大和徒然草子

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異端の天才、世阿弥はなぜ忘れられたのか(2)

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皆さんこんにちは。

 

能の大成者として知られる世阿弥

今や、史上もっとも有名な能楽師の一人である世阿弥が、広く一般に名が知れ渡るようになったのはここ100年余りのことです。

不世出の天才能楽師であった世阿弥は、その死後長らく人々から忘れ去られた存在でした。

なぜ、世阿弥は忘れられたのか、彼の人生から探っていくシリーズの、今回は2回目です。 

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猿楽の歌舞音曲に革新をもたらした観阿弥

大和国結崎を拠点として活躍していた観阿弥の評判は京都にも伝わり、ついに時の最高権力者である足利義満のお気に入りとなって、その後援を受けることに成功します。

猿楽能の第一人者と認められた観阿弥。その長男として生まれた世阿弥は、この時10歳。幼名鬼夜叉を名乗り、その芸と美貌で人々を魅了しました。

京の貴顕に愛された少年期

少年ながら父とともに結崎座の舞台に上がっていたいた鬼夜叉は、その芸の見事さと美貌から、結崎座の舞台を観劇した貴顕の目に留まります。

バサラ大名として名高く、文化人としても一流の批評眼を持っていた佐々木道誉に、芸事の助言を受けたり、前関白で連歌の大成者である二条良基からは直接連歌の手ほどきを受ける機会に恵まれました。

良基と鬼夜叉の初見は鬼夜叉13歳、良基55歳のときです。

鬼夜叉は良基の前で父から仕込まれた芸だけでなく、連歌や蹴鞠など貴族的な教養についても見事な才を発揮したようで、良基は美しいばかりでなく、天才的な芸術の才能を感じさせる少年にすっかり魅了され、藤若の名を与えました。

良基は藤若と初めて出会った日について「1日心が上の空になってしまった。また是非連れてきてほしい」と、当時藤若が在住していた東大寺尊勝院の院主に手紙を送っており、すっかりこの才気あふれる美貌の少年に心奪われてしまった様子がうかがえますね。

当時一流の文化人でもあった良基をうならせるほどの教養を、藤若はどのように身に着けたのか。

それは、前年から藤若を寵愛していた将軍、義満の影響があったと考えるのが自然でしょう。

 

将軍義満は、武家の棟梁に家に生まれながら、幼年の頃から公家の教養を徹底的に叩き込まれた人物でした。

朝廷と距離をとった鎌倉時代武家政権とは違い、足利氏は朝廷権力を丸ごと呑み込むことで、わずかに残った朝廷の権限(例えば京都近辺の徴税権など)すら、完全に取り込むことを指向しました。

それを実現するため、従来の武威(=暴力)はもちろんのこと、文化教養面でも公家たちを圧倒する実力を身に着けるよう養育されたのが義満だったのです。

そんな義満の寵童となったのが鬼夜叉でした。

義満は自分好みの男とするため、高い公家風の教養を鬼夜叉に仕込んだのでしょう。

その成果が早くも一年後に、当代随一の文化人であった良基を唸らせるほどの教養として、少年世阿弥、藤若は発揮するようになっていたのです。

どれほど才能に恵まれようとも、身分的に貴族的な高い教養を、世阿弥が身に着けることは、この時代ほぼ不可能でした。

しかし、義満の寵童となったことが、この不可能を可能としてしまうのです。

 

義満の寵愛と観阿弥の死

さて、義満の藤若への寵愛ぶりがどれほどのものだったのか、それを窺い知れるのが1377(永和3)年の祇園会(現在の祇園祭)の出来事です。

義満は桟敷席を設け、当時16歳の藤若を同席させて見物しました。

この事実を当時の公家、押小路公忠は「かくの如き散楽は乞食の所行なり。しかるに賞翫近仕の条、世以て傾奇の由」と書き残しています。

当時すでに公卿であり最高権力者の義満が、身分的に最下層の少年を、衆目の集まる中、親しく同席させるなど、家格による身分秩序を絶対視する公家、公忠にとっては信じがたい光景だったことが、よく伝わる文章ですね。

また、この文章からもわかるように、当時の猿楽師の地位は極めて低いものでした。

当時の大和国で猿楽師は「七道の者」と呼ばれた漂白する芸能民の一つでした。賤民身分とされ、その中でも声聞師の配下にあり、最下層と見なされた人々だったのです。

「乞食の所行」と蔑視された能楽師の子でありながら、将軍のそばに侍り、さらに藤若に贈り物をすると義満がたいそう喜ぶので、諸大名はこぞって藤若に巨万の贈り物をしたといいます。

 多感な少年時代、将軍義満の傍で過ごした世阿弥は、自ずと都市的で貴族的な教養を身に着け、芸術の嗜好も義満や良基に近いものなっていきます。

それは、世阿弥自身、生涯を通して至高の演者として尊崇した父観阿弥との決定的な違いとなりました。

 

ところで、同時代史料に見える世阿弥の事跡はこのあとしばらく姿を消します。

もっともこの時代、猿楽の演能記録が残ること自体が稀なことであり、貴顕の観劇記録は残っても、そこに出演していた役者の名はほとんど残ることがないため、やむを得ないことでしょう。

世阿弥はその著書「風姿花伝」で、能役者の修行について7歳から開始し、12、3歳、17、8歳、24、5歳と区切って稽古の仕方を述べています。

すなわち、12、3歳は何をしても愛らしい頃で、17、8歳の頃からが声変わりして少年から青年に移行する「第一の正念場」とし、これを乗り切った後の24、5歳を「一期の芸能の定まるはじめ」と、その後の基礎を固める重要な時期としており、父観阿弥の下で修業に励んでいたことと思います。

しかし、芸の基礎を固めるうえで最初の正念場を迎えていた22歳の世阿弥を、突然の不幸が襲いました。

偉大な父、観阿弥が1384(至徳元)年5月、都から遠く離れた駿河国静岡浅間神社で演能した直後急死するのです。

将軍義満の後援を受けるようになってからも、観阿弥は京都ばかりでなく、従来通り遠国の農村や地方都市の庶民向けた公演を続け、その死の直前まで、庶民に愛されるエンターテイナーであったといえるでしょう。

若年で、まだまだ修行の道半ばの世阿弥にとって、最大の師であった父観阿弥の死は、大きな苦労の始まりとなります。

 

父を失った世阿弥は、大和四座で最も古い歴史を誇る円満井座を率いる金春弥三郎の下にいたと、江戸時代にまとめられた「観世福田系図」にあります。

この史料は世阿弥の没後数百年以上も後にまとめられたもので、事実を正確に記しているかは慎重にならざるを得ないものですが、これが事実なら、父を失った世阿弥は、円満井座で修業をしていたことになります。

後に弥三郎の子の金春禅竹は、世阿弥の娘婿となりますが、この時に金春家と縁ができたのかもしれないですね。

円満井座は竹田郷(現奈良県田原本町西竹田)を本拠として、京へ進出後も大和を離れませんでしたが、後年、金春禅竹の代に本格的に京へ進出して、大きな人気を得ることになります。

 

再び世阿弥の名が文献に現れるのは1394(明徳5)年3月、将軍義満が奈良興福寺の一乗院に下向して、「観世三郎」すなわち世阿弥の猿楽を観劇したと「春日御詣記」に見えます。

これが確実な世阿弥の演能記録としては最初のもので、時に世阿弥32歳。

義満は1391(明徳2)年に明徳の乱で有力守護であった山名氏を弱体化させ、1392(明徳3)年に南北朝の合一を果たすなど、この頃までに着々と自身の権力を強めていました。

そして一乗院で世阿弥の舞台を観劇する前年には、義満は将軍職を嫡男義持に譲って太政大臣に任官するなど、権力の絶頂期に向かおうとしていました。

観阿弥の死後、長らく記録から消えていた観世座でしたが、義満の絶対的権力の確立と軌を一にして再び座の勢いを盛り返していきます。

 

京への再進出

 1399(応永6)年4月、醍醐三宝院で世阿弥は猿楽を興行し、記録上は久々の京都近郊での演能をはたします。

これに続き、5月にも山科の一条竹鼻で猿楽を興行して、京都近郊での活動を活発化させました。

世阿弥はこの年、37歳。

風姿花伝」の「年来稽古条々」において「此比の能、盛りの極め」「天下の名望を得べき年」とする、35、6歳を超えた頃で、まさに役者として、最も脂の乗り切った時期を迎えていました。

ちなみに義満から世阿弥の名を与えられたのもこの頃とされています。

そして翌1400(応永7)年4月には、世界最古の演劇論ともいわれる「風姿花伝」の「年来稽古条々」、「物学(ものまね)条々」、「問答条々」の三篇を書き上げます。

長男元雅がちょうどこの頃、7歳くらいになっていたとみられることから、稽古を始めるにあたって、父観阿弥からの教えや自らの知見を記しておこうと考えたのでしょう。

この発想自体が、当時の猿楽師としては非常に特異なもので、幼い頃に身に着けた文化的素養のなせる業であったのかもしれませんね。

風姿花伝」は世阿弥が残した21種の伝書の最初の作品となります。

全七編からなり、第五編の「奥義」までは、父観阿弥から受けた教えを祖述することに専念していましたが、第六、第七編に至るころには、世阿弥独自の能楽論が展開されていくことになります。

 

ところで、世阿弥といえば義満の寵愛を一身に受けたイメージがあるものの、義満が観劇した猿楽興行の演者として世阿弥の名が史料に登場することは実のところほとんどありません。

ほぼ確実に世阿弥の舞台を観劇したであろうと史料上見えるのは、実のところ1399年の山科での興行くらいなのです。

義満が猿楽を愛好していたのは史料上も明らかですが、演者の名が記されることは稀で、1408(応永15)年、後小松天皇を北山第に招いて盛大に催された宴でも猿楽能が演じられ、おそらく世阿弥も出演していたものと思われますが、この時の演者で記録に残っているのは、近江猿楽の名手で最長老格の犬王道阿弥だけです。

このことから、当時義満の寵愛は世阿弥から道阿弥に移っていたとみる向きもありますが、この当時の記録に猿楽の演者の名が残ること自体が稀なことだったかが伺えます。

社会的地位がやはり低く、記録に残りづらかったのでしょう。

 

そしてこの年、1408年は世阿弥にとって父の死に次ぐ人生のターニングポイントとなりました。

朝廷内で、上皇法皇にしか認められない先例を適用されるなど、権力も権威も絶頂にあった義満が51歳で急死してしまうのです。

 

<参考文献>


「異端者」世阿弥の業績と人生を鮮やかに描き出す一冊です。

次回はこちらです。

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