大和徒然草子

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異端の天才、世阿弥はなぜ忘れられたのか(4)

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皆さんこんにちは。

 

能の大成者世阿弥は、その晩年から死後、20世紀初頭まで一般には忘れ去られた存在でした。

現在では史上最も有名な能楽師の一人である世阿弥はなぜ忘れられたのか、彼の人生から追っていくシリーズの今回4回目です。 

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高い芸術性を追い求めるうちに、大衆性を失っていった世阿弥の能は、一般大衆の支持を失い、都市部での人気を他の猿楽一座や田楽一座に奪われていきます。

また貴人層でも、義満没後、その後継者義持の贔屓が田楽の増阿弥に移り、世阿弥は興行的には大きな苦境に陥りました。

そして、彼の人生最大の苦境をもたらす人物が、意外なことに身内から出現するのです。

 

二つの観世座

世阿弥が興行的に苦境に陥る応永20年代(西暦では1413年からの10年間)、父、観阿弥から観世座を引き継いですでに30年がたち、世阿弥もそろそろ次代に第一線の座を継がせる時期に来ていました。

当時、観世座で世阿弥の後継者と目された人物は2人いました。

一人は、世阿弥の実子、元雅

そしてもう一人は、世阿弥の弟、四郎の子である元重、後の音阿弥です。

世阿弥の弟、四郎は、ほとんどその来歴が伝わらない人物ですが、世阿弥から「風姿花伝」を相伝されたことが分かっており、近年では兄を「脇之仕手」、太夫の代役を務められる観世座のナンバー2として支えた人物と考えられています。

その子、元重は、元服に際して観世太夫(=観世座の座長)の通称である「三郎」を名乗っていることから、一時は世阿弥も元重を後継者にと考えるほどの才を発揮していたと考えられます。

元重の演能記録が最初に現れるのは元雅より早く、1422(応永29)年、醍醐寺清滝宮で、世阿弥の指導を受けながら奉納猿楽に勤仕し、その舞台を「神妙」と評され、後に「当代一」の名優となる片鱗を示しています。

 

この両者のうち、誰に観世座を継がせるか。

1422(応永29)年、出家した世阿弥が、次代の観世太夫として選んだのは、実子元雅でした。

元雅の生年には諸説あり、従兄弟である元重とどちらが年長であったかが確定しておらず、元雅のほうが年下であった説をとって、当初子のいない世阿弥は、弟の子、元重を養子として後継者にしようと考えたが、後に実子元雅が生まれたため、元雅に跡を継がせたとする説もあります。

世阿弥の後継者選定の真相は不明ですが、世阿弥は元雅が実子であることだけでなく、その能力を、元重と比べてより大きく買っていたこともあったのだと思います。

パフォーマーとしての才は、元雅、元重ともに並外れた技量を持っていたようですが、元雅は自ら新作の能を作る能力に長け、時に父と舞台の演出を巡って争論するなど独自の芸論を持ち、世阿弥は演技者としてだけでなく、その創造性や発想力について実子元雅を大きく買っていたのでしょう。

 一方の元重は、現在まで彼の作とされる能や、芸論の類は一つも残されておらず、新作能の創作や、自身の芸術論を著述する面で力を発揮した形跡はありません。

理論家で芸術家肌の世阿弥には、いささか物足りなく映ったのかもしれません。

 

世阿弥から後継指名されなかった元重は、伯父の世阿弥、従兄弟、元雅と協力関係は維持しながら、父、四郎とともに半ば独立した活動を始めていきます。

特に元重の運命を大きく変えたのは、天台座主であった義満の子、義円との出会いでした。

元重を気に入った義円の後援により、1427(応永34)年には猿楽勧進を成功させるなど、その関係は次第に強固なものになっていきます。

義円が就いていた天台座主比叡山の最高位であり、当時の比叡山といえば配下の祇園社が、鴨川の東側に広大な領地を持っていた他、琵琶湖の海上交通を抑えるなど、経済力だけでなく大きな世俗権力も握っていました。

元重が義円に近づいたのは、比叡山の勢力圏で、独自に安定した興行を打てることを目指したのかもしれませんね。

 

1425(応永32)年に5代将軍義量が急死し、将軍空位のまま1428(応永35)年に4代将軍であった義持も後継者を決めずに世を去ると、「石清水八幡宮での籤引き」という前代未聞の方法で、次代の将軍が選ばれることになりました。

この籤引きで選ばれたのが義円、後に「万人恐怖」と呼ばれる恐怖政治を行う6代将軍義教でした。

義教が次代将軍と確定すると、かねてより贔屓としていた元重の活動が俄然活発化します。

義教の還俗間もない1428(正長元)年の4月と5月に、元重は相次いで室町御所で演能を行い、翌年1月には仙洞御所で後小松上皇、義教臨席の大舞台に立ちました。

この室町御所での演能で元重が得た収入は500貫と、途方もない巨額の報酬を受けます。

同じ時期、世阿弥、元雅が清滝宮祭礼で得ていた収入は50貫であり、収益面でも元重は伯父と従兄弟を圧倒します。

そして1429(正長2)年、室町御所で行われた多武峰様猿楽において、観世太夫元雅と元重の共演を記した史料には、ついに「観世太夫両座」と記されました。

ここに至って世阿弥、元雅父子の観世座本家とは独立した、もう一つの観世座を四郎、元重父子が打ち立てていたことがうかがえます。

観世座の名は、もう世阿弥父子だけのものではなくなっていたのです。

 

孤高の世界へ

甥の元重が、将軍義教の後援を受けて大きく飛躍したころ、世阿弥はすでに67歳を超え、舞台の第一線からは離れて、自身の能楽論の著述や、それに基づく新作能の創作に傾注していきました。

1418(応永25)年に「風姿花伝」に続く能楽論である「花習」の著述開始を皮切りとして、独自の能楽論を深化させていきます。

世阿弥能楽論で「風姿花伝」から「花習」以後で大きく変化している点は大きく2点あります。

第一は「演能の基本とすべき人物」を、女、老人、直面(ひためん、面をつけずに演じる現実の男性)、物狂、法師、修羅、神、鬼、唐事の九体から、「老体」「女体」「軍体」の三体に絞り込んだことです。

この三体さえ習得すれば、神能は「老体」、優雅な人物は「女体」、躍動的な修羅、鬼などは「軍体」の応用で事足りるというわけです。

本来、大和猿楽の最大の特徴である「物まね」を否定し、個々の具体的な役の演技から稽古に入ることを戒めました。

風姿花伝」において一章を割いて説いた「あらゆる物まね」を、完全に捨て去るのです。

写実(=物まね)ではなく、モノの本質を三体に絞り込むことで、世阿弥の能は様式化され、人の本質を描き切ることで普遍性を獲得しました。

これが、古典として現在に伝えられるに至った大きな要因であったのは事実でしょう。

しかし、この写実から写意へという、極めて高度な人間描写は、おそらく当時の聴衆にはほとんど響かなかったのではないでしょうか。

また、世阿弥の作品では対応できる理論であったとしても、物まね芸を得意とする他の大和猿楽の当時の演目すべてに適用できたかは非常に疑問で、世阿弥の孤立化を、大きくした点かと思います。

 

さすがに三体だけでは対応しきれないと世阿弥も考えたからか、当時聴衆から大きな人気のあった「物狂」と、民俗的伝統に根差した「鬼」については、後に三体に追加しました。

しかし、「鬼」については、形は鬼でも心は人という「砕動風鬼」、すなわち人の執心が凝り固まって鬼と化したものしか認めず、心も形も鬼である「力動風鬼」については「当流には然るべからず」と、世阿弥はバッサリと切り捨てます。

世阿弥の流儀では「鬼滅の刃」の鬼たちは登場人物たりえるが、心を持たない「バイオハザード」のゾンビたちは、芝居では扱えないってことかと思います。

世阿弥の先鋭ぶりがうかがえる考えといえるでしょう。

 

大きな変化の第二が、能の理想美が「花」から「幽玄」へ移ったことです。

 世阿弥の「幽玄」という語の使い方は時期によって揺らぎもあるのですが、花から幽玄への変化は、概ね、外相的な美から内相的な美へ、現実的なものから古典的なものへ、観客に向けた能から、自己の内面に向かう能ということでとらえられると思います。

型をまねること生まれる美ではなく、内面の心持から生まれる美であり、写実的な現在能から、夢幻能への方向転換を決定づけたものとなりました。

見た目の美しさ、楽しさではなく、演者の内面的表現を重要視する世阿弥の姿勢は、本来重視すべき観客を、いっそう置き去りにしていくことになります。

風姿花伝」のころには「愚かなる輩、遠国田舎の賤しき眼」と書きつつも、そのような人々にも楽しんでもらうことを重視した、父観阿弥の教えを引き継ぎ、一応の配慮はありました。

しかし、「花習」以後の世阿弥にこの姿勢は見られません。

その著書「花鏡」のなかで、あまり動きもなく、話の筋も面白くない演目でも、最高の名手がそこはかとなく醸し出す「地味」な美しさや面白みは「とかく、目の低い田舎目利き」にはわからないと、バッサリと切り捨ててしまいます。

それどころか、同じ文中でこのような美や面白さは、相当の鑑賞家であってもわからないものだとまで言います。

教養のない一般聴衆だけでなく、公家や将軍、大名すら理解できないものを最高の美とする。

意識しているのかしていないのか、ここまでくると美しいものは、世阿弥がそう思うものだけになってしまいますね。

すでに世阿弥の美は、観客を魅了するための美ではなく、自らが美しいものと思う美になっていたのでしょう。

ここに至って、世阿弥は、エンターテイナーではなく、孤高の芸術家と化したといえるかもしれません。

風姿花伝」で「そもそも芸能とは、諸人の心を和げて、上下の感をなさむ事、寿福増長の基、遐齢(長寿)延年の法なるべし。」「この芸とは、衆人愛敬(大勢の人に愛され尊重される)をもて、一座建立の寿福とせり」と説いた世阿弥の姿は、もうありませんでした。

 

「寿福増長」「衆人愛敬」を捨てた世阿弥の芸論が、先鋭化していくと同時に、世阿弥の孤立もますます深まっていくのです。

 

世阿弥の後継者たち

さて、世阿弥の薫陶を受けた次世代の能楽師として、長男の元雅、次男元能そして甥の元重の他に、もう一人重要な人物がいます。

大和最古の猿楽集団である円満井座の流れをくむ、金春座の若きプリンス、金春氏信、後に金春流中興の祖となる金春禅竹です。

禅竹の妻は世阿弥の娘でした。

世阿弥は若き日に金春座で修行した伝承もあり、娘を金春座の跡取りに嫁がせたのは、その縁もあったのかもしれません。

当時、各地の猿楽座がこぞって京都進出を図る中、金春座は本拠の大和国竹田(現奈良県田原本町)にとどまっていました。

他の座に比べるとやや出遅れた感がありますが、若き禅竹は都で若年のころから活躍した岳父、世阿弥に師事して、都人にも通用する芸を磨こうと励みます。

世阿弥も、才能あふれる娘婿に大いに期待したのか、1428(応永35、正長元)年、「六義」「拾玉得花」といった芸論を、当時24歳の禅竹に相次いで相伝しました。

禅竹は義兄弟となる元雅から、家中の秘伝書である「花鏡」の閲覧を許されるなど、ほぼ身内同然の扱いを受けていたといえるでしょう。

 

さて、世阿弥が禅竹に自身の芸論を相伝した翌年、1429(正長2)年、室町御所で多武峰様猿楽が催されます。

世阿弥父子と甥の元重が共演し、「観世太夫両座」と記録された公演です。

この公演の10日後、世阿弥父子は将軍義教によって、突如仙洞御所への立ち入りを禁じられました。

理由は、先の多武峰様猿楽における元雅の評判が非常に高く、元重を贔屓とする義教の不興を買ったとか、後小松院が「観世の芸を見たい」と言ったのを、義教は元重の芸を見たいと解したが、実は院の目当ては世阿弥父子だったと知って、激怒したとか推察はいろいろありますが、真相は不明です。

しかし、この多武峰様猿楽の後、義教による露骨な迫害が世阿弥父子を襲ったようで、翌年2月の興福寺薪能、4月の醍醐寺清滝宮の猿楽能から世阿弥父子は締め出され、替わってすべて元重が舞台を務めています。

仙洞御所での演能もすべて元重の一座が担うようになり、やがて「観世」といえば注釈なしでも元重を指すようになりました。

 

事実上、京都や奈良といった都市部での活躍の場を奪われた世阿弥父子の一座。

このような状況を悲観したのか、1430(永享2)年11月、次男元能が突如として出家遁世して観世座を去ります。

この時、元能が決して父世阿弥の教えを疎かにしていたわけではない証明として遺したのが、「申楽談儀」です。

申楽談儀」は世阿弥晩年の芸論を口述筆記し、同時代の能楽師たちの芸風や論評、逸話や作能に至るまで広範囲に具体的に記述された書で、能楽史料としては現在第一級とされるものです。

元能の能楽師としての活躍は、史料上明らかではありませんが、世阿弥から作能方法について記した「三道」を譲られたことや、「申楽談儀」を著すほどの知識、見識をもっていたことから、ひとかどの人物であったことがうかがえ、観世座にとっても大きな損失だったことでしょう。

同じ月、観世太夫元雅は、天河社(現奈良県天川村)を訪れ、「唐船」を舞い心中祈願の能を奉納しています。

頼りにしていた弟が去り、わが身と観世座の苦境を何とか乗り越えたい思いがあったのかもしれません。

このとき奉納した尉面は現在も天河神社に残されており、国の重要文化財に指定されています。

 

しかしこの2年後、元雅は伊勢安濃津で巡業中に、急死してしまうのです。

まだ30代の壮年で、早すぎる死でした。

元雅は父世阿弥から「子ながらも、類なき達人」「祖父にも越えたる堪能」と評価された人物で、父である観阿弥を絶対視した世阿弥が、その父に比肩すると評価したことは、最大級の賛辞であることを示しています。

若年ながら、「隅田川」「弱法師」「重衡」他、現在まで伝わる作品を創作するなど、作能の才にも恵まれ、作風は現在能的傾向が強く、父よりも祖父観阿弥に近い芸風の能楽師であったと思われます。

祖父観阿弥のドラマティックな展開と、父世阿弥の幽玄性、抒情性を併せ持つ、極めて優れた能楽師だったのです。

この前途有望な跡取りを、突然失ったことは、世阿弥にとって人生最大の不幸だったといえるでしょう。

 

しかし、次男に去られ、もっともその才を愛した長男を喪った世阿弥の苦難は、これで終わりではありませんでした。

 

<参考文献>

世阿弥の生涯とその芸論を概観する世阿弥考察の書としては最適の一冊です。

 次回はこちらです。

 

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