大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

明智光秀と奈良

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皆さんこんにちは。

 

2020年大河ドラマ麒麟がくる」の主人公として、脚光を浴びている明智光秀

彼のゆかりの地といえば、領地のあった近江坂本や、丹波亀山、福知山が有名でしょうか。

 

奈良県域の話題や歴史的な出来事をご紹介する当ブログとは一見無縁の人物ですが、織田信長の配下として、畿内の多くの武将を与力として従えていた光秀。

畿内にあって、細川藤孝と並ぶ有力な光秀の与力が、大和の筒井順慶だったこともあり、信長が関係した大和での出来事にいろいろと顔をのぞかせています。

それほど多くはありませんが、光秀が大和に残した足跡をたどってみたいと思います。

意外と奈良は、同時代の一次史料に乏しい光秀の実像を覗ける場所だったりします。

 

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多聞山城

文献上、大和に初めて光秀が姿を現すのは1574(天正2)年の2月、足利義昭浅井長政朝倉義景らと信長に反旗を上げていた松永久秀が降伏し、その証として多聞山城を明け渡したときに、城番として入城したというものです

 

時期が少し前後しますが、1568(永禄11)年の信長上洛以来、大和は信長や将軍足利義昭と同盟した久秀が、信長から領地切り取り次第を認められ、順慶とそれに与した国人たちは、降伏すら許されない状況にありました。

しかし、1571(元亀2)年、畿内で同盟者を増やしたい将軍義昭は、順慶に接近。

養女を順慶に嫁がせ、大和で順慶と熾烈な闘争を続けていた久秀と義昭の間に、緊張関係が生まれます。

義昭と順慶が急接近したことで、大和国内では久秀から筒井方に寝返る国人が続出。

大和でのパワーバランスが崩れた中、辰市城の戦いで久秀は順慶に大敗し、順慶の大和におけるプレゼンスが大きく高まる結果となりました。

そして同年10月、順慶は光秀の仲介で、信長に接近します。

当時光秀は義昭と信長に両属している状況で、姻戚関係にある義昭のルートから光秀を仲介にしたんじゃないかと思われます。

その後1573(天正元)年に久秀が信長に反旗を翻したものの、同盟関係にあった武田信玄が病死。信長によって朝倉、浅井氏が相次いで滅亡したうえ、主家筋の三好義継も敗死し、孤立無援となった久秀は12月、信長に降伏しました。

翌1574年正月、光秀の仲介で、かねてから信長に接近していた順慶は岐阜に赴き、正式に信長に臣従します。

そして大和では、久秀の降伏の証として、久秀の大和支配の象徴であった多聞山城が、信長に引き渡されました。

多聞山城は、前年の12月に攻撃を指揮した佐久間信盛に引き渡された直後、当時光秀の与力に付けられていた山岡景佐が城番に入りましたが、1月に光秀が替わって入ります。

三週間ほどの滞在でしたが、その間に訴訟の裁決や行政事務をこなしたうえで、城内で連歌会を開いています。

久秀が奈良を去ったあと、光秀は織田家の先兵として、信長による奈良支配の端緒を開いたといえるでしょう。  

今井町攻め

光秀は1574(天正2)年から翌年にかけ、大坂石山本願寺に呼応して蜂起した大和最大の寺内町今井町(現奈良県橿原市)の攻撃に、順慶とともに参加しています。

現在も町内の1/3が伝統建築として知られる今井町ですが、当時の今井町は大規模な環濠と土塁が町を取り囲む、堅固な城砦都市でした。

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光秀や順慶の攻撃を、跳ね返し続けた今井町でしたが、伊勢長島など各地の本願寺の拠点が陥落していくに及び、水面下で降伏交渉を始めました。

そして、光秀、順慶とも親しい堺の豪商、津田宗及の仲介で降伏交渉がまとまり、土居構えの破却と武装解除を条件に、従来通りの自治を認められるという、極めて寛容な条件での降伏を勝ち取ったのです。

この時、今井町へ降伏を認める光秀直筆の書状が送られており、現在も今井町の中心寺院である称念寺今井惣中宛書状橿原市指定文化財)として残されています。

書状の内容は、降伏条件である土塁の破却と、武装解除について異論を出す者がないよう進めること、織田軍による町内の軍事占領はさせないこと、詳細は、藤田伝五から説明するというものです。

ここで登場する藤田伝五は、大河ドラマでは徳重聡さんが演じていますね。

ドラマでは美濃の半農半士の侍として描かれていますが、実像のつかめない人物で、同時代の一次史料では、この今井惣中宛書状と多聞院日記など奈良県域の史料にしか記載のない人物です。

重要な事案の使者として派遣されることが多く、順慶や興福寺との折衝に度々登場しますが、今井町が信長に降伏する際、今後の詳細を詰めるため今井町に派遣されたのも伝五でした。

 

信貴山城攻撃

1577(天正5)年8月、松永久秀信貴山城で挙兵して信長に反乱すると、9月末には織田信忠を総大将とする討伐軍が大和に派遣され、その中に光秀の姿もありました。

先鋒は大和の筒井順慶でしたが、順慶、細川藤孝とともに、光秀も攻撃軍の主力として参戦します。

10月1日、信貴山城の重要な支城であった片岡城奈良県上牧町)を攻撃。

激戦の末、これを落城させます。

10月10日には信貴山城の総攻撃が行われ、これに光秀も参加。久秀は炎上する城内で自害し、信貴山城は落城しました。

久秀についで、荒木村重もこの後謀反を起こすなど、信長は重用した外様の大名級家臣に相次いで背かれるわけですが、結局信長を倒したのは、最も重用され、有力な外様家臣となっていた光秀でした。

炎上する信貴山城を見た光秀。この時、5年後に自身も信長に反旗を翻すとは夢にも思っていなかったでしょう。

いや、もしかしたら、俺ならもっとうまくやるなんて、意外と思っていたのかもしれませんね。

戒和上をめぐる相論

1576~77(天正4~5)年、奈良では新しい一乗院門跡に戒を授ける、戒和上職を巡って東大寺興福寺の間で相論が起こります。

戒和上は鎌倉時代ごろまでは東大寺の僧が務めていましたが、中世に入り大きな力を持った興福寺の僧が務めるようになり、100年以上東大寺の手から離れた職となっていました。

戒和上職の奪還を狙う東大寺は、松永久秀信貴山城で反乱を起こし、大和国内が混乱する間隙を狙い、空位となっていた戒和上の就任を名乗り出て、興福寺との間で相論となったのです。

興福寺は信長から大和守護に任じられた筒井順慶に解決を訴えますが、順慶の態度は煮え切らず、信長へ直接訴えるようにとつれないものでした。

そこで興福寺は直接信長へ陳情するのですが、その時窓口となったのが信長の側室とされる御妻木殿です。

彼女は光秀の妻である妻木殿の縁者、もしくは光秀の妹であるとされ、いずれにせよ光秀の近親者でした。

そのためか、この争いの裁判を信長から命じられたのが光秀でした。

東大寺側が多くの古文書をそろえ、自らの主張の正当性を強く訴えたのに対し、興福寺側には確かな証文がありません。

中世の裁判においては、証文は絶対であり東大寺側に有利な裁判かと思われました。

しかし光秀は、1446(文安3)年以来、100年以上も興福寺から戒和上が就任している既成事実を重視し、証拠については信長の上洛した1568(永禄11)年から2年以上前の証文は反古として採用しない旨を言い渡し、興福寺勝訴の裁決を下したのです。

鎌倉時代の証文などはただの「古文書」であり効力のある証拠とはならないという判決は、当時としては衝撃的な判決でした。

 

先述の通り中世の裁判においては、証文が自らの主張や権利の正当性を保証する絶対的な証拠でした。

そのため、武士たちや寺社は、数多くの証文を家宝のように大事に保管してきたのですが、それを全く否定したこの判決は、当時としてはかなり斬新で、相当に乱暴な判決だったといえます。

光秀を古典的、伝統的な教養人とみなす向きも根強いですが、この判決を見る限り、光秀は伝統的な考え方に必ずしもとらわれない人物だったとみなすことができるでしょう。

ちなみに、この相論で光秀自身が奈良に赴くことはありませんでした。

光秀の本拠である近江坂本と奈良を往復していたのは、ここでも藤田伝五。

当時の奈良の国人や寺社にとって、光秀の使いといえば伝五でした。

 旧習、伝統を重んじる奈良の寺社や国人相手の折衝は、伝五にとってもタフな仕事だったことでしょう。

順慶の大和支配への関与

久秀が滅亡した後、信長は順慶を通じた大和支配を一層強めていきます。

1580(天正8)年8月、信長は、大和国については郡山城を残し、順慶の本拠筒井城も含めてすべての城を破却するように命じます。

そして順慶は郡山城へ本拠の移動を命じられました。

翌月には大和の国人と寺社全てに領地の石高の「差出」要するに自己申告を命じます。

いわゆる「差出検地」といわれるもので、自己申告ながら大和の石高を把握することで、各国人たちの軍役負担(戦時に何人兵士を出せるか)を管理したわけです。

このとりまとめに光秀は、滝川一益とともに派遣されますが、この過程で順慶に反抗的だった国人5名が処刑され、光秀は戒重氏、大仏供(だいぶく)氏の処断を執行しました。

この検地により、大和国人は興福寺をはじめとした寺社の土地支配から完全に切り離されることになります。

この検地で大和の中世は完全に終焉し、本格的な近世を迎えることになりました。

1581(天正9)年8月には、順慶の新本拠となった築城中の郡山城を光秀が訪れ、普請を見舞ったと多聞院日記に記載があります。

突然の本拠地移転の命令から1年たち、与力である順慶の新本拠建設の進捗状況を確認しに来たのでしょう。 

洞ヶ峠

 

1582(天正10)年6月、光秀は本能寺を急襲して信長を自害に追い込み、二条城で信長の跡継ぎである信忠も攻め殺しました。

本能寺の変の勃発です。

信長に替わって、天下人を目指したともよく言われますが、光秀が実際に何を目指して謀反を起こしたのかは闇の中です。

天下統一を目指したかはともかく、織田家中の主要な軍団が東西の前線に張り付いていたこの時期、信長を殺害したあと、とりあえず畿内に割拠しようとした蓋然性は高いと考えます。

そんな光秀が、娘の嫁ぎ先である丹後の細川家と並んで頼みとしたのが、大和の筒井順慶でした。

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順慶は当初、光秀に味方するような動きを見せたものの、去就を明確にしませんでした。

光秀が畿内の取りまとめにまごつく中、羽柴秀吉が電撃的に毛利と和睦して反転、猛スピードで畿内に軍を進めてきます。

山崎の戦いを目前にした光秀は、洞ヶ峠に陣取って、順慶に使者を送り、順慶の来援を待ちました。

この時の使者が、またまた登場の藤田伝五です。

伝五は郡山城で順慶に面会し、味方に付くよう説得しますが、順慶はこれを拒絶しました。

順慶は秀吉の中国大返しを早い段階で察知しており、光秀に味方する大名が少ないことを冷静に分析したうえで、秀吉方に付くことをすでに決めていたのです。

山崎の戦いの2日前である6月11日には、順慶は与力である大和国人衆を、秀吉に味方することでまとめることに成功しています。

結局山崎の本戦には、参陣が間に合わず、戦後秀吉から厳しい叱責を受けたものの、大和の領地を安堵されるのです。

光秀にとって、順慶と大和国人衆の味方が得られなかったのは致命的でした。

山崎の戦いで、光秀は衆寡敵せず敗北し、逃走中に落命することになるのです。

 

調べてみると、洞ヶ峠以外にも光秀と大和のかかわりが意外とあることがわかるのですが、とにかくよく登場するのが、藤田伝五です。

順慶の説得に失敗した伝五は、山崎の戦いでは明智軍の右翼を担い、淀まで退却して翌日勝竜寺城落城を聞いて自害したとされます。

 

順慶と関係が深かったため、光秀とその使者として藤田伝五は、多聞院日記をはじめとした当時の史料に、その名が度々現れます。

光秀はその家臣も含めてとかく謎の多い人物ですが、奈良における彼らのエピソードは、その実像の一端をのぞかせてくれるものといえるでしょう。