皆さんこんにちは。
奈良県生駒市は大阪へのアクセスが良いことから、閑静な住宅街というイメージが強いですね。
奈良県内各市の中心街は、古代から近世にかけて発達した集落を起源とする町が多い中、生駒市の中心街付近は大正の初め頃まで小さな寒村でした。
それが大正の初めに現在の近鉄生駒駅が開業した後、急速に発展することになるのですが、なんと、奈良県下最大規模の花街にして関西でも屈指の歓楽街として成長するのです。
この時生まれた巨大花街・生駒新地が現在の生駒市中心街の直接のルーツで、奈良県内でも極めて特異な、興味深い過程を経て形成された町と言えるでしょう。
現在の生駒市の姿からは想像もつきませんが、その中心市街のルーツである生駒新地の今昔をご紹介していきます。
奈良県最大の花街・生駒新地
生駒の隆盛を語る上で外せない二つのスポットが、宝山寺と近鉄生駒駅になります。
宝山寺は元々、役小角が開いたと伝わる古くからの山岳信仰の修行場であり、行者以外の者が気軽に立ち寄るような場所ではありませんでした。
1678(延宝6)年に伊勢出身の律僧・湛海がこの地で修行して宝山寺を建てたのが、事実上の開山とされます。
本尊の歓喜天(聖天さん)は、「欲望を抑えられない衆生の願望をひとまず成就させることで心を鎮めさせ仏法へと向かわせる」仏教の神であることから、商売繁盛など現世利益の霊験が高いとされ、大阪や京都の商人を中心に広く信仰を集めました。
しかし、門前町の形成は近代初頭で、1893(明治6)年に片町線(現JR学研都市線)が開通して、住道から古堤街道を通り八丁門峠を越えて宝山寺へ参詣する人が増えたため門前に茶屋や旅館が数軒現れ、それまで門前には1軒の民家もなかったと言います。
劇的な変化が起きたのは1914(大正3)年の大軌による生駒駅の開業でした。
生駒駅から宝山寺の門前まで13丁、1.4kmの新たな参道が設けられると、多くの参詣客が宝山寺を訪れるようになり、参道の両脇には土産物屋や茶屋など多くの商店が立ち並びました。
参道脇の町は生駒新道と呼ばれて活況を呈します。
この人出と上本町から電車で20分足らずという好立地に目を付けたのが、大阪南地花街の幹部・井上市太郎で、大軌生駒駅開業の翌1915(大正4)年に置屋「巴席」を開業させると、生駒新道では置屋と料理旅館の出店が相次ぎました。
それから6年後の1921(大正10)年、北生駒村から生駒町へと町制移行したときには置屋15軒、芸妓約130名を数え、奈良の元林院町に匹敵する規模の花街に成長。
同年には生駒新道一帯が芸者居住指定地となって、生駒新地が誕生するのです。
現在、ウェブで生駒新地を調べると、宝山寺門前周辺だけを指す記事が大半を占めますが、本来は生駒の花街全体を指していたため、麓から門前に至る広範なエリアが生駒新地だったのです。
1917(大正7)年に生駒ケーブル(生駒鋼索線)の鳥居前~宝山寺間が開業すると、新道のうち仲之町エリアの料理屋、商店は急速に寂れて一般住宅地化が進みますが、山上の門前町と麓の山崎新町、本町、元町エリアの活況は続きます。
麓には下図の通り、芸妓の演舞場であった生駒劇場の他、映画館である天命館、そして1930(昭和5)年には当時奈良、大阪では禁圧され営業許可が下りなかったダンスホールまで開業して、歓楽街として発展します。
また、麓の店と対抗する意味合いもあったのか、仲之町、門前町といった山上の料理旅館やカフェーでは、1930(昭和5)年頃からヤトナの導入を始めました。
ヤトナは本来臨時の仲居や酌婦を意味する語ですが、芸者と違って歌舞音曲といった芸事はしない分、安価に遊ぶことができ人気を呼ぶことになります。
1935(昭和10)年頃が生駒新地の全盛期となり、芸妓置屋・23軒、芸妓171名、ヤトナ置屋・6件、ヤトナ49名で、料理旅館は105を数えました。
ちなみに芸妓は麓、ヤトナは山上と、住み分けが行われていました。
ここまでの人気を博した生駒新地ですので、さぞかし芸者の評判が良かったのかと思いきや、『生駒市誌』によれば1931(昭和6)年に発行された某新聞の「生駒聖天と生駒魔窟繁盛記」と題する記事で「三味線一つ持たないのが芸妓で候、三味線一つ弾けないのが芸妓で候と、大きな顔が出来る所は一寸生駒でないと見られない図であろう」と、酷評されています。
これは、当時全国的に横行していたいわゆる「不見転(みずてん)芸者」(金銭で相手を選ばず身を任せる芸者)が多いことを揶揄した記事と考えてよいでしょう。
また、同じく『生駒市誌』によると、生駒新地の遊びは「芸者の酌で一献かたむける四畳半式の遊び」が「特色」だったとあります。
戦前まで、芸妓と娼妓は法律上厳然と区別され、芸妓が客と同衾することは認められていませんでしたが、新橋の芸者・石井が著した『芸者と待合』(1916(大正5)年刊行)によれば、「四畳半」とは「待合(芸者を呼ぶ貸座敷)の代名詞となって」おり、「「恋にはなまじ連れは邪魔」という寸法の客を相手には、こうした造りのほうが都合がよろしい」、「今日では待合に客と芸者が宿泊することは、もう公然の秘密になって居ります」とあって、当時の「四畳半」と呼ばれる空間が、非公認の売春の場ととらえる当時の風潮が、生々しく記述されています。
また、麓側の置屋、料理旅館の組合組織・生駒振興会により、花柳病(性病)対策の診療所も設置されており、大阪毎日新聞社発行の『日本都市大観 昭和11年版』にも同会の紹介記事として「なほ特筆すべきは、全生駒の接客業者によって保険組合診療所が設けられ衛生上絶大の注意を払っていることである」ともあることから、昭和初期までの生駒新地は御座敷遊びを楽しむ場というより、事実上の「遊郭」であったというのが実態と考えてよいでしょう。
しかし生駒の花街としても、先に挙げた某新聞による批判記事のような評判は不本意だったようで、昭和の初め頃から舞踊や音曲といった芸事の稽古にも熱心に取り組んでいました。
また、昭和5年から10年にかけ、「生駒小唄」、童謡「シャボン玉」で知られる野口雨情作詞による「生駒新地流し」、「生駒ぞめき」などが相次いで発表され、生駒の特色ある小唄でお座敷の充実を高める動きも見せています。
第1次世界大戦中に巻き起こった空前の好景気で勃興した生駒新地は、昭和の初めには不夜城と化して、夜中に山を見ると麓から宝山寺門前にかけて煌々と灯りの列が並んでいました。
今は山上からの夜景が絶景として知られる生駒山ですが、往時はまさに「生駒新地流し」で「生駒ながめて星かと聞けば 何の星かよ灯の明り」と歌われた生駒山の灯りが、生駒の夜に輝いていたのです。
しかし1943(昭和18)年になると戦時体制が強化され、政府による高級享楽の禁止令が発出されると、花街を取り仕切った検番は解散となり、料理旅館は宿泊業務のみを行って学童疎開の受け入れも行いました。
ダンスホールも閉鎖され、花街・生駒の灯はいったん消えることになります。
戦後、検番、置屋はすぐに復活したものの、戦前のような勢いはなく、戦中でも100を超えた料理旅館は1973(昭和48)年までには47軒まで減少し、現在は門前町に数軒が残るのみで、麓では全く姿を消してしまいました。
また、高度経済成長期以降にクーラーが広く普及するようになって、夏の避暑地であった生駒の優位性が失われたことも、戦後に往時のような賑わいを取り戻せなかった原因の一つになったようです。
戦後、生駒新地の麓側は急速に住宅地化が進み、料理旅館の建物も多くが取り壊されていき、静かに花街の風景は失われて現在に至ります。
駅前
それでは、現在の生駒駅から門前までの様子を見ていきましょう。
生駒駅の南口からスタートです。
駅南側のぴっくり通りは、昭和の香りが残るアーケード街です。
近年、近鉄百貨店など大型店舗の進出が目覚ましい駅北側に比べると、往時の人通りは失われているかもしれませんが、営業中の店舗も多く今も元気な商店街でした。
昭和の初め頃までは、このあたりにも料理旅館があったようですが、当時の地図などを見ると、駅前は土産物屋などが多いエリアだったようです。
ぴっくり通りのアーケード南口近くにある、中華料理・萬隆軒跡の建物。
大正から昭和初期にかけての歓楽街時代から残る貴重な建物になります。
ぴっくり通りのアーケードを抜けて少し南に進むと、東側に木造のアーケードが見えてきました。
こちらは1926(大正15)年に造られた、生駒町公設市場のアーケード。
プラスチックのトタンは後年張り替えられたものでしょうが、木組は建設当時のまま残っています。
両脇の住宅兼店舗も一緒に建設され、開設時には10軒の商店が入居していたとのこと。
人口が急増した宝山寺門前の人々の生活を支えた最初期の商業施設になります。
現在もご商売されている店舗もあるようですが、ほぼ全戸が一般住宅になっていました。
こちらは公設市場跡アーケード北側にあった旧天命館(映画館)の跡地です。
戦前の地図にその名が見える映画館ですが、戦後の地図には見えないので、短い期間で閉館してしまったものと思われ、現在は雑居ビルが並んでいました。
ぴっくり通りを南に抜けて直進し、突き当りの斜面を登った先の東側に、生駒ダンスホール(生駒会館)がありました。
1930(昭和5)年に建設されましたが、太平洋戦争が開戦する間際の1940(昭和15)年10月に発令されたダンスホール閉鎖令により、生駒ダンスホールもいったん閉鎖されてしまいます。
当時のダンスホールは午後5時から11時までの営業で、客はチケットを購入し、ホールに所属する女性ダンサーを指名するとチケットと交換で社交ダンスを踊れる施設でした。
客層は大阪の企業重役がほとんどで全員男性、ダンサーは10代後半から30歳ごろまでの女性だったとのこと。
ダンスホールとして営業できなくなった後は映画館となったようで、戦後は生駒会館として、1960年代頃まで営業していたようです。
現在跡地は、マンションになっています。
また、こちらのダンスホールから通りを挟んで向かいには、主に芸妓の花柳病対策のため花街の組合が設立した接客業保健組合診療所がダンスホールの建設とほぼ同時期に設置されました。
この診療所を前身として大和病院が設立され、さらにこの病院が発展して21世紀初頭まで生駒市内唯一の総合病院だった生駒総合病院となり、長らく生駒市民の健康を支えました。
生駒総合病院は2004(平成16)年に閉鎖され、現在跡地はマンションになっています。
生駒駅前の元町、本町エリアは、現在古い家屋の取り壊しや再開発が進行中です。
昭和初期辺りまでの古い建物はもうほとんど残っていませんでした。
生駒新道(参道)
それでは、生駒駅開業後に新設された参道から、宝山寺門前を目指したいと思います。
通常、鳥居前駅から宝山寺駅まで生駒ケーブルなら5分の約1.4kmの道のりを歩いて上ります。
元町・本町・山崎新町
こちらが現在の参道の入り口です。
「参道筋」の看板も見えます。
実はこちらの交差点の前に、1982(昭和57)年まで巨大な石づくりの一の鳥居がありました。
生駒ケーブルの鳥居前駅のまさに真ん前に大鳥居が立っていたことがよくわかりますね。
今ではどうして鳥居もないのに鳥居前!?という印象ですが、ちゃんと昔は鳥居前にあったのです。
こちらは移設直前の1982年に撮影された大鳥居。
駅舎の改築とそれに伴う南口整備のため、宝山寺境内に移設されました。
こちらの参道は大正3年に生駒駅が開業してから作られたものなので、この大鳥居も大正以降に建立されたものと思いますが、仏教寺院に鳥居という山岳寺院の伝統的で土俗的な組み合わせは、明治の初め、神仏分離令による廃仏毀釈の激しかった時期には難しかったと思いますので、明治維新から半世紀ほど過ぎて、信仰の形の土俗的な部分の原点回帰が起こり始めたのかとも思ったりする光景です。
参道沿いに残る料理旅館の建物と思しき三階建ての町屋。
既に麓の参道沿いで、かつての花街の面影を残す建物は、こちらの一棟しか見当たらなくなっています。
昭和50年前後くらいまでは、芸妓さんも100人くらいはいらっしゃったようで、三味線の音が聞こえる通りだったそうです。
今はもう食堂としての営業はされていないようですが、手前に見える滋養亭も、花街の時代から残るお店です。
参道は山崎新町に差し掛かるあたりから、坂の傾斜が急になってきます。
道端に「三丁」の丁石がありました。
おそらく一丁、二丁の丁石もあったのでしょうが、駅前からこちらまで見当たりませんでした。
生駒劇場~幻の生駒歌劇団
三丁の丁石を過ぎてバネ工場の脇にコンクリートで舗装された小道が、参道から延びています。
こちらがかつての生駒劇場跡に続く路地です。
一見、工場の敷地に見えるので、入っていいのか少し躊躇しちゃいますね。
生駒劇場は1921(大正10)年、奈良県選出の衆議院議員で生駒土地株式会社の社長だった福井甚三が、大軌の後援で生駒山一帯を一大遊園地にする計画を立て、その一環として開設した劇場でした。
建物は、大阪新町遊郭(現大阪市西区新町)にあった新町演舞場の建て替えにともない、旧演舞場の建物を購入・移築したものです。
福井はこの劇場で宝塚のようなオペラの常設開演を企図し、当時東京で一大ブームとなった浅草オペラの中心メンバー・伊庭孝、佐々紅華らに声をかけ、生駒歌劇団が結成されます。
また、宝塚と同じく、劇団員を養成するために生駒歌劇技芸学校も併せて設立し、大正10年8月に第1回、9月に第2回の公演を行いました。
美術や衣装を始め、金に糸目は付けず、東京でも不可能というくらい豪華な舞台でしたが、大阪郊外の生駒へは週末と祝日しか客が入らず、たちまち赤字が重なって経営が立ち行かなくなります。
そして10月に京都で第3回の公演を行ったのを最後に生駒歌劇団は解散してしまうのです。
活動期間はわずか数か月で、文字通り幻の歌劇団となってしまったわけですが、もしこの生駒歌劇団が現在まで存続していたら、町の様相もずいぶん変わったものになっていたことでしょう。
また、ごく短期間の活動ながら、生駒歌劇技芸学校の研究生からは、後に松竹の俳優として活躍し、黒澤明の名作・『生きる』で志村喬演じる主人公の部下役を好演した日守新一などが出ました。
生駒歌劇団については1967年出版の『浅草オペラの生活』に詳しく当時の様子が記述されています。
生駒歌劇団解散後は芸妓の演舞場になりましたが、昭和5年に生駒ダンスホールが山崎新町に建って演舞場がそちらに移動すると、以後は劇場、映画館として利用されることになります。
そして、昭和10年頃に劇場は閉鎖。
戦後建物は取り壊されました。
現在、劇場跡は宝徳寺の境内になっています。
谷間の非常に狭い空間で、本当に写真のような劇場がこの場所に建っていたのか、ちょっと信じられない印象です。
もしかすると背後を流れる川にまで、建物がせり出していたのかもしれないですね。
仲之町
石段の参詣道が見えてきました。
四丁から八丁までが仲之町になります。
真新しい「参詣本道」の石碑が見えますが、2020(令和2)年に仲之町の参詣道が修復・整備されたとのこと。
四丁の丁石も新調されていました。
しばらく進むと大きな石灯籠が見えてきます。
少し参道が折れているところが絵になりますね。
五丁の丁石は、設置当初のもののようです。
まだまだ続く石段。
真夏はけっこうキツそうですね。
ようやく六丁まで到達しました。
参道の脇に熊鷹稲荷神社があります。
大阪生野で代々大地主だった富豪、鬼権こと木村権右衛門が伏見の熊鷹大神を勧請し、その後同じく伏見稲荷から稲荷社を勧請した神社とのこと。
この辺りから沿道に桜が目立ち始めます。
こちらは1975(昭和50)年頃の熊鷹稲荷神社付近の様子ですが、桜の古木がたくさんありますね。
仲之町の名前の由来は、山上と麓の中間の町という意味合いもありますが、桜の名所であった江戸吉原の仲之町にあやかって桜が植えられたそうで、戦中木材不足で各地の桜が伐採される中、この辺りの桜は守られたとのこと(『ふるさと生駒の地名と私』より)。
振り返ると、麓の町が小さく見えます。
七丁まで上ってきました。
この付近から門前町に続く大石段までは、かつて大きな料理旅館が建ち並ぶエリアでした。
しかし、先述の通り生駒ケーブルと宝山寺門前までの自動車道の開通により、歓楽街としては急速に寂れ、今は閑静な住宅街となっています。
大石段の先に鳥居が見えてきました。
この階段の先が門前町になります。
門前町
参道の大石段を登りきると、最初の鳥居が見えてきます。
こちらは元々二の鳥居だったのですが、麓の一の鳥居が移設されたため、今は一の鳥居ということになるんでしょうか。
両脇に大きな石灯籠が立ちます。
引き続き、石畳と石段の参道が続きます。
こちらはたぶん九丁?の丁石。
昔ながらの料理旅館が見えてきました。
麓の料理旅館は姿を消しましたが、ここ門前町では、「接待なし」の通常の旅館営業に切り替えた旅館もあるものの、数軒の料理旅館が現在も旧来どおりの営業も行っているようで、新地の雰囲気を残す町になっています。
旧来どおりのいわゆる料理旅館は、「風俗営業許可店」や「18歳未満お断り」の札が店先に貼ってありますので一目でわかります。
ちなみに「風俗営業許可」は客室で芸妓や酌婦による接客を行うために必要な許可になります。
お座敷遊びをするお茶屋や料亭などと同様なので、誤解のないようにしましょう。
また、「お遊び」なしで、普通に宿泊することも可能のようです。
最近では生駒山上からの絶景旅館として、著名な旅行サイトでも高評価な旅館もあります。
特に以下の二つの旅館は、客室やお風呂からの眺望もよく、かつての新地の風情を満喫できそうです。
有名旅行サイトにお部屋の紹介などもあるので、興味のある方はぜひ一度ご覧ください。※クリックすると各旅行サイトへ移動します。
家族連れでの旅行の書き込みもあり、安心して宿泊できるようで、筆者も一度は泊まってみたいと思ってます。
また、宝山寺の本堂は24時間参拝可能で、夜や早朝の境内は非常に幻想的なので、門前で宿泊できるのは大変魅力的ですね。
こちらの旅館は閉まっているようです。
廃業されている旅館が多いもの残念ながら事実です。
それでも、最近ではレトロな町並みがじわりと人気を集めており、かつての料理旅館をリノベしたカフェなど、人気の高いお店もあります。
訪れたのは平日の午後でしたが、若い女性だけのグループやおひとり様で散策を楽しんでらっしゃる方々を、何組かお見掛けしました。
昭和の初め頃までに建てられた料理旅館が建ち並ぶ参道は、ノスタルジーあふれる景観でオンリーワンの魅力が詰まっています。
山上は眺望も良いですし、夏場は麓より涼しいので軽井沢のような避暑スポットになるポテンシャルもあるんじゃないかと思います。
ようやく宝山寺の門前までたどり着きました。
ゆっくり麓から上ってきて、おおよそ40分くらいでしょうか。
参道の景観が楽しいので、ほとんど時間は感じなかったです。
季節の良いときは、歩いて参道を上るのも良いものと実感しました。
宝山寺
大きな石鳥居が見えてきました。
こちらは1982年まで麓の参道入口にあった一の鳥居です。
ほぼ現在の伽藍と変わらない規模だったことが分かりますが、この時点では境内に鳥居は設けられていなかったようですね。
宝山寺は古くからの修験の場でしたが、先述の通り1678(延宝6)年に湛海により「中興」された寺院です。
江戸時代は幕府の政策で寺院の新規建立が原則禁止されていたため、寺院を立ち上げる際は元々あった寺院を「中興」したという体裁を取ることが常套手段でした。
なので実際には湛海が江戸時代前期に開基した寺院と考えてよいでしょう。
駐車場から獅子閣がよく見えます。
1882(明治15)年の洋風建築で、宝山寺の建築では唯一の重要文化財になります。
宝山寺はまず郡山藩の大きな支援を受けて伽藍が整備され、その後、湛海が皇室、徳川将軍家から祈祷を依頼され、その「霊験」が高かったことから、祈祷寺院として崇敬を受けるようになりました。
写真正面が本堂で、宝山時では最も古い1688(貞享5)年の建築。本尊は不動明王になります。
奥の檜皮葺の建物が聖天堂になります。
元は不動明王信仰が主たる寺院だったようですが、江戸末期になると現世利益を求める庶民の信仰熱が高まったせいもあってか、現在の聖天信仰が徐々にメインの寺院になっていったようです。
伽藍は全て江戸時代以降の建築になりますが、お不動さん、聖天さんの他にも観音さんに文珠さんなど、ご利益スポットが満載の寺院になっています。
宝山寺の詳細についてはクマ子さんの以下記事にで詳しく紹介されていますので、是非ご覧ください。
先述のとおり宝山寺の本堂は24時間拝観可能です。
写真はお彼岸の万燈会の様子ですが、夜の境内はとても幻想的ですね!
今回初めて、歩いて麓から宝山寺まで歩きましたが、意外に近いなという印象でした。
よくよく考えたら1.4kmしかないので、全然歩ける距離ですよね。
でも上りはやはりきついという方も多いかと思いますので、往路は生駒ケーブルで宝山寺まで上った後、復路は徒歩で参道を下ってくると、大変眺めもいいですし超おすすめです。
現在はすっかり住宅都市となって、観光イメージはない生駒市ですが、戦前の非常に短い期間ながら、歓楽地として隆盛した宝山寺門前のポテンシャルは、非常に高いものを感じました。
特に山上からの夜景は素晴らしく、宝山寺の本堂は夜間も自由に参拝できるなど奈良県内では弱点とされる夜間観光について、非常に大きな可能性を感じる場所です。
しかし、「新地」「花街」というイメージがどうしても後ろ暗い「負」の記憶とされる方が多いためか、生駒市の観光関連のHPを見ても宝山寺までの参道をPRする動きは、ほとんど見えません。
たしかに「前借金」で置屋で働いた戦前の芸妓のあり様は、現代においては許されるものではありませんが、そういった過去があったことも記憶にとどめ、広く知ってもらうことも多様性ある社会にとっては必要なことでしょう。
市内中心部のルーツが近代の花街という町は、奈良県内では生駒市だけで、筆者個人としては魅力的で特色のある歴史を持つ町に映りました。
宿泊予約
■観光旅館やまと
予約はこちらからどうぞ。※クリックすると各旅行サイトへ移動します。
■生駒のお宿 城山旅館
眺望抜群で、お料理の評判も高いお宿です。BBQもできて、ご家族やお仲間との旅行にも最適の旅館。
予約はこちらからどうぞ。※クリックすると各旅行サイトへ移動します。
奈良県内の花街
かつて奈良県内にあった花街についての紹介記事です。
■元林院、木辻
現在のならまち地域で、現在も唯一芸者さんが残る元林院町と、江戸時代大和国で唯一の公許遊郭だった木辻の歴史と現在の様子をご紹介しています。
■洞泉寺、東岡町
大和郡山に戦後まもなくまで存在した洞泉寺遊郭、東岡町遊郭の紹介記事です。
■町屋物語館(旧川本楼)
大和郡山の洞泉寺遊郭内で唯一市が買い上げ、文化財として保存されている旧川本楼こと町屋物語館の紹介記事です。大和郡山市のひな祭りイベントでは多くの人が訪れるスポットですが、そちらの様子も併せてどうぞ。
参考文献
『芸妓という労働の再定位──労働者の権利を守る諸法をめぐって』松田有紀子
『和歌山地理 (10) 私鉄資本による生駒山の観光地化(岸田修一)』 和歌山地理学会