる希望だったのかもしれません。

「金島書」では佐渡で落ち着いた後、自身と同様佐渡に配流された二人の貴人の旧跡を訪れる二編の小謡が続きます。

世阿弥八幡宮を訪れた時、その場所だけホトトギスが鳴かないことに気づき、宮人に理由を聞くと、宮人はかつて京極為兼(鎌倉後期の公家)が佐渡に流されたとき、

「鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ山時鳥」

ホトトギスの声を聴くと都が恋しくなる。だからホトトギスよ、この里では鳴かないでくれ)と詠んでから、この地ではホトトギスが鳴かないのだと聞きます。

この話に世阿弥自身が望郷の念にかられる様を謡う「時鳥」。

承久の乱佐渡に配流された順徳院の配所で、院の不遇に涙して、その極楽往生を確信する「」と続き、ここまでが、1424年の配流当初の世阿弥自身の経験に基づく小謡になります。

その後の三篇は神仏が主題となり、1425(永享7)年春に、佐渡の「十社」で小謡を奉納した様を謡った「十社」、国生み神話にまつわる佐渡や、佐渡の最高峰で金北山に鎮座する北山大権現を礼賛する「北山」、最後に大和興福寺薪の神事を謡った無題の小謡で終わります。

 配所にあっても、近隣を出歩いたり、神社で小謡を奉納するなど、それなりに行動を許されていたさまがうかがえますね。

 

佐渡配流以降の世阿弥の消息を知る史料としては、この「金島書」以外にもう一つ、娘婿金春禅竹に宛てた書状があります。

禅竹は佐渡に流された世阿弥に仕送りし、義母である寿椿を引き取るなど、物心両面で岳父世阿弥を支えたようです。

世阿弥としても元雅死後、この頼もしい婿をほぼ一族として接したようで、「六義」「拾玉得花」を相伝するなど、世阿弥から直接伝えられた伝書は、現在観世家より金春家に多く伝わることを見ても、芸道の後継者とみていたようです。

30歳を過ぎ、新進気鋭の能楽師として金春座を率いていた禅竹は、佐渡にいる世阿弥に「鬼の能」について相談していたようで、現在残る禅竹宛ての書状は、この相談に対する世阿弥の回答でした。

おそらく書簡のやり取りは何度かしていたのでしょうが、この書状は能に関する教えが記された書簡だったため、大事に保管されたのでしょう。

 

鬼の能は大和猿楽のお家芸であり、当時民衆には非常に人気の高い演目でした。

しかし、前回記事でも述べたように、世阿弥の能の基本は「老体」「女体」「軍体」のいわゆる三体で、鬼は例外的な存在です。

世阿弥の薫陶を受けた禅竹としては、それは承知の上だったのでしょうが、観客受けの良い鬼の能は、一座を預かる身として鬼の能を無視することもできず、どう扱うべきかを、尊敬する師、世阿弥に問いかけたのでしょう。

これに対する世阿弥からの返答は、次のようなものでした。

 

「状に鬼の能のこと承り候。これはこなたの流には知らぬことにて候。仮令、三体の他は砕動までの分にて候。力動なんどは他流のことにて候。」

 

世阿弥の認める鬼は「砕動風鬼」、すなわち人の執心が人を鬼と化さしめるものという、現在にも通じる高度に形象化された鬼だけでした。

しかし、このような鬼を当時の聴衆が鬼と認めたかどうかは疑問があります。

やはり、人気があったのは得体のしれない地獄の鬼であり、鬼ヶ島の鬼、つまり世阿弥の認めない「力動風鬼」であったことでしょう。

我が道を行く世阿弥と違い、一座を率いて観客と対峙していた禅竹としては、「力動風鬼」も無視できず、師の教えに反することを承知の上で相談し、見事に地雷を踏んだというところでしょうか。

「これはこなたの流には知らぬことにて候」と強い語調でばっさり斬り捨てられたあたり、世阿弥の「喝」が聞こえてきそうな文面です。

また、いやいやお義父さん、そんなことはわかっているだけど、そうは言っても力動風鬼もお客さんに人気があるし無視できないんですよ、、と禅竹の頭をかく姿も浮かんできますね。

 

さすがに世阿弥も少しは禅竹の立場を思いやったのか、そのあとに続けて、父観阿弥も自分も力動風鬼を演じたが60歳を過ぎてからだと述べ、この先十分に修業を積んで基礎が固まったのちに演じればよいと述べます。

観客を無視できず、現在能でも多くの名作を残すことになる禅竹ですが、師世阿弥の言葉をいかに大切にしていたか、この書状が現在まで大事に保管され続けた事実が物語っていると思います。

 

さて、その後の世阿弥はどうなったのか。

江戸時代に書かれた二次史料には、嘉吉の乱で将軍義教が横死した後、赦されて京畿へ戻ったとされるものもありますが、事実はわかりません。

没年については、音阿弥の子、信光が残した史料によれば、享年81歳であったということから、1363(貞治2)年が生年とするなら1443(嘉吉3)年にあたります。

嘉吉元年に義教が死んでいますから、その死の直後に配流を解かれたなら、最晩年、おそらく禅竹の庇護のもと、妻と静かに暮らし、ひっそりと生涯を閉じたのでしょう。

世阿弥の正確な没年を示す史料はありませんが、命日だけは明らかになっています。

奈良県田原本町味間に補巌寺というお寺があります。

世阿弥が若いころから禅を学んだ寺としても知られますが、この寺の納帳に世阿弥の永代供養料として田一段が寄進されたことが記されているのが発見され、そこから8月8日が世阿弥の命日とわかりました。

 

晩年の世阿弥の動向は、彼自身が記した伝書や、禅竹との書簡といった彼の近辺にいた人々によって残された史料にしかほとんど現れません。

それは当時の芸能者の地位の低さに拠るところも大きいかと思いますが、やはり世阿弥が当時すでに遠い過去の人であり、世間から忘れられた存在であったからではないでしょうか。

 

<参考文献>

世阿弥の生涯とその芸論を概観する世阿弥考察の書としては最適の一冊です。

 

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