大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

真夏のオリンピックと商業主義を考えてみる

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皆さんこんにちは。

 

 

はじめに

 

2020年は東京オリンピックパラリンピックの年ですね。

多くの日本人にとって様々な協議を時差無しで観戦できる、首尾よくチケットを入手できた方は、現場で一流アスリートの戦いを、目の当たりにできる素晴らしい機会となるでしょう。

期待が膨らむ中、マラソン競歩が、東京の暑さを理由として、会場を札幌に移すという話が、IOCから突然突き付けられ、あっという間に決定事項となってしまいました。

背景には、直前にドバイで行われた世界陸上のマラソン競歩で、暑さのために棄権者が続出したという事態にIOCが危機感を覚えたことは容易に想像がつきました。

IOCの危機感とは、選手の健康・安全面ももちろんあったでしょうが、棄権者の続出がスポンサー離れにつながりかねないことが大きな懸念点で、こういった選手ファーストを隠れ蓑にしたような、スポンサー重視の姿勢が、マスコミをはじめ多くの批判的意見にさらされました。

 

「そもそも真夏にオリンピックを行うこと自体が選手ファーストではない」

「大口スポンサーであるアメリカのテレビ局に忖度して真夏にオリンピックを開くのがけしからん」

 

こういった、いわゆるオリンピックの商業主義への批判が渦巻きましたね。

 

競技者のポテンシャルを最大限引き出し、最高レベルでの協競技環境を提供する意味でも、選手ファーストはとても大事な視点だと思います。

しかし、そのために商業主義を否定してしまうのは、本当に理想的な姿を生み出すんでしょうか。

 

プロとアマチュア

オリンピックの商業主義を語るうえで避けられない問題が、プロとアマチュアの問題があります。

最近のオリンピックでは、プロアスリートの出場が当たり前となった感がありますが、かつてオリンピックから、プロアスリートは締め出されていました。

 

よくよく考えればおかしなことです。

 

例えば、絵画や音楽のコンクールであれば、プロであろうがアマチュアであろうが、 だれでも参加が可能で、純粋に実力で評価されてしかるべきものです。

純粋に技量の優劣を競い合うオリンピックであれば、プロだろうがアマだろうが、実力の優れたものが出場してしかるべきではないでしょうか。

しかし、スポーツは長らくそうではありませんでした。

実力的にはアマチュア選手を凌駕する、プロのアスリートへの門戸を、オリンピックはかたくなに閉ざし続けてきました。

これはいったいどういうことでしょうか。

 

このような状況の大きな原因は、そもそものスポーツの中心的な担い手が、誰であったかにまで遡ります。

そもそも、近代スポーツの起源をたどれば、貴族の娯楽に行きつきます。

スポーツは今も昔もそうですが、「お金」と「時間」を持つ者にしか、その楽しみを享受することはできません。

これを持つものは、基本的に労働からは解放され、お金も時間も潤沢に持っていた貴族や富裕階層に限られ、長らく一般庶民がスポーツを楽しんだりすることはできませんでした。

しかし、一般庶民層でも、スポーツを行う道がありました。

プロになることです。

高いパフォーマンスを観衆に示すことで報酬、「お金」を得て、パフォーマンスを維持するのに十分な練習や試合の時間を確保することができたのです。

 

スポーツ草創期、スポーツの世界を統括するトップ層は、貴族で占められていました。

近代オリンピックの父といわれるクーベルタンも貴族です。

彼らの目にプロアスリートはどう映ったかといえば、「金をもらってスポーツをするなど下賤」と映ったのでしょう。

クーベルタンは、近代オリンピック創設にあたって、オリンピックの勝利で得られるものは月桂冠と名誉のみにすべきと考え、アマチュア条項を設け、スポーツを行うことで報酬を得るプロアスリートを締め出しました。

 

金などもらわなくても競技を続けられる貴族の彼らには、金をもらわねば競技を続けられない一般大衆の現実は、理解の外だったのだと思われます。

 

この辺りの事情について、2019年の大河ドラマ「いだてん」でもよく描かれていました。

主人公、金栗四三とともにストックホルム大会に参加した三島弥彦は裕福な家庭に育ち、様々なスポーツに取り組んでいました。

裏を返せば、裕福な人間にしかスポーツの門戸は開かれていなかったわけです。

 

クーベルタン自身が、庶民を積極的にオリンピックの舞台から締め出そう、などと考えていたとまでは思えませんが、現実的には貧しい庶民の参加を排除する方向に進めていたことは否めません。

 

オリンピックからアマチュア条項が消えたのは1974年になってからのことです。

スポーツで得られる報酬が、スポーツ技術や競技環境の発展に寄与するものとして、積極的に評価されるようになってからのことです。

これを機会にプロアスリートの参加も段階的に認められるようになり、現在に至ります。

しかしながら、クーベルタンの掲げた貴族的な理想の影響は根強く残り、オリンピックの理念と金銭の相性は現在においても低いものになっているんじゃないでしょうか。

 

拡大するオリンピック

第二次世界大戦後、アジア、アフリカ諸国が相次いで独立したことによる参加国の増加や、実施種目の拡充によって、オリンピックは肥大化の一途をたどります。

肥大化するオリンピックを開催するため、開催都市の財政負担は増すばかりとなっていました。

ついに1976年のモントリオール大会では、オイルショックによる物価高騰も追い打ちをかけ、10億ドルもの赤字を計上。

モントリオール市は大会後何十年も借金の返済が大きな財政負担としてのしかかる事態を引き起こしました。

 

オリンピックには金がかかる。

 

このモントリオールの状況に世界の都市は委縮し、オリンピックの開催都市への立候補が激減する事態を引き起こします。

 

大会の黒字化がなければ、大会そのものの継続が危うくなる。

この問題に一つの解をあたえたのが、1984年のロサンゼルス大会でした。

この大会では、オリンピックをショービジネス化することに成功し、大幅な黒字化を達成します。

今では当たり前となっている、スポンサーの「一業種一社」制を導入し、大幅なスポンサー料引き上げを実現させ、聖火ランナーからも参加料を徴収するなどして、最終的に2億ドルを超える黒字を計上しました。

 

この大会をきっかけとして「オリンピックはもうかる」という認識が広まり、参加を希望する都市が増え、現在に至っています。

商業主義により、オリンピックは開催地の消滅という最大の危機を乗り切ったといえるでしょう。

 

オリンピックに商業主義は必要か

さて、改めてオリンピックに商業主義が必要かという問題を考えてみましょう。

最初に述べた通り、スポーツを行うには「お金」と「時間」が必要です。

これは、庶民がスポーツを続けていくうえで、もっともシビアで現実的な課題となります。

一般庶民が学生というモラトリアム期間を終えた後も、高いレベルで競技スポーツを続けていこうとすれば、実業団選手といったステートアマを含め、プロの競技者になる以外、ほとんど選択肢がありません。

 

プロとしてスポーツを続けるとなれば、大衆の注目を集める必要があります。

しかし、野球やサッカーなど、一部の人気スポーツを除けば、世界的に注目を受ける大会といえば、やはりオリンピックしかないのです。

このオリンピックの注目度を高めているのは、なんといってもマスコミとスポンサー企業の力、商業主義によるものと言わざるを得ません。

マスコミとスポンサーが煽りに煽って、4年に1度のスポーツの祭典を「バカ騒ぎ」的に盛り上げるからこそ、世界的に大きな注目を浴びる競技会となっているのです。

 

もし、オリンピックの大口スポンサーであるアメリカのテレビ局の意向を無視して、秋にオリンピックを開催したらどのような事態が予想されるでしょう。

 

スポンサーに降りられればオリンピックは規模の縮小を余儀なくされ、その分、参加できる競技も絞られます。

そうなれば参加できるアスリートの数は減少せざるを得なくなるでしょう。

小規模化したオリンピックは、大衆の注目も下がり、アスリートたちが注目を受け、報酬を得る機会は確実に減ります。

アスリートが報酬を得られないということは、アスリートが競技を継続できなくなることを意味します。

それこそ、貴族か大金持ちしかスポーツを楽しめなかった時代に逆戻りです。

 

最近のオリンピックに対する商業主義批判は、アスリートのシビアな現実である「お金」と「時間」を確保するという根源的な課題を、無視した議論が横行しているように感じられます。

クーベルタンは、「オリンピックは参加することに意義がある」と述べました。

オリンピックにおける商業主義の否定は、確実に多くのアスリートの出場機会を奪うことでしょう。

そう考えればオリンピックの精神を守るためにも、商業主義との共存が不可欠であることは明白です。

 

東京オリンピックのマラソン競歩の開催地が、IOCがスポンサーにおもねる形で札幌になった件については、やむを得ない決定であったと思います。

ただ、開催まで一年を切った段階で、突然バタバタと言い出した点には大きな不満を感じます。

もっと早めに問題化すれば、東京都としても技術的な対策をもっと打てたかもしれませんしね。

 

商業主義によって巨大化したオリンピックでは、様々な利権をめぐって不正がはびこり、選手の側も、勝利のためにドーピングを巧妙化させていくといった、負の側面があることも事実です。

しかし、それらの不正は個別に対処すべき問題であって、そもそも商業主義がけしからんと、商業主義を全否定してしまう考えはあまりにも短絡的です。

 

東京オリンピックでは、33競技で実に300種目以上のスポーツが実施されます。

この中から、新たな注目競技やスター選手が生まれてくるかもしれません。

そうなれば、さらにスポーツのすそ野は広がり、我々の文化的な豊かさをますます高めてくれることでしょう。

 

このように考えれば、真夏のオリンピックと商業主義も、まんざらではないとは思えませんか。