皆さんこんにちは。
今回は松永久秀の居城として知られる、信貴山城をご紹介します。
信貴山城とは
こちらが縄張り図。
雄嶽山頂部を本丸とし、その規模は南北880m、東西600mにわたり、大小の曲輪群を備えた、奈良県下屈指の巨大城郭になります。
城域は古代山城の高安城(たかやすのき)に含まれますが、この地に本格的な城郭が築かれたのは、1536(天文5)年頃、木沢長政によるものでした。
長政は、細川晴元の被官として台頭し、河内国に続いて大和国へ進出。この時「大和守護」を自称した長政が、河内、大和の支配拠点としたのが信貴山城です。
それまで、信貴山城は臨時の砦程度の城郭でしたが、長政は多くの家臣が集住可能で、政治機能も備えた山城に改修。大和国では初めて軍事と政治の両機能を備えもつ、戦国期拠点城郭の山城となったのです。
長政が三好長慶との抗争で敗死すると、1559(永禄2)年に大和へ侵攻した松永久秀が、信貴山城を大和支配の拠点に選びました。
久秀の時代に、本丸には4層の天守が造られ、これは伊丹城い次いで、2番目に古い天守の建造例とされています。
以後、奈良の町の北側に建造した多聞山城とともに、信貴山城は久秀の大和における拠点城郭となり、筒井順慶との抗争でも激しい争奪戦の舞台となりました。
1577(天正5)年、久秀は織田信長に反旗を翻して挙兵。信貴山城に立て籠もりますが、衆寡敵せず敗亡し、天守に火をかけ自害します。
この信貴山城の戦いのあと、信貴山城は使用された形跡がなく、廃城となりました。
本丸
さて、それではいよいよ信貴山城へ登城します。
私は今回、信貴山中腹にある朝護孫子寺から城跡に向かいました。
信貴山といえば、こちらの大寅こと「世界一福寅」。
訪れた2022年は寅年ということもあり、平日ですがたくさんの参拝者が、こちらで記念撮影されていました。
本堂から信貴山城本丸、雄嶽山頂を望む。
かつて4層の天守がそびえていた場所です。
この山が城だったころは、木々も取り払われて、壮大な城郭が眼前に広がってたんでしょうね。
ちなみに信貴山城の縄張りは、山の北側斜面に扇状に広がってますので、朝護孫子寺側から見えるのはお城の裏側、搦手となります。
空鉢護法参道の入口。ここから信貴山城を目指します。
参道を進むと、多宝塔が見えてきました。
朝護孫子寺から信貴山城跡を目指す場合、こちらの多宝塔がルートの分岐点。
左側のルートの場合は、空鉢護法堂すなわち本丸から立入屋敷、松永屋敷と上から降ってくるルートになります。
右側だと、大谷池北側の登山道から、松永屋敷、立入屋敷、本丸と登っていくルートになります。
筆者は城跡に行くのは初めてで、ルートがよくわからなかったこともあり、左側の本丸から降るルートを選択しました。
空鉢護法堂までは、つづら折りの参道が続きます。
いかにも城の搦手感が満載の急坂。
空鉢堂を目指してたくさんの参拝者の皆さんが、額に汗して登っておられました。
ようやく雄嶽山頂の空鉢護法堂に到着。
実際の天守の遺構は発見されておらず、この場所に天守がそびえていたのか、確たる証拠はありませんが、立っていた蓋然性は高いかなと思います。
空鉢護法堂からの眺望。南側を望んでます。
竜田越えの奈良街道ににらみを利かせられる場所です。
本丸の東側。
おそらく空鉢堂に向かうコンクリート舗装の道は、後世に作られた道路かなと思います。
本丸から奈良盆地を望む。
奈良盆地一望です。
本丸一帯からは、奈良はもちろん、大阪方面にも視界が開けているので、雄嶽山頂に4層の天守があれば、大和、河内の様子は手に取るように分かっただろうと、容易に想像できます。
河内方面から大和へ進出しようとする場合、信貴山城が、絶対に抑えておきたい要地であると、実感できる場所です。
本丸~立入屋敷
本丸から案内板に従って信貴山城跡を目指します。
空鉢護法堂には多くの方々が訪れていましたが、平日ということもあってか、信貴山城跡に向かう人影は、私以外ありませんでした。
本丸を少し下ると、本丸の帯曲輪が見えてきます。
つづら折りのコンクリート舗装された道は、空鉢堂まで自動車で行けるよう、後年整備された道のようです。
こちらも帯曲輪の跡。
しばらく下ると、立入屋敷(たていりやしき)への入口が見えてきました。
立入屋敷は、本丸である雄嶽山頂直下の大規模な曲輪で、松永久秀家臣で信貴在城衆の一人であった立入勘助の屋敷地と推定されています。
信貴在城衆は信貴山城で実際の政務を行っていた家臣団で、立入屋敷は位置的に本丸直下ということもあり、この曲輪は、城内でも政治、軍事両面で大きな役割を持っていたと見られます。
曲輪の南側は本丸の急峻な切岸がそそり立ちます。
生い茂った木々で視界を遮られ、写真ではわかりにくいですが、平坦部が広がっています。
段状曲輪群~松永屋敷
立入屋敷の北側下段は、階段状の段状曲輪群が北に向かって広がり、北端が松永屋敷と呼ばれる巨大曲輪になっています。
「三丁」と刻まれた石碑のある入り口から、段状曲輪内に入ります。
広大な曲輪が4段続きます。
鬱蒼と木々が生い茂っていますが、各段とも非常に広い曲輪です。
巨大な切岸。上が立入屋敷の曲輪になります。
絶壁で、この切岸が信貴山城の防備の要となっています。
近年、こちらの研究会を中心に朝護孫子寺や自治体も協力して、信貴山城跡の保全と歩道の整備などを行っておられます。
段状曲輪群から松永屋敷周辺にかけては、近年の保全活動によって階段などが設置され、非常に見学しやすくなりました。
手作り感あふれる木製の武者人形。
東側の舗装道路を見下ろします。
ここも巨大な切岸で、かなりの絶壁です。
切岸と巨大な曲輪群が、信貴山城最大の見所かなと思います。
4段目の曲輪。
圧巻の巨大空間で、木を取り払ったら、その巨大さが、さらによくわかるだろうなと思いました。
これからのさらなる整備に期待したいです。
松永屋敷の出入り口。
登り切った場所は土塁で三方を囲まれた、いわゆる枡形となっています。
近世城郭として、久秀が木沢長政時代の城郭から改修した箇所と見られています。
枡形の北側に広がる広大な松永屋敷曲輪は、久秀の居館跡と推定されています。
山の中腹とは思えない平坦部が、延々と続きます。
森の中に忽然と現れる広大な空間に圧倒されます。
木々に覆われたその姿は、一昔前の高取城のような雰囲気がありました。
松永屋敷から東側の曲輪群
松永屋敷の北辺には下段の腰曲輪と行き来できる階段が設置されています。
下段の曲輪との落差はゆうに4~5mはあるでしょうか。
階段がなければとても行き来できません。保全活動で設置してくださった皆さんに感謝です。
腰曲輪から東側の帯曲輪へと回り込みます。
堀に水が溜まって水堀のようになっていました。
こちらは堀に通路がかかっています。
他の曲輪も回ってみようかと思いましたが、通路から逸れると、遭難の危険を感じたのでやめときました。
石垣が残存している曲輪もあるそうなんですが、散策路が残念ながら未整備なんですよね。
今後、通路や案内板を増やしていただいて、他の曲輪群にも安心して散策できるコースを作っていただけることに期待したいです。
帯曲輪から、舗装道路に戻ってきました。
城跡を巡るなら本来はここから、本丸を目指した方が、お城の防備を実感しやすいかと思います。
大谷池
さて、舗装道路を通って朝護孫子寺方面に帰ろうかと思います。
帯曲輪を削って道路が伸びています。
少し土が盛り上がっているところは土塁の跡かな。
写真の右へ登るコンクリート舗装の道が、信貴山城跡へ通じる道です。
ここ、絶対に案内板が欲しいです。
初見だと確実に見落としてしまいそう…。
写真の正面奥側が大谷池、朝護孫子寺へと通じる道で、境内の多宝塔裏に出ることができます
分岐の場所はGoogleマップでは下記の場所になります。
こちらが大谷池。
池の端には駐車スペースがあり、釣り人の方が駐車していました。
城跡だけを目指すなら、こちらの池を拠点に登城されてもよいかもしれないですね。
さて、今回は信貴山中腹から雄嶽山上に伸びる舗装道路に沿って、本丸から立入屋敷、松永屋敷と下ってきました。
建物類は全く残っていないものの、曲輪の保存状態が極めて良好で、非常に広大な曲輪群は見ごたえ充分です。
ただ、今回巡った箇所は、城跡全体から見ると、おそらく全面積の1/3も回れていません。
他の曲輪群を見学するには、山道を分け入る必要があり、安心して回るには、さらに案内板や通路の整備が必要かと思います。
整備が進めば、城跡遺構としても、高取城に引けを取らないスポットに生まれ変わる、そんなポテンシャルを感じさせる城跡でした。
松永久秀の供養塔
さて、信貴山城の麓近く、奈良県王寺町の達磨寺には、信貴山城の戦いで敗死した名将・松永久秀の墓があります。
信貴山城にお越しの際は、こちらも是非お参りください。
※達磨寺の詳細は、ぜひ過去記事をご覧ください。
信貴山城跡の動画リンク
筆者と同じルートで登城した動画がありましたので、リンクしておきます。
城跡散策のさらなるご参考にどうぞ。
動画だとお城の広大さが実感いただけるかと思います。
こちらは、下から本丸まで登るコースで登城された動画です。
今回ご紹介したコースであれば、朝護孫子寺から1時間弱で散策できますので、信貴山詣での際には、ぜひ信貴山城跡にも立ち寄っていただいて、その広大な城域を味わっていただきたいです。
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