皆さんこんにちは。
前回は旧筒井家重臣で、五條新町や肥前島原城築城で知られる松倉重政の事跡を中心にご紹介しました。
暴君として悪名高い松倉重政ですが、重政が発展の礎を築いた五條新町は、江戸時代初期から現在まで生活の息吹が続く、ノスタルジックな町並みが名高いスポットとして知られます。
今回は五條新町を中心に、見所のスポットやエピソードをご紹介します。
五條新町とは
江戸から昭和初期にかけての町屋が、旧紀州街道(伊勢街道)である新町通り沿いに立ち並ぶ五條新町は、伝統的建造物群保存地区に指定され、旧街道の町並みが残るエリアとして、広く知られています。
ところで現在、五條新町で一つの町の名を示すように呼ばれていますが、実は五條と新町はルーツが異なる別の町であったことをご存知でしょうか。
五條は、奈良、和歌山、河内長野、そして十津川へ通じる街道の結節点として、中世から町場として発展しました。
この五條の南西にある二見村に1608(慶長13)年に松倉重政が城を築くと、重政はすでに町場として発展していた五條と、二見村の間に紀州街道を付け替え、通り沿いに新町を新たに造成して五條と一体化した城下町を形成しました。
重政は新町に諸役御免、税金免除の特権を与えて商人たちを呼び寄せ、積極的な商業振興策を行い、新町は町場として急速に発展します。
1616(元和2)年に重政が肥前日野江へ転封になると、二見城は廃城になりました。
しかし、城下町であった新町は商業を基盤とした宿駅として江戸期を通じて栄え、五條は1632(寛永9)年に郡山藩による伝馬所が置かれ、1795(寛政7)年には幕府の五條代官所が置かれるなど、南大和の流通、経済そして政治の中心地となりました。
そして現在も五條は奈良県南部の中心都市であり、五條新町には江戸初期から令和に至るまで400年以上営まれ続けた町並みが遺され、また現在も市民の生活の場所として生き続けているのです。
五新線新町高架橋
一般的には五條新町の紹介は、町の東側にある国道168号線に面した新町口から始めることが多いかもしれませんが、今回町の西側にあった二見城から散策を開始しましたので、町の西側から見ていきたいと思います。
町の西部を流れる寿命川の東岸に、コンクリート製の高架橋が見えてきます。
こちらは幻の鉄道路線となった五新線(五新鉄道)の新町高架橋跡です。
新町高架橋は、1941(昭和16)年に竣工した連続アーチが美しいですね。
五新線は旧国鉄が1922(大正11)年に、奈良県の五条駅から吉野山地を縦断して和歌山県の新宮駅に至る鉄道路線として計画された鉄道路線でした。
1939(昭和14)年に工事が着工され、途中戦争による中断はありましたが1959(昭和34)年に西吉野村城戸(現奈良県五條市西吉野町城戸)までの路盤が完成します。
さあ、いよいよ鉄道敷設となったとき、西吉野村は、鉄道ではなくバス路線としての開業を主張し始めました。
西吉野村がバス路線開業を主張した理由は、計画で村内に設置される鉄道駅が少なかったためで、鉄道より停留所を多く設置できるバス路線化を望む声が大きくなってしまったのです。
こうして従来通りの鉄道建設を望む地元民との間で意見は真っ二つ。
計画は大混乱に陥りました。
さらに近鉄が、御所線を延伸して五条駅から五新線への乗り入れを表明したり、南海が難波から高野線橋本駅経由での乗り入れを表明するなどしたため、混乱に拍車がかかりましたが、大塔村阪本(現奈良県五條市大塔町阪本)までの工事を継続し、この区間が開通するまではバス路線とするということで決着しました。
しかし、1979(昭和54)年に建設予算が凍結され、1982(昭和57)年には工事全体が凍結。1987(昭和62)年に国鉄が民営化されると、正式に五新鉄道計画の廃止が決まり、紀伊半島を縦断して五條と新宮をつなぐという、遠大な鉄道建設計画はついに断念されたのです。
その後、すでに完成していた路盤はバス専用道路活用されていましたが、国道168号線の改良が進んで専用道路としての優位性が低下。2002(平成14)年に西日本JRバスが撤退し、2014(平成26)年には奈良交通も専用路線での運行を廃止して、国道168号運行便の増発に切り替えました。
橋げたと橋脚が綺麗に遺っていますが、こちら区間はバス路線転用はされていなかったようで、吉野川の堤防の前で建設が止まっています。
吉野川に橋脚も作られていましたが1980年代に洪水対策のため撤去されました。
2016(平成28)年にはこちらの新町高架橋を含む旧五新線の遺構が、土木学会選奨土木遺産に選定されました。
もし新宮まで開通し、近鉄、南海の乗り入れが実現していたら、難波や京都から五条、十津川経由で新宮行の特急電車が走っていたのかも!などと妄想が尽きない乗り鉄の筆者です。
新町高架橋の橋脚に取り付けられた案内板です。
そういえば映画のロケ地や舞台としても有名でしたね。
神田橋~新町橋
寿命川に架かる神田橋を渡り東へ向かいます。
こちらは黒漆喰で塗りこめられた重厚な造りの柿本家住宅です。
1912(大正元)年の棟札をもつ建物です。
ちなみに五條新町で江戸時代以前の建物と明治以後の建物を見分ける最も簡単な目安は二階の高さ。
江戸時代は町民が武士を見下ろすのはけしからんということで、基本的に町屋の二階は屋根の低い「つし二階」しか許されず、商家では物置や使用人部屋として使われていました。また三階建て以上の高層建築は許されませんでした。
旅館や遊郭などは二階建ての建築が許されましたが、それでも下を見下ろすような造りは許可されていなかったのです。
なので五條新町でも本二階の町屋が現れるのは明治以降なので、二階が高くて大きな窓がある町屋は、ほぼ間違いなく明治以降の建築と見分けられます。
柿本家住宅の前に新町松倉公園があります。ここにも、松倉重政の顕彰碑。
2008(平成20)年に松倉重政の二見入府400年を記念して建立されたとのこと。
同じ敷地内に五條市出身の児童文学者川村たかしが書いたの碑もありました。
同音ですが、金メダルをかじった某名古屋市長とは全く関係ありません。
吉野川の方から新町の町屋を見ると、水害に備えて築かれた石垣がありました。
五條新町は吉野川やその支流の度重なる水害に苦しめられた土地でした。
川岸の各所に水害対策の石垣が見られます。
新町橋~鉄屋橋
東浄川に架かる新町橋の向こう側に、まちなみ伝承館が見えてきました。
新町橋の東詰に建つ常夜灯。街道筋ではおなじみの風景です。
まちなみ伝承館は明治から大正にかけて建てられた医院の居宅を改修し、町並み散策の拠点として公開されている施設です。
開館時間:9:00~16:00
休館日:水曜日
入場無料となっています。
館内には医院の受付が今も残ります。
また訪問した日は3月初旬ということもあり、雛飾りが展示されていました。
こちらは18世紀初頭に建てられた大型の町屋を改装した、五條源兵衛という和食レストランです。
江戸中期の建物をリノベーションしてレストランに転用しています。
人形浄瑠璃「三勝半七艶容女舞衣」の主人公半七のモデルとなった赤根屋半七の居宅があった場所。
半七は染物屋の子息でしたが、遊女三勝(さんかつ)と1695(元禄8)年に大坂千日寺の墓地で心中しましたが、この心中事件が劇化され、現在まで伝えられています。
西川に近付くにつれ、一直線だった新町通りが少し北に曲がります。
こちらはまちや館(旧辻家住宅)という、江戸時代米商であった町屋を改修した公開施設で、主屋は18世紀前半の建築です。
江戸時代中期の建物ですが、漆喰など補修されているのか白さが映えます。
この町屋は吉田茂内閣の司法大臣、法務大臣を歴任した木村篤太郎の生家でもあります(実母の実家だそうです)。
木村は五條出身の法律家で、日本国憲法制定時の司法大臣であり、憲法の副署にその名を記した人物です。
たいへんな反共主義者で、共産党の暴力革命に対する懸念から破壊活動防止法の制定を法務大臣として推進、成立させた人物としても知られます。
また、60年安保闘争では警察力を補うため、全国の暴力団を結集させた反共抜刀隊を構想して、実際に暴力団の親分に話を持ち掛けるなど、現代的感覚からするとおよそ法律家とは思えない行動もとった人物です。
もっとも現在では想像できないほど、左翼も暴力的だった時代でしたので、現実的な暴力には暴力で対抗するしかないというリアリストだったのかもしれません。
結局、暴力団を嫌った吉田茂の反対で反共抜刀隊は実現しませんでしたが、当時の暴力団と保守系政治家の関係性について、昭和政治の裏面史を語るうえでは興味深いエピソードです。
ちなみに、この話はまちや館では紹介されていません(当たり前か:笑)。
木村は剣道家としても知られ、戦後GHQにより禁止された剣道の復興に尽力し、1952(昭和27)年に禁止令が解かれて全日本剣道連盟が発足すると初代会長に就任しました。
長年にわたる剣道への貢献から、奈良市柳生の芳徳寺にある正木坂剣禅道場に、1985(昭和60)年銅像が建立されています。
そんな木村の幼少期の勉強部屋や、国務大臣への任命書がまちや館では展示されています。
開館時間:10:00~16:00
休館日:月曜と年末年始
入場は無料となっていますので、こちらの施設も五條新町散策の際は、おすすめの見学スポットです。
西川に架かる鉄屋橋が見えてきました。カーブがいい感じです。
ゆるく曲がった道って絵になります。
新町通りから西川沿いに北に進むと見えてくる宝満寺。大正期の建築である本堂の大きな屋根が印象的です。
鉄屋橋以西
鉄屋橋の東詰に建つ餅商一ツ橋は大正時代に創業した老舗和菓子店でしたが、近年惜しまれつつ閉店されました。
コールタール塗りの看板が特徴的な五條新町を代表する町屋です。
2022年2月、こちらの建物でチョコレート専門店のchocobanashiさんが開店されました。
私はチョコレートのチャイを美味しくいただきました。
鉄屋橋から西川を見ると、こちらにも水害に備えて石垣が積まれています。
1710(宝永7)年創業の造り酒屋山本本家。主屋は幕末19世紀初頭の建築と見られます。
軒先につるされた徳利型の看板がいい感じです。
こちらは櫻井写真館。1935(昭和10)年に建設された五條信用組合の建物でした。
町屋造りの建物が並ぶ中、近代西洋建築の建物が町並みのよいアクセントになっています。
新町口を出て、国道168号沿いに出てきました。正面に見えるのが1877(明治10)年創業のナカコ醤油です。
こちらは1704(宝永元)年に建てられた中家住宅。
建設の前年に大火があったため、二階に窓はなく、軒裏まで漆喰で塗りこめられ厳重な防火対策が施された町屋です。
中家は江戸時代には五條村の庄屋や代官所の掛屋(公金出納の代行業)を務めた家です。
こちらは国の重要文化財栗山家住宅。
棟札に書かれた年号はなんと慶長12年(1607年)!建築年代が明らかな家屋としては日本最古の建物になります。
江戸時代最初期で、二見城や新町が形成される以前から、この地に建っていることになります。
また、現役の住宅というのがさらに驚き。
こういった古民家が、歴史公園などに史料として移築されることなく、建てられたその場に建ち続けているというのは、とても貴重なことです。
国道24号線と168号線の分岐である本陣交差点にある道しるべ。
この交差点で、和歌山、奈良(伊勢)、河内長野、十津川へと通じる街道が交差します。
五條が街道の結節点であったことが実感できる場所です。
五條代官所~天誅組関連史跡
五條は江戸時代に幕府の代官所が置かれ、大和南部にある天領支配の中心地でした。
そして、明治維新の嚆矢となる天誅組の変は、1863(文久3)年の五條代官所襲撃から始まります。
そういうこともあり、五條市は明治維新発祥の地ということもアピールしているようですね。
1863年8月、長州藩と攘夷派公卿たちの主導により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親政、いわゆる大和行幸の詔勅が発せられました。
この大和行幸の先鋒となるべく、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士たちが、攘夷派公卿の中山忠光を主将に迎えて蜂起したのが、天誅組の変です。
五條代官所唯一の遺構である長屋門が、五條史跡公園に遺されています。
長屋門は現在五條市民俗資料館として無料で開放されており、天誅組関連の資料が展示されています。
開館時間10:00~16:00
休館日:月曜日、年末年始
天誅組が襲撃した時、代官所は現在旧五條市役所庁舎の場所にありましたが、襲撃の翌年、1864(元治元)年に現在の奈良地裁五條支局の場所に移されました。
実はこの長屋門は移転後に建てられたもので、襲撃を受けた際の構造物ではありません。
維新後、裁判所となった五條代官所でしたが、裁判所改築の時、正門であった長屋門と門前の広場が五條市に譲渡されました。
長屋門は資料館、門前の広場は史跡公園として整備され、現在に至ります。
史跡公園に大正初期に製造された8620形蒸気機関車が展示されていました。
ちなみに、この形式の蒸気機関車は鬼滅の刃で登場する夢幻列車のモデルとなった形式の蒸気機関車になります。
五條市役所旧庁舎の駐車場前にある五條代官所跡の碑と明治維新150年の記念碑。
天誅組に襲撃されるまで、江戸時代を通じてこの地に代官所が置かれていました。
本陣交差点にある櫻井寺は天誅組が五條代官所を襲撃した後、本陣を置いた場所です。
本陣跡の大きな石碑が建っていました。
天誅組が五條代官所を襲撃した翌日の8月18日、いわゆる八月十八日の政変がおこり、朝廷から長州藩や攘夷派公卿が一掃されると、孝明天皇の大和行幸は中止となって、天誅組は挙兵の大義を喪失、一転して叛徒とされ、討伐の対象となってしまいました。
叛徒となったことから、軍勢の主力をなした十津川郷士たちが離脱すると、天誅組は瓦解。挙兵は失敗に終わるのです。
さて、ここまで五條新町を中心にご紹介してきました。
戦国時代から江戸、明治、大正、そして昭和から令和まで、すべての時代の人々の営みが、その町並みにギュッと詰まっているところが印象深い町でした。
散策スポットとしても見所満載で、本当におすすめの町です。
皆さんも是非一度、足を運んでみられてはいかがでしょうか。