大和徒然草子

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筒井順慶(4)信長の上洛で窮地に陥った順慶、逼塞からの反転攻勢。大和の覇権を決める決戦から信長への臣従。

宿敵松永久秀を打倒まであと一歩というところまで追い詰めた筒井順慶。 

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しかし、織田信長上洛によって畿内の情勢は一変し、順慶は一転して窮地に追い詰められます。

先の見えない久秀との戦いを強いられる順慶のその後を今回はご紹介します。

 

福住逼塞からの反転攻勢

 

1568年、織田信長は順慶にとってまさに恐怖の大王となりました。

筒井城を失った直後、信長は久秀との約束通り、2万の大軍を大和に送り込みます。

信長の援軍と合流した久秀は大和を席捲し、筒井方の拠点を次々と陥落させました。
防戦一方の順慶はこの間、東山中の福住(天理市)に逼塞せざるを得ない状況となります。


順慶の没落を尻目に1570年7月には、久秀が大和で大規模な知行割りを行うなど、久秀の大和支配はこの頃最盛期を迎えます。

福住でじっと我慢の順慶なのですが、虎視眈々と反撃の機会をうかがっていたことでしょう。

久秀の大和支配は順調かと思われましたが、同年1570年の久秀は越前朝倉攻めやそれに続く近江浅井氏の討伐戦といった一連の信長の軍事行動への参加を頻繁に要求され、大和に軍事的空白が生まれてきました。

1570年は信長にすると浅井、朝倉、本願寺三好三人衆らの包囲を受け、非常に厳しい状況で、久秀は信長への奉仕に忙殺されることになっていたのです。

そのような状況をみた順慶は同年7月、久秀方で前年当主が死亡した後に家中が筒井派と松永派に割れて内訌が生じていた十市氏の十市城に調略をしかけます。

ちなみにこの調略を同時代の一次史料である多聞院日記には「昨夜十城ヘ、沙汰トシテ可有引入通ノ處顯現了ト云々」とあり、調略を仕掛けたのはのちに石田三成重臣として名をはせる「嶋左近」ではないかという説もあります。

 

実際に嶋左近かどうかは不明ですが、いろいろ書籍やサイトをあたっていますが嶋氏の人間が筒井の家臣で登場するのはこれが初見ではないでしょうか。

この「嶋」による調略は結局不調に終わったものの、のちに順慶は久秀が河内方面に出兵している隙をついて十市城に入って反撃の拠点とすることに成功し、順慶は再び歴史の表舞台に帰ってきます。

少し上げ潮気味になってきた順慶。

そんな順慶に近づいてきた人物がおりました。

時の将軍足利義昭です。

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足利義昭坐像(等持院蔵)

翌年1571年、足利義昭はにわかに順慶に接近して摂関家である九条家の娘を養女として順慶に嫁がせました。

上洛したときは順慶の服属を許さなかった義昭でしたが、当時義昭は松永久秀との関係がぎくしゃくしており、久秀をけん制するため義昭は順慶に近づいたとみられます。

久秀の対抗勢力として順慶の実力を買ったとも言えますね。

ちなみに順慶、この結婚は実は2度目。
ちなみに最初の妻とされるのは1558年、遊佐長教の娘に「婿入り」していたというもの。

当時後見の叔父順政が主導した政略結婚で、当時順慶は数えで10歳。

ほとんど夫婦としての実態はなかったと思われますが、初婚の相手がその後どうなったかは全く記録にありません。

この婚姻は将軍の娘を娶るということで、順慶の権威向上に大きく寄与したのか、大和国内でも久秀から離れて順慶に味方する国人が徐々に増えていきます。

久秀にすれば「そりゃないだろ!」という思いだったでしょう。

 

辰市城の戦い

 

7月、勢力を盛り返してきた順慶は再び久秀の居城多聞山城を攻略すべく、現在の奈良市南郊の辰市村に城攻め用の向城を家臣の井戸良弘に建設させます。

突貫工事であったらしく、規模も小規模な要害であったと思われます。

これが辰市城で、主郭は現在の奈良市東九条町、旧辰市幼稚園近辺と推定されています。

辰市城の位置は久秀の拠点である、多聞山城と筒井城を結ぶ線上にあり、前述の2城と信貴山城を合わせた久秀方の拠点ネットワークに楔を打ち込むものでした。

久秀は辰市城の築城を受けて8月に三好義継や息子久通と合流、自ら出兵して辰市城を攻撃しました。

これが、戦国期における大和最大規模の合戦、「辰市城の戦い」です。

★辰市城主郭推定地付近(Googleストリートビューより)右手奥に旧辰市幼稚園があり、主郭であったとみられる。現在は農地と宅地が広がり当時の遺構は見られない。

この合戦、とても知名度は低いですが、戦国大和の天王山ともいえる戦いとなり、その結果は順慶と久秀の命運を完全に分けけることになります。

参戦メンバーの知名度はなかなか高いです。

辰市城も攻め寄せる久秀方には、柳生石舟斎とその嫡男厳勝(剣豪柳生兵庫介の父)の姿があり、江戸時代に書かれた二次史料にはなるのですが、嶋左近や松倉右近も参戦していたとされます。

この戦いは大激戦となり、城に攻め寄せる久秀の軍に、大和各地から出陣した後詰の部隊が攻撃を仕掛け、久秀は大敗を喫します

 

多聞院日記によれば、この戦いで久秀は大和侵入以来もっとも多くの将兵を失なったといいます。

また、柳生石舟斎の嫡男であった厳勝はこの戦いで大けがを負い以後柳生の里に逼塞することになります。

久秀はこの戦いで多くの兵と有力な大将を失って信貴山城に退散し、多聞山城は維持したものの筒井城は放棄せざるを得ませんでした。


ここに順慶は23歳にして再度筒井城を奪回し、大和の覇者への足掛かりをつかみます。

本拠を奪回した順慶は、すぐさま次の行動に移ります。

 

信長への臣従

 

1571年10月、順慶は信長に恭順の意を示し、信長もこれを受け入れました。

当時の信長の状況を少し見てみましょう。

前年1570年は浅井朝倉両氏との抗争、石山合戦、伊勢長島一向一揆の開始、阿波からの三好氏の侵攻など第一次信長包囲網とも呼ばれる四面楚歌の状況で人生最大の苦境に立たされていましたが、年末には正親町天皇の勅命などにより各勢力と和睦を結んで危機的状況からは脱しました。

1571年になると各個撃破を開始。

浅井氏配下の佐和山城を調略で味方に引き入れたり、浅井、朝倉に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにしたりと勢いを取り戻しつつありました。

信長から見ればようやく反転攻勢に出ようというときで、味方は一人でも多いほうが良いという状況です。

1568年信長上洛のときには出遅れて孤立した順慶ですが、この時は時機を見逃さず、辰市合戦の勝利を手土産に自分を高く売りこもうとしたといえるでしょう。

このとき、順慶を信長に斡旋したのが明智光秀でした。

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明智光秀像(本徳寺蔵)順慶を信長に取り次ぎ、以後順慶とは親密な関係を築く。2020年大河ドラマ麒麟がくる」の主人公。

信長への臣従をきっかけに、同年11月には宿敵久秀と和睦します。

これまでに紆余曲折のあった二人なので、内心は互い複雑な感情もあったでしょうが、ここは大人の対応ですね。

 

上昇ムードの順慶とは対照的に、辰市城の戦い以降、下降線の久秀。

信長への不満を急速に高めていきます。

1568年~1570年にかけて、対浅井朝倉、摂津の攻略など、久秀は信長に献身的に奉仕し、第一次信長包囲網下においては和睦交渉に奔走して信長の窮地を救うなど大きな功績をあげています。

 

しかし、西へ東へ奔走した挙句にその報いは薄く、本拠大和の支配地を順慶に奪回されたうえ、その順慶と和睦させられ、内心「やってられない」と思うのも無理はないところかもしれません。

また、信長の人使いの荒さにも辟易としていたことは想像にかたくありません。

信長の同盟者というのは大変です。

こき使うだけこき使って報いることは少ないのです。

浅井も裏切りましたし、松永久秀、のちには荒木村重なども裏切って、最後まで信長を裏切らなかったのは徳川家康くらいではないでしょうか。 

 

1572年、信長への不満を高めていた足利義昭に通じて、久秀は第二次信長包囲網に参加。三好義継、三好三人衆らとともに信長へ反旗を翻します。

 

同年、甲斐の武田信玄が徳川領に攻め込み、西上の動きを見せたことも久秀の挙兵を後押ししました。

同年12月には三方ヶ原で織田・徳川連合軍が信玄に大敗を喫し、これを受けて、翌1573年1月には将軍義昭が京都二条城で挙兵します。

これには信長も少しは慌てたのではないでしょうか。

 

ところが、頼みとしていた信玄が同年4月に陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き返してしまいます。

これで事態は一変し、信長は包囲網を各個撃破していきます。

・7月、足利義昭を追放

・8月、淀城で三好三人衆岩成友通が討ち死、朝倉氏、浅井氏が滅亡

・11月、若江城で三好義継自害(三好家嫡流断絶)

この一連の動きの中で、順慶は織田方として松永方の私部城(大阪府交野市)を攻撃、陥落させています。

 

畿内の同盟勢力を次々と失い完全に孤立した久秀は、多聞山城を包囲され、ついに進退窮まり多聞山城を開城のうえ降伏しました。

 

降伏後、信長への帰参を許された久秀。

ですが、この後は佐久間信盛の与力とされ石山合戦に従軍しますが、目立つ働きはなくなります。

これまでは大名格だったのがずいぶんな格下げで、モチベーションも上がらなかったのかもしれません。

 

対照的に順慶は大和随一の実力者として織田政権内でのし上がっていきます。

1574年1月、順慶は岐阜城で初めて信長に謁見、3月には母親を人質に差し出して正式に織田家中に加入しました。

このあと、順慶は織田家中で活躍していくことになりますが、それは次回にお話ししようと思います。

 

最後に、筒井順慶関係の書籍をご紹介します。

こちらの書籍ですが一次資料に基づいて順慶の実像に迫った興味深い一冊になっています。

多聞院日記などの一次資料から丹念に事実を取り上げた良書で、このブログの記事でも参考にしています。

 

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