歴史好きの大和徒然草子

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異端の天才、世阿弥はなぜ忘れられたのか(3)

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皆さんこんにちは。

 

能の大成者世阿弥は、その晩年から死後、20世紀初頭まで一般には忘れ去られた存在でした。

現在では史上最も有名な能楽師の一人である世阿弥はなぜ忘れられたのか、彼の人生から追っていくシリーズの今回3回目です。

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22歳で偉大な父であり師でもあった観阿弥を失った世阿弥は、時の最高権力者である足利義満の後援もあって30代で再び京都への再進出を果たします。

しかし、最大の後援者であった義満は、権力の絶頂期にあった1408(応永15)年に急死。

世阿弥46歳の時でした。

 

観世座の後退

義満死後、後援者を失った世阿弥は不遇の時代を迎えたイメージが、定着していると思います。

義満から冷遇されていた将軍義持は、実権を握ると日明貿易の停止、父への太政天皇の贈号を辞退、後継者としてライバルとなる可能性のあった異母弟義嗣を幽閉するなど、ことごとく亡き父への反発を示す行動に出ました。

この流れから、義持は贔屓の芸能も田楽能、とくに増阿弥を寵愛し、世阿弥ら猿楽能を冷遇したとされています。

田楽は平安時代中期に生まれた歴史ある芸能で、もともとは歌や踊りが中心でしたが、鎌倉時代には演劇要素を持つようになります。

現在では、各地の神事祭礼で残されるのみとなりましたが、鎌倉時代から室町時代にかけては専業の一座が興行をうつ、エンターテインメントとして大きな勢力を誇りました。

義持が贔屓とした増阿弥は、後に世阿弥が「申楽談儀」のなかで、その芸を高く評価しており、田楽の技芸だけでなく、広く当時流行りの芸を幅広く披露したと語っていることから、マルチな才能を発揮した田楽師であったことがうかがえます。

 

実際に義満の死後、各種史料に現れる田楽の公演記録の数が非常に増えてきます。

1412(応永19)年からの10年間でその数は実に20回におよび、うち16回が義持が見物したものでした。

一方で、世阿弥率いる観世座の公演記録は7回で、義持が見物したのは1417(応永24)年8月に興福寺で行われた大和四座の立合猿楽のみ。

この興行は、慣習的に行われていたもので、この翌日には増阿弥による田楽の興行が催されており、義持の猿楽見物もわざわざ観世座の舞台を見に来たというより、慣習で見物に訪れた、もしくは増阿弥の舞台を見るために前乗りして、「ついでに」観劇していたにすぎない可能性もあります。

また、観世座の公演記録について、田楽との対比で特徴的なことが、都市部での公演記録の少なさです。

10年間の記録で、都市部で興行を行ったのは先述の奈良興福寺での公演を含めて、わずかに2回。あとはすべて寺社の祭礼での奉納猿楽で、これは父観阿弥が京都に進出して得た都市部における大衆からの支持を、世阿弥の代で急速に失っていったことを示しているとも言えるでしょう。

観阿弥が農村や社寺祭礼中心の猿楽公演から、都市部の大衆に向けた公演に進出していったのに対し、世阿弥は都市部で田楽に圧倒され、再び社寺祭礼に後退せざるを得ませんでした。

なお、先に述べた10年間の社寺祭礼での公演は、そのほとんどが、父観阿弥が初めて都市への進出を果たした醍醐寺清滝宮での猿楽というのは、なんとも皮肉な運命を感じます。

 ちなみにこの醍醐清滝宮での祭礼については、もともと榎並(えなみ)猿楽が楽頭職を務めていたのですが、猿楽の人気の高まりで自主興行での収益のほうが大きくなるにつれ、祭礼での奉納猿楽を怠るようになり、そのピンチヒッターとして観世座にお鉢が回ってきたものでした。

当時自主興行で得られる収入が110貫程度であった記録があり、これに対して自社祭礼での謝礼は30貫程度と、3倍以上の開きがありました。

なので、人気のある猿楽一座は、もともと大きな収入の柱であった寺社祭礼よりも、自主興行を中心に活動するようになり、榎並もこのような背景から、より大きな収入を得られる自主興行を中心として、祭礼を疎かにしていったのでしょう。

結局、醍醐寺清滝宮の楽頭職は1424(応永31)年は榎並から観世座に移ることになります。

 

さて、先に述べた1412(応永19)年からの10年間の記録の中で、7回の世阿弥の記録のうち、実に6回までが1418(応永25)年までの6年間に集中し、そこから1424(応永19)年までの4年間ぷっつりと演能記録が消えます。

記録に残らないからと言って活動をしていなかったわけではないでしょうが、寺社祭礼とはいえ、全く姿が見えなくなったというのは、世阿弥が世間の人気を完全に失っていた証左とも言えるでしょう。

かつての観世座であれば、歯牙にもかけないほどの収入しかえられない、醍醐寺清滝宮の楽頭職に、観世座はすがらざるを得ない状況に追い込まれました。

このような世阿弥の人気の凋落には、どのような原因があったのでしょう。

 

世阿弥の目指した能とは

観世座の演能記録が激減する1418(応永25)年、世阿弥は56歳となっていました。

この年は世阿弥の代名詞的な著作である「風姿花伝」をほぼ完成させた時期と重なります。

風姿花伝」は父観阿弥の遺訓を中心にまとめられた書で、内容は具体的かつ実際的なものであり、都市部の目の肥えた観客だけでなく、「田舎、遠国」すなわち畿内近辺以外の、あまり芸術や文化についての教養を持たない人々も、聴衆として重要視する姿勢がみられるものでした。

いわば大衆的なエンターテインメントとしての能楽を、体系的にまとめた書であり、その死の間際まで都市部だけでなく、農村地域を重要視し、あくまで大衆娯楽の担い手であるという軸を外さなかった観阿弥の教えを、くまなく記述したものと言えるでしょう。

風姿花伝」がほぼ完成したこの年、世阿弥は新たな能楽論の著作である「花習」の執筆を始めます。

世阿弥の伝書は「風姿花伝」を含めて20編ほどありますが、そのうちの19編が、この年からの著作であり、演能記録の激減と反比例するように、著作家としての世阿弥の活動は活発化します。

特に「花習」以後の世阿弥の芸論は、「風姿花伝」に比べるて非常に抽象的、またはより細密な技術論となっており、父観阿弥の考えからは離れ、世阿弥の独自性が非常に強い内容となっていきました。

世阿弥の露出が激減するこの時期は、世阿弥の独自性が大いに発露され始めた時期と重なっていると考えてよいかと思います。

では、世阿弥の独自性とはどのようなものであったか。

それは、世阿弥が残した作品と、彼以外の作者が残した作品を対比させると、実に鮮やかに浮かび上がります。

 

世阿弥の代表作といえば、「高砂」、「八島」などでしょうか。

多くの謡曲世阿弥は残していますが、その多くが、神や精霊、そして亡霊など、超自然的な存在を主役とする、いわゆる「夢幻能」でした。

その作風は幽玄美にあふれ、台詞も古今和歌集伊勢物語などの王朝文学から多く引用して、格調高いものとなっています。

また、劇中においては歌や舞踊を重視し、非常に抒情的で、「美」を突き詰める点において、非常に芸術性が高いと評価できるでしょう。

まさに現在我々が一般的に「能」と聞いてイメージするもののすべてが、世阿弥の作品にあると言えるかもしれません。 

 

一方、父観阿弥の作品はというと、説教僧と人買いが、人買いに身売りされた少女をめぐってやり取りを行う「自然居士」や、老いた小野小町卒塔婆に腰かけたことを見咎めた高野僧を論破してしまう「卒塔婆小町」といった、生身の人間ドラマを描いた「現在能」が中心です。

「自然居士」は人買いに身売りされた少女を引き取ろうとする説教僧と、人買いの緊迫したやり取りが、俗語を交えた問答で繰り広げられるもので、当時の日常的な光景を劇的に描いた作品です。

後に世阿弥の能にみられるような、和歌や古典の教養に基づいた修辞などは全く使われず、大衆的で教養の有無に左右されることなく楽しめる内容となっています。

また、「卒塔婆小町」は現在では流儀のベテランしか演じることが許されないことから、大変重厚な演目となっていますが、もともとは小野小町と高野僧の軽妙な問答を、コミカルに演じていたとみられます。

小町が問答の最後に、高野僧に向かって詠む次の和歌からもそれが伺えます。

 

極楽の内ならばこそ悪しからめ、そとはなにかは苦しかるべき

 

「極楽の内なら仏への無礼は控えるべきだが、外だったら無礼には当たらないだろう」という歌ですが、明らかに「そとは」は「卒塔婆」と「外」にかけた洒落で、観阿弥はここで笑いを取りにいったと見えます。

まさに笑いあり涙あり、手に汗握る展開ありという娯楽要素満載の舞台劇が、観阿弥の能であり、これが本来の大和猿楽の本流、「物まね=芝居」に軸を置いた能であったとみられます。

 

観阿弥以外の世阿弥を除いた大和猿楽、宝生座の祖外山(とび)や金剛座の祖金剛も、その題材は「曾我兄弟」や「判官伝説(義経)」を題材とするものが多く、「伊勢物語」「源氏物語」などの王朝文化を題材とするものは見られません。

「曾我兄弟」や「判官伝説」は現在は古典と化していますが、当時の庶民には身近な時代劇であり、やはり観阿弥同様の作品傾向にあったと見てよいでしょう。

 

これら同時代の主流の能から、明らかに世阿弥の指向した能は外れていました。

当時の正統的で「正調」の能と比べれば、明らかに孤立した作風であったといえるでしょう。

 

「花習」以降、世阿弥の芸論には、「田舎、遠国」の語が消え、明らかに一般大衆に対する軽視が見て取れるようになります。

人間ドラマとしての楽しさよりも、歌舞や振る舞いの美しさ、芸術性の高さを重視し、古典の教養を基礎とした修辞を用いて格調を高め、貴人たちの鑑賞に十二分に堪えうる能を目指したと言えるでしょう。

しかし、一方で世阿弥の能は、貴族的な教養を持たない庶民層には理解しがたいものであったと考えられます。

「どこがおもしろいのかよくわからない。」

多くの大衆には、そのように受け取られたかもしれません。

王朝文学など知る由もない当時の大衆に、世阿弥の能の台詞の妙など理解のしようがありません。

そのため世阿弥の能は大衆の支持を急速に失い、都市部でも地方でも、興行が振るわなくなり、興行自体が打てなくなっていったのでしょう。

さらに将軍義持の支持を、田楽の増阿弥に奪われたことから、貴人層への食い込みも、果たせませんでした。

記録の上から世阿弥、観世座の名が激減した理由は、義持から疎まれたことが大きな原因とされていますが、そればかりではなく、世阿弥自身が指向した「夢幻能」が当時の大衆の支持を受けられなかったことも、大きな原因だったのではないでしょうか。

 

こうして苦境に陥った世阿弥でしたが、その苦境をさらに悪化させる人物が、意外なところから出現します。

 

それは実子、元雅とともに手塩にかけて育てた甥、観世三郎元重でした。

 

 

 <参考文献>

世阿弥の生涯とその芸論を概観する世阿弥考察の書としては最適の一冊です。

次回はこちらです。

 

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