皆さんこんにちは。
前回は本能寺の変から山崎の戦いまで、時局の帰趨を決した筒井順慶の動きを詳しく紹介しました。
今回は山崎の戦いのその後の順慶をご紹介します。
織田家中の争いの中で
山崎の戦いに参陣しなかったことで、京都醍醐での接見の際には遅参を羽柴秀吉から厳しく叱責された順慶ですが、その後は天下人への道を突き進む秀吉に接近していくことになります。
6月27日には、織田家のその後の体制を取り決める清須会議が開かれますが、順慶もその他の織田家家臣たち同様、清州城に詰めて待機していました。
清須会議の後まもなく、秀吉から順慶は「和州一国一円」の支配を認められます。
そして7月11日、順慶は養子としていた小泉四郎を人質として秀吉のもとに送り、明確に秀吉へ臣従の姿勢を取ります。
この小泉四郎は、順慶の父順昭の弟、慈明寺順国の子で順慶とは従弟となりますが、子どものいない順慶の養子となっていました。後の筒井定次です。
信長亡き後、新たに天下の主へと突き進む秀吉に、順慶は山崎の戦い以降、一貫して与することになりました。
もっとも、光秀滅亡後に清州会議を経て、山城、摂津といった畿内の要所を押さえる大勢力となった秀吉と距離を置く選択は考えられなかったのかもしれません。
この年の11月になると、秀吉と柴田勝家、織田信孝との対立が先鋭化し、その戦いに順慶も秀吉方として参加します。
11月5日に柴田勝家の養子、勝豊の居城、長浜城(滋賀県長浜市)を攻めるべく、順慶は配下の軍勢を秀吉の軍に合力させました。
12月7日には順慶自身も主力を率いて出陣し、13日には佐和山城に秀吉が入城します。
秀吉の圧力に屈した柴田勝豊はその後まもなく秀吉に人質を差し出して秀吉に帰順します。
12月18日には、そのまま順慶は美濃国垂井に陣替えしました。
今度は岐阜城の織田信孝攻めへの参加でした。
この美濃遠征は信孝の降伏で終わり、順慶は年の瀬の12月27日にようやく帰国します。
翌1583(天正11)年1月26日、順慶は茶人の松屋久政を郡山城に招いて、初めて茶会を主宰しています。
信長時代に倣って家臣の茶会開催を許可制にしていた秀吉より「許し茶湯」を得て開催したと考えられます。
順慶は信長に臣従したころから茶の湯を嗜みはじめたようで、1578(天正6)年、今井宗久が信長を自邸に招いて開いた茶会に、信長の御供の一人として参加したのが文献上の初見で、以後、明智光秀が坂本で開いた茶会にも招かれるなど、多くの茶会に参加した記録が残っています。
茶人を城に招いて師事するなど、茶の湯にはかなり熱心に取り組んでいたようですね。
ちなみに順慶の所持していた名物茶器として名高いのが、後に秀吉に献上された「大井戸茶碗」で、現在は国重要文化財となっています。
また、現在徳川美術館に所蔵されている「古瀬戸肩衝茶入 銘筒井」も順慶所蔵であったといわれ、名物収集も盛んに行っていたようです。
茶会を主催できるようになったのは信長の死後であることから、秀吉は織田家中内での対立が激化する中、順慶を自陣営に取り込む手立ての一つとして「許し茶湯」を使ったといえるでしょう。
少し脱線しますが、順慶が茶の湯とともに「趣味」としたのが「能」でした。
大和には古くから金春、金剛、観世、宝生と大和四座と呼ばれた能楽(猿楽)の一座があり、興福寺や春日社では多くの能楽が興行されるなど大変能楽が盛んな土地でした。
そんな能の盛んな土地柄で、さらに興福寺の衆徒であったことから、順慶も少年のころから能に親しんでいました。
順慶はとくに奈良を拠点としていた金春座と昵懇で、順慶自身が能楽の勧進元となって興行したり、金春家から能楽の秘伝書を譲り受け、謡本を収集して家臣にも能を勧めるなど、こちらの趣味も熱心に取り組んでいたようです。
閑話休題。
順慶が初めて茶の湯を開いて数日後の1月29日、秀吉と勝家の戦いに参陣するため、順慶は兵を率いて近江へ出兵。
そのまま伊勢に転進して、柴田に呼応して挙兵した滝川一益の部将、滝川益重が籠る峰城(三重県亀山市)攻めに参加します。
ちなみにこの滝川益重、一説に「かぶき者」として有名になった前田利益(慶次郎)の父親ともいわれています。
益重の前線で戦いは長期化し、順慶の重臣にも戦死者がでるなど激しいものでしたが、4月3日に城攻めが続く中、順慶はいったん大和へ引き上げます。
ほとんど休む時間もなく4月9日には勝家との決戦に臨むべく近江に出陣しますが、14日には敵が引いたこともあり一部の兵を残して大和へ引き上げます。
4月16日、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が再び挙兵し、秀吉は近江、美濃、伊勢3方面との戦いを強いられることになりますが、4月19日に開始された賤ケ岳の戦いで秀吉が勝利。
敗走した勝家は4月24日には居城の北之庄で自害に追い込まれ、秀吉は織田家臣団における最大のライバルを攻め滅ぼしました。
美濃で再び挙兵していた織田信孝は織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏し、後に信雄により自害に追い込まれます。
伊勢で孤立した滝川一益は北之庄落城後も1か月ほど抵抗をつづけましたが最後は降伏し、領地没収の上剃髪し、越前大野に蟄居。歴史の表舞台から去ることになります。
こうして秀吉は織田家中で突出した実力者となり、順慶を含めた多くの織田旧臣が秀吉に臣属することになりました。
秀吉政権下の順慶
賤ケ岳の戦いで旧織田家中における秀吉の優位が決定的となると、つかの間平穏な時期が訪れます。
大和国においては、順慶の大和支配をさらに強める動きが活発化します。
1583(天正11)年8月、順慶配下となっていた南和の有力者、越智玄蕃が順慶の謀略で自害に追い込まれます。
9月にはその子、又太郎が追放され、ここに南北朝の動乱以来、筒井氏と大和の覇権を長く争ってきた越智氏が滅亡。
順慶に反抗的であった南部の国人達の粛清が完了することになります。
越智氏の滅亡でぽっかりとあいた南部地域には、新たに筒井氏譜代である松倉右近らが、秀吉から直接領地を与えられて入封しました。
ちなみにこの松倉右近の子、重政は後に大坂の陣の軍功で大和五條から肥前日野江に加増転封され、その苛政が島原の乱を招くことになります。
かの司馬遼太郎に、その著書「街道をゆく 17 島原・天草の諸道」の中で、「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」と散々に評された人物ですが、五條では五條新町の礎を築いた名君として顕彰されています。
地元大和では在所が変わってもうまくやれたのでしょうが、この時代大和から肥前への転封はほぼ外国に行くようなもので、大和でやったのと同じようにはいかなかったのでしょう。
転封先で地元の国人たちとうまくやれず、力づくで治めようとする例は、肥後での佐々成政や土佐での山内一豊でも見られますが、重政も同じであったと思います。
また、加増による転封ということもあって必要以上に「頑張りすぎ」たという一面もあったでしょう。
分不相応な公儀普請を請け負うなどして圧政の度合いをさらに増す悪循環に陥りました。
重政の次代、勝家の代には圧政に耐えかねた領民がついに蜂起し、江戸時代最大の民衆反乱というべき島原の乱がおこります。
勝家は島原の乱後に、領国経営の失敗と反乱惹起を問責され、江戸時代に大名としては唯一の「斬首」に処されました。
ちょっと脱線しましたが話を順慶に戻しましょう。
翌1594(天正12)年2月には一時廃城となっていた越智氏のかつての居城高取城を復旧のうえ大規模改修を施し、奈良盆地南部と吉野へにらみをきかす支配拠点としました。
「日本三大山城」として知られる高取城の大規模化はこの順慶の復旧から始まり、秀長時代に当地に入った本多氏により本格化、江戸時代に入封した植村氏によって完成することになります。
現在奈良県を代表する城跡となっている郡山城と高取城は、ともに順慶によって近世城郭として発展する道筋をつけられたといえるでしょう。
さて、賤ケ岳の戦い以後しばらく平穏が続きましたが、主家筋である織田家を凌ぐ権勢をふるい始めた秀吉と、織田信雄の関係が悪化します。
きっかけは秀吉が1584(天正12)年正月に信雄に対して年賀の挨拶に来るよう命じたことでした。
これにもともと主家筋の信雄は猛反発し、秀吉との戦いを諫めていた家老を殺害。これが事実上の宣戦布告となりました。
信雄にはかつての信長の同盟者であり、天正壬午の乱で旧武田領の甲斐、信濃にまで勢力圏を伸ばして一大勢力に成長した徳川家康が加担。
さらには四国の長宗我部元親や、紀伊雑賀党も反秀吉となって挙兵し、いわゆる「小牧・長久手の戦い」が勃発します。
1584(天正12)年3月、順慶は伊勢に出陣し、3月22日には信雄の家老滝川雄利が籠る松ヶ島城(三重県松阪市)を秀吉の弟で後の郡山城主羽柴秀長とともに包囲攻撃します。
筒井勢にも多数の死傷者が出たものの4月8日に松ヶ島城は落城。
順慶は秀長とともに尾張へ移動し、小牧・長久手の戦いが続く中で各地を転戦することになります。
しかし、この一大決戦のさなか、順慶は体調を崩します。
激しい胃痛に見舞われ、食事ものどを通らなくなり、みるみるうちに衰弱していきました。
病状から胃癌であったとみられています。
そんな中でも無理を押して陣中に残り続けたためか、病状はますます悪化。
7月にはついに陣を離れて、京で療養に入ります。
深刻な病状に、興福寺でも回復の祈祷が連日行われましたが、病状は悪化の一途をたどりました。
順慶は京での治療をあきらめたのか、8月3日に宇治を経由して翌日奈良に戻ると、8月7日の朝、居城の郡山城に帰ります。
8月9日には堺から医師が招かれ、郡山城で治療を受けることになります。
人事は尽くされましたが、順慶が快方に向かうことはついにありませんでした。
波乱の生涯
1584(天正12)年8月11日、筒井順慶は郡山城で息を引き取りました。
享年36歳。
遺体はその夜、奈良の圓證寺(現在は奈良県生駒市に移転)に葬られました。
その翌日、秀吉の尾張出陣に合わせて順慶の養子、小泉四郎が順慶の名代として尾張に向けて出陣します。
そうです。まだ小牧・長久手の戦いは終わっていません。
大和国衆は順慶の弔いもままならないまま、出陣を余儀なくされたのでした。
10月9日になり、ようやく四郎は正式に筒井四郎と名乗ったうえで秀吉に代替わりの礼を行っています。
この頃、正式に四郎、すなわち筒井定次が筒井家の家督を継いだとみられます。
そして10月16日に順慶の葬儀が満を持して行われました。
一時的に土葬されていた遺体は掘り出され、郡山において野辺送りが盛大に行われたといいます。
葬儀が終わると遺体は現在の大和郡山市長安寺町に改葬されました。
この墓所は「御廟所」と呼ばれ「西寺」という寺も建てられたといいますが、その後寺はなくなってしまいました。
現在は順慶の五輪塔とそれを覆う覆堂が近鉄平端駅近くの住宅地の中に残されています。
ちなみにこの「五輪塔覆堂」は安土桃山時代に建てられ現存している貴重な遺構ということもあり、国重要文化財に指定されています。
さて、ここまで8回にわたって筒井順慶の生涯をご紹介してきましたがいかがだったでしょう。
36年の短い人生ですが、そのほとんどを松永久秀とのし烈な争いに費やしました。
居城であった筒井城をめぐる攻防では、何度も居城を追われながら、最後には時流をつかんで大和守護となり、久秀を滅ぼしました。
大和守護となってからは、信長、秀吉の主要な合戦に大和国衆を率いて参戦し、秀吉と光秀の天下分け目の天王山では、その動向が勝敗の行方を左右したといえます。
短くともたいへん「太い」人生だったといえるでしょう。
もともと筒井氏は興福寺の官符衆徒の筆頭格であったとはいえ、順慶が跡を継いだときには一介の有力国人にすぎませんでした。
そのうえ、複雑な畿内の政局に翻弄されながらも、その荒波を乗り切って、最後には大和一国の国主格にまで上り詰めたのは大変なことです。
惜しむらくは、まだまだこれからというときに、若くして倒れてしまったことです。
もし、1584年に亡くならなかったとしても、大阪に本拠を置く豊臣氏により国替えは必至であったと思います。
しかし、定次よりはその後うまく立ち回ったんじゃないか。
松倉右近や嶋左近も筒井家を去らなかったんじゃないか。
いろいろと想像が膨らみます。
まあ意外と順慶は大和以外に国替えを命じられたら、さっさと定次に家督を譲って、自分は奈良で僧侶として悠々自適に生きる道を選んだかも。
なんていうのも順慶らしいかなと思ったりするのです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。