皆さんこんにちは。
以前洞泉寺、東岡町の旧遊郭跡をご紹介しました。
今回は旧洞泉寺遊郭に残されている遊郭建築、旧川本家こと町屋物語館をご紹介します。
かつての遊郭建築は全国にいくつか残っていますが、ここは内部を見学できる非常に貴重な施設です。
町屋物語館の場所はこちら。
外観
国の有形登録文化財「川本家住宅」は、大正時代に建てられた、この当時としては珍しい木造三階建ての遊郭建築です。
本館は写真に収まりきらないくらいに大きく立派な建物です。
1922(大正11)年に納屋と蔵が、1924(大正13)年に本館と座敷棟が建てられました。
1924(大正13)年ということは「甲子の年」。本館は甲子園球場と同い年ということになります。
すでに建築されて100年ほどたちますが、非常に良好に残っています。
南側にハート形の窓。
これは猪目(いのめ)という意匠で、神社や寺院にも多用されています。
魔除けや火除け、仏教では「悟りの象徴」という意味付けがあるようですが、意匠としての面白みからも採用されたんじゃないでしょうか。
こちらが入り口です。
開館時間は9時~17時(入館は16時30分まで)。入館は無料です。
休刊日は月曜日(祝日の場合は開館し、翌平日が休館)・祝日の翌日・年末年始になります。
一階
入り口を入って玄関です。
玄関の奥に協力金の箱が置かれています。
町屋物語館は大和郡山市が運営していますが、貴重な文化財を維持していくため私も寸志ではありますが協力させていただきました。
奥に入るとボランティアのスタッフさんがいらっしゃって、丁寧に施設の説明や案内をしていただけます。
なお、写真の奥の部屋は当時の受付の部屋でした。
料金表も残されていて飲食料金と花代(遊び代)も確認できます。
昭和5年刊行の「全国遊廓案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション」の洞泉寺遊郭の項を確認すると、時間ごとの花代がほぼ一致。ちょっと感動しました。
こちらの施設はいわゆる「貸座敷」で、遊女と遊ぶだけでなく、飲食も行うことができました。
現代的感覚でこういったお店で飲食、宴会というのは少し考え難いですが、戦前までは飲食と遊興が未分化であったことの一例といえるでしょう。
関西の花街の特徴でもありますが、料理は「仕出し屋」、芸、娼妓は「置屋」、遊興の場は「茶屋」、「貸座敷」とそれぞれ完全分業で、洞泉寺遊郭も例にもれずこの形式でした。
今でも京都の祇園などはこの形ですね。
玄関では金魚がお出迎え。このあたりは大和郡山の施設ならではです。
玄関を入って右手のお部屋。客引きの控室でした。
ちなみにこちらのお店は、遊ぶ女性を写真で選ぶ形式でした。
明治のころから日本の「廃娼運動」は主にキリスト教の立場から人権擁護活動として始まりますが、そのような人権意識の向上もあり、遊女が軒先に並ぶ「張見世」は大正のころには非常に少なくなっていたようです。
「川本楼」の名前が入った法被です。
こちらのお店の屋号ですね。
従業員が着用していたものでしょう。
こちらは受付の室内です。
ここで遊客に料金の説明など案内をしていたようです。
受付にある玄関方向のガラス障子。
すりガラスですが、猪目状に透明の箇所があります。
ここからお客さんが入ってきたのを確認していたとのこと。
二階へ通じる階段です。
二階、三階が遊客が遊女と遊ぶエリアになります。
上った先にある丸い窓がおしゃれですね。随所に数寄屋風の意匠が施されてるのも、こちらの施設の大きな見どころです。
二階
先ほどの階段を上がると遊客はこの広いお部屋に通されます。
ここはいわゆる待合室で、遊女と遊客はこの部屋で落ち合って、個室へと向かったそうです。
客室の並ぶ廊下です。
客室は2階に7部屋、3階に9部屋ありました。
各部屋の入り口の上はかまぼこ状にくり貫かれています。
この窓は「かまぼこ窓」といって、部屋の中で客が悪さをしたりしても遊女が助けを求められるようになっていたとのこと。
完全な密室にならないのは日本家屋ならではですが、音が漏れるのは落ち着かない感じもします。
昔の日本家屋や長屋などは遮音性がそもそも低いので、「音」に対する感覚は現代人ほど敏感ではなかったのかもしれません。※要するに聞こえてもさほど気にならない。
ちなみに江戸時代の有名な滑稽本、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で主人公たちが宿場の旅籠で飯盛女(宿場にいた私娼)と遊ぶ場面が出てきますが、雑魚寝の部屋で遊んでます。
これ、作り話ではなく、当時の旅籠では当たり前であったそうです。
当時雑魚寝の部屋は隣で寝る客とは衝立で仕切ってるだけなのですが、そんな部屋で遊女と遊ぶというのは、やはり現代人の感覚ではありえないのですが、昔の日本人は見えるのは恥ずかしいが、音はあまり気にしなかったということでしょう。
もっとも旅籠の場合、「旅の恥はかき捨て」というところもあったかもしれませんが。
こちらがお部屋の中です。
洞泉寺遊郭は明治から終戦までは公許の遊郭として、1946(昭和21)年にGHQにより公娼廃止指令が出された後は「特殊飲食店」街、いわゆる「赤線」となります。
GHQの公娼廃止指令は一連の民主化改革の一環で、女性を「前借金」で奴隷的に拘束する、事実上の人身売買を禁止しようとするものでした。
公娼の問題というのはやはり本質的に人権問題なのです。
戦後、女性にも参政権が認められて女性議員が生まれると1948(昭和23)年の売春等処罰法案を皮切りに、売春行為の違法化、罰則化を求める法案が相次いで審議されます。
このあたり、やはり女性が国政の場に参画するようになったことが、女性に対する人権意識の向上、人権擁護の拡大に大きな意味を持ったと思います。
幾度も提出された法案は多数決でことごとく否決され、なかなか成立しませんでしたが、徐々に議論も熟し、国民意識も変化していったのか賛成票を増やし、第22回国会ではあと一歩で可決というところまできました。
1955(昭和30)年には最高裁で酌婦業務契約を前提とした前借金計画は公序良俗違反で無効という画期的な判例変更が行われます。
売春を容認しない世論が着実に形成されていきました。
日本人自らがもう旧態依然とした遊郭も遊女もやめにするべきだろうと考えるようになったわけです。
1956(昭和31)年、当初売春防止法には慎重だった自民党が、女性票の取り込みを狙って一転賛成に回り、売春防止法が成立、1957年施行されます。
1958(昭和33)年売春防止法施行後の猶予期間満了に伴って洞泉寺遊郭の遊郭としての歴史は幕を閉じます。
各地の赤線地域の貸座敷は、旅館、飲食店、下宿屋などに転廃業しましたが、こちらのお店は下宿屋に転業し、当時の客室はそのまま下宿部屋となったのでした。
遊郭建築はシンプルに数寄屋造りの意匠を楽しめるばかりではなく、いろいろなことに思いを馳せられる建築ですね。
少し長くなってしまいましたので、三階やその他のお部屋など次回にご紹介したいと思います。
参考文献
男女の逢引、逢瀬の場所が時代によりどのように変化していったのかが主題の本ですが、待合などいわゆる「くろうと」との遊興の場所についても詳しく記されています。
遊興文化の変遷についても多くの示唆を与えてくれる一冊となっており、語り継がれることの少ない貴重な男女の社会風俗近現代史について、膨大な当時の記事や小説を史料として詳しく記された本です。
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