皆さん、こんにちは。
先日、奈良県橿原市の「今井町」を久しぶりに訪れましたのでご紹介したいと思います。
場所はこちらになります。
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今井町とは
今井町は奈良県橿原市の中部に位置し、1500ほどの建造物のうち、およそ500棟が伝統的建造物で、国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されている地域です。
町内の建物の三分の一が伝統的建築物というのは、とてつもない数字ですが、この数は一つの地域としては日本最多。江戸の街並みが最大規模で残された「現役の町」というとても貴重な場所なのです。
八木西口駅から西に向かい、飛鳥川に架かる蘇武橋を渡ると、案内板がお出迎えしてくれます。
この案内板をご覧になって気づかれた方もいらっしゃるかと思いますが、もともと今井町には環濠がありました。
現在は環濠のほとんどは消滅し、環濠の跡は道路となっていますが、南西部の春日神社や今西家住宅の西側に残された濠が往時を偲ばせます。
今井町の歴史は中世の環濠集落にまで遡ります。
1533(天文2)年、浄土真宗の念仏道場(現在の称念寺の前身)がこの地に布教拠点として建立されました。
しかし越智氏や興福寺により幾度も破却されます。
というのも、この前年に起きた天文の錯乱で、一向一揆が興福寺の打倒を掲げて大和に乱入、興福寺の堂宇がことごとく焼き払われました。
一向一揆は筒井氏をはじめとした大和国人たちにより大和から追われたものの、浄土真宗と興福寺及びその衆徒とは強い緊張関係にあったのです。
そのようないきさつから、今井での浄土真宗布教は、ことごとく興福寺と大和国人たちの妨害を受けたのです。
この状況に変化が生まれたのは1559(永禄2)年、松永久秀による大和侵攻です。
松永勢と興福寺の実力部隊であった大和国人たちが角逐に乗じて、今井町は称念寺の寺内町として大きく発展することになります。
1570(元亀元)年から始まる石山合戦では、石山本願寺に呼応して織田信長に反抗。
この時、町を取り巻く堀の幅を広げ、底を深くし、西口にある今西家を城構えとするなど、町全体を城砦化しました。
1575(天正3)年には信長の降伏勧告を拒否して徹底抗戦し、信長方の筒井順慶らと半年にわたって激しい戦闘を繰り広げますが、本願寺の顕如が信長と和議を結んだことから降伏します。
降伏後は、赦免されて、武装解除を条件に大きな自治権を認められました。
前年の長島一向一揆で一揆勢が皆殺しにされたことを思うと、信長にすればとてつもなく寛大な処置といえるでしょう。
地勢的に畿内で一刻も早く騒乱の火を消したいという思惑もあったのかもしれないですね。
信長との対決は今井等にとって最大の危機であったと思いますが、赦免後は自治商業都市として発展していきます。
大坂夏の陣では徳川方につき、郡山を焼いた豊臣方と町の西部周辺で交戦、これを撃退しました。信長に降伏後いったんは武装解除したものの、今井在郷の武士たちの強さを物語るお話ですね。
大坂の陣のあとは戦火にさらされることもなくなり、江戸時代は大和南部最大の都市として、「大和の金は今井に七分」とうたわれるほど空前の商業的繁栄を誇りました。
そして迎えた明治維新。今井町には幕末まで多くの富豪がありましたが、大阪などと同様、様々な名目による税金の取り立てや、大名貸しの貸し倒れなどが相次いで没落する商家が急増。町は衰退に向かいます。
明治時代には付近に鉄道駅解説の計画も持ち上がりましたが、当時市中取締役だった今西逸郎らの反対で実現せず、これが町の乱開発を結果的には防ぎ、現在まで続く江戸の街並みの保存につながりました。
今井町の街並み
さて、今井町の街並みですが、文化財指定されている建物以外も町屋建築がさも当然のように建ち並んでいるので、どこを切り取っても絵になる町です。
電柱の地中化も進み、空き家対策など、住民や市民の皆さんの不断の努力でこの美しい景観が守られているのかと思うと、ただただ脱帽です。
最近は町屋をリノベーションしたカフェや休憩所もたくさんできていて、ゆっくり町を散策するにはありがたいですね。
2019年9月現在、本堂は改修工事中(残念!)。ぜひ改修後また訪れたいと思います。
ちなみにこちらの本堂は、浄土真宗寺院の本堂で、本山の本願寺以外で初めて国の重要文化財となった建築です。
実際に見るととても大きなお堂です!
こちらは国の重要文化財「河合家住宅」。
現役の酒屋さんで、軒につられた杉玉がお酒の熟成具合を教えてくれます。
細い路地もいい感じですね。
町の通路は各所にクランクなど、かつて城砦都市であったころの痕跡が各所に見られて、これも見どころの一つだと思います。
こちらも国の重要文化財「豊田家住宅」です。
1662(寛文2)年の建築で、今井町では今西家住宅に次ぐ歴史の長さを持つ建物になります。
元は金融業を営む豪商の牧村家の住宅でしたが、維新後、大名貸しがすべて不良債権化して没落し、今井を離れたそうです。
町の南西部、今西家住宅と春日神社の西側の濠はきれいに残されています。
幅も広く5~7mほどほどあるでしょうか。半年にわたって、織田方の猛攻を耐え抜いたのもなるほどと思わせるものがあります。
この濠が町をすっぽりと囲っていたと思うと、それは壮観だったんだろうなー。
奈良県は環濠が現存している町が非常に多いですね。
こちらは今井町を代表する建築である、「今西家住宅」です。
戦国期には町の西口を固める城構えの役割を果たしたこの住宅は、「八つ棟」造りと呼ばれる、戦国期の様式を残す1650(慶安3)年の建築で、こちらも国の重要文化財に指定されています。
大きな屋根が印象的で、「城構え」の名に恥じない、威風堂々としたお宅です。
今西家は大和の代表的な国人である十市氏の一族で、筒井順慶の圧迫で今井郷へ亡命した十市遠勝の後を追って今井に移住してきた河合清長が祖となります。
清長は石山合戦にともなう織田信長との戦いでは、今井郷の城砦化を進め、今井在郷武士の中心となって奮戦し、大坂夏の陣では豊臣方を撃破するなど、軍事面で功績をあげました。
特に、大坂の陣で今井郷の西口を守ったことから、1621(元和7)年、郡山城主の松平忠明から「今西」への改姓を進められたことがきっかけとなり、5代目から「今西」と名乗るようになったそうです。
今西家はその後、今井町に3家あった惣年寄(町のリーダー格)の筆頭となり町方支配の一翼を担うことになります。
こちらも重要文化財の「上田家住宅」
上田家ももとは片岡城(奈良県北葛城郡上牧町)の城主、片岡氏がご先祖で、1571(元亀2)年に松永久秀の侵攻で片岡城が落城したとき、今井に移住してきたそうです。
今井町の旧家は称念寺の住職である今井家や今西家など、移住してきた武士も多いですね。
上田家は江戸時代、今西家と並んで今井町の惣年寄を務め、当家には惣年寄の旗が残されているそうです。
今井町へはこちらのホテルが便利です。 |
散策の後はコーヒーで一服を
さて、小一時間ほど町を散策して、少し休憩したいなと思い、町内にいくつかあるカフェの中で、今回は「大川珈琲屋」さんにお邪魔しました。
※ちょっと外観写真がピンボケ気味でごめんなさい。
町屋を改装したカフェで、場所はこちらです。
電話番号
・0744-47-3919
営業時間
・月~金曜 8:00~19:00
・土日祝 9:00~18:00
定休日
・不定休
店内は明るく、奥にテラス席がありました。
気候のいい時期はテラスでコーヒーをいただくのも気持ちよさそうです。
メニューはシンプルで数種類のコーヒーと紅茶、ジュース、トーストにレアチーズケーキがあり、ケーキはプレーンと抹茶から選べます。
私はケーキセット(750円)で、ブレンドコーヒーとプレーンのチーズケーキをいただきました。
こちらのレアチーズケーキ、味わいが濃厚でとても美味しかったです。
コーヒーも酸味があまりなく、香りがよい個人的には大当たりのコーヒーでした。
八木西口駅への帰り道にたまたま立ち寄ったのですが、散策の最後によいお店に入れて大満足です。
さて、今井町いかがだったでしょう。
伝統建築が建ち並ぶ町は、他にもありますが、これほどの規模の街並みが残された場所は、全国でもここだけです。
時代劇のセットのような街並みが、「遺構」ではなく、現在なお現役の居住空間であるというのも驚きの空間ですよね。
日本はスクラップ&ビルドで町を発展させてきた国です。
ヨーロッパのように数百年前の民家や庁舎をそのまま使い続けるようなことはほとんどなく、日本の場合、歴史的価値のある古民家や歴史ある建造物(古いホテルや庁舎等)は、他の場所に移設して保存し、元の場所は建て替えてしまうのが一般的です。
そんな中、元の場所にそのまま、しかも町内の多くの古民家を現役として残し続けているというのは、この国においては奇跡ともいえる場所だと思います。
その奇跡が、統一感のある江戸の美しい街並みという、これまたわが国では貴重な景観を生み出しているといえます。
お散歩好きで、まだ行ったことがないという方には、交通アクセスも良いですし、お勧めの町です。
ぜひ一度、今に残る美しい江戸の街並みを体感してみてください。