皆さんこんにちは。
奈良県に伝わる妖怪、怪異の伝承をご紹介してきましたが、今回はガタロについてご紹介します。
ガタロといわれて、ぴんとこない方も多いかもしれませんね。
日本各地に河童の伝承が伝わっていますが、奈良県地域では水辺に棲むといわれる同種の妖怪はガタロ、もしくはガタロウと呼ばれて伝承されてきました。
奈良県各地に伝わるガタロの伝承とは、どういったものなのか見ていきましょう。
下市町
奈良県内では、特に南部の吉野郡に多くのガタロの伝承が残されています。
まずは、下市町に伝わる伝承です。
下市町大字善城(ぜんぎ)にある浄土真宗の古刹、瀧上寺(りゅうじょうじ)の西側に吉野川の支流である秋野川が流れていますが、この川にガタロの伝承があります。
場所はこちらになります。
瀧上寺の裏にある銚子の淵にはガタロが出て、たびたび人々にいたずらをしていました。
ある日、瀧上寺の恵真和尚が便所に入ると、ガタロがいたずらで、和尚の尻を冷たい手で撫でました。
和尚はこの手を掴まえて離さないでいると、ガタロは堪忍してくれと謝り、和尚によく効く傷薬の製法を教えて許してもらいました。
この傷薬は明治の初年ごろまで、瀧上寺で売られていたといいます。
全国各地に伝わる河童の妙薬に類する伝承ですね。
いたずらした河童が懲らしめられて、薬やその製法を教えるという伝承は、全国各地に伝わっています。
また、河童の妙薬はたいてい傷薬や骨接ぎなど、怪我の治療に使う薬が多いのですが、この点も瀧上寺の伝承は一致しており、典型的な伝承といえるでしょう。
ガタロが出没したといわれる銚子の淵(口)は、なかなか神秘的な姿をしています。
増水時などははまると大変危険な様子で、ガタロが人を引きずり込んでも不思議ではない雰囲気をたたえる場所になってます。
五條市(旧大塔村地域)
五條市の旧大塔村地域に伝わるガタロは、非常に馴染みのある河童伝承になっています。
ちなみに当地ではガタロウ(河太郎)と呼ぶようです。
この地のガタロウは、人を川に引きずり込んでは「尻を抜く」と伝えられています。
日本各地に伝わる河童の伝承で「尻子玉(伝説上の臓器)を抜く」というものがありますが、おそらく「尻を抜く」とは、尻子玉を抜かれるということでしょう。
溺死者は肛門が弛緩して広がることがあるようで、その様が尻から何かを抜かれたように見えたことから、このような伝承が広がったと考えられています。
また、河童が好む遊びとして相撲が知られていますが、大塔のガタロウも相撲が好きだったようです。
ある日少年が土橋を歩いていると、橋の真ん中にガタロウが待ち構えて、「相撲を取ろう」と誘ってきました。
少年は腹が減っているので、ご飯を食べてから相撲を取ろうと断り、家に帰ってご飯を食べて土橋に戻りました。
ガタロウは少年を待っていましたが、少年が食べたご飯が仏さんに供えたご飯だったため、相撲をやめて川に飛び込み、去っていったといいます。
大塔では、仏様へ供えたご飯が「ガタロウ除け」になっていたようで、次のような話も伝わります。
ガタロウが出る淵に二人の子どもが来たとき、ガタロウが出てきて二人に泳ごうと誘いました。
二人とも誘いに応じましたが、一人は仏様への供え物のご飯を食べていたため、ガタロウに嫌われて命が助かり、供え物を食べていなかったもう一人は、ガタロウに連れていかれてお尻を抜かれてしまった、というものです。
河童に相撲で勝つには、仏前に供えたご飯を食べればよいという伝承が九州地方にはあるようです。
河童除けに「仏前に供えたご飯を食べる」というのは、福岡県久留米市が起源という話もありますが、はるばる大塔にまで伝播してきたのか、はたまた、同時発生的に大塔で生まれたものなのか、とても興味深いです。
また、大塔のガタロウに特有の伝承としては、ガタロウが川上に上っていくとき、おみやさんにお参りするというものがあります。
そのとき、ガタロウは石を一つ持っていくそうで、神主さんはガタロウが持ち出した石の数で、川上に上っていったガタロウの数を知り、子どもたちに注意を促したそうです。
どの伝承も子どもが関係するもので、川遊びを楽しむ子どもたちを水難から守りたいという、人々の想いが感じられますね。
川上村
川上村にもガタロと相撲にまつわる話が残されています。
昔、力の強い男が、ガタロと相撲を取って勝ちました。
負けたガタロは、男との約束で、毎朝ザルにいっぱいの魚を男に運ぶようになりました。
何年かして、通りかかった女が、ガタロのザルを捨ててしまい、それ以来ガタロが魚を運ぶことはなくなったといいます。
また、男に相撲に負けて以来、ガタロが谷で人に危害を加えることはなくなり、男は「川勝様」と祀られました。
ガタロ除け
大塔の「仏前に供えたご飯を食べる」以外にも、「ガタロ除け」の伝承が伝わっています。
天川村には、子孫が襲われないよう、ガタロと約束した家があったそうです。
その家の一族は、耳たぶに針で突いたほどの穴をあけ、目印としていたといいます。
かなり特殊なガタロ除けですね。
痛いのが苦手の私にはとてもできません。
また、橿原市南部の旧新沢村地域では、キュウリの初なりを川に流すと、ガタロの被害を封じることができると伝わっていたそうです。
もともと祇園神・牛頭天王への供え物として、初なりのキュウリを川に流す風習がありますが、水難除けを祈願した風習が、そのままガタロ除けになったのでしょう。
全国的にも河童除けに、初なりのキュウリを川に流す風習があり、河童の好物がキュウリというのは、この風習に由来するともいわれています。
北中和地域
県内のガタロ伝承は、多くが吉野地域に伝わるものですが、北中和地域にもガタロの伝承はあります。
奈良盆地の中央にある田原本町の法貴寺に流れる初瀬川には、河川改修以前には大きな深い淵があったそうで、水もきれいだったことから、プールがなかった時代、地元の子どもたちの水遊びの場となっていました。
そこには尻から血を吸う恐ろしいガタロが出ると伝承されていたそうです。
そのため、子どもたちは川に入るときは一人で泳いではいけない、長時間泳いではいけない、川にごみや石を投げてはいけないなど、強く戒められ、ガタロが怖かったのか、その戒めをよく守ったといいます。
法貴寺の初瀬川沿いといえば、「砂かけの怪」も伝えられています。
北中和地域の中、田原本町法貴寺エリアはなかなかの怪異密集地帯ですね。
続いては平群町の馬鍬淵(まぐわぶち)。
このあたりは竜田川が大きく蛇行し、たくさんの巨石が壮観な渓谷地帯となっているのですが、馬鍬淵はそんな場所にあります。
昔、近在のお百姓さんが、牛と牛にひかせる馬鍬をこの淵で洗っていたところ、急に淵が増水し渦が巻きだしました。
お百姓さんは命からがら逃げだせたものの、牛と馬鍬は渦に飲まれて、二度と上がってきませんでした。
「これは淵の主であるガタロの仕業」と人々は言い伝え、以来この淵は馬鍬淵と呼ばれるようになったそうです。
恐ろしい伝承が由来の馬鍬淵ですが、現在は平群北公園からの遊歩道も整備されていて、渓谷の景観をじっくり楽しめる場所になっているようですね。
さいごに
全国的に河童の伝承は広く伝わっていますが、奈良県内だけでも、多様なガタロが伝承されていますね。
他の地域と共通する特徴もあれば、独特なものもありますが、どの伝承にも水難事故への強烈な恐れと、それを防ぎたいという願いが感じられます。
プールが一般的ではなかった時代は、川や池で水遊びや水泳をしていたので、今よりずっと事故も多く、たくさんの犠牲者が毎年出ていたと思います。
一見、危険がなさそうな淵や池でも、実際は危険な場所も多く、そういった場所で事故が起こると、ガタロに引きずり込まれたということになったのでしょう。
一方、海なし県の奈良には関係ないですが、海で泳いでいて、河童のような魔物に引きずり込まれるという話は、ほとんど聞きません。
船を沈める船幽霊や海坊主の伝承はたくさんあるんですが、海水浴中に怪異に襲われるというのは、最近の怪談めいた話しかないと思います。
これは、そもそも日本人の中で海水浴をはじめとした海のレジャーを楽しむ風習が広まったのが、明治以降であったことが、大きな原因だと思います。
江戸時代まで、海は潮垢離(しおごり)を行う神聖な場所であり、神事以外は海女や漁師が必要に迫られて入るほかは、海に入って遊ぶことが一般的ではなかったからではないでしょうか。
神聖な場所で、そもそも危険な場所と認識されていたため、泳いでいて事故に遭った場合は、妖怪の仕業というより、海神の祟りや障りととらえられたのかもしれませんね。
全国的に多くの河童伝承が残されているのは、かつて川や池が、それだけ身近な存在であったことを示しているんじゃないでしょうか。
さて、今回取り上げた「ガタロ」ですが、実は、私が生まれて初めて教えてもらった妖怪でした。
三歳から五歳まで、保育園が終わってから母の仕事が終わるまで、母の実家で母の伯母さん(私からは大伯母さん)が私の面倒を見てくれていました。
その時、いろいろな昔話を聞かせてもらったのですが、そんな中にガタロの話があったのです。
今は埋め立てられて公園になってしまったのですが、母の実家の前には池があり、その池にはガタロが住んでいるから絶対に近づいてはいけない、近づいたら尻子玉を抜かれると何度も聞かされたのを鮮明に覚えています。
その池は、昔からおぼれて亡くなる子どもが多かったそうで、私が水難に遭わないよう、戒めてくれていたのだと思います。
公園になったその場所のあたりは、今は幼稚園児の息子とよく散歩するコースになっているのですが、いつか息子にガタロの話をしてあげようと思っています。
参考文献