皆さんこんにちは。
奈良市内で散策エリアといえば、興福寺の門前町だった「ならまち」エリアが有名ですが、現存する唯一の明治五大監獄、旧奈良監獄が重要文化財に指定され、人気ホテルチェーンの星野リゾートによって日本初の監獄ホテルになる計画が進んでいることもあり、最近「奈良きたまち」が新たな散策スポットとして注目されつつあります。
今回、奈良きたまちの中でも、旧奈良街道が走る奈良坂エリアを中心に散策してきましたので、ご紹介します。
旧奈良監獄以外にも、城跡あり、寺院ありと見ごたえ一杯のエリアでした。
奈良きたまち、奈良坂とは
「奈良きたまち」の範囲は明確な定義はありませんが、おおよそ近鉄奈良線(大宮通り)より北側で、西はやすらぎの道、東は東大寺周辺、北は京都府との府県境付近までの広範なエリアになります。
今回散策したのは、京都府との府県境にある丘陵地で、「奈良坂」とも呼ばれる地域。
Googleマップでは下記のエリアです。
きたまちは、平安京遷都後に奈良と京都を結ぶ大動脈となった旧奈良街道を中心として広がり、奈良の北の玄関口として多くの旅籠や商家が軒を連ねたエリアでした。
佐保川から北の奈良坂エリアは大和国と山城邦の境界地点にあたり、歴史的にも境界の地ゆえに生まれた旧跡が多く残っています。
今回はそういった旧跡を中心に散策していきます。
ロートフィールド奈良(鴻ノ池運動公園)
奈良坂エリアの散策へ行くには、近鉄奈良駅から歩いて行くのも楽しいですが、自家用車の場合、スポーツの試合やイベントがない日はロート奈良鴻ノ池パーク(鴻ノ池運動公園)を拠点にすると便利です。
大型の無料駐車場があって奈良坂エリアにも近く、公園内にスタバもあるので散策後の休憩にもピッタリの場所です。
こちらは公園内のメイン施設の一つでもあるロートフィールド奈良(鴻ノ池陸上競技場)。
われらが奈良クラブの本拠地です。
この記事を書いている2022年10月現在、奈良クラブはJFLからJ3への昇格圏内にあり、奈良から初のJリーグチームが生まれるか、県内では非常に盛り上がっています。
試合の勝敗もさることながら、観客動員が最大のネック(昇格にはホームゲームの観客数が平均2000人超必要)となっていましたが、チーム、サポーター、スポンサーや県内マスコミの力が結集し、10月23日の鈴鹿戦でJFL史上2位となる観客数14,202人もの大観衆がスタジアムを埋め尽くし、見事観客数の要件を満たしました。
後は、JFL4位以内、Jリーグ100年構想クラブ2位以内という成績要件を満たすのみです。
残り1か月、J3昇格をこの記事に追記できることを信じて応援を続けたいと思います。
奈良クラブだけでなく、Bリーグのバンビシャス奈良もロート奈良鴻ノ池パーク内にある体育館を本拠地としおり、まさに奈良県におけるプロスポーツのメッカとなっています。
多聞山城跡
ロートフィールド奈良の南東、佐保川北岸の丘陵地一帯が、多聞山城の城跡になります。
多聞山城は大和に侵攻してその覇権を握った松永久秀が、1559(永禄2)年に南都奈良の支配拠点として、東に奈良街道、南に東大寺、興福寺を見下ろす眉間寺山に築城した城郭です。
眉間寺山は、久秀が最初に大和侵攻の拠点とした信貴山城が大和、河内国境地帯に位置して、両国をつなぐ竜田越え奈良街道を抑える要衝であったのと同様の特質を持ち、大和、山城国境地帯で奈良と京都を結ぶ奈良街道を抑える要衝の地でした。
久秀が信貴山、眉間寺山といった国境の地を拠点に選んだのは、本領のある摂津や主家である三好家勢力圏との連絡を多分に意識したもので、外来勢力ならではの背景が見て取れますね。
まさに国境地帯であるからこそ築城された城だったとも言えるでしょう。
久秀は大和侵攻以来、拠点としていた信貴山の朝護孫子寺本尊の多聞天(=毘沙門天)を信仰して、新たに城を築いた山を多聞山と改称。
1564(永禄7)年に完成した多聞山城は、それまでの中世城郭とは一線を画し、各郭に石垣を巡らし、建物は分厚い土壁に白漆喰を施して屋根には瓦を葺き、一説には天守ともいわれる4層の高矢倉を備えた、近世城郭の嚆矢といえる城郭でした。
とくに塁上に築かれた長屋状の櫓は多聞櫓と呼ばれ、後に続く近世城郭でも数多く採用されました。
当時の日本で最も豪華な城郭の一つであり、この地に他を圧倒する城郭を築いたのは、長らく武家の支配を拒んできた東大寺、興福寺といった寺院勢力やその門前の人々に、新たな支配者として久秀の威厳を示す意図が多分にあったと言われます。
織田信長の畿内進出後、久秀は信長と協調していましたが、1573(元亀4)年に武田信玄、朝倉義景らと呼応して信長に反旗を翻すも敗北。
久秀は信長に降伏し、このとき多聞山城は信長に接収され、有名な信長による蘭奢待切り取りの舞台ともなりました。
しかし、完成からわずか13年後の1577(天正5)年、多聞山城は信長の命で破却されます。
破却を命じた信長の心のうちは明らかではありませんが、国境の出入り口に大規模な要塞が築かれていることに危険性を感じたのと、破却の前年に興福寺衆徒である筒井順慶に大和一国の支配を任せており、豪壮な城郭で奈良の寺院勢力を威圧的に支配する必要性が薄れ、不要な城と考えたのかもしれません。
信長は国人の支配が強固で、外来勢力には治めにくい大和国に多くの城郭が存在することを嫌い、1580(天正8)年には大和国内の郡山城以外のすべての城を破却するよう順慶に命じて実行させており、多聞山城の破却はその先駆けとなったと言えるでしょう。
多聞山城の建物は京都の二条城(信長時代の城で現在の二条城とは別の城)に多くが移され、石材は筒井順慶の居城である筒井城の拡張に転用されたのちに、郡山城の石垣等に転用されました。
こちらが、現在の多聞山城一帯の航空写真です。
その城域は、現在の若草中学校とそのグラウンドを中心に、西に隣接している佐保山東陵(光明皇后陵墓)の全域と佐保山南陵(聖武天皇陵)の一部にまで及んでいました。
天皇陵まで城郭に組み込んでしまうとは、一代の梟雄久秀の面目躍如といったところでしょうか。
こちらは多聞山城西郭の一部となっていた聖武天皇陵。
江戸時代までは、眉間寺という寺院があり、現在の聖武天皇陵拝所までの道は、かつての参道となります。
こちらが、江戸時代の眉間寺の伽藍が描かれた絵図。
現在の拝所奥の山腹に本堂や多宝塔をはじめとした堂宇が立ち並んでいるのがわかります。
ちなみに絵図で伽藍の背後に描かれた山が多聞山で、松永久秀の城跡であったことが記載されています。
眉間寺は754(天平勝宝6)年に開山した律宗寺院で、元々佐保山南麓にありましたが、多聞山城築城の際、城下町を建設するため移転させられ、多聞山城が1577年に廃城となった後、佐保山山腹へ再度移転しました。
江戸時代には寺領100石が与えられて伽藍も整備されましたが、江戸末期の1863(文久2)年、尊王意識の高まりとともに聖武天皇陵の整備が進められると、山腹にあった伽藍は明治の廃仏を待たずに取り壊されました。
その後眉間寺は、いったん佐保山山麓へ移転したものの明治の廃仏で廃寺となり、本尊の阿弥陀如来像などは、本寺である東大寺に移され現在に至ります。
聖武天皇陵西側の眉間寺遺跡碑付近にある石垣。
礎石らしき石が転がっていましたが、場所的にかつての伽藍があった場所とは違うので、伽藍の遺構そのものではないと思います。
撤去された後、運ばれたものかもしれません。
こんなところで、鹿とばったり遭遇。
結構奈良公園から離れている場所なので、ちょっと驚きましたが、あとで調べると結構出没するようですね。
多聞山城の南を流れる佐保川は、外堀の役目も担っていました。
佐保山と佐保川に挟まれた現在の多門町は、かつての多聞山城の城下町で、久秀の家臣たちの屋敷が並んでいたと考えられ、江戸時代には奈良奉行所の役人たちの屋敷地となっていました。
奈良では珍しい武家屋敷の集中地域で、現在も往時をしのばせる土塀やお屋敷がいくつか残されています。
こちらは多聞山城の主郭部のあった若草中学校正門前です。
全域が中学校の敷地のため、関係者以外は立ち入り禁止。残念ながら自由に見学はできません。
幕末には丘の上の平坦部は練兵所として活用され、土塁なども多く残されていましたが、1948(昭和23)年に若草中学校の建設に伴い遺構の多くは破壊され、北側にわずかに残っていた土塁も1978(昭和53)年の新校舎建設により完全に消滅しました。
校門の片隅に、城跡の案内板が設置されています。
こちらは、中学校の校舎とグラウンドの間にある大堀切。
多聞山城の遺構を自由に表面観察できる数少ない場所の一つで、堀底は生活道路となっています。
非常に深く壮観な堀で、往時の多聞山城の規模を窺い知ることができます。
堀切の南側には郭跡と思しき平坦部が見られます。
城郭をはじめとした中世の遺跡は、古代遺跡に比べてほとんど調査もされないまま破壊されてしまう例が全国的に多数ありますが、多聞山城も残念ながらそういった例の一つ。
遺跡は大事な祖先の記憶です。一度失われれば、二度とその姿は戻りませんので、一つでも多くの遺跡が時代を問わず保存され、破壊するにしても十分な調査が尽くされることを願います。
北山十八間戸~般若坂界隈
多聞山城跡から東に向かい、旧奈良街道沿いの般若寺坂の麓に北山十八間戸があります。
北山十八間戸は鎌倉時代の1243(寛元元)年、重症のハンセン病患者を救済する施設として、西大寺の忍性によって設置されました。
※忍性についてはこちらの記事も是非ご一読ください。
鎌倉時代、般若寺近辺には北山宿という大規模な非人宿がありました。
非人宿とは、貧民やハンセン病患者といった当時「非人」と呼ばれて賤視され、差別を受けた人々が集住した地域です。特にハンセン病は中世には仏罰・神罰の結果とされたため、患者は非人として厳しい差別を受けました。
忍性は、師である叡尊が再建した般若寺近傍に北山十八間戸を創設して、宿に集まるハンセン病患者の救済に努めました。
元々、般若寺の北東に設置されていましたが、1567(永禄10)年に松永久秀と三好三人衆・筒井順慶連合軍の間で争われた東大寺大仏殿の戦いで全焼。寛永年間(1661~1672年)に現在の場所に再建され、現在の建物はそのときのものです。
内部は18の部屋に区切られ、戦後間もない頃には大阪空襲の罹災者や大陸からの引揚者が一時住んでいたこともあるそうです。
北山十八間戸と通りを挟んだ向かいに、レンガ造りの歴史を感じる建造物があります。
こちらは、1922(大正11)年、奈良市に近代的な水道が創設された際に建造された奈良阪計量器室。
木津川を水源とする浄水場から、市内に送られる水量を計測する計量器が設置されていた建物で、2017(平成29)年に土木学会推奨土木遺産に選定されました。
北山十八間戸から京都方面に伸びる坂は般若坂といいます。
般若坂は大和、山城の国境に近く、奈良の入口であったことから幾度か大きな合戦の舞台となりました。
平家の南都焼討では、平重衡の軍を迎撃した南都の僧兵たちが般若坂付近を防衛陣地としたほか、南北朝の戦乱では、南朝方の北畠顕家が大和に侵攻してきた北朝方の桃井直常をこの地で迎撃して般若坂の戦いが勃発し、戦国時代には松永久秀と三好三人衆の激戦の地ともなりました。
般若坂の途中に、大きなお地蔵さんが立っています。
夕日地蔵と呼ばれるこの石仏は、1509(永正6)年に興福寺の僧、浄胤が逆修(生前供養)にため64歳のときに建立したものであると刻まれています。
室町時代の石仏ですが、お顔もはっきりとしていて綺麗なお地蔵さんですね。
旧奈良監獄
北山十八間戸から北西、旧奈良街道の西側を並行する道沿いに旧奈良監獄があります。
1908(明治41)年に建造され、明治時代に建設された明治五大監獄(他に千葉、金沢、長崎、鹿児島)の中で、唯一現存している建造物になります。
明治時代、新政府最大の政治課題でもあった不平等条約改正のため、近代的な施設が国家事業により続々と建設されましたが、奈良監獄もそういった建築の一つで、構造はもとより、デザインにいたるまで当時の最先端技術を導入して建造されました。
後年、明治の近代化遺産として、その価値が大きく評価されたこともあり、2017(平成29)年に国の重要文化財に登録されました。
2022年現在の奈良監獄の航空写真。
中央から放射状に獄舎が伸びる、刑務所に特徴的な建築の配置になっており、これは中央から全ての獄舎の通路を、効率よく見渡すための工夫です。
こちらが表門。
奈良監獄のシンボル的な建物で、刑務所とは思えないロマネスク様式の赤レンガが美しい建築です。
奈良監獄に使われている赤レンガは、当時収容されていた囚人たちが作ったものもあり、その証拠を実は見ることができます。
表門の右手円塔、基礎付近に敷かれたレンガの中に、「イ」と刻まれているものがいくつかあります。
これは、囚人たちの作業班を示すもので、「イ」ならば「イ」組が作ったレンガになります。
表門に掲げられた「奈良少年刑務所」の表札。
実はこの旧奈良監獄の建物、重要文化財に登録されたのと同年の2017年の3月まで、現役の刑務所として使われていました。
少年刑務所とありますが、収容者の大半は20代前半の若く、犯罪傾向が進んでいない矯正見込みが高い囚人が収容されていたそうです。
内部は原則非公開ですが、定期的に見学ツアーが行われていました。
記事冒頭で述べたとおり、旧奈良監獄は大手ホテル運営会社の星野リゾートにより、ホテル化されることが決まっています。
当初2022年開業予定でしたが、コロナ禍により延期され、ようやく改修工事が始まるとのことで、内部が旧来の姿のままなのは、2022年まで。
ホテル化されても、ホテル利用者以外も見学可能な施設にしてほしいです。
表門の柵越しに、三角屋根の庁舎が正面に見えます。
外から内部を自由に覗き見られるのはここまで。うーん気軽に入れるようにしてほしかった~。
坂の下から塀を見上げると、まるで城塞のようです。
旧奈良街道~般若寺楼門
旧奈良監獄から再び旧奈良街道に戻ります。
旧奈良街道からも奈良監獄の庁舎がよく見えます。
現在の旧奈良街道はちらほらと古い日本家屋も見られます。
1車線の道ですが、車が離合するには十分な幅があります。
古い道としては広い部類で、近世以前は幹線道路だったのは伊達ではありません。
ちなみに交通量はそこそこあり、数分おきに車は通ってました。
旧奈良街道沿いに、立派な山門が見えてきます。
鎌倉時代に建築で国宝の般若寺楼門です。
般若寺と言えばお花の寺として有名で、とくにコスモスが美しいことで知られています。
先日(10月下旬)訪れたとき、境内はこんな感じでした。
※境内の様子は別途記事にして近日公開いたします。
般若寺は飛鳥時代の創建といわれ、735(天平7)年、聖武天皇が平城京の鬼門封じとして「大般若経」を塔の基壇に埋めたのが寺名の由来とされています。
1180(治承4)年の平重衡による南都焼討で伽藍が焼失して廃墟と化しましたが、鎌倉時代に再建が進められ、良恵によって十三重石塔が建立されたのを皮切りに、西大寺の叡尊によって伽藍の復興が進められました。
叡尊は鎌倉時代の律僧で、弟子の忍性とともに非人救済を積極的に行った人物として知られます。
※叡尊については下記の記事で詳しくご紹介しています。
前述のとおり鎌倉時代の般若寺近傍には、困窮する多くの非人達が集住していた北山宿があり、叡尊は般若寺をその救済の拠点としました。
質実で、いかにも鎌倉建築という佇まいの楼門。
この国宝建築を無料で見学できるとは、旧奈良街道はとても贅沢な通りです。
(地元の人にはきっといつもの生活道路なんですが…)
一点残念なのは、本来表玄関であるはずの旧奈良街道側から、現在は般若寺境内に入れないこと。
ほとんどの参拝者が、旧奈良街道からは反対側になる旧24号線の広い県道から車で参拝されるので、旧奈良街道側の駐車場出入口は閉じておられるのでしょうが、せめて歩行者は通行可能にしてほしいです。
特に楼門のお姿は奈良街道側から見た姿が非常に美しいのですが、旧奈良街道に駐車場から抜けられないため、境内だけ見て帰ってしまわれる参拝者の方も多いようなので非常に残念です。
奈良監獄のホテルが開業すれば、奈良街道側の人通りも増えるかもしれませんし、ぜひ奈良街道側にも入山口の設置をお願いしたいところです。
植村牧場
般若寺楼門のお向かいに、植村牧場があります。
売店やカフェレストランが併設され、とれたての牛乳で作られたソフトクリームなどの乳製品をいただくことができます。
散策中、一息入れるにはぴったりのスポットです。
もちろん牧場なので、牛さん、羊さんたちに親しむこともできます。
訪問した日も、小さなお子さん連れの皆さんが、楽しそうに動物たちと一緒に写真を撮ってらっしゃいました。
こちらは牧場に併設されたカフェレストランいちづ。
カフェレストランや売店の営業情報は以下の通りです。
■カフェレストランいちづ
営業時間:11:00~16:00、ランチラストオーダー~14:00(水曜定休)
■売店
営業時間:11:00~15:00
※名物のソフトクリームは、売店でしか販売していませんので、ご注意ください。ただし、パフェなどソフトクリームを含むメニューはレストランにもあります。
訪問した時刻が遅かったので、売店ではなくカフェレストランの方に入りました。
メニューは以下の通りです。
私はいちづ特製パフェをいただきました。
オーダーした時、店員さんから「パフェ大きいですよ!大丈夫ですか!?」と念押しされましたが、確かに大きい!
フルーツいっぱいで、植村牧場さんの名物商品でもある牛乳もなかも入っています。
ボリューム満点でしたが、スイーツ大好きなのでぺろりといただきました。
奈良坂を今回歩いてみて、鎌倉時代から近代までの見所が、それほど広くないエリアにギューッと詰まっていて、散策にはもってこいの場所と感じました。
ぜひ陽気の良い時、皆さんも訪れてください。
<参考文献>
日本城郭大系10巻 三重・奈良・和歌山の城郭を網羅的に解説した城郭総合事典です。 |