皆さんこんにちは。
今回は、平安時代から江戸時代まで度々起こった、多武峰妙楽寺(現談山神社)の「神像破裂」という怪異についてご紹介します。
かつて、天下に異変があるとき、妙楽寺の裏山で藤原鎌足の墓所がある御破裂山(ごはれつざん)が鳴動し、妙楽寺に祀られた鎌足の神像が破裂するという怪異が、幾度も起こり、破裂の記録は「多武峯大織冠尊像御破裂目録」として、現在談山神社の社宝として残されています。
しかし、この神像破裂という怪異は、一般にはほとんど知られていないと思います。
今回が初見という方も多いと思いますが、それはどういうことでしょうか。
寺社が発信する中世の怪異とは
さて、現在「怪異」といえば、幽霊や妖怪などが引き起こす、得体のしれない事象をイメージされるのではないでしょうか。
しかし、古代から中世にかけての怪異は、現在のわれわれのイメージとは少し違っています。
中世までの怪異とは、もっぱら神仏が、近々起こる凶事を予告するものとして発生する、原因不明の凶兆を指しました。
その内容といえば、山や建物、仏像が鳴動したり、寺社の境内で動物の死骸が見つかったり、建物が原因不明で倒壊したり、ほうき星や日食といった天体現象などで、現在とはずいぶんとイメージが違います。
神仏からの予兆ということは、怪異の発信源は基本的に寺社ということになります。
実際に平安末期から中世、様々な寺社が、多くの怪異を発信しました。
この怪異の発信がどこに向かって発信されたかといえば、時の権力者、おもに朝廷に向かって、注進されていました。
寺社が、どうして怪異を朝廷に注進していたのか。それは、古代以来の「鎮護国家」という思想のためです。
鎮護国家思想は、仏法の力で国家の安寧を保つという思想であり、平安時代以降、神仏習合が進行する中、神仏一体となって国家安寧のために奉仕することが、寺社の大切な役割とされました。
この鎮護国家思想のもと、寺社による怪異の注進が盛んにおこなわれるようになります。
先述のとおり、怪異は神仏が疫病や戦乱などの災害を予告する凶兆とされていました。
この来るべき災害を、神仏の力で未然に防ぐことが、寺社の受け持つ大きな役割であり、朝廷に代表される時の権力は、そのような寺社を支え、保護しなければならないという思想が生じました。
そしてこの思想は、以下のような政治プロセスとして確立していきます。
・寺社は発生した怪異を、迅速に朝廷へ報告する。
・報告を受けた朝廷は、独自に卜占を行い、報告された怪異が凶兆であるかを確かめる。
・朝廷の卜占でも、怪異が凶兆と認定されれば、朝廷は報告した寺社に使者を送り、神仏へ厄災回避を祈願させるとともに、必要な「支援」を行う。
一連の解決プロセスを行ったうえで災害が発生しなければ、「寺社と朝廷がそれぞれの責務を果たした結果、未然に災害が防がれた」ということになるわけです。
まさに、神仏を祭ることが、「まつりごと(=政治)」であったわけですね。
平安末期、寺社が多くの荘園を抱えて世俗権力化してくると、この怪異の解決プロセスが、寺社の世俗的要求を朝廷に働きかけるため、積極的に利用されるようになります。
多武峰の神像破裂は、まさにこのような中世的怪異そのものでした。
目的が、多武峰の世俗的権益確保であったため、この怪異の発信先は朝廷であり、一般大衆ではありません。
また、広く大衆の信仰を集めるために発信するものでもないため、エンタテインメント性も皆無です。
そのため、多武峰の神像破裂、御破裂山の鳴動という怪異が、世間的には当時から現在に至るまで、ほとんど認知されていないわけです。
神像破裂とは
それでは、神像破裂とは具体的にどのような怪異なのでしょう。
多武峰妙楽寺は、天智天皇の腹心の臣であった藤原鎌足の長男で僧の定恵が、父の墓をこの地に移して十三重塔を建立したことを発祥の寺院で、藤原氏にゆかりの深い寺院でした。
妙楽寺の詳細については、興味のある方は以下の過去記事もご参照ください。
この妙楽寺の聖霊院(現談山神社本殿)には鎌足の木像が祀られており、9世紀から江戸時代の初めごろまで、この神像が度々「破裂」したというものです。
「破裂」といっても、粉々に爆発するという訳ではなく、亀裂が入ったことを破裂といっていました。
この神像破裂は、藤原氏と国家全体の凶事を予告するものとされ、藤氏長者(藤原氏の氏長者)である摂関家のトップに注進されました。
注進を受けた藤氏長者は、しかるべきものを使者に立てて多武峰に祈謝を行います。
そして、使者が神像の前で告文を読み上げると、破裂は平癒したのだそうです(こっちの方がよほど怪異ですよね)。
神威をたてに要求を通すという意味では、強訴と通ずるところがありますが、実力行使を伴う強訴に比べて「穏当」だったためか、中世を通じて神像破裂は繰り返し発生しました。
繰り返される破裂
さて、平安時代から度々起こってきた神像破裂は、室町時代の中頃から、急激にその頻度が増します。
その原因は、大和国の戦乱が激化し、多武峰も当事者として巻き込まれていったことにありました。
特に南北朝以来、大和の覇権を争っていた筒井氏、十市氏と、越智氏、古市氏の抗争は、大和永享の乱から応仁・文明の乱を経て激化し、多武峰は対立する両陣営の争奪対象となっていました。
藤原氏との関係が深かった多武峰は、京の朝廷との強いつながりがあったため、自陣営の外交が有利に運ぶよう、両陣営から頼りとされたのです。
また、応仁・文明の乱以降、頻発した神像破裂の大きな特徴として、破裂の注進に対して、告文使がすべて派遣されているのですが、平癒しなかったり、平癒してから10日ほどで再び破裂が報告されるなど、連続して発生するケースが頻発した点にあります。
特に1496(明応5)年から1499(明応8)年にかけては、実に5回も立て続けに平癒と破裂を繰り返すという異常事態が起こります。
1493(明応2)年、管領細川政元が、将軍の足利義材を追放し、畠山政長を敗死させた、いわゆる明応の政変が発生しました。
この政変による混乱は大和を巻き込み長期化し、筒井氏は義材方、越智氏は政元方について激しく争い、多武峰も否応なくこの争いに巻き込まれていきます。
両陣営の争いが激化する中、1496年10月、多武峰は神像の破裂を注進し、吉田神道の創始者であり、朝廷で頭角を現していた吉田兼倶を、告文使として求めました。
朝廷の大物を告文使として招き、争いの仲介を期待したのでしょう。
しかし、兼倶はこれを謝絶。別の者が告文使に立てられ、翌1497(明応6)年3月11日に破裂は平癒します。
ところが、早くも3月20日には再び破裂が注進されました。
同月、多武峰衆徒は内部で筒井派、越智派に分かれ、激しく内部対立を起こしており、これの解決を期待したものでしょう。
多武峰より下山した越智派は、3月30日に援軍を引き連れ、周辺を焼き払うなど、対立は本格的な軍事衝突に発展していきます。
しかし、朝廷は3月20日に注進された神像破裂へ、一向に反応を見せず、7月には越智氏が多武峰を攻撃し、争乱は激化の一途をたどります。
立て続けの神像破裂という異常事態と、こじれにこじれた情勢にすっかり朝廷も腰が引けたのかもしれません。
9月に古市氏の仲介で、多武峰と越智氏の間でようやく和睦が成立すると、12月23日にようやく告文使が派遣され、神像は平癒されました。
ところが、神像平癒の翌日12月24日、あろうことか多武峰内部で再び闘乱となり、越智方の衆徒が自害に追い込まれるという事件が発生します。
神像の破裂が、争乱に対する神の怒りと主張しながら、多武峰自ら争乱を引き起すとは、自ら神の霊験を否定するに等しい行為といえますね。
さらに、翌1498(明応7)年1月1日、平癒から10日もたたないうちに、3回目の破裂が注進され、9月6日に告文使が派遣され平癒。
しかし、9月12日にはまたもや4度目の破裂が起こり、12月24日に告文使の遣使により平癒…したと思えば年が明けて1499(明応8)年1月3日は、ついに5度目の破裂が発生しました。
この繰り返しの破裂は、破裂の注進と告文使の派遣による平癒が、具体的な問題の解決に全くつながらなかったことの証左でしょう。
ましてや、多武峰自身が神像平癒の翌日に争乱を起こすようでは、その霊験は大いに傷つけられたのではないでしょうか。
この5度にわたる破裂に関して、興福寺の尋尊はその日記の中で、「こんなに破裂がいつまでも続くというのは稀代のこと」としたうえで「多武峰の悪行が原因ではないか」と述べました。
多武峰の霊験が、国家の変事の予兆ではなく、多武峰自身の悪行が原因ではないかという見方を、藤原氏と所縁の深い興福寺の高僧が残しているのが、多武峰の霊験に対する権威や畏れの低下を物語るものとして興味深いです。
破裂の終焉
続いて立て続けの神像破裂が起きたのは1506(永正3)年8月のことです。
多武峰の記録には、立て続けに3度の破裂が起こり、最初の2度には告文使が派遣されなかったとあります。
この時何が起こっていたのでしょう。
明応の政変以後、大和では管領細川政元と結んだ、越智氏、古市氏が優勢となっていましたが、1499(明応8)年頃から、足利義材派の筒井氏が巻き返しを見せていました。
それに危機感を感じた政元は、旗下の赤沢朝経を派兵して、直接討伐に動きます。
朝経は筒井氏、十市氏ら反抗する国人たちを撃破するや、それらの領地を没収。翌1500(明応9)年には没収した土地の支配をさらに強化し、興福寺をはじめとした寺社勢力へも圧迫を強めます。
大和国にとっては初めて経験する外部勢力からの軍事侵攻でした。
寺領を侵された興福寺、東大寺をはじめとした奈良の寺社は、神木同座をともなう強訴を行い、朝廷へ朝経の非道を訴えます。
また、この未曽有の外部勢力の侵攻に直面した大和国人たちは、1505(永正2)年に南北朝以来の恩讐を超えて団結。朝経に与する古市氏を除き、筒井氏、越智氏などほぼすべての国人たちが同盟を結ぶ、大和国人一揆が起こります。
翌年1506年7月、この大和国人一揆を制圧せんと、朝経は政元の命で再び大和に攻め入りました。
まさに大和の寺社と国人たちが、大和への侵略を進める管領細川政元と赤沢朝経と、激闘を繰り広げていたさなかに、この神像破裂は発生したのです。
しかし、この神像破裂が起きた翌月の9月には、多武峰の神威をものとしない朝経に、多武峰は焼き討ちされ、神像は何とか守られたものの、伽藍のほとんどを消失するほどの大打撃を被ることになるのです。
多武峰の神像破裂も、興福寺の強訴も、赤沢朝経の軍事侵攻を止める効力は持たず、戦国の圧倒的な暴力を前にして、平安以来の神威の発揚による問題解決のシステムが、まったく機能しなくなっていることは、すでに明らかでした。
さて、赤沢朝経による大和の蹂躙は、1507(永正4)年に管領細川政元が暗殺され、丹後に遠征していた赤沢朝経が、政元暗殺の混乱の中で戦死したことであっけなく終わります。
外圧のなくなった大和国でしたが、再び内部で争いが再燃。
多武峰も、かねてより争いが絶えなかった興福寺との抗争を再燃させました。
そんな中、1510(永正7)年から翌1511(永正8)年にかけ、立て続けに3度も神像破裂を注進します。
その前年末に興福寺が、多武峰に祀られた藤原鎌足を「放氏」するという訴えを、起こしていました。
「放氏」とは、貴族社会において、氏族からの追放という意味で、「放氏」されれば家柄で任命されていた貴族は官位を失い、貴族社会から追放されることとなります。
興福寺が中世強訴において、朝廷に自分たちの主張を飲ませられたのは、朝廷の中枢を占める藤原氏の公卿たちに、この「放氏」を切り札としてちらつかせてきたためでもありました。
このあたりの詳細は以下のブログで詳しく説明してますので、興味のある方はご覧ください。
興福寺の意図としては、多武峰の権威の源泉である藤原鎌足を「放氏」によって貶め、多武峰の立場を失わせたいという意図があったのでしょうが、藤原氏の始祖である鎌足を放氏したら、その子孫たちの立場はどうなってしまうんでしょう。
また藤原氏の氏寺であるということが、興福寺の権勢の源泉であり、自己の否定にもつながるこのような興福寺の主張は、公卿たちの失笑を買うものでした。
また、多武峰も紛争がなかなか解決しないことに業を煮やすように、破裂の内容について「横にも亀裂が走った」や「白蛇が15匹現れた」など、様々な「脚色」を加えていきます。
多武峰による神像破裂の濫発と、興福寺による藤原鎌足「放氏」の主張は、両寺院の霊験、権威を徹底的に低下させることになっていきました。
1607(慶長12)年、ついに最後の破裂が報告されます。
この破裂は、実のところ多武峰から発信されたものではなく、近隣の八幡社の神事で「多武峰の神像が破裂した」との神託があったとされています。
この破裂に際し、後陽成天皇の要望で、古代から今回まで、神像破裂の記録が収集・編纂されました。
この記録こそ、現在談山神社の社宝として残される、先述の「多武峯大織冠尊像御破裂目録」です。
そしてこの目録は、末尾に、天下泰平になったため以後破裂は起こらなくなった、と結ばれました。
最後の破裂は、まさに中世を通じて繰り返された「神威」の発揚を、終わらせるために仕組まれたものだったのかもしれません。
こうして中世の終わりとともに、多武峰の神像破裂という怪異は、永遠に封印されたのです。
<参考文献>
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次回はこちらです。
現在の談山神社についてはこちらをぜひご一読ください。