大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

江戸の町割りと風情を残す穴場の散策スポット、御所まち。圓照寺寺内町、東御所の町

皆さんこんにちは。

 

前回に引き続き、奈良県御所市の中心街区、御所まちをご紹介します。

※前回ご紹介した西御所の記事はこちらです。

www.yamatotsurezure.com

今回ご紹介するのは、葛城川を挟んで東側、東御所です。

前回ご紹介した西御所は、商家町をルーツとしていますが、東御所は大和五ヶ所御坊の一つ、御所御坊圓照寺を中心とした寺内町として、発展した町となります。

 

場所はこちら。

近鉄、JR御所駅からも近く、京奈和道の御所インターチェンジからのアクセスも便利な場所です。

 

東御所のエリアは西御所に比べると一回り小さなエリアになります。

国土地理院HP地図から作成

大橋通周辺

東西の御所町を結ぶ大橋から、東に延びる大橋通を進みます。

町に入ってすぐの路傍にある安位寺の町石

水道工事で偶然発掘されたもので、1301(正安3)年の銘があり、全国では6番目、奈良県内では、銘文で設置年がわかる最古の町石とされます。

安位寺は役行者葛城山中に開いた庵の跡に、空海が建立した寺院で、最盛期には多くの子院を抱えた大寺院でしたが、16世紀初めの兵火で焼かれて衰亡し、廃寺となりました。

こちらの石は、安位寺が廃寺となった後、石材として転用するため、この場所まで運ばれたものと推定されています。

お城の石垣で転用石はよく見かけますが、町を造る際も利用されていたんですね。

町石からの転用なら、お地蔵さんやお墓より、利用するのに敷居が低いかもです。

 

虫篭窓の町屋。

軒下に大神宮と、愛宕さんが、一緒に祀られています。

 

圓照寺の裏に、東御所の西側環濠が残ります。

幅1メートル弱ほどの環濠が南北に伸びています。

圓照寺のあたりには往時の石垣がそのまま残っています。

 

大橋通沿いに立つ、大和絣(やまとがすり)の問屋さんだった町屋。

典型的な商家づくりのお屋敷です。

大和絣は江戸時代後期から昭和の中頃まで広く流通した綿織物で、ここ御所と大和高田が一大産地として知られました。

広陵町の靴下など、今でも奈良県内では繊維産業が盛んですが、大和絣はその嚆矢となったもので、御所や大和高田の繁栄を支えた商品でした。

大和絣の発明者、浅田松堂(1711~1777年)は、御所まちの住人で、圓照寺にお墓があります。

 

こちらにも、大神宮と愛宕神社が並んで祀られていました。

愛宕権現は火伏の神ですから、町の防火を願ってもともと祀られていたところに、折からの伊勢信仰ブームで、一緒に祀られたのかなと想像が膨みます。

 

圓照寺

町の中心に圓照寺があります。

浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は東向山。

1546(天文15)年、笑雲上人(桑山源吾)により常徳寺として開山した寺院です。

1600(慶長5)年に西本願寺触頭となり、1615(慶長15)年に圓照寺に改名。御所御坊として、西本願寺大和国葛上郡50寺余りを統括する、布教拠点となりました。

江戸時代後期の1820(文政年間)~1838(天保9)年にかけ、手狭となった本堂の建て替えをはじめとする、大規模な伽藍改修が行われ、現在の伽藍配置となりました。

 

正面に太鼓楼が立つ姿は、浄土真宗の大型寺院ではおなじみの姿です。

平成に入って大規模な修理が行われたそうで、白漆喰の壁が大変綺麗でした。

 

山門の裏にある竜の彫刻。

近世のお寺は、どこも木彫が立派になってきますね。

室町以降、仏像が不要な禅宗寺院が増えたことで、建築彫刻が盛んになり、江戸期に急速に発達して、禅宗寺院を中心に彫物宮大工棟梁という彫刻専業の宮大工が活躍するようになりますが、こういった彫物の装飾は江戸期の寺院建築の大きな特徴です。

個人的には鎌倉期の武骨な建築が好きなのですが、職人さんの細かい仕事も、味わい深いですね。

 

御坊の名にふさわしい、威風堂々の風格漂う本堂。

実際に見ると予想以上に大きいです。

 

境内の一角に、1831(天保2)年に建てられた当時の獅子口が、展示されていました。

平成の修理で交換されるまで、大屋根に座していた獅子口。

その高さは、3メートルほどはあるでしょうか。

本堂大屋根の巨大さが、もっとも実感できるのがこの獅子口でしょう。

 

本堂に連結された対面所。

こちらも立派な建物で、平成の修復で漆喰の白さが際立ちます。

 

こちらは鐘楼。

軒が広くて立派な鐘楼でした。

 

圓照寺山門前の通り。

東御所に比べると西御所は古い町屋の数はやや少ないですが、圓照寺の付近には比較的多く集まっている感がありました。

 

東御所の町並み

さて、東御所にもあった背割り下水ですが、西御所にも往時の姿をとどめています。

こちらは、元の酒造蔵建屋の下を通る背割り下水

 

区画をまたいで酒造蔵が建てられたんでしょうね。

道路にも背割り下水の案内板が埋められています。

ちなみに町の各所にこういった案内板や標識が設置されていました。

町の歴史的景観を伝承し、観光にも活かそうという御所の意気込みがとてもよく伝わる取り組みです。

 

東御所の東側の濠です。

こちらも石垣が残っていました。

東御所の環濠は四方全て残っていました。

今は住宅地の中を流れるため整備されたのか、幅はそれほど広くありませんが、かつてはもう少し幅があったのかもしれません。

 

寺内町の南側も町屋が比較的集まっている地域です。


大きな虫篭窓の町屋。

窓の形や壁の色を見比べながら歩くのも、楽しい町です。

 

こちらは町の南西角にたつ加茂大明神

御所のあたりは古代氏族、賀茂氏の本拠地なので、おそらく京都の賀茂社とは別系統、迦毛大御神(かものおおかみ)をお祀りしてるのかなと思います。
ちなみに、このあたりの地名は代官町

こちらの南側には、かつて桑山氏の陣屋があったとされ、町名から武家の役宅があったんだろうと思います。

 

東御所は西御所に比べると町屋の数は少なく、建て替えが進んできているエリアかと思いました。

それでも、町割りや環濠、背割り下水といった水路は、見事なくらい江戸時代のまま残されています。

 

さて、二回にわたって御所まちをご紹介しました。

東西両町とも、町の出入り口付近は遠見遮断で、町の中心に直進できない造りになっており、この点は中世以来の環濠集落の特徴を、色濃く残した町でした。

町内は家の建て替えが進み、今井町ほどに古い町屋が残っているわけではありませんが、古地図片手に町を巡り、往時の賑わいや町の風情を楽しめる空間が広がる町です。

 

近年、カフェや休憩スペースも充実してきていますので、ぶらりと散歩するのにおすすめです。