皆さんこんにちは。
奈良県は、古来からの不思議な話が、いっぱい残されている地域です。
今回はそういったお話の中から、奈良県に古来から伝わる「鬼」にまつわるお話や伝承をご紹介したいと思います。
役行者と前鬼、後鬼
奈良県の伝承上の鬼で最も有名なのは、役行者の従者になったと伝わる、前鬼、後鬼ではないでしょうか。
役行者像の左右に一緒にまつられることの多い、夫婦の鬼です。
生駒山中で人を襲っては食べていた恐ろしい鬼でしたが、役行者に懲らしめられ、改心した後、その従者・弟子となったと伝わります。
彼らが役行者にとらえられた場所というのが、現在の奈良県生駒市鬼取町にある、鬼取山です。
読んで字のごとく、役行者が鬼をとらえた故事から、この地は鬼取という地名になっています。
鬼取町の場所はこちら。
生駒山上遊園地の南側、ちょうど暗越奈良街道の付近にあります。
街道沿いなので、もしかしたら当時街道を通る旅人を襲っていた山賊などがモデルなのかもしれませんね。
前鬼と後鬼は、役行者からそれぞれ義覚、義賢と名を与えられ、後に大峰山麓の地に移り住み、5人の子をもうけたといいます。
その地が、現在の下北山村大字前鬼となります。
鬼の子孫たち
前鬼、後鬼の5人の子供たちはそれぞれ、五鬼助、五鬼継、五鬼上、五鬼童、五鬼熊という家を興し、宿坊を営んで、大峰奥駈路を行きかう修行者を支えました。
明治まで5つの宿坊は残っていましたが、1872(明治5)年の修験道廃止令で、五鬼上、五鬼童、五鬼熊の3家は間もなく廃業、五鬼継家も1960年代に廃業して、里を去りました。
現在は五鬼助家が営む小仲坊のみが営業を続けています。
鬼の子孫が営む宿坊が今も残っているというのは素敵な話ですね。
また、大峰山で運賃を取って通行人の荷物を運んでいた人々も、前鬼、後鬼の末裔を称していたという話も伝わります。
自らの先祖を、役行者由来の鬼神として誇りにしていたのでしょう。
さて、奈良県には前鬼、後鬼以外にも鬼の子孫と称する人々の伝承が伝えられています。
五條市の安生寺のまわりには、鬼の子孫と伝承を持つ家があり、彼らの家では5月の節句に粽を、また3月の節句に菱餅を作ることをしないといいます。
また、2月の節分でも「鬼は外」とはいわず、「福は内」とだけ言うとのこと。
最近は節分に豆まきを行う家も減ったと思いますが、これらの家では現在でもその風習が残っているのでしょうか。非常に興味があります。
また、現在の宇陀市榛原足立にも鬼の子孫と伝わる人々がいたと伝承があります。
鬼の子孫といえば、代々皇族に供奉してきた京都の八瀬童子の人々が有名ですが、鬼の子孫を称する人々は、皇族や修行者、寺社などの祭事や修行に奉仕してきた人々が多いように思います。
特別なお役目を与えられた一族なんだという矜持を、鬼という人知を超えた能力を持つ存在をトーテムとすることで示したのではないでしょうか。
元興寺(がごぜ)
さて、ここからは我々が一般に抱く「鬼」のイメージどおりの鬼たちを紹介していきましょう。
まずは、元興寺に現れたといわれる鬼の話です。
元興寺と書いて「がごぜ」とか「がんごう」などと読むと、鬼そのものを指します。
「元興寺」自体が鬼の代名詞なわけです。
ちなみに、鬼が現れた「元興寺」というお寺ですが、実は当初は現在世界遺産になっている奈良市の元興寺のお話ではありませんでした。
お話は敏達天皇の時代といいますから飛鳥時代のことで、元興寺の前身である法興寺、つまり現在の飛鳥寺でのお話になります。
さて、伝承は以下の通りです。
毎夜、鐘楼に現れては、鐘をつきに来る人を襲っては殺すという鬼がいたといいます。
当時寺に仕えていた力自慢の童子が、鬼退治を買って出て鐘楼で待ち構えていると、くだんの鬼が姿を現します。
童子と鬼は取っ組み合いとなり、童子は鬼の髪の毛を引きずり回して、頭髪をむしり取りました。
頭髪をむしり取られた鬼はたまらず退散。
夜が明けて、鬼の血痕をたどると、かつて元興寺で働いていた下男の墓に続いており、鬼の正体はその下男の死霊で、鬼の髪は寺宝となったそうです。
日本霊異記に伝わる話ですが、鬼以上にこの鬼を退治した童子の強さが際立つ話ですね。
この童子はのちに出家し、道場法師という立派な僧侶となったということで、彼の鬼退治説話だったわけです。
鬼を倒すのが、法力とかではなく腕力というところがなかなか面白いですが、この場合は人並み外れた腕力というのも超人的な力とみなされたということでしょうか。
ちなみに、寺宝となったという鬼の髪の毛は、残念ながら長い年月のうちに失われたそうです。うーむ残念・・。
あと、実は奈良市の現在の元興寺に現れたという鬼の話も伝えられています。
ある日、この長者の家に盗賊が押し込みましたが、返り討ちにされて、鬼隠山(現在の奈良ホテル)の谷に落とされ、殺されてしまいます。
この盗賊の怨霊が鬼となり、毎夜元興寺の鐘楼に現れては人々を悩ましました。
これを元興寺にいたのちの、道場法師(おや?飛鳥時代の人じゃないの!?)が退治に乗り出します。
法師と鬼の戦いは夜明けまで続きましたが、鬼が朝日を恐れたのか鬼隠山へ逃げ出します。
それを法師も追いますが、残念ながら見失ってしまいました。
以後、鬼を見失ったあたりを、「不審ヶ辻子(ふしんがづし)」と呼ぶようになりました。
これが、ならまちエリアでも屈指の難読地名、奈良市不審ヶ辻子町(ふしがづしちょう)の町名由来となります。
おそらく、日本霊異記からインスパイアされて生まれた説話だろうと思われますが、元興寺が長らく鬼と関連付けてイメージされてきた証左ともいえるんじゃないでしょうか。
現在の元興寺境内にはこれら鬼の伝承にちなんで、5つの鬼の像が設置されているそうです。
元興寺を訪れる際は、それらを探し出すのも楽しみの一つですね。
一本だたら
元興寺とならんで、奈良県の伝承で有名な人食い鬼系の妖怪といえば、一本だたらとなるでしょう。
水木しげるのゲゲゲの鬼太郎にも登場し、キャラクター化されているため、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
十津川村と和歌山県田辺市にまたがる果無山脈や川上村と上北山村にまたがる伯母ヶ峰山に伝わる一本足で一つ目の妖怪で、和歌山県側も含め紀伊山地全域で一本足の妖怪として伝承が残されています。
12月20日にだけ現れ、人を襲って食べると伝わり、「はての、はつか(12月20日)」にこれらの山に入ることは禁忌とされました。
その正体について、伯母ヶ峰山の伝承では以下のように伝えています。
伯母ヶ峰山中で弓場兵庫守という男が、背に熊笹の生えた大猪を鉄砲で撃ち殺しました。
その大猪が亡霊となり、やがて一本だたらという一本足の鬼となって、伯母ヶ峰で旅人を襲って食べるようになりました。
これを丹誠という僧侶が地蔵を建立して封じ込めるのですが、12月20日だけは自由にしてよいという条件で封じ込めました。
そのため、「果ての20日(12月20日)」に山に入ると、一本だたらに襲われると、恐れられるようになりました。
ほかにも、川上村の伝承では、姿は見えず、足跡だけが残されているとか、吉野町の旧中龍門村地域では正体は化け猫など、さまざまに言い伝えられています。
さて、この一本だたらが現れるという12月20日ですが、旧暦の場合、現在の1月中旬ごろになります。
この時期は紀伊山地では雪深くなり、遭難の危険も高かったろうと思われます。
冬山にうかつに入ることを強く戒めるために生み出されたお話なんじゃないかと想像されますね。
酒呑童子
大江山を根拠に京を荒らしまわり、最期は源頼光に泥酔したところを打ち取られたという、有名な鬼がいますが、その出生にまつわる伝承が奈良に伝わっています。
場所は奈良市の白毫寺です。
その昔、白毫寺の稚児が、死人の肉を切り取って師の僧に勧めたところ、師は知らずに珍味と喜んで食べました。(僧が肉食するうえ人肉食とはなかなかの猟奇趣味です・・)
気をよくした稚児は生きた人間を襲って、その肉を僧に差し出すようになりました。
僧がどこから肉を手に入れてくるのか不審に思い、稚児の跡をつけてそのことを知ると、僧は稚児を縛り付けて山に捨てました。
捨てられた稚児はその山を抜け出し、後に大江山に出て酒呑童子となりました。
僧が肉を食う、それも人肉というショッキングな内容ですが、それを知った僧が稚児を口封じに縛って山へ捨ててしまうというのも随分とスキャンダラスな内容です。
堕落した僧への批判が込められているのかもしれませんね。
その他の鬼たち
明日香にも、人をとって食べる鬼がいたという伝承が残されています。
有名な巨石、「鬼の俎板」「鬼の雪隠」にまつわるお話で、通行人をだましては捕らえて食べていたが、このとき調理を鬼の俎板で行い、雪隠で用を足していたというものです。
この「鬼の俎板」と「鬼の雪隠」、現在では古墳の構造物であることがわかってるのですが、昔の人には正体不明の巨大な石の人工物にしか見えず、こんな大きなものは鬼が使ったものに違いないと、想像力を働かせたのでしょう。
また、月ヶ瀬村でも鬼にまつわる話が伝わっています。
現在高山ダムによって月ヶ瀬湖に沈んでしまった地域に、女郎が淵と呼ばれる淵があり、そこで多くの変死者が出たため、人々は鬼が出没するのだと噂するようになりました。
あまりに犠牲者が多いので、お坊さんに護摩を焚いてもらったところ、淵の底から大きさ5~10メートルはあろう巨大な蜘蛛のような化け物が現れ、山の向こうに去っていき、以後、その場所で死者が出ることはなくなったそうです。
こちらのお話も、水難事故に対する戒めから生まれた伝承ではないかなと思われます。
古来より、鬼が出るから言ってはならないという場所は、何らかの遭難リスクが高かった場所が少なくありません。
このような伝承は、そのリスクから身を守るための古人の知恵だったのでしょう。
<参考文献>