大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

古代ロマンと江戸の面影が残る伊勢本街道の宿場町、榛原・萩原宿~おすすめ散歩スポット

奈良県内には古代からの街道沿いに発展した宿場町が数多くあります。

今回紹介する宇陀市中心街の萩原宿もそういった町のひとつです。

場所はこちら。

大和高原南部に位置し、宇陀市中心市街となっている場所です。

大阪と伊勢を結んだ伊勢本街道沿いには、往時を偲ばせる町並みが今も残り、散歩にぴったりの町でした。

 

街道の交差点・萩原

さて、萩原宿は町村合併で宇陀市となった旧榛原町中心市街でした。

榛原という地名がこの地に名付けられたのは明治になってからで、1889(明治22)年に町村制が施行されたとき、萩原村、福地村など12村が合併して村名を榛原村(はいばらむら)としたことが始まりです。

「榛原」の名は、『日本書紀』に記された神武天皇が天地の神霊を祭ったとされる上小野榛原(かみつおのはりはら)の場所が、萩原村北西部の鳥見山にあると比定されていたことに因んで採用されました。

その後、1893(明治26)年に榛原町となり、2006(平成18)年に宇陀郡の榛原町、大宇陀町、菟田野町、室生村の4町村が合併して宇陀市が誕生すると榛原町は消滅したものの、旧榛原町域の大字表示は「榛原〇〇(大字)」となって榛原の地名は残されました。

 

下図は現在の榛原駅周辺の航空写真に江戸時代までの街道を記入したものです。

榛原主要街道図(国土地理院HPより作成)

私も含め、非地元民は駅名から駅周辺を「榛原」と呼びがちですが、大字の萩原(現在の住居表示は榛原萩原)が中心市街となっています。

上掲写真の通り、萩原は東西に伊勢本街道が走り、町内の札の辻あを越え道伊勢表街道)と分岐、さらに熊野や南伊勢街道と通じる松山街道とも分岐します。

また、あを越え道を東に進み、大字・福地の庚申堂の辻でさらに大和高原北部の吐山へ至る山(吐山)道に分岐し、現在の榛原駅周辺は古くから東西南北に街道が交わる交通の要衝でした。

中世以降、伊勢参詣が盛んになったことで、街道が交差する萩原は宿駅となる一方、多くの参詣客や商人が行き交うことから萩原関が置かれ、在地勢力の大きな収入源となります。

江戸時代に入り伊勢参詣がますます盛んになると、往路に御杖から伊勢奥津方面へ抜ける伊勢本街道を利用し、復路を青山、名張を抜けて萩原に至るあを越え道を利用する参詣客が多くなり、両街道の分岐点で往路も復路も通過することになる萩原は、宿駅として栄えました。

札の辻を中心に、北の長谷寺方面には上町が、南の伊勢本街道筋には新町が、東のあを越え道沿いには東町が隣村である福地まで続き、丁字型の街村を形成。この町が近代榛原中心街の直接のルーツとなります。

江戸時代に榛原の中心街一帯は、1695(元禄8)年まで宇陀松山の織田氏が支配していましたが、お家騒動で織田氏丹波柏原へ転封されると、以後萩原は明治まで幕府天領となり奈良奉行により統治されました。

萩原の東に隣接する福地は、松山織田氏の2代当主・高長の三男・長政が、1660(万治3)年に兄で3代当主の長頼から3千石を分与されて旗本となり、その領地となって陣屋が置かれました。

福地の織田家交代寄合、すなわち参勤交代を行う大身旗本で、次代の信明の代からは高家旗本の格式を与えられて明治まで続きます。

 

明治を迎え陸上交通の中心が鉄道に転換すると、大阪~伊勢間の交通は関西本線参宮線のルートが主流となり、伊勢本街道の人流は消えて宿場町・萩原は急速に衰退しました。

しかし、1930(昭和5)年に参宮急行電鉄(現近鉄)の大阪線が延伸して榛原駅が開業すると、萩原は再び宇陀郡の玄関口としての地位を取り戻し、宇陀郡のみならず奈良県東部山間地域の中心都市として発展することになったのです。

 

新町界隈

それでは、早速旧街道沿いの町並みを散策しに行きましょう。

榛原駅南口からスタートです。

駅前の商店街を東に200mほど進むと、旧伊勢本街道に突き当たります。

札の辻から南へ伊勢本街道沿いに延びるのが新町

萩原の中心市街として、近代にかけて最も早くから発展した場所でした。

こちらは登録古民家・池田家住宅

1874(明治7)年の建築ですが、つし二階の虫籠窓に江戸時代の面影を色濃く残す町屋になっています。

街道沿いは、昭和初め頃までの住宅がまだ多く残っています。

伊勢本街道を南下すると恵比須神社の鳥居が見えてきました。

「榛原えびす」の通称で親しまれるこちらのお社は、創建年不詳ですが、1715(正徳5)年に火災で焼失していったん廃絶し、1899(明治32)年に再建されました。

現在は宇陀川対岸に鎮座する墨坂神社の境外末社となっています。

毎年2月10日に「榛原初えびす」が開催され、露店も出て大いに賑わうようです。

2020年の榛原初えびすの様子を収めた動画を見つけたのでリンクしました。

 

墨坂神社

伊勢本街道を南に進むと、宇陀川対岸に墨坂神社が見えてきました。

墨坂神社の正確な創建年代は不詳で、社伝よれば崇神天皇9年に疫病が国内に蔓延する中、天皇が夢に神が現れ、墨坂神を祀れとの夢告に従って創建されたとされます。

当社を創建後に疫病がおさまったとされるので、「日本最古の健康の神」と墨坂神社のHPでは紹介されていました。

最初は現在の桜井市との境にあたる西峠に祀られていましたが、1449(文安6)年に現在の位置に遷座されました。

祭神は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 、高皇産霊神(タカムスビノカミ) 、神皇産霊神(カンムスビノカミ) 、伊邪那岐神イザナギノカミ) 、伊邪那美神イザナミノカミ)、大物主神(オオモノヌシノカミ)の六柱で、総称して墨坂大神(スミサカオオカミ)と呼ばれます。

明治の初めまでは、遍照山薬王院天野寺が神宮寺を務める神仏習合の社で、六社権現と呼ばれていましたが、1871(明治)年に墨坂神社と改称されました。

 

宇陀川右岸の小さな河岸段丘上に鎮座している神社です。

2021(令和3)年に本殿の修復と新たな社殿の造営が完了したそうで、真新しく美しいお社です。

 

拝殿奥の本殿は、元々1844(天保15)年に建立された春日大社の本社本殿。

文久造替時に下賜されて、1864(元治元)年に当地に移築されました。

春日大社の本社、若宮の本殿は、江戸時代まで20年に一度の式年造替で旧社殿が近隣の神社に移築され、この風習を「春日移し」と言い、現在の墨坂神社本殿も春日移しで移築された社殿になります。

ちなみに明治以降、春日大社本殿は国宝指定されたために建て替えされることが無くなり、本殿の春日移しは廃れてしまいました。

ただし末社、摂社は建て替え可能なので、2016年の第60次造替で建て替えられた摂社本宮神社社殿が、京都府笠置寺に再建された春日明神社の本殿として移築され、伝統的な風習は今も続いています。

現在の春日大社の国宝本殿は文久造替で建立されたものなので、墨坂神社の本殿は現春日大社本殿の一代前になりますが、こちらは特に文化財指定されていません。

江戸時代に建立された春日大社の移築本殿は、数が多いせいか文化財指定されてないケースが目立ちますね。

国宝の現本殿より歴史があり、春日移しの風習を伝える社殿として文化財としての価値も高いと思うんですが(苦笑)。

 

本殿の南東奥に龍王があり、水の女神として知られる罔象女神(みつはのめのかみ)が祀られています。

こんこんと御神水が湧き出しています。

神水の名前は「波動水」とのこと。

説明板の内容はなんともスピリチュアル…^^;というか怪しげな通販の謳い文句のようです。(個人的には、こういうの嫌いじゃありません(笑))

「効能 当社 5万パワー(水道水の100倍)」???

「波動カードを用いて体の毒素を出し」???

など、いくつか意味がよくわからない説明が(笑)

 

お賽銭してから、波動水を一杯戴いてみました。

なめらかな舌触りの天然水でした。

こちらのお水は奈良県が指定する名水・やまとの水にも選定されており、古くから地元の人に親しまれてきた湧き水であることは間違いないようです。

墨坂神社から宇陀川沿いに東へ500mほどの場所にも、名水として知られる弘法大師の岩清水もあり、当社の鎮座地は豊富な伏流水が流れている場所なんでしょうね。

 

榛原空襲戦跡

伊勢本街道を北へ向かって引き返し、近鉄大阪線のガード下までやってきました。

ここは1945(昭和20)年7月24日、死者11名、負傷者27名と奈良県下で最大級の犠牲者を出した榛原空襲の戦跡です。

午前9時頃、通勤客で混雑する大阪方面行の電車が機銃掃射を受け、その時の弾痕が生々しくコンクリートの壁面に残されていました。

伊勢本街道の東に並走する国道369号線沿いには、1975(昭和50)年に建立された供養塔があります。

奈良県下では数少ない太平洋戦争の戦跡で、日常が一転して惨劇の舞台と化す戦争の恐ろしさを実感できる場所になっています。

付近を訪れる機会があれば是非ともお立ち寄り下さい。

榛原空襲については下記記事でも詳しくご紹介しています。

札の辻

榛原空襲の戦跡から大通りを挟んで北側に、伊勢に通じる街道にはお馴染みである大神宮の常夜灯があります。

常夜灯のすぐ北側にある三叉路が、伊勢本街道とあを越え道が分岐する札の辻です。

「札の辻」の名が示すように、江戸時代はこの場所に高札場がありました。

道標には、

右 いせ本か以(い)道

左 あをこ江(え)みち

とあります。

 

札の辻に建つあぶらやは、現在当地に残る唯一の江戸時代の旅籠建築です。

江戸後期から末期の建築で、明治の末頃まで旅館営業していました。

現在は宇陀市歴史文化館となっていて、内部も無料で見学可能です。

ただ訪問した日は休館日で内部見学ならず。

火曜なら開いてるだろうと高をくくってきたのが間違いでした(泣)これは再訪せねば。

■基本情報

・開館時間 10:00~16:00

・休館日 毎週月、火(祝日の場合は開館し、翌日休館)、12月15日~1月15日

・駐車場なし

上町~墨坂伝承地

札の辻から北は上町で、初瀬へ続く街道が伸びています。

伊勢本街道の大きな看板。

2つ目の大きな看板の北側で道が分岐しますが、伊勢本街道はここで西に折れます。

分岐する辻に建つ民家の中に「墨坂伝承地道」の道標がありました。

塀で隠れてて、ちょっと見えないかも。。。

下記ルートで墨坂伝承地を目指します。

10分足らずで墨坂伝承地の碑にやってきました。

現在石碑以外、往時の痕跡を示すものは何もありませんが、墨坂神社が最初に創建されたのがこの辺りと推定されています。

 

さて、墨坂の名の由来は、神武東征の故事に因みます。

月岡芳年『大日本名将鑑』より「神武天皇

大和へ侵攻した即位前の神武天皇は、生駒山長髄彦の抵抗に遭って撃退されると、転進して熊野から宇陀に入り、東から奈良盆地を目指します。

この時、長髄彦の軍は墨坂に展開し、山を焼いて防戦しましたが、神武天皇宇陀川(菟田野川)の水で鎮火して、敵の不意を衝き勝利を収めました。

長髄彦軍の山を焼く戦術を「いこり炭」といい、そこから墨坂と名付けられたと伝えられます。

墨坂での激戦を制した神武天皇は、西峠を越えて桜井へ進軍し、大和を支配していた饒速日ニギハヤヒ)を降し、橿原の地で即位しました。

 

また、墨坂は壬申の乱でもその名が現れます。

大海人皇子方として飛鳥で挙兵した大伴吹負は乃楽山(平城山・現奈良市)で近江朝・大友皇子方の軍に大敗しますが、再起を図って撤退し、不破関関ヶ原)から派遣された援軍と合流したのが墨坂です。

墨坂から反転攻勢に出た吹負は、当麻の戦い、箸墓の戦いで近江朝軍を撃破し、大和は大海人皇子方によって制圧され、壬申の乱における大海人皇子方の優勢がほぼ確定しました。

 

この二つの戦いからも、榛原駅を中心とするエリアが軍事上の要衝であったことが分かります。

江戸時代、宇陀松山の織田氏丹波柏原へ転封された後、幕府が直轄化したのも納得ですね。

 

東町~金平稲荷神社

札の辻から東へあを越え道(伊勢表街道)を進みます。

あを越え道は、名張に向かう道で、現在の近鉄大阪線は榛原からはこの旧街道に沿って設置されました。

現在の中心市街から少し離れているためか、伊勢本街道沿いよりこちらの方が古い町屋が多く、旧街道沿いの雰囲気が色濃く残されている印象です。

煙出しのある立派な町屋です。

登録古民家・奥田家住宅が見えてきました。

明治の初め頃の建築。二階の大きな窓が明治以降の建築の特徴です。

旅籠を除いて江戸時代の街道に面する町屋の二階は、武士の頭上を見下ろすことが無いよう、階下を覗けるような大きな窓の設置が原則禁じられていました。

そのため、窓があっても虫籠窓のように下を覗けない構造になっていたのですが、明治以降は四民平等の世となって規制がなくなり、二階にも広い窓が設けられるようになります。

 

東町の東端、ちょうど福地集落との境界付近に鎮座する金平稲荷神社

朱塗りの鳥居が鮮やかですね。

創建は約250年前とのことで江戸時代の18世紀と、比較的新しいお社です。

神社前の掲示板によると、諸国を漫遊していた武士が当地に宿泊した際に霊感に打たれ、土地の者に神社を創建するよう勧めて建立されたとのこと。

街道に面した小山の中腹に境内があります。

 

こちらがご本殿。

本殿の他、不動明王堂、庚申堂、地蔵堂など仏教の堂もあり、神仏習合の旧態を遺す神社です。

 

境内からの見晴らしは抜群で、かつての宿場町を一望できます。

椋下神社~庚申堂の辻

あを越え道を東に進むと、福地の集落の入り口に椋下神社(むくもとじんじゃ)の鳥居が見えてきました。

ご祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。

高倉下は、熊野上陸時に毒気に当たって気を失った神武天皇に横剣を献上してその危機を救った人物とされています。

神社の創建年は不詳ですが、705(慶雲2)年に文武天皇が神武東征における高倉下の功を賞して創建されたと伝えられています。

ちなみに社名の「椋下」については、「くらげ」「むくした」など諸説あり、先に記載した「むくもと」は現在神社前に建つ掲示板の読みです。

もとは現社地から1キロほど東、宇陀川左岸の福地岳山中に鎮座していたとされ、近世以前に現社地へ遷座されたとのことで、天保六(1835)年、嘉永六(1853)年の棟札が残されていることから、江戸末期には現在の社地に鎮座していたと考えてよいでしょう。

こちらの神社も、墨坂神社と同様に神武東征に所縁のある神社となっています。

 

本殿は切り立った崖の上にあります。

社殿は伊勢神宮と同じ神明造。

こちらは境内の地蔵堂

江戸時代までは桜嶋寺という神宮寺があり、文政(1818~1831年)の終わり頃に廃寺となりましたが、本尊であった地蔵菩薩像がこちらの地蔵堂に安置されています。

 

椋下神社から再び街道に戻り、伊勢方面へ向かいます。

緩やかに折れる道筋が絵になる道。

歩いていてカーブで先が見えないところが、わくわく感を高めてくれるポイントです。

 

あを越え道と山(吐山)道の分岐である庚申堂の辻に到着しました。

この辻を右に折れると名張、伊勢方面、左に進むと大和高原の都祁・吐山(現奈良市)へと通じます。

庚申堂の辻にはお地蔵さんと常夜灯もありました。

庚申堂の辻にある小さな道標。

右 いせ

左 は山道

とありました。

 

今回初めて榛原駅周辺の旧街道沿いを散策してみましたが、建物の建て替えが進んでおり旧街道の風情を残す場所は、東町から福地に至るエリアのごく一部となって市の、市の資料館となっている「あぶらや」の建物以外は、遠からず姿を消してしまうかもしれません。

すっかり近鉄沿線の「新興住宅地」となってしまい、かつての宿場町の風情は消えつつありますが、伊勢と奈良、京都、大阪をつなぐ伊勢本街道の宿場町だった痕跡が一つでも多く、末永く伝えられていくことを願います。

 

参考文献

『榛原町史』 榛原町史編集委員会 編

丹波市界隈・天理市中心街を歩く~上街道散歩(3)

奈良県天理市というと、市内中央部に天理教の施設が集中する宗教都市のイメージが今ではすっかり定着していますね。

天理市は現在全国で唯一、特定の宗教法人の名称を冠する市ですが、1954(昭和29)年に奈良県で4番目に市制を施行した時、市名の由来について選定理由書には全国的に有名な天理教の中心地であるとともに「関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく」とあります。

ところで現在の天理市中心部は、町村合併で市制施行されるまでは、丹波市という名前でした。

丹波市上街道沿いの古い歴史を持つ町で、実は現在も江戸時代以前の古い町並みが残されている地域です。

上街道沿いに続く丹波市の町とはどんな場所か、天理市中心街を散歩してきましたのでご紹介します。

 

山辺郡の中心地・丹波市

丹波市の町は、おおよそ下図の赤い網掛けの範囲にあたります。

丹波市概略図(国土地理院HPより作成)

現在の天理市中心部からは少し南側、古代から奈良と桜井を結んだ上街道(上ツ道)沿いに町場が広がるエリアです。

平安時代から現れる丹波庄の市場町で、「丹波市」の名は室町時代から史料に見え始めます([『大乗院寺社雑事記』寛正三年八月五日条)。

元々丹波庄の集落は、現在の上街道沿いから少し西、丹波市町西交差点付近の字・奥之垣内にありましたが、上街道の人通りが増えるにつれ次第に街道沿いに集落の者が移住し、中世には月に6回開かれる、いわゆる六斎市の場になったと見られます。

近世に入ると、上街道沿いに沿って本町、中之町、南ノ町、中島町、北ノ町、新町と町場として発展していきました。

丹波市は江戸時代の初め幕府領でしたが、1619(元和5)年に徳川頼宣が和歌山に入って紀州徳川家を立藩すると、伊勢の藤堂家領の一部が紀州藩へ振り替えられることになり、その代替地として丹波市を含む山辺郡が藤堂家領となりました。

この時、山辺郡の他、大和では添上郡十市郡山城国相楽郡など合わせて約5万石が藤堂家領となりますが、丹波市は伊勢、伊賀、大和、山城と四か国に及ぶ広大な領地を結ぶ流通ネットワークの中で、主要な宿駅の一つとして整備されます。

そして江戸時代を通じて、大和国内では古市(現奈良市)、櫟本(現天理市)、桜井(現桜井市)とともに藤堂家の流通センターとして機能することになりました。

丹波市は経済的に富裕だったらしく、藤堂家へ巨額の貸し付けを行う富豪が幾人も現れた他、1799(寛政11)年の大神宮月参詣の文書に記された世話人15人、寄付者145名の名の内、屋号を有する者が約100名おり、全員が商家だったとは限らないものの、多くの商人が集住し、軒を連ねていたことが想像できます。

 

明治維新後、丹波市はいったん津県に編入された後、1871(明治4)年11月に大和国内の10県が統合され、奈良県に入りました。

1889(明治22)年に市制・町村制が施行されると、丹波市村を中心として山辺村が誕生し、ついで1893(明治26)年には丹波市町が誕生。

丹波市には町役場の他、1897(明治30)年には山辺郡役所が置かれ、地域の政治・経済の中心地として近代を歩むことになります。

 

丹波市の町並み

それでは現在の丹波市の町を、旧上街道沿いを中心に北ノ町から南へ歩いて行きます。

北ノ町~中島町

現在国道25号線より北側は、ほとんどが川原城町です。

本来丹波市と川原城は別集落ですが、小字の分布から丹波市北端の北ノ町エリアは、街道沿いに現在の川原城町まで伸びていたようです。

国道25号線丹波市町交差点。

こちらから南が昔からの丹波市エリアになります。

交差点に奈良の街道筋ではお馴染みの大神宮の常夜灯がありました。

上街道は三輪、桜井で伊勢本街道と接続するので、江戸時代は伊勢神宮への参詣客で大変な賑わいを見せました。

 

こちら中島町は布留川北流と布留川に挟まれた地域になります。

布留川を渡ります。

この場所には1907(明治40)年ごろまで、古墳の石棺の蓋だった巨石を転用した石橋が架けられ、青石橋と呼ばれていました。

架け替えられた巨石は、この場所から南へ200mほどの場所にある市座神社の境内に移され、現在も残されています。

 

ところで、天理市中西部は水源に乏しく、布留川はこの地域に流れ込む唯一の河川で、非常に貴重な水源です。

全国的に大事な水源となる山は「竜王山」とか「龍王山」と呼ばれますが、こちらの布留川の水源となる山も「龍王山」と呼ばれ崇敬を受けました。

本町

布留川を渡って南側が本町

丹波市の最も古くからの街区と考えられ、今でも江戸から明治期の建物と思しき町屋が点在しています。

中島町から上街道は緩やかに東へ向かってカーブし、本町の中ほどで鋭角に南へ折れます。

虫籠窓と美しい白漆喰がおしゃれな呉服屋さんです。

本町地区は今でも2軒の呉服屋さんが暖簾を守ってらっしゃいます。

立地的に今この場所で商売は厳しいのではとも思いましたが、後で色々調べると天理教の祭儀服なども扱ってらっしゃるようなので、なるほどと思いました。

たいてい、小さな町の昔からある呉服屋さんで残っているパターンは、地元の学校の制服扱ってるとか、太くて永続性のある客を掴んでるお店が多いですよね。

 

仲之町

本町の南側は仲之町で、こちらは旅宿や飲食店が建ち並ぶとともに、市場があったエリアです。

急に道路が広くなりますが、実は道路中央の路面がコンクリートのところは暗渠化された水路で、水路を挟んで東(写真左)側の道路が市場の跡になります。

 

ところで、戦前まで賑わった市場時代の陽屋根(アーケード)の一部が、かつては下のGoogleストリートビューのように保存されていましたが、2022年1月に惜しまれつつ撤去されました。

公道上にいきなり屋根が出てくるので、なかなかインパクトのある風景ですね。

元は魚市場の魚を直射日光から守るための陽屋根だったそうで、1950(昭和25)年のジェーン台風でほとんどの屋根は飛んでしまったものの、この屋根は残ったそうで、その後も住民の手で守られてきたそうです。

ただ、やはり市道上に建造物があるのは道路交通法上問題があり、老朽化も進んで危険とのことで市と保存していた住民で協議した結果、撤去することになったとのこと。

 

さて、江戸時代まで丹波市には郡山と同様、非公認の遊郭がありました。

資料によると仲之町の市場の通りを挟んで幕末には7軒の遊女屋があったようです。

丹波市の遊女屋の歴史は古く、1570(元亀元)年の『布留社丹波領惣田数帳』には丹波市在住の商人の屋号がいくつか見られますが、その中に「くつわや」があります。

轡屋は一般的に遊女屋を指しますので、室町末期から近世初頭にかけて宿場としての発展とともに遊女屋も現れてきたと見られます。

ちなみに江戸時代、公許遊郭は奈良の木辻のみで、その他の場所で遊女屋を営めば取り締まりの対象となりました。

そのため幕末、丹波市でも9軒の煮売屋(食事を出す旅宿・飲食業者)が隠売女営業で取り締まりにあったと記録されています。

人の往来が絶えない宿場町で非公認の遊所が発生するのは、東海道五十三次の宿場町に必ず飯盛女と呼ばれる遊女が存在したことからもわかるように、近世においてはごくありふれたことでしたが、丹波市の遊女屋には極めて特異な特徴がありました。

それは、主要な遊客が明治の廃仏毀釈で廃寺となった内山永久寺の僧侶だったことです。

※内山永久寺については下記の記事で詳しく紹介しています。

内山永久寺は石上神宮神宮寺で、大和では東大寺興福寺法隆寺に次ぎ、4番目の寺格を持ち、壮麗な伽藍から「西の日光」と呼ばれました。

江戸時代には50~60の塔頭をもつ巨大寺院でしたので、数百人の僧侶が暮らしていたはずです。

当寺、公に妻帯できない僧侶は、一般的に隠れて妻を囲ったり遊所に通ったりすることも多かったようですが、内山永久寺の僧たちが足しげく通うことで丹波市の遊女屋は成り立っていたのです。

ちなみに、江戸時代の僧侶は女性と同衾するのはご法度で、「女犯」の罪は幕府直轄地では徳川吉宗の時代までは死罪となる大罪でした(吉宗の時代に流罪遠島に変更・・もっとも当時の島流しは半分死刑のようなものですが…)。

しかし、明治初年に内山永久寺は廃仏毀釈の風潮の中で廃寺となり、僧侶たちは全員還俗。

主たる遊客だった僧侶が消えたため、次々と丹波市の遊女屋は廃業、転業を余儀なくされました。

1873(明治6)年、前年に芸娼妓解放令が出されて遊女屋の取り締まりが厳しくなる中、奈良県初の新聞「日新記聞」は丹波市の遊女屋・屋根屋が、抱えていた遊女を解放したと記事で伝えています。

当寺、奈良県警は木辻・元林院(ともに奈良市)以外(後に大和郡山の洞泉寺、東岡町が加わる)での貸座敷営業を認めておらず、取り締まりが厳しかった面もあるでしょうが、後に風呂屋へ転業した屋根屋の子孫は、内山永久寺が無くなって僧侶がいなくなり、経営がなりたたなくなったと1936(昭和11)年刊行の『御存命の頃』の中で証言しています。

こうして、明治の初め頃に丹波市の遊女屋は、内山永久寺とともにひっそりと姿を消しました。

 

それにしても、内山永久寺の僧侶たちが寺領からのアガリで修行もせずに連日遊郭で遊興に耽る姿を、地元の人々がはたしてどんな目で見ていたのかと想像すると、伝統ある大寺院でありながら、廃寺から10年もたたないうちに、地元民の手によって徹底的に破壊されて消滅した大きな原因が、僧侶の遊郭通いを含めた日頃の行いにあったのではないかと思わざるを得ませんね。

 

市座神社

中之町の東側に鎮座しているのが丹波市氏神が祀られた市座神社です。

江戸時代までは妙見大菩薩末社夷神社が祀られ、社名は生土神社とされていました(嘉永年間の控帳による)。

境内には真言宗寺院の善住寺が神宮寺として併設され、当時としてオーソドックスな神仏習合が色濃い神社だったと言えるでしょう。

中世には丹波庄の元々の集落であった奥之垣内に祀られていましたが、上街道沿いに集落が移転するにあたって、現在の社地へ遷座したと考えられます。

神宮寺の善住寺は、布留郷32ヶ寺からなる中筋諸山の一つで、輪番で石上神宮(布留社)の社僧を務める由緒ある古刹でしたが、明治の初年に神仏分離令で廃寺となり、本尊の観音立像は当地から少し北、上街道沿いの布留川北流河畔にある久保院へ移されました。

堂宇は1876(明治9)年に丹波市小学校の仮校舎として使用されるなどしましたが、1877(明治10)年には取り壊され、替わって新たな社殿が設けられます。

そして同年、社名も生土神社から市座神社とし事代主命主祭神として祀る神社となりました。

 

市座神社の入り口の北側にある境内社恵美須神社

江戸時代の社伝には丹波国から蛭子神を勧請したとあり、郷の氏神として妙見神を祀る一方で、市場・宿場町である丹波市の市神として、蛭子神が祀られてきました。

 

こちらは市座神社の拝殿。

国宝である石上神宮摂社・出雲建雄神社拝殿を模した割拝殿(中央部分が土間の拝殿)となっています。

 

境内の南側に並ぶ石灯籠には、妙見社と刻まれていました。

こちらが境内社妙見社

現在の祭神は事代主命になっていますが、もちろん江戸時代までの祭神は、仏教の神である妙見菩薩でした。

1654(承応3)年、1683(天和3)年、1703(元禄16)年に正月の奉射神事である結鎮(けち)が行われた記録が残り、善住寺の観音講とともに江戸時代は丁重に献供が行われていたことが分かります。

妙見菩薩は明治の神仏分離令で「消された神」ですが、祭神が事代主命と改められても、社名に「妙見」の名を残すことで「妙見さん」として親しまれ続けているんでしょうね。

 

こちらが先述の1907(明治40)年頃まで布留川に青石橋として架橋されていた青い巨石。

古代の古墳で石棺の蓋として使われた巨石が、中世から数百年もの間、上街道を往来して布留川を渡る人々の橋として利用されたというのは、歴史的なロマンを感じる遺物ですね。

 

巨石の前には、丹波市町道路元標もありました。

元は中之町の水路沿いに建っていたそうで、水路が暗渠化されたときに道路の中央部に突き出る形になったため、この場所に移転したとのこと。

 

市座神社を出て南へ向かい、丹波市郵便局から浄国寺付近までが南ノ町です。

道路におそらくかつての市場のゲートと思しき構造物が残されていました。

天理駅前~天理本通

折角なので、現在の天理市のメインストリート、天理本通も少しご紹介しましょう。

天理本通はJR・近鉄が乗り入れる天理駅から天理教本部までをつなぐ全長800m余りのアーケード街です。

 

こちらが天理駅で、天理市の玄関口となっています。

1898(明治31)年に奈良鉄道(現JR奈良線と桜井線の奈良~桜井間を敷設した会社)の丹波市として開業したのが始まりで、後に関西鉄道を経て国有化され1909(明治42)年に桜井線の駅となります。

1915(大正4)年には天理軽便鉄道(現近鉄天理線を敷設した会社)のターミナル駅が開業し、駅名は天理駅とされました。

天理市が誕生する40年も前に、当時自治体名ではなかった「天理」を駅名としたのには驚かされますが、元々天理軽便鉄道天理教信者の旅客輸送を念頭に設立された会社だったので、他の地方の人にもわかりやすいよう「天理」とターミナルに冠したのでしょう。

 

1954(昭和29)年に町村合併で天理市が誕生しましたが、国鉄の駅名は丹波市駅のまま変更されず、9年後の1963(昭和38)年に天理市となりました。

そして1965(昭和40)年に駅の高架化による移転をきっかけに近鉄と駅舎を統合し、国鉄天理駅と改称して現在に至ります。

 

天理駅前の広場は2017年に多目的広場「CoFuFunコフフン)」として大幅リニューアルされました。

古墳をモチーフにした野外ステージの他、子どもが楽しく遊べる遊具やカフェもあり、頻繁にイベントも催されています。

イベントを楽しむもよし、ゆっくりお茶するもよしで、個人的には奈良県内の駅前広場で、一番充実度が高い印象があります。

※詳しくは公式のHPをご覧ください。

 

駅から東へ進むと天理本通のアーケードが見えてきます。

商店街の看板はコフフンの開場に合わせて、デザインが一新されました。

こちらはアーケードの中。

人通りは結構あります。

天理教本部へ向かう人もありますが、やはり高校、大学など学生が大変多いので、夕方になると人でいっぱいになります。

 

国道169号線との交差点。

こちらの看板は昔ながらの看板ですね。

 

こちらは1877(明治10)年創業の稲田酒造さん。

杉玉がいい色になってますね。

お酒の他、奈良漬も有名なお店です。

天理教本部

天理駅から天理本通を東へ10分ほど進みアーケードを抜けると、天理教本部の巨大な木造建築が姿を現します。

1875(明治8)年、教祖・中山みきが定めた聖地「ぢば」(天理教では全人類の魂の発祥地とする場所で通常「おぢば」という)に据えられた「かんろだい」のある神殿を中心に、四方を囲むように礼拝殿が建てられています。

ちなみに天理教では「おぢば」を全人類の霊的な故郷とするため、人々がこの地を訪れることを「おぢばがえり」と呼びます。

天理市中心市街に入ると、町のそこかしこに「ようこそお帰り」とか「お帰りなさい」という看板や掲示を見かけるのは、この「おぢばがえり」という宗教的思想に基づくものです。

 

天理教本部が広がる天理市三島町一帯は「親里」とも呼ばれますが、元々は中山みきの嫁ぎ先である中山家が所在した庄屋敷村という小さな村でした。

この地に現在のような巨大な宗教施設が出現したのは大正以降。

一度に作られたわけではなく、3度にわたって増改築されて現在の姿になりました。

まず1910(明治43)~1913(大正2)年にかけての「大正普請」で教祖殿と北側の礼拝殿、そして神殿が建造されます。

ちなみに、現在の天理教本部は南側の正面性が強い造りになっていますが、この時神殿は北面していました。

この「大正普請」で建てられた建築で向拝に千鳥破風が用いられ、以後天理教の建築に特徴的な千鳥破風多用の嚆矢となります。

次いで1930年代にも「昭和普請」と呼ばれる増築では、平城宮跡の発見で知られる関野貞、東大安田講堂の設計等で知られる内田祥三ら当時の建築界の碩学たちを顧問に迎え、大正期に長谷寺本堂の再建を担当した奈良県技師の岸熊吉らの設計により、教祖殿改築と南礼拝殿増設の建設がすすめられました。

1934(昭和9)年に工事が完了し、この時から南側の正面性が強い現在の姿になります。

その後、1984(昭和59)年には東西の礼拝殿が完成しますが、こちらは戦後定められた消防法の規定により、木造での建設は許可されず鉄骨鉄筋コンクリート耐火構造の建築となっています。

こうして70年余りにわたる増築で、現在の巨大な木造空間が完成しました。

 

四方から神殿を礼拝するという空間は、日本の宗教空間としては独特な様式ですね。

本部の神殿は年中無休、24時間受付不要で信者でなくても拝観可能(無料)。

なかなか信者でないと中に入るのは敷居が高いかと思いますが(笑)

ちなみに筆者は両親も含めて天理教の信者ではないのですが、小学生の時「こどもおぢばがえり」に参加したことがあり、その時中に入りました。

でも、回廊を通った時に「大きな廊下やなあ」と感じたこと以外、記憶がぼんやりしていてあまり覚えていません(苦笑)

仏教とも神道とも違う独特の宗教空間で、訪れるたびにその巨大さに毎度圧倒されます。

参考文献

『天理市史』 天理市史編纂委員会 編

『津市史 第1巻』 梅原三千 著 [他]

『奈良百年』 毎日新聞社

『御存命の頃』 高野友治 著

遊郭・遊所研究データベース

『新宗教の空間、その理念と実践』 五十嵐太郎 [著]

 

上街道の散策スポット

■古代官道が交差する市場町・櫟本の散策記事です。

■戦国期に史料上頻出しながら所在地が特定されていない幻の城郭・井戸城の紹介記事です。

 

次回はこちら。

宇陀松山~旧街道沿いの町並み散歩

貴重な歴史的景観を保全するため指定される重要伝統的建造物群保存地区(以後、重伝建地区)。

現在奈良県内では、橿原市今井町五條市五條新町、そして宇陀市松山の3つの地域が指定されています。

実は、県内の重伝建地区で最も指定地域の面積が広いのが宇陀松山

現在は山間の静かな町ですが、近世以降、宇陀松山は商家町として賑わい、昭和40年代頃まで宇陀地方の中心地として栄えました。

今回は宇陀松山の町の概略と現在の様子をご紹介します。

 

 

宇陀松山とは

宇陀松山の場所はこちら。

近鉄榛原駅からバスで20分ほど、名阪国道針ICから自動車で30分ほどの場所にあります。

 

宇陀松山は、大阪から伊勢に至る伊勢本街道と、和歌山から吉野を経由して伊勢に至る伊勢南街道を結ぶ旧松山街道沿いに発達した商家町でした。

山間の地でしたが、東西交通の結節点にあたり宇陀郡や吉野方面からの物資集散地となって栄えた町です。

こちらは現在の松山周辺の航空写真。

宇陀松山周辺(国土地理院HPより作成)

南北約1.3Kmにわたって町全体が重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

松山の町の起源は、中世付近を支配した国人領主秋山氏の城下町で、現在の宇陀市菟田野古市場から市場町が移されてきたのが起源とされます。

1585(天正13)年に秋山氏が追放され豊臣家による支配がはじまると、町の東にあって秋山氏の居城だった秋山城は、大和東部の拠点として近世城郭に生まれ変わり、城下町も本格的に整備され始めました。

当時城下町は阿貴町と呼ばれていましたが1600(慶長5)年に、関ヶ原の戦いで武功を挙げた福島高晴が当地に3万石で入ると、城と城下町の名を松山と改めます。

1615(元和元)年に福島高晴が改易されると、織田信長の次男・信雄が宇陀郡に3万石余りの領地を得て陣屋を設け、1695(元禄8)年に織田家丹波国柏原へ転封されるまでその城下町として発展しました。

和州宇陀郡松山町 織田山城守様郭内外絵図(奈良県立図書情報館蔵)

上図は1682(天和2)年、織田家城下町だった当時の絵図で、宇陀川の東岸に松山の町が広がり、西岸には武家屋敷が並ぶ様子が分かります。

織田家が転封された後は奈良奉行支配の幕府天領となり、陣屋や武家屋敷は消えて町域は縮小したものの、引き続き宇陀郡一帯の物資集散地として大坂、伊勢を往来する人々や大峯山への参詣者で町は賑わいました。

江戸時代には「宇陀千軒」「松山千軒」と称されるほど数多くの商家が軒を連ね、幕末の天保期には500軒以上の町屋があったと史料に記されています。

元々城下町でありながら、宿駅・商家町として江戸時代に発展した点では、五條新町と共通した経過をたどった町と言えるでしょう。

 

1889(明治22)年に町村制が施行されると松山14町が合併して松山町となり、1897(明治30)年に郡制が施行されると宇陀郡の郡役所は松山に置かれて、宇陀郡の政治経済の中心地となりました。

1942(昭和17)年、松山町ら4町村が合併して大宇陀町が誕生すると、町役場は1969(昭和44)年に現在の宇陀市大宇陀地域事務所の場所に移転するまで、松山に置かれることになります。

1930(昭和5)年に参宮急行電鉄(現近鉄)の榛原駅が開業してから、戦後は新興住宅地となった榛原に宇陀郡の中心は徐々に移っていきましたが、高度経済成長期に大規模な開発の波にさらされなかった松山は、江戸時代以来の町並みを残して現在に至るのです。

 

酒蔵通り

それでは、松山の町をご紹介していきましょう。

町の南側から北に向かっていきます。

国道166号線より南側は、酒蔵が集まるエリア。

こちらは1703(元禄15)年創業の老舗の蔵元・久保本家酒造さん。

元禄15年といえば赤穂浪士の吉良邸討ち入りの年です。

創業から300年以上という蔵元は、古くから酒造が盛んな奈良県内でも中々お目にかからないと思います。

杉玉がいい感じで色づいていますね。

松山は江戸時代から酒造が盛んで、最盛期の1665(寛文5)年には実に1075石もの酒が造られたと記録されています。

ちなみに1石1.8リットルのなで、その量なんと1935リットル。町の規模を考えると中々の量ですね。

1928(昭和3)年には3軒の酒造業者がありましたが、現在は久保本家酒造さんの他、芳村酒造さんが営業され、松山の酒造の伝統を守っていらっしゃいます。

松山通り

松山街道を北へ向かいます。

宇陀川に沿うように街道が続くため、町の中で緩くカーブしている個所がいくつかあり、町屋の姿と相まって宿場町の風情を醸し出しています。

こちらはまちづくりセンター千軒舎

江戸時代に薬商を営んだ内藤家の旧宅を改装し、町並み保存や整備に関する資料を展示している施設です。

入館は無料で開館時間は9:00~17:00です。

宇陀郡は飛鳥時代から朝廷の薬猟地とされたこともあり、江戸時代まで薬業が盛んな地域でした。

松山にも幕末の1854(嘉永7)年には47軒の薬商がありました。

ちなみに松山出身ではないのですが、ロート製薬創業者の山田安民バスクリン漢方薬ツムラ創業者津村重舎兄弟はともに宇陀郡(現宇陀市榛原池上)の豪農出身です。

二人の出身地・池上は薬草の産地であり、母方の藤村家は医者の家系で中将湯(後に津村重舎が津村順天堂の漢方薬第一号として売り出す)という妙薬を代々伝えており、二人にとって薬業は非常に身近なものだったのです。

 

館内の様子です。

宇陀松山城の出土品も展示されていました。

ちなみに宇陀松山城続100名城スタンプはこちらにも設置されています。

 

裏庭に立派な蔵も立っていました。

白壁が美しい蔵ですね。

 

こちらは宇陀松山会館

元は1903(明治36)年に建設された松山町役場の庁舎でした。

2020(令和2)年に現在の姿にリニューアルされ、宇陀松山城や松山地区の史料が展示されています。

休館日は月・火・木で開館時間は10:00~16:00です。

 

こちらは元旅館「紀州や」で、大正時代末頃の建築。

明治以降の建物は二階の窓が広くなるので、おおよそ窓の構造で江戸以前か明治以降の町屋かは判断が付きます。

江戸時代以前の町屋は武士を二階から見下ろせないよう、半二階のつし二階になっていたり、虫籠窓で外をのぞき込めない構造になっています。

 

こちらは森野吉野葛本舗と森野旧薬園

森野旧薬園は1729(享保2)年に森野家11代の森野藤助が自宅裏山に開いた薬園で、現存する薬園としては、東京の小石川植物園に次いで最古級の薬園になります。

約250種の薬草が植えられ、四季折々の花を楽しむことができます。

森野旧薬園のHPはこちら

お隣の店舗から見学することができます。

■基本情報

開園時間:9:30~17:00

入園料:300円

 

大きな吉野葛の看板がありました。

産地の吉野から送られてくる吉野葛は、薬と並んで松山の重要な取引産品でした。

 

こちらは「拾生屋」の屋号で、タバコの葉から材木まで手広く扱っていた元商家です。

1830(文政13)年築で、二階と蔵の白漆喰がとても印象的な建物です。

 

こちらは吉野葛の老舗・黒川本家の本店。

建物は1791(寛政3)年の建築ですが、現役バリバリの店舗です。

黒川本家の創業は1615(元和元)年に京都で創業し、吉野から取り寄せた葛根で葛粉を作って朝廷へ献上。その後当地に移って400年以上吉野葛の商いを続けている超老舗です。

こちらのお店の吉野本葛は、松山織田家三代の長頼から「当代随一」と激賞された他、明治から戦前まで宮内省御用達として皇室でも愛用され、昭和天皇もこちらの葛湯を愛飲したとのこと。

伝統を守るだけでなく、奈良市に出された東大寺店は、葛のスイーツなど超高級品の吉野葛を気軽に楽しむことのできるお店になっています。

※黒川本家の詳細は下記HPをご覧ください。

松山でもカフェとか展開されたらいいのにとも思いますが、まだまだ東大寺前のような集客が見込めないのかな。

 

こちらは街道沿いの古民家カフェ・茶房あゆみさん

築180年の古民家で、コーヒーやランチを楽しむことができます。

 

上町通り

神楽岡神社の参道から北は、街道が東西二つに分かれます。

まずは東側の上町通り沿いを北へ向かいます。

 

まちなみギャラリー石景庵が見えてきました。

無料の休憩スペースになってます。

以前はカフェなども併設されていたようですが、2020年のコロナ禍以降はFacebookの更新も止まっていました。

また人の流れも戻り始めているので、交流拠点として再び活発に利用されることを願います。

 

石景庵のお隣にあるのが県指定文化財となっている山邊家住宅

1785(天明5)年頃の建築といいますから、東日本を中心に天明の大飢饉が起こっていた時期になります。

江戸中期の建物で、松山の建物の中でも古い方の町屋ですね。

 

修景の施された町屋がこの辺りは密集しています。

こちらは薬の館

江戸時代薬問屋だった細川家住宅を改修した施設で、薬関係の資料や松山に関する歴史文化資料の展示施設になっています。

建物は江戸末期の建築とのこと。

■基本情報

休館日:月・火曜、12月15日~1月15日
開館時間:10:00~16:00
入館料:高校生以上310円、小人150円

ちなみに細川家は、アステラス製薬の前身企業の一つ藤沢薬品工業の創設者・藤沢友吉の母の実家で、友吉はこちらのお宅で生まれたとのこと。

その縁もあって藤沢薬品工業に関する資料も展示されています。

 

軒に掛けられている看板は、幕末天保年間に販売していた腹薬、人参五臓圓・天寿丸の看板です。

唐破風付きの細緻な屋根細工が見事な看板です。

 

和風の伝統建築が軒を連ねる中、洋風建築の建物もあります。

日本の伝統家屋が並ぶ中、町並みのアクセントになってます。

 

こちらは造酒屋・内牧屋だった町屋で、文化(1804~18年)年間に二階が補修されたと記録があることから、築200年はくだらない古民家です。

 

春日神

春日神の参道が見えてきました。

1671(寛文11)年に織田家の陣屋が春日神社の北側、現在天理教の教会敷地となっている場所に移転した後は、宇陀川東岸にある西口関門からこの参道が大手道となっていました。

こちらは宇陀松山城春日門跡。

現存する東西の櫓台は、織田家陣屋が当地に移った寛文11年以降に再築造されたことが発掘調査で分かっています。

大手正面から見える春日門の櫓は、城を持たない織田家にあっては藩主の権威を表す象徴的な建造物だったことでしょう。

 

こちらが春日神社の境内。

当社の由緒や正確な創建年は不明です。

中世、付近は春日大社社領であったことから、春日社の分霊を勧請したものと考えられています。

 

鳥居の傍に設置された水鉢は、1693(元禄6)年に織田家臣の萩野五郎左衛門により寄進されたもの。

寄進の翌年1694(元禄7)年に家中の派閥抗争が原因で藩主・信武が重臣2名を誅殺したうえで自身も自害する宇陀崩れと呼ばれる事件が発生。

この事件が原因で織田家丹波柏原へ減封・国替えを命じられたため、織田家支配最末期の貴重な遺物で、宇陀市指定文化財となっています。

 

社殿は、境内の更に一段高くなった山腹に建てられています。

こちらが本殿。

本殿前に置かれた巨石は神楽石、霊宝石と呼ばれています。

用途は不明で、古代祭祀との関連が考証されていると案内板にありました。

磐座だったのかもしれませんね。

 

拝殿の向かいに江戸時代までの神仏習合の名残で、阿弥陀堂が残っています。

松山西口関門

春日神社から大手道を西へ向かうと松山西口関門に至ります。

城門の内側は枡形になっており、江戸時代は高札場になっていました。

壁以外が黒く塗られていることから、黒門の通称で呼親しまれています。

福島高晴が宇陀松山城主だった時代の貴重な遺構で、国の史跡にも指定されています。

 

松山西口関門から宇陀川を渡った西岸に琴平神社愛宕神社が祀られていました。

松山の町内にはこちら以外にもいくつかの愛宕社が祀られており、町屋が密集する町内で火除けの神として勧請されたものかと思います。

下町通り

松山西口関門から下町通りに戻る途中で見かけた消火器ボックス

町の景観となじむデザインになっていますね。

 

春日神社参道へと続く大手道と下町通りの交差点に江戸時代の道標が残っていました。

左から東西南北

東 春(す)ぐ 京 大坂 者せ(はせ) 者い原(はいばら)

西 右 大峯山上 春(す)ぐ い勢 道

南 左 者せ(はせ) 者い原(はいばら) 京 大坂

北 左 いせ道 吉光尼御塚

と、あります。ちなみに「すぐ」の意味は、現代語では「まっすぐ」になります。

ちなみに「吉光尼(きっこうに)」とは親鸞の母で、親鸞が35歳で流罪となった時に世を儚み、侍女の郷里である室生向淵に3年間隠れた後、剃髪して尼になり、その後松山から数キロ北にある榛原上井足へ移って亡くなったと伝わり、今も同地に吉光尼の墓と伝わる塚が残っています。

 

上町通りの西側を並走する下町通りにも、古くからの町屋がたくさん残っています。

こちらは旧福田医院で、町屋の並ぶ松山にあっては珍しい洋風の外観を持つ建築。

1925(大正14)年頃に建てられ、1927(昭和2)年から1981(昭和56)年頃まで、内科・小児科医院として使われました。

1階と2階の間にある壁飾りがおしゃれな建物です。

 

こちらは幕末から昭和初期にかけ「糀甚」の屋号で造酒屋だった町屋。

向って右側の6室は江戸後期の建築で、左3室は明治の中頃に増設されたもので、2階の中ほどに袖卯建がある珍しい町屋になっています。


道の駅・宇陀路大宇陀

国道166号線と370号線の三叉路にある道の駅・宇陀路大宇陀は、松山散策の拠点としても是非とも利用したい場所です。

国道370号線の東側にある第二駐車場は広いので、松山散策、宇陀松山城へ登城の際には駐車場として利用できます。

 

散策の後には、道の駅で販売されている名物のブルーベリーのソフトクリーム(写真はバニラとのミックス)をいただきました。

無料の足湯が併設されているので、足湯につかりながらソフトクリームをいただくと、疲れも一気に吹き飛びました!

 

関連情報

■宇陀松山城

郡山城高取城と並ぶ、奈良県内に3つしか作られなかった近世城郭の遺構です。

県内では唯一破却された近世城郭で、崩された石垣など破却の跡が生々しく残る他、豊臣政権の東の拠点にふさわしい、雄大な縄張りを残された石垣とともに感じられる城跡なので、宇陀松山を訪れた際は重伝建地区の散策と併せて必ず訪れてほしいスポットです。

 

■宇陀松山と並び奈良県内で重要伝統的建造物群保存地区に指定された、今井町五條新町の紹介記事です。

 

参考文献

『大宇陀町史』 土井実, 池田源太, 池田末則 編

『先史地域及び都市域の研究 : 地理学における地域変遷史的研究の立場』 藤岡謙二郎 著

『津村順天堂七十年史』 津村順天堂

『奈良県史 第5巻』 奈良県史編集委員会 編

奈良県下最大の花街・生駒新地とその跡を辿る

皆さんこんにちは。

 

奈良県生駒市は大阪へのアクセスが良いことから、閑静な住宅街というイメージが強いですね。

 

奈良県内各市の中心街は、古代から近世にかけて発達した集落を起源とする町が多い中、生駒市の中心街付近は大正の初め頃まで小さな寒村でした。

それが大正の初めに現在の近鉄生駒駅が開業した後、急速に発展することになるのですが、なんと、奈良県下最大規模の花街にして関西でも屈指の歓楽街として成長するのです。

この時生まれた巨大花街・生駒新地が現在の生駒市中心街の直接のルーツで、奈良県内でも極めて特異な、興味深い過程を経て形成された町と言えるでしょう。

 

現在の生駒市の姿からは想像もつきませんが、その中心市街のルーツである生駒新地の今昔をご紹介していきます。

 

奈良県最大の花街・生駒新地

生駒の隆盛を語る上で外せない二つのスポットが、宝山寺近鉄生駒駅になります。

宝山寺は元々、役小角が開いたと伝わる古くからの山岳信仰の修行場であり、行者以外の者が気軽に立ち寄るような場所ではありませんでした。

1678(延宝6)年に伊勢出身の律僧・湛海がこの地で修行して宝山寺を建てたのが、事実上の開山とされます。

本尊の歓喜天(聖天さん)は、「欲望を抑えられない衆生の願望をひとまず成就させることで心を鎮めさせ仏法へと向かわせる」仏教の神であることから、商売繁盛など現世利益の霊験が高いとされ、大阪や京都の商人を中心に広く信仰を集めました。

しかし、門前町の形成は近代初頭で、1893(明治6)年に片町線(現JR学研都市線)が開通して、住道から古堤街道を通り八丁門峠を越えて宝山寺へ参詣する人が増えたため門前に茶屋や旅館が数軒現れ、それまで門前には1軒の民家もなかったと言います。

 

劇的な変化が起きたのは1914(大正3)年の大軌による生駒駅の開業でした。

生駒駅から宝山寺の門前まで13丁、1.4kmの新たな参道が設けられると、多くの参詣客が宝山寺を訪れるようになり、参道の両脇には土産物屋や茶屋など多くの商店が立ち並びました。

参道脇の町は生駒新道と呼ばれて活況を呈します。

この人出と上本町から電車で20分足らずという好立地に目を付けたのが、大阪南地花街の幹部・井上市太郎で、大軌生駒駅開業の翌1915(大正4)年に置屋「巴席」を開業させると、生駒新道では置屋と料理旅館の出店が相次ぎました。

それから6年後の1921(大正10)年、北生駒村から生駒町へと町制移行したときには置屋15軒、芸妓約130名を数え、奈良の元林院町に匹敵する規模の花街に成長。

同年には生駒新道一帯が芸者居住指定地となって、生駒新地が誕生するのです。

生駒新地の看板(生駒市オープンデータポータルサイトより)

現在、ウェブで生駒新地を調べると、宝山寺門前周辺だけを指す記事が大半を占めますが、本来は生駒の花街全体を指していたため、麓から門前に至る広範なエリアが生駒新地だったのです。

1917(大正7)年に生駒ケーブル生駒鋼索線の鳥居前~宝山寺間が開業すると、新道のうち仲之町エリアの料理屋、商店は急速に寂れて一般住宅地化が進みますが、山上の門前町と麓の山崎新町、本町、元町エリアの活況は続きます。

 

麓には下図の通り、芸妓の演舞場であった生駒劇場の他、映画館である天命館、そして1930(昭和5)年には当時奈良、大阪では禁圧され営業許可が下りなかったダンスホールまで開業して、歓楽街として発展します。

生駒新地周辺地図(国土地理院HPより作成)

また、麓の店と対抗する意味合いもあったのか、仲之町、門前町といった山上の料理旅館やカフェーでは、1930(昭和5)年頃からヤトナの導入を始めました。

ヤトナは本来臨時の仲居や酌婦を意味する語ですが、芸者と違って歌舞音曲といった芸事はしない分、安価に遊ぶことができ人気を呼ぶことになります。

1935(昭和10)年頃が生駒新地の全盛期となり、芸妓置屋・23軒、芸妓171名、ヤトナ置屋・6件、ヤトナ49名で、料理旅館は105を数えました。

ちなみに芸妓は麓、ヤトナは山上と、住み分けが行われていました。

 

ここまでの人気を博した生駒新地ですので、さぞかし芸者の評判が良かったのかと思いきや、『生駒市誌』によれば1931(昭和6)年に発行された某新聞の「生駒聖天と生駒魔窟繁盛記」と題する記事で「三味線一つ持たないのが芸妓で候、三味線一つ弾けないのが芸妓で候と、大きな顔が出来る所は一寸生駒でないと見られない図であろう」と、酷評されています。

これは、当時全国的に横行していたいわゆる「不見転(みずてん)芸者」(金銭で相手を選ばず身を任せる芸者)が多いことを揶揄した記事と考えてよいでしょう。

また、同じく『生駒市誌』によると、生駒新地の遊びは「芸者の酌で一献かたむける四畳半式の遊び」が「特色」だったとあります。

戦前まで、芸妓と娼妓は法律上厳然と区別され、芸妓が客と同衾することは認められていませんでしたが、新橋の芸者・石井が著した『芸者と待合』(1916(大正5)年刊行)によれば、「四畳半」とは「待合(芸者を呼ぶ貸座敷)の代名詞となって」おり、「「恋にはなまじ連れは邪魔」という寸法の客を相手には、こうした造りのほうが都合がよろしい」、「今日では待合に客と芸者が宿泊することは、もう公然の秘密になって居ります」とあって、当時の「四畳半」と呼ばれる空間が、非公認の売春の場ととらえる当時の風潮が、生々しく記述されています。

また、麓側の置屋、料理旅館の組合組織・生駒振興会により、花柳病(性病)対策の診療所も設置されており、大阪毎日新聞社発行の『日本都市大観 昭和11年版』にも同会の紹介記事として「なほ特筆すべきは、全生駒の接客業者によって保険組合診療所が設けられ衛生上絶大の注意を払っていることである」ともあることから、昭和初期までの生駒新地は御座敷遊びを楽しむ場というより、事実上の「遊郭」であったというのが実態と考えてよいでしょう。

 

しかし生駒の花街としても、先に挙げた某新聞による批判記事のような評判は不本意だったようで、昭和の初め頃から舞踊や音曲といった芸事の稽古にも熱心に取り組んでいました。

また、昭和5年から10年にかけ、「生駒小唄」、童謡「シャボン玉」で知られる野口雨情作詞による「生駒新地流し」、「生駒ぞめき」などが相次いで発表され、生駒の特色ある小唄でお座敷の充実を高める動きも見せています。

 

第1次世界大戦中に巻き起こった空前の好景気で勃興した生駒新地は、昭和の初めには不夜城と化して、夜中に山を見ると麓から宝山寺門前にかけて煌々と灯りの列が並んでいました。

今は山上からの夜景が絶景として知られる生駒山ですが、往時はまさに「生駒新地流し」で「生駒ながめて星かと聞けば 何の星かよ灯の明り」と歌われた生駒山の灯りが、生駒の夜に輝いていたのです。

 

しかし1943(昭和18)年になると戦時体制が強化され、政府による高級享楽の禁止令が発出されると、花街を取り仕切った検番は解散となり、料理旅館は宿泊業務のみを行って学童疎開の受け入れも行いました。

ダンスホールも閉鎖され、花街・生駒の灯はいったん消えることになります。

 

戦後、検番、置屋はすぐに復活したものの、戦前のような勢いはなく、戦中でも100を超えた料理旅館は1973(昭和48)年までには47軒まで減少し、現在は門前町に数軒が残るのみで、麓では全く姿を消してしまいました。

また、高度経済成長期以降にクーラーが広く普及するようになって、夏の避暑地であった生駒の優位性が失われたことも、戦後に往時のような賑わいを取り戻せなかった原因の一つになったようです。

 

戦後、生駒新地の麓側は急速に住宅地化が進み、料理旅館の建物も多くが取り壊されていき、静かに花街の風景は失われて現在に至ります。

 

駅前

それでは、現在の生駒駅から門前までの様子を見ていきましょう。

生駒駅の南口からスタートです。

駅南側のぴっくり通りは、昭和の香りが残るアーケード街です。

近年、近鉄百貨店など大型店舗の進出が目覚ましい駅北側に比べると、往時の人通りは失われているかもしれませんが、営業中の店舗も多く今も元気な商店街でした。

昭和の初め頃までは、このあたりにも料理旅館があったようですが、当時の地図などを見ると、駅前は土産物屋などが多いエリアだったようです。

ぴっくり通りのアーケード南口近くにある、中華料理・萬隆軒跡の建物。

大正から昭和初期にかけての歓楽街時代から残る貴重な建物になります。

ぴっくり通りのアーケードを抜けて少し南に進むと、東側に木造のアーケードが見えてきました。

こちらは1926(大正15)年に造られた、生駒町公設市場のアーケード。

プラスチックのトタンは後年張り替えられたものでしょうが、木組は建設当時のまま残っています。

両脇の住宅兼店舗も一緒に建設され、開設時には10軒の商店が入居していたとのこと。

人口が急増した宝山寺門前の人々の生活を支えた最初期の商業施設になります。

現在もご商売されている店舗もあるようですが、ほぼ全戸が一般住宅になっていました。

 

こちらは公設市場跡アーケード北側にあった旧天命館(映画館)の跡地です。

戦前の地図にその名が見える映画館ですが、戦後の地図には見えないので、短い期間で閉館してしまったものと思われ、現在は雑居ビルが並んでいました。

 

ぴっくり通りを南に抜けて直進し、突き当りの斜面を登った先の東側に、生駒ダンスホール(生駒会館)がありました。

生駒ダンスホール生駒市オープンデータポータルサイトより)

1930(昭和5)年に建設されましたが、太平洋戦争が開戦する間際の1940(昭和15)年10月に発令されたダンスホール閉鎖令により、生駒ダンスホールもいったん閉鎖されてしまいます。

当時のダンスホールは午後5時から11時までの営業で、客はチケットを購入し、ホールに所属する女性ダンサーを指名するとチケットと交換で社交ダンスを踊れる施設でした。

客層は大阪の企業重役がほとんどで全員男性、ダンサーは10代後半から30歳ごろまでの女性だったとのこと。

 

ダンスホールとして営業できなくなった後は映画館となったようで、戦後は生駒会館として、1960年代頃まで営業していたようです。

 

現在跡地は、マンションになっています。

また、こちらのダンスホールから通りを挟んで向かいには、主に芸妓の花柳病対策のため花街の組合が設立した接客業保健組合診療所ダンスホールの建設とほぼ同時期に設置されました。

大和病院(生駒市オープンデータポータルサイトより)

この診療所を前身として大和病院が設立され、さらにこの病院が発展して21世紀初頭まで生駒市内唯一の総合病院だった生駒総合病院となり、長らく生駒市民の健康を支えました。

生駒総合病院は2004(平成16)年に閉鎖され、現在跡地はマンションになっています。

 

生駒駅前の元町、本町エリアは、現在古い家屋の取り壊しや再開発が進行中です。

昭和初期辺りまでの古い建物はもうほとんど残っていませんでした。

生駒新道(参道)

それでは、生駒駅開業後に新設された参道から、宝山寺門前を目指したいと思います。

通常、鳥居前駅から宝山寺駅まで生駒ケーブルなら5分の約1.4kmの道のりを歩いて上ります。

元町・本町・山崎新町

こちらが現在の参道の入り口です。

「参道筋」の看板も見えます。

実はこちらの交差点の前に、1982(昭和57)年まで巨大な石づくりの一の鳥居がありました。

鳥居駅前の大鳥居(生駒市オープンデータポータルサイトより)

生駒ケーブル鳥居前駅のまさに真ん前に大鳥居が立っていたことがよくわかりますね。

今ではどうして鳥居もないのに鳥居前!?という印象ですが、ちゃんと昔は鳥居前にあったのです。

こちらは移設直前の1982年に撮影された大鳥居。

1982年移転前の大鳥居(生駒市オープンデータポータルサイトより)

駅舎の改築とそれに伴う南口整備のため、宝山寺境内に移設されました。

こちらの参道は大正3年生駒駅が開業してから作られたものなので、この大鳥居も大正以降に建立されたものと思いますが、仏教寺院に鳥居という山岳寺院の伝統的で土俗的な組み合わせは、明治の初め、神仏分離令による廃仏毀釈の激しかった時期には難しかったと思いますので、明治維新から半世紀ほど過ぎて、信仰の形の土俗的な部分の原点回帰が起こり始めたのかとも思ったりする光景です。

 

参道沿いに残る料理旅館の建物と思しき三階建ての町屋。

既に麓の参道沿いで、かつての花街の面影を残す建物は、こちらの一棟しか見当たらなくなっています。

昭和50年前後くらいまでは、芸妓さんも100人くらいはいらっしゃったようで、三味線の音が聞こえる通りだったそうです。

 

今はもう食堂としての営業はされていないようですが、手前に見える滋養亭も、花街の時代から残るお店です。

参道は山崎新町に差し掛かるあたりから、坂の傾斜が急になってきます。

道端に「三丁」の丁石がありました。

おそらく一丁、二丁の丁石もあったのでしょうが、駅前からこちらまで見当たりませんでした。

 

生駒劇場~幻の生駒歌劇団

三丁の丁石を過ぎてバネ工場の脇にコンクリートで舗装された小道が、参道から延びています。

こちらがかつての生駒劇場跡に続く路地です。

一見、工場の敷地に見えるので、入っていいのか少し躊躇しちゃいますね。

 

生駒劇場は1921(大正10)年、奈良県選出の衆議院議員で生駒土地株式会社の社長だった福井甚三が、大軌の後援で生駒山一帯を一大遊園地にする計画を立て、その一環として開設した劇場でした。

建物は、大阪新町遊郭(現大阪市西区新町)にあった新町演舞場の建て替えにともない、旧演舞場の建物を購入・移築したものです。

生駒劇場(Wikipediaより引用)

福井はこの劇場で宝塚のようなオペラの常設開演を企図し、当時東京で一大ブームとなった浅草オペラの中心メンバー・伊庭孝佐々紅華らに声をかけ、生駒歌劇団が結成されます。

また、宝塚と同じく、劇団員を養成するために生駒歌劇技芸学校も併せて設立し、大正10年8月に第1回、9月に第2回の公演を行いました。

美術や衣装を始め、金に糸目は付けず、東京でも不可能というくらい豪華な舞台でしたが、大阪郊外の生駒へは週末と祝日しか客が入らず、たちまち赤字が重なって経営が立ち行かなくなります。

そして10月に京都で第3回の公演を行ったのを最後に生駒歌劇団は解散してしまうのです。

活動期間はわずか数か月で、文字通り幻の歌劇団となってしまったわけですが、もしこの生駒歌劇団が現在まで存続していたら、町の様相もずいぶん変わったものになっていたことでしょう。

また、ごく短期間の活動ながら、生駒歌劇技芸学校の研究生からは、後に松竹の俳優として活躍し、黒澤明の名作・『生きる』で志村喬演じる主人公の部下役を好演した日守新一などが出ました。

生駒歌劇団については1967年出版の『浅草オペラの生活』に詳しく当時の様子が記述されています。

 

生駒歌劇団解散後は芸妓の演舞場になりましたが、昭和5年に生駒ダンスホールが山崎新町に建って演舞場がそちらに移動すると、以後は劇場、映画館として利用されることになります。

そして、昭和10年頃に劇場は閉鎖。

戦後建物は取り壊されました。

 

現在、劇場跡は宝徳寺の境内になっています。

谷間の非常に狭い空間で、本当に写真のような劇場がこの場所に建っていたのか、ちょっと信じられない印象です。

もしかすると背後を流れる川にまで、建物がせり出していたのかもしれないですね。

仲之町

石段の参詣道が見えてきました。

四丁から八丁までが仲之町になります。

真新しい「参詣本道」の石碑が見えますが、2020(令和2)年に仲之町の参詣道が修復・整備されたとのこと。

四丁の丁石も新調されていました。

しばらく進むと大きな石灯籠が見えてきます。

少し参道が折れているところが絵になりますね。

五丁の丁石は、設置当初のもののようです。

まだまだ続く石段。

真夏はけっこうキツそうですね。

ようやく六丁まで到達しました。

参道の脇に熊鷹稲荷神社があります。

大阪生野で代々大地主だった富豪、鬼権こと木村権右衛門が伏見の熊鷹大神を勧請し、その後同じく伏見稲荷から稲荷社を勧請した神社とのこと。

 

この辺りから沿道に桜が目立ち始めます。

1975年頃の仲之町の桜(生駒市オープンデータポータルサイトより)

こちらは1975(昭和50)年頃の熊鷹稲荷神社付近の様子ですが、桜の古木がたくさんありますね。

仲之町の名前の由来は、山上と麓の中間の町という意味合いもありますが、桜の名所であった江戸吉原の仲之町にあやかって桜が植えられたそうで、戦中木材不足で各地の桜が伐採される中、この辺りの桜は守られたとのこと(『ふるさと生駒の地名と私』より)。

振り返ると、麓の町が小さく見えます。

七丁まで上ってきました。

この付近から門前町に続く大石段までは、かつて大きな料理旅館が建ち並ぶエリアでした。

しかし、先述の通り生駒ケーブル宝山寺門前までの自動車道の開通により、歓楽街としては急速に寂れ、今は閑静な住宅街となっています。

 

大石段の先に鳥居が見えてきました。

この階段の先が門前町になります。

門前町

参道の大石段を登りきると、最初の鳥居が見えてきます。

こちらは元々二の鳥居だったのですが、麓の一の鳥居が移設されたため、今は一の鳥居ということになるんでしょうか。

 

両脇に大きな石灯籠が立ちます。

引き続き、石畳と石段の参道が続きます。

こちらはたぶん九丁?の丁石。

昔ながらの料理旅館が見えてきました。

麓の料理旅館は姿を消しましたが、ここ門前町では、「接待なし」の通常の旅館営業に切り替えた旅館もあるものの、数軒の料理旅館が現在も旧来どおりの営業も行っているようで、新地の雰囲気を残す町になっています。

 

旧来どおりのいわゆる料理旅館は、「風俗営業許可店」や「18歳未満お断り」の札が店先に貼ってありますので一目でわかります。

ちなみに「風俗営業許可」は客室で芸妓や酌婦による接客を行うために必要な許可になります。

お座敷遊びをするお茶屋や料亭などと同様なので、誤解のないようにしましょう。

また、「お遊び」なしで、普通に宿泊することも可能のようです。

 

最近では生駒山上からの絶景旅館として、著名な旅行サイトでも高評価な旅館もあります。

特に以下の二つの旅館は、客室やお風呂からの眺望もよく、かつての新地の風情を満喫できそうです。

有名旅行サイトにお部屋の紹介などもあるので、興味のある方はぜひ一度ご覧ください。※クリックすると各旅行サイトへ移動します。

■観光旅館やまと:⇒【楽天】 ⇒【じゃらん】

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家族連れでの旅行の書き込みもあり、安心して宿泊できるようで、筆者も一度は泊まってみたいと思ってます。

また、宝山寺の本堂は24時間参拝可能で、夜や早朝の境内は非常に幻想的なので、門前で宿泊できるのは大変魅力的ですね。

こちらの旅館は閉まっているようです。

廃業されている旅館が多いもの残念ながら事実です。

それでも、最近ではレトロな町並みがじわりと人気を集めており、かつての料理旅館をリノベしたカフェなど、人気の高いお店もあります。

訪れたのは平日の午後でしたが、若い女性だけのグループやおひとり様で散策を楽しんでらっしゃる方々を、何組かお見掛けしました。

昭和の初め頃までに建てられた料理旅館が建ち並ぶ参道は、ノスタルジーあふれる景観でオンリーワンの魅力が詰まっています。

山上は眺望も良いですし、夏場は麓より涼しいので軽井沢のような避暑スポットになるポテンシャルもあるんじゃないかと思います。

 

ようやく宝山寺の門前までたどり着きました。

ゆっくり麓から上ってきて、おおよそ40分くらいでしょうか。

参道の景観が楽しいので、ほとんど時間は感じなかったです。

季節の良いときは、歩いて参道を上るのも良いものと実感しました。

宝山寺

大きな石鳥居が見えてきました。

こちらは1982年まで麓の参道入口にあった一の鳥居です。

こちらは江戸後期に出版された大和名所絵図に描かれた宝山寺

大和名所図会巻の三 般若窟寶山寺(国立国会図書館蔵)

ほぼ現在の伽藍と変わらない規模だったことが分かりますが、この時点では境内に鳥居は設けられていなかったようですね。

 

宝山寺は古くからの修験の場でしたが、先述の通り1678(延宝6)年に湛海により「中興」された寺院です。

江戸時代は幕府の政策で寺院の新規建立が原則禁止されていたため、寺院を立ち上げる際は元々あった寺院を「中興」したという体裁を取ることが常套手段でした。

なので実際には湛海が江戸時代前期に開基した寺院と考えてよいでしょう。

 

駐車場から獅子閣がよく見えます。

1882(明治15)年の洋風建築で、宝山寺の建築では唯一の重要文化財になります。

 

宝山寺はまず郡山藩の大きな支援を受けて伽藍が整備され、その後、湛海が皇室、徳川将軍家から祈祷を依頼され、その「霊験」が高かったことから、祈祷寺院として崇敬を受けるようになりました。

写真正面が本堂で、宝山時では最も古い1688(貞享5)年の建築。本尊は不動明王になります。

奥の檜皮葺の建物が聖天堂になります。

元は不動明王信仰が主たる寺院だったようですが、江戸末期になると現世利益を求める庶民の信仰熱が高まったせいもあってか、現在の聖天信仰が徐々にメインの寺院になっていったようです。

伽藍は全て江戸時代以降の建築になりますが、お不動さん、聖天さんの他にも観音さんに文珠さんなど、ご利益スポットが満載の寺院になっています。

宝山寺の詳細についてはクマ子さんの以下記事にで詳しく紹介されていますので、是非ご覧ください。

先述のとおり宝山寺の本堂は24時間拝観可能です。

写真はお彼岸の万燈会の様子ですが、夜の境内はとても幻想的ですね!

 

今回初めて、歩いて麓から宝山寺まで歩きましたが、意外に近いなという印象でした。

よくよく考えたら1.4kmしかないので、全然歩ける距離ですよね。

でも上りはやはりきついという方も多いかと思いますので、往路は生駒ケーブル宝山寺まで上った後、復路は徒歩で参道を下ってくると、大変眺めもいいですし超おすすめです。

現在はすっかり住宅都市となって、観光イメージはない生駒市ですが、戦前の非常に短い期間ながら、歓楽地として隆盛した宝山寺門前のポテンシャルは、非常に高いものを感じました。

特に山上からの夜景は素晴らしく、宝山寺の本堂は夜間も自由に参拝できるなど奈良県内では弱点とされる夜間観光について、非常に大きな可能性を感じる場所です。

 

しかし、「新地」「花街」というイメージがどうしても後ろ暗い「負」の記憶とされる方が多いためか、生駒市の観光関連のHPを見ても宝山寺までの参道をPRする動きは、ほとんど見えません。

たしかに「前借金」で置屋で働いた戦前の芸妓のあり様は、現代においては許されるものではありませんが、そういった過去があったことも記憶にとどめ、広く知ってもらうことも多様性ある社会にとっては必要なことでしょう。

 

市内中心部のルーツが近代の花街という町は、奈良県内では生駒市だけで、筆者個人としては魅力的で特色のある歴史を持つ町に映りました。

 

 

宿泊予約

■観光旅館やまと

宝山寺門前町の客室からの夜景が評判の料理旅館です。

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■生駒のお宿 城山旅館

眺望抜群で、お料理の評判も高いお宿です。BBQもできて、ご家族やお仲間との旅行にも最適の旅館。

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奈良県内の花街

かつて奈良県内にあった花街についての紹介記事です。

■元林院、木辻

現在のならまち地域で、現在も唯一芸者さんが残る元林院町と、江戸時代大和国で唯一の公許遊郭だった木辻の歴史と現在の様子をご紹介しています。

■洞泉寺、東岡町

大和郡山に戦後まもなくまで存在した洞泉寺遊郭、東岡町遊郭の紹介記事です。

■町屋物語館(旧川本楼)

大和郡山の洞泉寺遊郭内で唯一市が買い上げ、文化財として保存されている旧川本楼こと町屋物語館の紹介記事です。大和郡山市のひな祭りイベントでは多くの人が訪れるスポットですが、そちらの様子も併せてどうぞ。

 

参考文献

『生駒市誌 資料編 2』生駒市誌編纂委員会 編

『芸妓という労働の再定位──労働者の権利を守る諸法をめぐって』松田有紀子

『和歌山地理 (10) 私鉄資本による生駒山の観光地化(岸田修一)』 和歌山地理学会

『芸者と待合』 石井美代 著

『浅草オペラの生活』 内山惣十郎 著

『ふるさと生駒の地名と私』 藤本寅雄 著

生駒市オープンデータポータルサイト

 

古社と古道が交差する町・櫟本。上街道散歩(1)

皆さんこんにちは。

 

奈良県内には初見ではまず読めない、いわゆる難読地名がたくさんあります。

西名阪自動車道の天理IC付近の地名、櫟本(いちのもと)もそのひとつです。

ついつい自動車で通り過ぎてしまいがちな場所なんですが、自動車から降りて散歩を楽しめるスポットも実はたくさんある場所なんです。

 

櫟本とは

櫟本の場所はこちらで、JR櫟本駅から国道169号線付近を中心として、西は大和郡山市と境を接し、東は東山中の山麓までの広範にわたります。

櫟本は古代の官道の上ツ道北の横大路が交差する要衝で、古代から和珥氏、柿本氏といった古代氏族が割拠した場所でした。

応神天皇の歌に「櫟井の和爾坂の土を」と見えるように、古代は櫟井(いちい)と呼ばれたようで、地名の由来は付近に自生していたイチイ(櫟)の木とされ、天狗の住んだイチイの巨木があったなど、イチイにまつわる多くの由来伝承が伝わります。

平安時代には荘園化が進み、櫟庄、櫟本庄の名が史料に現れ、中世には櫟本庄の名で定着したようです。

大和一円に興福寺領が広がる中、櫟本庄は東大寺が開発した荘園で、中世に西部地域が興福寺(一乗院)領となったものの、中世から江戸時代が終わるまで一貫して東大寺領であり、櫟本東側の丘陵地を「東大寺山」と呼ばれることからも、その影響の強さをうかがうことができます。

中世末期には、上ツ道をルーツとする上街道沿いの街村としてのまとまりを見せるようになり、江戸時代には市場、高品、膳夫(かし)、南小路、四之坪、瓦釜の6つの垣内に分かれ、横大路以南の上街道沿いに広がる市場はその名が示す通り市場町で、残りは農村であったといいます。

特に、大和国添上郡の上街道沿いに領地を持った伊勢藤堂家が、名張から大和の東山中を超えて上街道へ通じるルートのうち、櫟本に通じる高瀬街道を主要路としたことから、櫟本は物資の集散地として栄えました。

 

こちらは1791(寛政3)年に出版された『大和名所図会』に描かれた櫟本周辺の図です。

大和名所図会 巻の二(国立国会図書館蔵)

奥に「てんおう」と書かれているのが、上治道天王社と呼ばれた和爾下神社で、その下に「人丸」とあるのが歌塚です。

高瀬川沿いに「一堂」とあるのが、室町時代に現在の櫟本小学校の場所に移転してきた柿本寺(しほんじ)で、絵の右半分には現在在原神社となっている在原寺の伽藍が描かれています。

高瀬川沿いの道が横大路で、交差する上街道とともに行き交う多くの人が描かれ、当時の賑わい振りを伝えてくれます。

上街道沿い

それでは、現在の櫟本の町を歩いてみましょう。

JR櫟本駅

1898(明治31)年5月に奈良鉄道が京終~桜井間を開業させたときに設置された駅で、駅舎は構内に掲示された建物財産標によると「明治31年4月」とあるので、開業当時から使用されている駅舎になります。

現存する日本最古の現役鉄道駅舎が、愛知県にあるJR武豊線亀崎駅(1886(明治29)年竣工)とされますから、実は日本最古級の現役駅舎。

同じ万葉まほろば線京終駅帯解駅等も同年竣工の現役駅舎で、ここまで残るとこちらも立派な文化財と言えるでしょう。

 

駅前通りを東に向かうと、上街道との交差点に出ました。

こちらは横大路の北側になり、上街道沿いは小字・高品となり、農村集落でした。

楢神社

高品から上街道を少し北に進むと、楢神社があります。

祭神は明治以降、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)で1956(昭和31)年6月まで五十狭芹彦命神社とされていました。

五十狭芹彦命と聞いても誰かいな?という方が多いと思いますが、吉備津彦命と呼ぶとご存知の方も多いのではないでしょうか。

吉備津彦は7代孝霊天皇の子で、吉備を平定して童話『桃太郎』のモデルとなった人物として知られ、五十狭芹彦は吉備を平定するまで名乗っていた名になります。

 

古伝によると、もとは鬼子母神を祀った神社ですが、明治維新後の神道国教化にともない祭神が変更されたものと考えられ、現在は五十狭芹彦命と鬼子母神両神が祭神となっています。

この神社の境内に一度生まれた子を捨てそれを神官が拾って親に返した後、「奈良蔵」や「楢吉」と「奈良・楢」の字をつけて命名し、捨て子として育てるという、という古い風習もあったようで、安産や子どもの無病息災にご利益のある神社として信仰されてきたことがうかがえますね。

 

また、当社は元々現在地から1kmほど東の東大寺山に鎮座していましたが、集落からあまりに離れていたため現在地に遷座したとのこと。

もとの鎮座地は現在、天照大神を祭神とする神明神社が鎮座し、そちらを上の宮、当社を下の宮と言います。

 

境内北側に拝殿と本殿があります。

本殿は1862(文久2)年の造替で春日大社から移築されたもの。

はい、ここにもありました。春日大社の移築本殿(笑)

本当に奈良県内には春日大社の移築社殿が多くて、近世以降も、春日大社の威光が大和一帯に及んでいたことがよくわかりますね。

 

境内の一角、境内社である八幡神社のそばに、井戸があります。

こちらの井戸の井筒は実増井(三桝井)の井筒と呼ばれ、1848(嘉永元)年3月に八代目市川團十郎が奉納したもの。

前面に市川家の定紋であったが三枡紋が、他の面には「ならの葉の 広き恵の 神ぞとは この実益井を くみてこそ知れ」の歌が刻まれています。

井戸の水は、子どもを授かる霊験があるとのこと。

 

北の横大路

楢神社から上街道を高瀬川まで南下すると、北の横大路との辻に差し掛かります。

高瀬川に架橋された上街道の橋が、少し西にずれて通っていますが、『大和名所図会』にも同じように書かれていたので、江戸時代の道筋がそのまま残っていることが分かります。

 

高瀬川沿いに東へ向かうと、そのまま和爾下神社(上治道宮)の参道になります。

西に向かうと、大和郡山市横田町の和爾下神社(下治道宮)の前を通り、そのまま竜田越え奈良街道を経て大阪へ通じるルートになっています。

二つの街道が交わる辻ですので、古くからの道標も角に遺されていました。

南東:右 なら、左 たつた みち

南西:右 ほうりうじ 左 はせみち

享保十二(1727)年の銘があるので、江戸時代中期に建立された道標のようです。

 

大阪府奈良警察署櫟本分署跡

高瀬川を渡ると、町方の小字・市場に入ります。

しばらく歩くと見えてくるのが、大阪府奈良警察署櫟本分署跡という旧跡。

ここは、天理教の教祖・中山みきが1886(明治19)年、数え89歳の時に「最後のご苦労」と呼ばれる生涯最後の拘留を受けた場所になります。

天理市の市名の由来ともなっている天理教の教祖・中山みきは、1798(寛政10)年に津藩領だった三昧田村(現奈良県天理市三昧田)の庄屋の娘として生まれた人物で、「神憑り」となって天理教を興しますが、維新後に宗教統制を進める新政府の命令に対して、自らの信仰に反するものには従わなかったため、度々逮捕・拘留されました。

 

こちらは中山みきが、座らせられたとする窓際の板の間。

当時の模型などの展示もあります。

 

馬出の町並み

市場周辺は、古い商家もいくつか残っています。

こちらは、福住、名張方面へと通じる高瀬街道との辻です。

高瀬街道沿いにも数件古い町屋が残ります。

高瀬街道沿いの町は小字・馬出でその名が表すとおり、高瀬街道を往来する馬がここで荷物の積み下ろしを行いました。

こちらの民家は馬をつないだ「馬つなぎ」の遺構が残っています。

かつてはこういった「馬つなぎ」を備えた町屋が建ち並んでいたんでしょうね。

 

在原神社

西名阪自動車道の高架をくぐって上街道を南下し、最初の丁字路が在原神社への参道になります。

参道を進むと「在原寺」の石標が見えてきました。

元は業平神社とその神宮寺である在原寺が併存していましたが、明治の神仏分離令で在原寺は廃寺となり、社名も在原神社と改められました。

境内の入り口には江戸時代までは楼門が建っていましたが、破却されて現在は跡形もありません。

「在原寺」の石標はもともと上街道沿いの参道入り口に立っていました。

ちなみに裏には「業平神社」と刻まれています。

 

こちらは境内北側の本堂跡。

もともと在原寺の堂宇のあったエリアは、西名阪道の建設でほとんど道路になってしまっています。

ちなみに、本堂(観音堂)は大和郡山市の若槻環濠内にある西融寺へ移築されました。

こちらは現在の西融寺本堂ですが、形状が『大和名所図会』に描かれた堂と似ているので、おそらく在原寺の移築本堂と思われます。

在原寺は、阿保親王とその子で平安初期の代表的歌人在原業平の邸宅跡とされ、『寛文寺社記』には、880(元慶4)年に業平が病没したため邸宅を寺に改めたとあります。

1876(明治9)年に廃寺となり、業平神社が残されて在原神社と改称されました。

 

こちらは境内に残る筒井筒

伊勢物語』二十三段をもとにした能の謡曲・「筒井筒」の舞台となる「大和国石上の在原寺の旧跡」が、この場所と伝承されます。

こちらは松尾芭蕉の句碑。

「うぐひすを 魂に眠るか 嬌柳(うぐいすの たまにねむるか たおやなぎ)

 はせお(芭蕉)」

とあります。

1683(天和3)年、芭蕉40歳の句とのことですが、なぜこの句が選ばれたのかはわかりませんでした。

ちなみに大阪を代表する俳人・青木月斗の書を刻んだ句碑になります。

 

こちらは本殿。

1920(大正9)年に修復された本殿は、もとは紀州徳川家により寄進されたものとのことで、阿保親王在原業平が祭神として祀られています。

和爾下神社(上治道宮)

西名阪自動車道の天理ICから国道169号線を北へ200mほど進むと、道路の東側に赤く大きな和爾下神社の鳥居が姿を現します。

延喜神名帳の「和尓下神社二座」のうちの一座に比定されている神社で、もう一座が当社から北の横大路を西へ2.5km離れた大和郡山市横田町の和爾下神社に比定され、当社を上治道宮、横田の社は下治道宮とも呼ばれます。

大和郡山市横田町の和爾下神社(下治道宮)については下記の記事で紹介しています。

境内の元の神宮寺・柿本寺跡からは奈良時代の古瓦も出土していることから、創建は古代まで遡れる古社であると考えられますね。

元は付近一帯を支配した和珥氏の流れを組む柿本氏の祖神・天足彦国押人命が祀られていたと推定されますが、中世以降は牛頭天王が祀られて上治道天王社、西隣の神宮寺・柿本寺との関係から上柿本宮と呼ばれていました。

明治になると神道国教化により牛頭天王が廃され、祭神は素戔嗚命記紀神話の神三柱に置き換えられました。

 

鳥居をくぐると東に向かって真っすぐ参道が続きます。

鳥居から100mほど東へ進むと、境内へ向かって北へ折れます。

境内前には広い駐車場。自動車利用の参拝者には嬉しい施設ですね。

本殿は丘陵の山上にあり、一度大きく左へクランクして石畳の参道が続きます。

途中、境内社がたくさんあって壮観。

天理市史』によると境内には合計12の境内社が鎮座しているとのこと。

クランクして段丘状になっている境内は陣地にしやすかったのか、南北朝時代の1337(建武4)年には付近で北朝方と南朝方の合戦が起こり、北朝側は和爾下神社と柿本寺の境内を陣地として戦ったと史料(『大友文書』)に見えます。

小高い丘陵で野戦陣地にするにはもってこいの場所だったんでしょう。

 

石段を登りきると、立派な拝殿が見えてきます。

本殿は安土桃山時代の様式を伝える建築として、国の重要文化財に指定されいています。

三間社切妻造の重厚なご本殿。

拝殿脇の隙間から、ちらりと文字通り「垣間」見ることができます。

 

歌塚(和爾下街区公園)

和爾下神社境内の東隣にある和爾下街区公園に、歌塚があります。

和爾下神社の神宮寺・柿本寺の境内の一部で、後世山部赤人とともに歌聖と称えられた柿本人麻呂の遺骨を納めた場所と伝わります。

柿本寺は室町時代に現在の櫟本小学校の場所へ移転しましたが、その後も人丸社という小さな祠が祀られていたようです。

現在の歌塚と刻まれた石碑は、1732(享保17)年に医師で歌人の森本宗範や柿本寺の僧侶により建立されました。

 

公園内には石仏の他、ユニークなカエルの石像がたくさん置かれていました。

「生き蛙 無事蛙 使った金もまた蛙」

ほっこりする、いい歌ですね。

こちらは柿本人麻呂の像。

なかなかカオスでシュールな空間です。

 

かつて人の往来が絶えなかった街道沿いの櫟本は、今では一日中自動車の往来が絶えない奈良県でも有数の交通量がある町になっています。

しかし、自動車だと通り過ぎるだけで、町を見ることはありませんね。

近世以前からの街道の交差点は、現在も主要幹線道路の交差点になっていることが多いですが、自動車から降りて歩いてみると、かつての街道の市場町の風情が残っている場所がたくさんあります。

 

櫟本もまさにそういう町でした。

 

周辺情報

■中西ピーナツ

国道169号線に面した和爾下神社鳥居からすぐ北側にある大人気の豆菓子屋さん。

味もコスパも抜群で天理方面へ用事があるときは、筆者も必ず立ち寄るお店です。

種類が豊富で、おつまみにも、小さな子どものおやつにもピッタリのお菓子が必ず見つかります。

■井戸城跡

櫟本から上街道を南下すると石上町、別所町には中世城郭である井戸城と推定される城跡があります。

井戸城は、15~16世紀にかけ同時代の一次史料にその名が頻出しながら、場所が特定されていない城郭で、その推定地を紹介します。

丹波市の町並み

現在の天理中心部のもととなった宿場町・丹波市の紹介・散策記事です。

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』 天理市史編さん委員会 編

『大和の伝説 増補版』 高田十郎 等編

『大和名所図会』 秋里籬島 著 [他]

大和郡山のもうひとつの城下町・小泉城(小泉陣屋)の歩き方

皆さんこんにちは。

 

奈良県大和郡山市といえば、江戸時代に柳澤氏15万石の城下町だったことで知られますが、郡山以外にも、もう一つ城下町がありました。

片桐氏、1万1千石の本拠であった小泉城とその城下の小泉の町です。

小泉城は江戸時代には陣屋の扱いながら、二重の堀で守られた大規模な城郭でしたが、明治に廃城となって城跡は住宅街に飲み込まれ、現在は予備知識なしにその痕跡を見つけるのは少し難しい城跡になっています。

 

そこで当記事では、小泉城とその城下の見所を地図や写真を交えて、ご紹介します。

 

小泉城とは

小泉城の場所はこちら。

JR大和路線関西本線)の大和小泉駅西口から県道123号線を北西へ進んだ、富雄川西岸の丘陵突端部にあります。

中世は在地の国人・小泉氏が居館を置いた地でしたが、1601(慶長6)年に豊臣家の家老である片桐貞隆(賤ヶ岳の七本鎗・片桐且元の弟)が小泉に領地を与えられ、1627(元和9)年に本拠として整備を開始し、城の内郭や外郭、現在の小泉の町の基本的な町割りを行いました。

※小泉城の成り立ちについての詳しい記事は、下記をご一読ください。

こちらは1690(元禄3)年頃の小泉城とその城下の様子を描いた絵図です。

現在はJR大和小泉駅前から延びる駅前通りから富雄川を渡る橋が架橋されていますが、江戸時代に橋はかかっていなかったことが分かります。

 

片桐氏時代の小泉城の縄張りとその城下の概略を現在の航空写真に重ねると、下図の通りになります。

(※堀の位置などは『日本城郭全集』等の参考資料と現地に残っている水路などから記入しています。)

小泉城下概略図(国土地理院HPより作成)

小泉城は主郭を囲む内堀の外に長大な外堀が築かれており、奈良県内の陣屋では最大規模のうえに構造も複雑で、まさに「城」と呼んで差し支えない城郭だったことが分かります。

富雄川を挟んで東側は村方の「市場」、西側は町方の「北ノ町」「中ノ町」「本町」「西方」が置かれて城下を形成し、大坂と奈良を結ぶ街道が城下を通って北は郡山、奈良、南は法隆寺、龍田へと通じていました。

また、外堀と町方の間は現在ほとんどが住宅地となっていますが、江戸時代までは一面湿田地帯でした。

 

JR大和小泉駅~大手枡形跡

それでは、小泉の城下に入っていきます。

JR大和小泉駅~大手枡形跡(国土地理院HPより作成)

JR大和小泉駅西口から城下町へ入り、大手口を目指します。

①市場の楠地蔵

JR大和小泉駅の西口ロータリーから北西に延びる駅前通り(県道123号線・大和小泉停車場松尾寺線)を道なりに進んでいきます。

富雄川の堤防に差し掛かると、一本松大明神の小さな祠と市場の楠地蔵があります。

楠地蔵は昔富雄川の上流から流れ着いた「楠の化石」とされた南無阿弥陀仏の六字名号碑と2体のお地蔵さん。

向かって右側のお地蔵さんですが、後背の右側が赤茶色に変色しているのがわかるでしょうか。

これは昔子どもがこの石仏の前で相撲を取っていて遊んでいたところ、この石仏が倒れてきて下敷きとなって亡くなり、その時の返り血で変色したものと伝わります。

おそらく、お地蔵さんの前で子ども達が悪ふざけしないよう戒めるために伝えられたお話でしょう。

なんともおどろおどろしいお話の一方で、なんでも願い事を叶えてくれると、地元の人から大切にされているお地蔵さんでもあります。

②大神宮常夜灯

富雄川を西に渡っていきます。

橋を渡って堤防を西に下ると、大きな大神宮の常夜灯が立っています。

小泉でも江戸時代、おかげ参りが盛んだったようで、こちら以外にも市場の集落内や、北ノ町の北を出た街道沿いにも大神宮常夜灯があります。

 

大神宮常夜灯から、奈良街道沿いに中ノ町を北に進みます。

中ノ町や北ノ町には街道沿いに江戸時代からの町屋建築がいくつか残され、城下町時代の風情が今も随所に漂います。

 

③金輪院

中ノ町の北端で街道が左折れにクランクしていますが、通りの先に金輪院の山門が見えてきます。

天台宗寺院で、「小泉の庚申さん」「小泉庚申堂」の通称で親しまれているお寺。

1659(万治2)年に2代藩主片桐定昌石州)の家臣で茶人の藤林宗源により創建されました。

庚申さんなので、瓦屋根のいたるところに可愛いお猿さんが隠れていますので、探してみるのも楽しいです。

金輪院の脇にある片桐村道路元標

 

こちらは金輪院の西門で、小泉陣屋の移築門とのこと。

この門が移築門であることを示す、確度の高い資料は見つからなかったのですが、寺院内の建築で、この門にだけ降り棟鬼飾りに片桐氏の家紋である「割り違い鷹の羽」が刻まれていることもあり、おそらく間違いないと考えます。

貴重な陣屋の現存遺構になりますね。

④大手枡形跡

金輪院から街道を北に向かって最初の丁字路交差点から、西に延びる小さな路地が、江戸時代に小泉城の表口だった大手道です。

大手道を西に進むと、江戸時代までは塀で囲まれた枡形が形成されていました。

 

下の写真正面に見える広場(北之町集会所)と道路が枡形跡になります。

大手道から進むと、南、北、南と三回折れる枡形でした。

この枡形の先に大手門があったとされます。

親子塚~外堀~主郭

それではいよいよ城内に入っていきます。

親子塚~外堀~主郭(国土地理院HPより作成)
⑤親子塚

大手の枡形を抜けると上り坂になっています。

その南側は台地の縁に造られたかつての土塁の跡と考えられえる藪になっていますが、その中に親子塚があります。

1613(慶長18)年に小泉で起こった仇討ち事件で亡くなった親子のお墓と伝わります。

そのあらましですが、育ての親を殺された明石藩の若侍が、小泉でその仇を討ったが、仇討ち相手が実の父で、若侍もその後を追うように自害したというもの。

こちらのお話は絵本にもなっているようですね。

⑥外堀(東側)

親子塚から県道123号線へ回り込み東に進むと、北側に残された外堀が見えてきます。

藪中の水たまりのようになっていますが、東側の外堀になります。

外堀跡向かいにある、昔駐在所だった場所の脇に、「片桐城址」の碑が立っています。

この奥の階段を上がると主郭跡になります。

 

城跡碑のそばに南へ伸びる水路がありますが、こちらも外堀の跡になります。

⑦外堀(南東側)

南東側に回り込むと、現在最もきれいに水堀として残っている外堀に出られます。

小泉城の堀跡では、年中安定して水をたたえた姿を見られるスポットです。

南の住宅地奥にある児童公園から、水路として南へ伸びる外堀跡が見られます。

冬場~春先に訪れると、草があまり伸びてなくて堀の様子が観察しやすいですね。

⑧主郭(城跡碑)

「片桐城址」の城跡碑前まで戻り、奥の階段を登ります。

主郭との高低差を非常に感じられる場所です。

 

階段を上がると「小泉城趾」の大きな石碑が立っています。

現在主郭一帯は完全に住宅地と化していますが、1960(昭和35)年までは旧片桐中学校の敷地でした。

城跡碑の脇に旧片桐中学校建設のまつわる顕彰碑も設置されています。

下掲は1960年頃の主郭一帯を撮影した航空写真。

1960年頃の小泉城主郭一帯(国土地理院HPより作成)

旧片桐中学校の校舎や校庭が主郭部一帯に広がっているのが分かります。

ちなみに、旧片桐中学校は、現在の片桐中学校と直接のつながりはなく、1961(昭和36)年に旧昭和中学校と統合されて現在の郡山南中学校になって廃止されました。

現在城跡碑が立っている場所は、中学校のあった台地の東端で、階段も中学校の開設とともに通学用に造られたものでしょう。

⑨主郭西端

再び県道123号線に戻って西へ進みます。

畑の手前で南に延びる道路が主郭の西端になります。

JR大和小泉駅から松尾寺まで続く県道123号線は、明治以降に造られた新道で、「片桐城址」の碑からこちらの付近までは、元々小泉城主郭北側の堀でした。

 

主郭の堀はこちらから南に折れ、陣屋の御殿表門へ向かう道が並走していました。

畑の脇に堀の石垣と思しき石がごろごろと転がっていました。

⑩主郭南端

住宅地を南に抜けると、主郭南側の内堀であるお庭池に向かっていっきに下ります。

こちらは、主郭のある台地との高低差を観察しやすいポイントです。

主郭がある台地上から池の端まで3mほどの高低差があるでしょうか。

江戸時代、主郭南端部の平場には、お庭池に沿って倉庫が立っていました。

高林庵ナギナタ池~お庭池

主郭から西に進み、小泉城跡で最も城跡らしいポイントへ向かいます。

高林庵ナギナタ池~お庭池(国土地理院HPより作成)
高林庵

主郭方面から城内を西へ向かうと、白漆喰やなまこ壁、櫓のような城郭風の建物が見えてきます。

こちらは旧小泉藩主家の片桐家の居宅で、現在は『石州流茶道宗家』の本部・高林庵です。

小泉片桐氏の2代藩主・貞昌は、茶人・片桐石州として江戸時代の大名茶道の一大流派となった石州流を興した人物として知られます。

 

県道123号線沿いに見える高林庵の佇まいは、江戸時代の武家屋敷の遺風を現在に伝えています。

ナギナタ

高林庵の西側を沿うように水をたたえるナギナタは、小泉城の西を固める水堀として機能していました。

冬場は農閑期なので、水は池の南東側にしかありませんが、石垣がよく見えます。

水堀に屋敷の建物や復元櫓が見えるこちらのスポットが、小泉城で最も城跡らしい光景が見られる場所と言えるでしょう。

春は桜が奇麗な場所でもあります。

⑬お庭池

ナギナタ池との間の土橋から藪の間に見える池が、主郭の南を守る水堀跡のお庭池です。

農繁期は水をたたえていますが、藪が生い茂って少し見ずらいですね。

 

こちらは池の南側。訪れた時は冬場で池の水がありませんでしたが、非常に幅広で大きな池です。

対岸は現在住宅が並んでいますが、江戸時代までは城の倉庫となっていました。

小白水~小泉神社

ナギナタ池から西に向かい、西側の外堀沿いに進んでいきます。

小白水~小泉神社(国土地理院HPより作成)
⑭小白水

ナギナタ池の北側に外堀がありました。

畑にうっすらと堀跡らしき凸凹が残っていますが、おそらく丘陵部であるこの辺りは空堀だったのだろうと思います。

ホームセンターの北側を走る県道9号線も、ホームセンターの前の交差点から、ガソリンスタンドの手前ぐらいまでが、かつては堀でした。

 

県道9号線を西に進むと、小泉城外郭の西北縁に小白水という泉があります。

こちらは小泉の地名の由来になったとされる泉で、江戸時代は藩主のお茶の水として使われていたとのこと。

 

外堀の西側は、丘陵の縁に沿うように現在は水路となってその跡が残されています

⑮土塁

外堀沿いに西から台地の縁に沿って進むと、小泉神社の鳥居が見えてきました。

神社の東側は江戸時代までは堀があり、それと並んで奈良街道から城内に向かう通路もありました。

写真の位置から見ると大変分かりやすいですが、神社の境内は東側を堀沿いに通る通路より3~5mほど高所にあり、場内に侵入する敵に対して横矢を掛けられる造りになっています。

小泉神社の境内が、小泉城南側の防御の要となる曲輪としても機能していたことがよくわかる場所ですね。

 

小泉神社の東隣、急な坂を上り切ったあたりに東西に細く伸びた竹藪があります。

位置的にも形状的にも土塁の跡と思われます。

⑯小泉神社

最後のスポットが小泉神社です。

こちらの表門は、小泉陣屋の移築門と伝わります。

当社のご祭神は素戔嗚尊誉田別命で、由緒や創建年は不明ながら、本殿は室町時代末期の造営とされ、国の重要文化財に指定されています。

普段は門扉で閉ざされて玉垣に囲まれた本殿を見ることはできませんが、お正月や祭礼の時は開扉されて、その姿を見ることができます。

 

まとめ

ここまで駆け足に小泉城の見所をご紹介してきました。

一般に「陣屋」といえば、ともすれば武家屋敷に形ばかりの堀などを備えただけのものと思われがちですが、小泉はその規模や防備の仕掛けを見る限り、十分に城郭としての機能を持っていたと考えられます。

明治以降の開発で、城はすっかり住宅地の中に飲み込まれてしまいましたが、堀跡や地形から往時の姿を想像することができる城跡かと思います。

周辺情報

■小泉の城下町の北にある慈光院片桐石州が建立した寺院で、境内全体が茶席の演出空間として設計されています。

小泉散策の途中、重要文化財の書院の座敷から、国の名勝に指定されている庭園を眺めながら、お抹茶とお茶菓子をいただいて一息つくのもお勧めの場所です。

また、お城好きの方には、片桐氏の旧本拠であった摂津茨木城の移築門(楼門)がありますので、是非お立ち寄りいただきたい場所です。

 

■国道123号線を松尾寺方面へ高林庵から300mほどの場所にあるGiGi cafe&curryは美味しいカレーやデザートを楽しめるお店で、小泉散策のランチにぴったりのお店です。

参考文献

『日本城郭全集 第9 (大阪・和歌山・奈良編)』 人物往来社

『大和郡山市史 本編』 柳沢文庫専門委員会 編

結崎環濠散歩(2)歴史ある古社と惣村の町並み

皆さんこんにちは

 

奈良盆地の中央にある奈良県川西町

その町役場を中心に広がる結崎地区は、井戸中村と3つの環濠集落が約500m四方のエリアに集中するエリアです。

3つの集落は一口に環濠集落と言っても、そのルーツは違っており、井戸と辻は中世武家の居館を取り囲んだ環濠が集落化したのに対し、中村は特定の武家居館を中心としたものではなく、惣村が自衛・もしくは治水対策のため周囲を環濠で取り囲んだものとされます。

 

井戸と辻の環濠については、下記記事でご紹介しました。

 

今回は結崎地域の鎮守であった糸井神社と、市場、中村両集落を紹介します。

 

糸井神社~市場

結崎南西部、江戸時代まで大和川水運が活発だった寺川の土手に最も近い集落が、市場になります。

糸井神社~市場概略図(国土地理院HPより作成)

市場の名は、糸井神社の祭礼のときに市が立っていたことに由来するのではないかと考えられます。

実際に糸井神社の拝殿に掛けられている1842(天保13)年奉納された太鼓踊り絵馬には、境内周辺でスイカの切り売りを行う売店などが描かれ、寺川に隣接する地域でもあり、大和川水運を行き来する船からの荷揚げや交易もあったのかもしれませんね。

 

こちらは糸井神社の鳥居。

糸井神社は延喜式神名帳にも名が見える古社で、結崎の総鎮守として郷民の精神的紐帯となってきました。

古来、結崎大明神と呼ばれて地域信仰の中心にあり、社伝では機織の技術集団の神である綾羽、呉羽の神を祀った(現在も豊鍬入姫命、猿田彦命と並んで主祭神として祀られる)とされ、糸井や結崎の名からも、その創始は機織集団との関係が強く示唆されます。

 

こちらは拝殿

拝殿内に掛けられた「おかげ踊り絵馬」(写真左)と「太鼓踊り絵馬」(写真右)。

「おかげ踊り絵馬」は、1868(慶応4)年に奉納された絵馬で、伊勢神宮へのおかげ参りの後に村の中で人々が踊る「おかげ踊り」が1830(文政13)年から畿内一帯で流行りだし、その様子を描いたもので、今でも集落内に多数残る大神宮の常夜灯とともに、結崎のおかげ参り熱の高さを今に伝える絵馬になります。

ちなみに「おかげ踊り」は、この絵馬が奉納された前年に大流行した「ええじゃないか」とは無関係の習俗です。

一方の「太鼓踊り絵馬」は1842(天保13)年に奉納された雨乞い踊りを描いたもので、「おかげ踊り絵馬」とともに江戸時代の習俗を現代に伝える貴重な史料として県の文化財に指定されています。

 

こちらが本殿

現本殿は江戸時代に春日大社から移築されたもので、春日造の立派な本殿。

あと50年ほどしてきちんと残っていれば、重要文化財に指定されるかもしれないですね。

 

中世以降、長らく結崎は興福寺領だったこともあって、糸井神社は鎌倉時代にも春日大社末社竜神社から旧本殿の移築を受けたことが知られ、室町時代の「春日鹿曼荼羅」を蔵し、江戸時代の『大和名所図会』に「今春日と称す」と記述されるなど、春日大社との深い結びつきを感じます。

 

神社の周囲を囲む環濠と土塁はそのまま残されています。

奈良の環濠集落内にある鎮守社は濠と土塁が良好に残ってる場所が多いですね。

 

市場集落の南、寺川沿いの濠跡水路

こちらは集落の北側の濠跡。

完全に暗渠化されていますが、糸井神社の濠と今でもつながっています。

 

市場集落への西側入口にある大神宮の常夜灯。

糸井神社の鳥居前から東へ伸びる道が、江戸時代まで市場、中村と続く結崎郷のメインストリートでした。

 

大神宮の常夜灯の北側は、かつて糸井神社の神宮寺だった和福寺跡の薬師堂です。

和福寺は1874(明治7)年までに廃寺となり、その売却金額は小学校の運営費用に充てられました*1

学制発布後、小学校はまずこちらの敷地に設けられ、後に中村集落を経て現在の川西小学校の場所へ移動しました。

現在の薬師堂は和福寺の庫裏を移築したものと伝わり、中には高さ120cmを超える本尊の薬師如来坐像や、平安時代作とされる十一面観音菩薩立像、阿弥陀如来坐像をはじめとした秘仏8体が安置されています。

広報川西2019年9月号で詳しく紹介されていて、非常に素晴らしい仏様なので是非ご覧ください。

ご本尊をはじめそのほとんどが江戸時代の作なのですが、あえて平安時代の様式を模している点が、一般的に慶派の様式が鎌倉以降他派を圧倒するように通説では語られる中、非常に興味深いです。

和福寺については廃寺となって寺伝も残されていないため詳細不詳なのですが、糸井神社の神宮寺は「観音院」と書かれた史料もあるので、もしかすると平安時代作とされる十一面観音菩薩立像が元々本尊だった可能性もありますね。

毎年7月16日と10月の糸井神社の祭礼では、地域外の人にも開帳してお参りすることができるそうなので、是非一度お参りしたいと思います。

 

中村環濠

最後に結崎南東部にある最大の集落、中村環濠に入ります。

中村環濠概略図(国土地理院HPより作成)

集落中央を東西に貫くメインの通りから櫛の歯状に南北に路地が伸び、行き止まりやクランクが続く町並みになっています。

 

こちらはメインの通り市場集落との境目付近です。

北(写真左)へ折れる狭い道は、もともと濠の跡と思われます。
交差点北側の路地を進むと、暗渠化された水路の先に北側の濠跡の水路が姿を現していました。

もとのメインストリートに戻り、東に進むとここでも大神宮の常夜灯が残されています。

中村にも所々に古い民家が残されていますが、こちらはもともと長屋門ぽいですね。


環濠東側の枝濠跡と思しき路地には、濠へ下りるための石段らしきものが残されていました。


中村環濠の東端に鎮座する都留伎神社

かなり背の低い石鳥居です。

祭神は都留伎比古命。

出雲国風土記』で素戔嗚命の子とされる都留支日子命と同じ名前なのですが、境内案内板によると境内の灯篭に「鶴木」という名が刻まれており、中村のために池を掘った人物とも、寺川堤に隣村に無断で水樋を通して獄中死した人物とも伝えられ、この人物を祀ったとされています。

いずれにせよ、中村にとって水利に功績のあった人物が祀られた社で、社名や祭神名は彼の名前に音が近い都留支日子命から取られたのでしょう。

 

こちらは本殿です。

近年建て替えられたのか、真新しい玉垣が本殿を囲んでいました。

手入れの行き届いた集落のお社を見ていると、地元の素朴な信仰が引き続き守られていることを感じます。

 

都留伎神社から南に向かって寺川の土手を上ると、「たつみ橋」の袂に結崎の松の碑と松の苗木にお地蔵さんがありました。

結崎の松は、1908(明治41)年に奈良県内で明治天皇統監のもと行われた陸軍特別大演習のとき、この地に生えていた大松がよい目印となったことから、陸軍の司令官に「結崎の松として大事にせよ」との言があり、これを記念して大事に育てられていましたが、1975(昭和50)年頃に枯れてしまったとのこと。

以後、何度も新しい松が植えられているそうですが、中々育たず枯れてしまうのだそうです。

在りし日の結崎の松の姿はこちらです。

 

再び環濠内に戻り、環濠の北東角付近に戻ってきました。

かつての環濠の石垣が、側溝の中に埋もれているのが見えます。

また、その北側で環濠跡の水路はコンクリートで蓋をされた暗渠になって西に折れていきます。

暗渠は歩道になって西へ続きます。

立派な大和棟の民家も集落内には残っています。

川西町の商工会館裏を流れる北側の濠跡になる水路。

こちらが現在の中村環濠で、もっとも環濠集落の雰囲気が感じられる場所だと思います。

 

一般に環濠集落の濠は、中世から戦国時代にかけての戦乱の中で形作られたとされる場合が多いですが、平和な江戸時代以降も奈良県内に数多くの環濠が残ったのは、灌漑と治水に利用されたからとされています。

結崎の環濠は、周囲が低地だったこともあり治水用の濠と土手が主たる機能だったと見るべきかと思いますが、辻環濠の舟入などを見ると、物資運搬用の水路としても活用されていたという、環濠の新たな側面が垣間見られると思います。

奈良には多くの環濠が残りますが、狭い盆地の中でも地域によってその在り様が様々というのも、奈良の環濠の魅力ですね。

 

参考文献

『民俗建築 (96)』 日本民俗建築学会

『角川日本地名大辞典 29 (奈良県)』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編纂

奈良盆地歴史地理データベース_小字データベース 奈良女子大学

『郷土歴史人物事典奈良』 乾健治 著

『近畿名蹟全書 巻4』 辰馬六郎 著

『大和文化研究 11(5)(97)』 大和文化研究会

*1:『明治七年 廃寺一件』(奈良県庁文書/1-M7-44/556000152/1874)に「式下郡市場村和福寺之廃寺及建物等売払金之学校入費ヘ之組込ニ付伺」とあり。