大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

忍性・慈悲に過ぎた窮民救済の超人的実践者

忍性菩薩像(称名寺蔵)

皆さんこんにちは。

 

忍性という僧をご存知ですか。

鎌倉時代に師匠、叡尊とともに戒律の復興運動に取り組んだ律僧として、日本史の教科書に載っていたなとご記憶の方もいらっしゃるかなと思いますが、同時代の鎌倉新仏教の開祖たちと比べ、概して知名度が低い印象がありますね。

 

しかし、その事跡を追うと、それまで支配者たちから一顧だにされなかった、非人と呼ばれた最下層の人々や、ハンセン病患者たちにまで救済の手を差し伸べ、果ては動物愛護の施設まで設けるなど、当時としては先鋭的な社会福祉事業を、数多く興した人物でした。

その事業の根底にあったのは、最愛の母から受け継いだ文殊信仰だったのですが、どのように信仰と救済事業が結びついていったのか、その生涯をご紹介したいと思います。

 

出自と出家

忍性は1217(建保5)年、大和国城下郡屏風里(現奈良県三宅町)に生まれました。

屏風里は斑鳩から飛鳥を結ぶ、太子道沿いの集落で、現在その生誕地を記念して石碑が建てられています。

父は伴貞行。名主層の出身だった忍性は、11歳の頃から信貴山参詣に連れられ、熱心な文殊信者であった母の影響で、弱者を慈しむ文殊信仰に親しむようになりました。

 

ちなみに、どうして文殊信仰が弱者への慈しみや救済につながるのか。

文殊菩薩のことを記述した『文殊師利般涅槃経』一説に、「文殊菩薩を求めて福業を修めたいとするものがいれば、文殊菩薩は貧窮孤独苦悩の衆生に化身して、行者の前に現れる。文殊菩薩を求めるものは慈悲心を行うべし」とあります。

つまり、文殊菩薩の力で悟りを得たければ、目の前に現れる弱者を救いなさいと、解釈できるわけです。

 

幸せな少年期を送った忍性ですが、16歳の時、最愛の母が病に倒れ、これが人生の一大転機となります。

息子が出家することを望んでいた忍性の母は、その臨終に際して息子が沙門となった姿を見たいと忍性に伝えます。

母の言葉に、忍性は自宅から近い額安寺(奈良県大和郡山市)でにわかに剃髪し、僧形となったその姿を母に見せました。

額安寺本堂

母の死の翌年、1233(天福元)年、東大寺で正式な官僧となった忍性。引き続き文殊信仰を深め、とくに奈良時代の僧で文殊菩薩の化身とされた行基を慕い、行基練行の旧跡と伝えられる竹林寺奈良県生駒市)で6年にわたって修行を重ねることになります。

 

1239(延応元)年、23歳となった忍性に人生最大のターニングポイントが訪れます。

生涯の師となる叡尊との出会いです。

叡尊についての詳細は下記の記事も参照ください。

www.yamatotsurezure.com

このとき戒律復興に邁進していた叡尊は、自らの下で出家することを忍性に勧めましたが、忍性は涙ながらに亡き母の慈愛と剃髪の経緯を語ると、宿願を果たした後、出家したいと言って、いったん叡尊の誘いを断りました。

忍性の宿願とは、母の13回忌までに文殊図像七幅を作り、それを大和国内の7つの非人宿に安置して、毎月25日に一昼夜不断に文殊の宝号を唱え、その功徳を持って亡き母の解脱の勝因たらしめたいというものでした。

同じく幼くして母を失った叡尊にも、この忍性の思いは大きく響いたことでしょう。

叡尊は、出家の功徳は広大無辺であるから、速やかに出家して、その功徳を母親に届けるよう、重ねて懇ろに諭しましたが、このとき忍性は確答しませんでした。

しかし翌1240(仁治元)年、再び叡尊に謁した忍性は、かねて立願していた文殊像の一幅が完成したので、これを額安寺西辺の非人宿に安置して供養を行い、それで宿願が成ったものとして、叡尊の下で出家したいと願い出て、ついに叡尊の弟子となります。

叡尊は忍性の願いを聞き入れ、自ら額安寺西辺の非人宿に赴き、文殊像の開眼供養と400人の非人達に戒を授けました。

この額安寺西辺における文殊供養は、それまで救済の対象外とされた非人たちに、救済の手が差し伸べられる画期となるのです。

文殊信仰と弱者救済

叡尊教団(現在の真言律宗)の一員となり、西大寺に住するようになった忍性は、精力的な弱者救済活動を行います。

非人宿ごとに文殊菩薩を供養しようという忍性の発願には、師の叡尊以外にも共鳴するものも多数現れ、1240年~1244(寛元2)年にかけ、大和国内の7つの非人宿や河内の諸宿で文殊供養が行われました。

このとき多くの、困窮する人々に戒を授け、粥を施したり、看護、収容施設を設けるなど、現実的な救済事業を同時に進めました。

その救済は、当時過酷な差別に曝されたハンセン病患者にもおよび、忍性は1243(寛元元)年、奈良北郊の北山の地に、日本最古のハンセン病患者看護・救済施設である北山十八間戸を創設します。

忍性のハンセン病患者救済に対する情熱がいかほどのものだったのか。それを示す逸話が、鎌倉時代に著された日本初の仏教通史『元享釈書』に記載されています。

奈良坂に、重症のため身動きが取れず、市中に出て物を乞うこともできないハンセン病患者がいることを知った忍性は、明け方にこの患者を自ら背負って奈良の市に伴い、施物を得させたうえに、夕方再び背負って帰ったといいます。

20代中頃の叡尊が、自ら救済を求める人々の中に入り、奮闘を繰り返した様子がうかがえますね。

1244(寛元2)年、亡き母の13回忌を迎えた忍性は、額安寺に丈六の文殊菩薩像を納め、大和国内17のらい宿から1000人ものハンセン病患者を集め、ことごとく飲食を施して斎戒を勧めました。

剃髪以来の宿願を、忍性は果たしたのです。

関東下向と鎌倉進出

大和国を中心に、畿内、西国で活動していた忍性は1252(建長4)年、36歳の時に関東で本格的な布教を行うべく、常陸国へ下向します。

忍性が布教拠点としたのは、鎌倉幕府の有力御家人八田知家が所領として以来、その子孫小田氏が拠点とした三村(現茨城県つくば市小田)の地。

八田知家というと、2022年大河ドラマの「鎌倉殿の13人」では、市原隼人が演じて、いつも道路工事している人という印象が強い人物。その子孫小田氏には戦国最弱の呼び声も高い小田氏治がいます。

忍性が常陸に入った頃の小田家当主は、知家の曾孫小田時知。時知は曾祖父知家が再建した三村寺極楽寺・現在廃寺)の発展を期しており、関東での布教拠点を求めていた忍性の思惑と一致したのでしょう。

現在のつくば市小田を含む常総地域は、現在でこそ大都市近郊部の住宅街と田園が広がる地域ですが、霞ケ浦とその水運が古代から活発で、忍性の時代、関東では先進地域の一つでした。

三村も水運をはじめとした交通の要衝であり、忍性が布教拠点とするにはうってつけの場所であったと言えます。

実際に、忍性はこの三村を本拠として、霞ケ浦の水運を利用して教線を伸ばしていったとされています。

実際のところ、常陸時代の忍性の足跡は、ほとんど史料上に現れませんが、その信仰の特質から、西大寺時代と同様、貧しい人々への授戒と救済を柱とする活動を、地道に行っていたのかと思います。

忍性は、師である叡尊と異なって、布教に際して有利に運ぶようであれば、積極的に権力者に接近するところがあり、関東に移って積極的に寺院経営に携わるようになると、その姿勢が顕著になってきました。

関東における戒律興隆と弱者救済活動をさらに推し進めるべく、忍性は必然的に武家の都・鎌倉への進出をうかがうようになります。

度々三村から鎌倉へ出府していた忍性でしたが、1261(弘長元)年、幕府からの要請で鎌倉へ進出。

清涼寺釈迦堂へ移った忍性は、その後、執権北条時頼の病気平癒の祈祷で験を示したことから、時頼の帰依を受けることに成功しました。

あれ、忍性って律僧なのでは?と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。実は師の叡尊は元々密教僧。なので、忍性もまた、師から真言密教の教えを受けており、加持祈祷も行いました。

実のところ、権力者からは、師の叡尊ともども忍性は、貧民救済などの社会事業より、祈祷の霊験を重宝がられた人物たったともいえます。

実際に二度にわたる元寇では、師の叡尊とともに蒙古調伏の祈祷を行っており、石清水八幡宮など叡尊教団が祈祷を行った寺社が、祈祷によって起こされた神風で元軍を打倒したと喧伝したこともあり、巷間にもその霊験をもって帰依を受ける存在となっていきました。

北条時頼以下、重時、実時ら、幕府の実権を握る北条一門の信頼を勝ち取った忍性は、師、叡尊の鎌倉招請を執権時頼に要請し、関東における叡尊教団のプレゼンスを決定的なものにしようとするのです。

 

「慈悲ニ過ギタ」

1262(弘長2)年、忍性は北条一門の招きで鎌倉に下向した師・叡尊に謁しました。

関東下向後、忍性が一度も奈良に帰っていないとすれば、10年ぶりの師弟面会となります。

叡尊が鎌倉に滞在した数か月の間、忍性はその活動の補佐に努め、病がちとなっていた叡尊に代わって各地で授戒を行うなど、鎌倉での叡尊の布教活動成功に多大な貢献を果たしました。

 

さて、鎌倉に移った忍性は、ここでも持戒の勧めと窮民救済という二つの事業を精力的に進めます。

1262年の春、鎌倉の北郊、泉谷の多宝寺(現在廃寺)に移った忍性は、市内数か所に貧民の救済施設を開き、1264(文永元)年には鶴岡八幡の今宮で非人3000人に施業を行うなど、大規模な救済事業を、次々と進めました。

そして1267(文永4)年、51歳の時に鎌倉の西の入口、当時遺棄された死体が散乱し、行き場を失った人々が集まることから「地獄谷」と呼ばれた地に建つ、極楽寺に入山して、生涯の拠点とするのです。

忍性の時代の極楽寺には、その境内図から施薬院や療養所、ハンセン病患者収容施設が備えられていたとされ、忍性の救済事業への思いの強さがうかがえますね。

その後も、忍性の社会救済活動は続き、1274(文永11)年に飢饉が起こった際には、鎌倉大仏谷で植えた人墓徒に大規模な炊き出しを行い、1287(弘安10)年には長谷の大仏付近の桑ヶ谷に療病所を設けます。

『元享釈書』によれば、この桑ヶ谷療病所では20年間で57,250人の患者を受け入れ、癒えるもの46,800人、死するもの10,450人であったといいますから、受け入れ患者の4/5をと、多くの人命が忍性の事業によって救済されたことが分かります。

ちなみに、この療養所は、北条時宗により寄進された、土佐国大忍荘の年貢でその費用が賄われましたが、忍性が権力者からの直接的な支援で行った唯一の事業となります。

忍性の社会活動の極めつけは、最晩年の1298(永仁6)年、鎌倉坂の下に設けた馬病屋でしょう。

その名が示す通り、軍馬の療養施設であり、日本初の動物愛護施設ともいわれます。

ついには人間以外の動物にまで向けられた、忍性の生命愛護の精神は、この時代の人としては、あまりにも度が過ぎたものと映ったことでしょう。

武家におもねった施策と、厳しい評価があることも事実ですが、最晩年のすでに大高僧となっていた忍性が、何度も馬病屋を訪れては、その様子をうかがっていた記録も残されており、彼の生命愛護の精神は、やはり本物であったのではないかと感じられます。

 

叡尊がその救済の範囲をあくまで「非人」に限定したのに対し、忍性は救済が必要なすべての人々、果ては動物にまで広げた点で、師の救済事業とは一線を画したものとなっていきます。

叡尊は、忍性があまりに救済事業に熱心に取り組む姿に、教学の研鑽が疎かになっていると見て、「良観房(忍性)ハ慈悲ガ過ギタ(『聴聞集』)」と苦言を呈するほどでした。

しかし、忍性は最晩年に至るまで、衆生の救済事業に邁進します。

そのこだわりぶりは、単に信仰の枠内ということでは、説明できない域にまで達していました。

 

忍性入滅とその後

忍性の事跡で、救済事業以外に特筆すべきは、高い寺院の運営能力といえるでしょう。

特に寺院の造営や救済事業にかかる莫大な資金を集めるため、忍性は幕府の許しを得て、各所に関所を置き、通行料を課してこれを事業資金としたのです。

とくに名高いのは、鎌倉の外港である和賀江島の修築に参加し、その管理権を忍性の時代に極楽寺の権利として幕府に認めさせ、室町時代に至るまで、港の関所を通る商船から関米、即ち関税を取って、これを寺の財源としたことでしょう。今なら横浜港での関税徴収権を握っているといったところでしょうか。

各地の関所で得られる莫大な関税が忍性の事業を支え、これを実現させたのは、ひとえに忍性が執権以下、幕府要人たちから一定の信頼を受け、その宗教政策の一翼を担うことを期待されたからに他ならないでしょう。

密教の祈祷僧という一面も持っていた忍性は、祈雨や二度の元寇における敵国調伏の祈祷で、その霊験を公武の首脳たちに認められていったこともあり、1284(弘安7)年、幕府から鎌倉を代表する大寺院である永福寺五大堂、そして大仏の寺として名高い高徳院別当に任じられ、後年には東大寺大勧進や摂津四天王寺別当も兼職するなど、当時の仏教界を代表する高僧となっていったのです。

 

1303(嘉元元)年、忍性は病を発して、極楽寺で入寂。87年の生涯を閉じました。

『本朝高僧伝』によれば、得度した弟子2,740余人、在家の弟子は数知れず、造営した伽藍は83ヶ所、建立した仏塔20基、諸州の架橋189ヶ所、水田の寄進180町、道路の修築71ヶ所、掘削した井戸33ヶ所、殺生禁断63ヶ所、浴室、療病所、乞食屋の設置が各5ヶ所、戒本を僧尼に与えること360巻、窮民に施した布衣は33,000領と、師・叡尊と並び立つ、超人的な業績を遺したことが分かります。

 

遺骨は、本拠とした極楽寺と、若き日に修行に明け暮れ、生涯追慕した行基ゆかりの大和国竹林寺、そして、母の願いで剃髪し、初めて非人達の救済を行った額安寺の3つに分骨されました。

額安寺・忍性墓(重要文化財

そして、その死の25年後、1328(嘉暦3)年、後醍醐天皇により忍性菩薩の号を勅許されました。

 

超人的な行動力で、戒律復興と窮民救済事業に取り組んだ忍性でしたが、彼の死後、師・叡尊とともに立ち上げた教団は衰退の道を進みます。

要因の一つは、窮民救済という作善による満足感が、施主にしか得られず、施しを受ける側も、飢えを満たし、病が癒える以上の満足感がないという、信仰スタイルの課題を、最後まで解決することができなかったことにあるかと思います。

これが、施主による救済にとどまらず、救われたものが、また別の者を救い、信仰者同士が相互扶助を組織的に行っていく、そんな展開を見せることができれば、他の鎌倉新仏教と同じような広がりを見せた可能性はあったのかもしれません。

しかし、忍性は救済事業を拡大するため、公武の権門との良好な関係を築き、その宗教管理政策の一翼を担う道を選んだため、民衆の連帯による相互扶助を軸としたような教団の組織化は、権門との対立の危険もあるため、やはりできなかったのだろうと思います。

また、教団の教えや施策の中には、実のところ、民衆の大きな反発を招くものもありました。

一つは戒律に基づき、日本各地に殺生禁断の地を定めたことで、これはとりもなおさず、狩猟や漁猟を生業とする人々から、その生活の手段を奪うことになり、救済事業のため、あらたに救済を必要とする窮民を生み出す矛盾をはらんだもので、各地で多くの反発を招くことになりました。

そして、教団の資金源となった各所の関所は、自由な通行を求める人々の反発を受け、特に宗教上激しく対立した日蓮からも、猛烈な批判を浴びたのです。

 

忍性死後、彼や叡尊の後継者たちは、教団の信仰上の課題を克服できず、救済事業への熱も、残念ながら宗門の伝統として引き継がれることはありませんでした。

そのため、忍性死後は、信仰の広がりを見せることができず、徐々に衰退していったのです。

忍性やその師、叡尊の評価が、その事跡に対してあまりに過少であり、知名度が低いのは、立ち上げた教団、運動が、その後大きく衰退してしまったことが、大きく影響していると思います。

 

しかし、これは、忍性その人の思いの強さや、能力が、いかにその救済事業を大きく支えていたかを証明する、裏返しともいえるでしょう。

師の叡尊から「慈悲ガ過ギタ」と評された、忍性の救済事業へのこだわりは、単なる教学上の信仰の強さというより、生涯追慕した母や行基に対する、思い入れの強さを感じざるを得ません。

今から700年以上も前に、為政者たちから見向きもされなかった人々の救済に、人生をささげて行動した忍性の生涯は、今を生きる私たちの心にも、とても刺さるものなのです。

そして、進んで窮民たちの中へ入り、その救済に尽力した姿は、鎌倉仏教の僧たちの中でも特筆されるべきものと言えるでしょう。

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