大和徒然草子

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失われた大伽藍、奈良を象徴する光景を生み出したものとは。廃仏毀釈(1)興福寺

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皆さんこんにちは。

奈良の光景と聞いて真っ先に思い浮かぶのは「奈良公園」の光景というかたも多いんじゃないでしょうか。

毎日たくさんの観光客でにぎわう、奈良県を代表する都市公園です。

広大な園地に芝が茂り、鹿が徘遊する光景は、奈良を代表する光景といえるでしょう。

 

奈良公園が開園したのは1880(明治13)年。

それ以前、広大なこの地はどのような姿であったか皆さんご存じでしょうか。

 

実は、ほぼすべて興福寺およびその塔頭寺院の境内だったのです。

 

巨大寺院「興福寺」 

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和州奈良之絵図(天理参考館蔵)1864(元治元)年発行の絵図。

上の図は幕末に発行された奈良の町の絵図です。

上下が東西、左右が南北になっています。

中央に興福寺が、上の山の方が春日大社、左上のこれまた大きく描かれているのが東大寺になります。

中央左寄りに「御奉行所」とありますが、これが幕府の奈良奉行所で現在奈良女子大学の敷地となっています。

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ちょっとスマホだと小さくて分かりにくいかもしれないので、興福寺春日大社の領域付近を拡大してみてみましょう。

塀で囲われた興福寺の境内があり、春日大社との間にも数多くの塔頭寺院が建ち並んでいるのがわかります。

上の図の左下に「一乗院」とありますが、こちらが現在の奈良地方裁判所になります。

★現在の奈良地方裁判所

こちらの絵図からも現在の奈良県庁も含めた広大な敷地が、興福寺の境内であったことがわかります。

 

興福寺は710(和銅3)年、平城京遷都のときに創建され、元来藤原氏の氏寺でしたが、

「造興福寺仏殿司」という役所が設けられるなど、国家の手で造営が進められました。

平安時代以降も摂関家との関係が深かったことから国家の手厚い保護を受け、大和の荘園をほとんど領して事実上の国主となります。

また、付属寺院である塔頭も次々と造営され、後に代々の門主興福寺別当(寺務を統括する長官)を務める一乗院、大乗院は門主を皇族、摂関家から迎える門跡寺院として大いに栄えました。

ちなみにこの一乗院は、室町幕府15代将軍足利義昭が、兄の義輝が永禄の変で殺害されて還俗するまで門跡を務めた寺院として知られています。また、戦国大名筒井氏は一乗院の衆徒筆頭でした。

 

鎌倉時代の兵士による南都焼き討ちや、戦国時代の筒井、松永の争乱を乗り越え、近世には大和国主の地位を失ったものの、寺領2万1千石を抱える大寺院として江戸時代まで大いに栄えました。

そんな興福寺に激震を起こしたのが明治維新です。

 

廃仏毀釈の嵐

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1868(慶応4)年3月、大政奉還後の新政府により神仏判然が布告されます。

これは「神道国教化」の方針を決めた新政府が、江戸時代まで本地垂迹にもとづく神仏習合が広く行われていた当時の状況が神道国教化にとって不都合であったため、仏を神体として祀ることや神号に「権現」を用いることなどを禁じ、神社と寺院を明確に分離して神社に属していた僧侶は還俗するよう命じたものでした。

本地垂迹説というのは、日本古来の神々は本来は仏教の仏であり、仏法が伝わる以前から日本人に分かりやすいよう神々の姿を借りて現れたものという考え方です。

要するに八百万の神々の正体は仏様ということで、正体の仏を本地仏と言います。

ちなみに主要な本地仏をご紹介すると、天照大神大日如来八幡神阿弥陀如来という具合です。

天照大神から続く皇統を中心に国家をまとめようとした新政府にとって、「実は天照大神の正体は大日如来」などという理屈は大変都合が悪かったんですね。

そこで新政府は神仏分離をはかり、それまで渾然一体であった仏教と神道を明確に違うものとしようとしたのです。

 

このときの新政府の意図はあくまで寺院と神社が同じ敷地に混在し、祀る神仏も一体化している状態を分離せよというもので、寺院や仏像を破却せよというような命令は出していません。

しかし、この新政府の命令を拡大解釈して、各地で寺院の打壊しや仏像の破壊が行われました。

世に言う廃仏毀釈です。

 

特に鹿児島県では徹底的に寺院が破却され、貴重な文化財である伽藍や仏像はもとより、史料となるべき文書、過去帳の類いもほとんどが焼かれました。

その結果、鹿児島では仏教由来の重要文化財は現在全く存在しません。

また、江戸時代以前の史料が極めて乏しく、過去帳が焼かれたため、江戸時代以前の各人のルーツを辿ることも極めて困難な状況にあります。

廃仏毀釈により、多くの文化財が破壊されたのはもちろん、膨大な文書が焼かれたことで、多くの過去の記憶も永遠に失なわれてしまいました。

 

このような暴挙がなぜ全国的に行われたのか、いくつか原因は考えられます。

 

ひとつは一部神官たちが長年蓄積してきた不満にあります。

本地垂迹説では仏教が本体であるという考えのもと、長らく神社は寺院への隷従を強いられた側面もあり、この状況に不満があった一部神官たちが、新政府の命令に乗るかたちで暴走したと考えられます。

神仏判然令が布告されて間もなく近江国坂本で発生した、日枝大社の暴動がこの典型かと思います。

比叡山のふもとにあった日枝大社は長らく延暦寺の管理下に置かれて神仏習合の状態にありましたが、新政府の神仏分離の布告後まもなく日枝大社の神官たちが徒党を組んで大社内の僧侶を追い出し、仏像仏具を徹底的に破壊したのです。

 

また、新政府の官吏となった尊皇攘夷派の志士たちの思想に大きな影響を与えていたのが、本地垂迹に批判的な平田国学であったことも廃物運動を加速させたとも考えられます。

維新後京都で地蔵盆送り火を迷信と決めつけて禁じたなどが、このパターンのわかりやすい例ですね。

 

僧侶が消えた興福寺

春日大社と一体化して神仏習合であった興福寺も、この神仏分離令の影響から当然無縁ではいられません。

1868(慶応4)年4月には大和国鎮撫総督府より春日大社で「権現」などの神号使用の廃止命令を下しますが、これに対する興福寺の反応は非常に早いものでした。

なんと興福寺を代表する塔頭である一乗院と大乗院が、率先して還俗し、春日大社の神官にならせてほしいと総督府に申し出たのです。

新政府の覚えめでたかったのか、この申し出は受け入れられ、神祇局により興福寺の僧侶に還俗許可と「新宮司」の地位を与えられました。

こうして興福寺の僧侶は全員還俗する事態となってしまったのです。

また、一乗院、大乗院門跡に代表される公家出身の寺院門主たちは還俗後華族に取り立てられることになります。いわゆる奈良華族と呼ばれた人たちです。

 

率先して興福寺を守るべき立場にあった一乗院、大乗院の門主が全く寺院の存続をはかることがなかったのは、自己の保身のみ考えたと非難されても仕方ないでしょう。

まあ、お公家さんの日和見主義とばっさり切り捨ててしまってもよいかもしれませんが、苦難の末寺院を維持した法隆寺などとは対照的な姿といえますね。

こうして、広大な境内と七堂伽藍を残して僧侶が消えた興福寺は荒廃が進みます。

 

追い打ちをかけるように1871(明治4)年には上知令で境内を除く寺領が没収されます。

江戸時代興福寺を含め、寺院の領地所有は幕府や各藩から朱印状などで認められていることを法的根拠としていましたが、大政奉還版籍奉還でその法的根拠も失われていたため、明治政府は寺社の土地を没収したのです。

寺領の消失でほとんどの寺院は経済的に困窮し、貴重な寺宝、仏像を売りに出すなどの流出、消失が進み、興福寺もその例にもれませんでした。

 

塔頭寺院はすべて廃止となりことごとく破却。

一乗院は破却後、跡地に奈良県庁がおかれ、のち前述のとおり奈良地方裁判所になりました。

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奈良ホテル 日本を代表するクラシックホテルは大乗院の跡に建設された。

大乗院も破却され、跡地には奈良ホテルが建設されます。

大乗院の庭園は一部残され、現在は旧大乗院庭園として国の名勝となっています。

奈良ホテル本館は東京駅の設計者としても有名な辰野金吾の設計で、創業以来の建築となっています。

辰野の設計では珍しい和風の外観は周辺の景色にも溶け込んで、いまや奈良のランドマークの一つといってよいでしょう。

 

興福寺廃寺から再興へ

僧侶がすべて還俗して廃寺となった興福寺

境内を取り囲んだ塀はすべて取り壊され、木が植えられて奈良公園の一部となりました。

天平鎌倉時代から伝わる貴重な仏像は金堂の片隅に無造作に捨て置かれ、一部は警察官が冬、暖をとるための薪にされるななど、破損、消失していきました。

 

現在国宝の五重塔は二束三文で売り飛ばされ、解体寸前に陥ります。

現在奈良市内は景観保全のため建築物の高さ制限が設けられていますが、その基準は興福寺五重塔です。

要するに興福寺五重塔より高い建物は立てられない。

なので、もしこのとき五重塔が解体されていたら、奈良の建築物に対する高さ制限は設けられなかったかもしれません。

そうなってたら今頃奈良市内に高層建築がいくつか建っていたかもしれませんね。f:id:yamatkohriyaman:20190721200421j:plain

事実上の廃寺状態となっていた興福寺は1875(明治8)年、西大寺の管理下に置かれ、再興の許可が下りるのは1881(明治14)年のことです。

1897(明治30)年「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の建築物や仏像、寺宝が本格的に文化財として保護されるようになり修復、復興が進みました。

しかしながら明治の初年から13年に及ぶ廃寺状態の影響はあまりに大きく、塀と南大門が撤去され、公園の一角に堂塔が点在する現在の姿は「信仰の動線」が失われているともいわれます。

まあ、どこからでも自由に境内に入れる現在の姿は個人的には嫌いではないのですが、塀と門で境内を仕切られた荘厳な七堂伽藍も見てみたい気はします。

ただ、塀のない状態がすでに100年以上続き、現在の奈良公園の景観がすっかり定着しているので、塀の復興はおそらく難しいのではないかなと思ってます。

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2018年復興された中金堂。失われた信仰の動線の中心となるべき建築である。

1998(平成10)年、 「古都奈良の文化財」の一部として興福寺世界遺産に登録され、海外からも多くの観光客が訪れるようになりました。

本当に今は海外からの観光客が多いですね。

野生の鹿と触れあえるのが珍しいようで、それも人気のポイントになっているようです。

 

2018年には1717(享保2)年の火災で焼失して以来、仮堂であった中金堂が再興され、伽藍の復興は現在進行形で進められています。

 

興福寺廃仏毀釈によりあまりに多くのものを失いましたが、公園の中の寺院という極めて特異な景観をもつ寺院となっていて、世界遺産に登録されたほか今やその光景は奈良を代表する景観となっています。

かつて貴重な文化財を自らの手で破壊した記憶をとどめる景観としても、末永く伝えていくべきものではないでしょうか。

 

参考文献

現在の寺社の在り方や我々の信仰の形態にも大きな影響を与えたにも関わらず、具体的な情報に乏しい廃仏毀釈

その発端から、廃仏運動が起きた背景、地域による特徴や違いを、現地取材をとおして緻密に描き出した一冊になっています。

 

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