歴史好きの大和徒然草子

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筒井順慶(3)筒井城をめぐる攻防 大仏殿焼失から魔王の登場

皆さんこんにちは。

筒井順慶をご紹介する記事はこれで3回目になります。

前回は順慶が生涯のほとんどをささげた戦いの宿敵であった松永久秀による大和国侵攻のはじまりについてお話ししました。

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今回はいよいよ青年期を迎える順慶と久秀の戦いを中心にお話していきます。 

 

筒井城の奪回

1559年から始まる松永久秀の大和侵攻以来、筒井氏は粘り強く抵抗するものの劣勢に立たされ、教興寺の敗戦からは一層厳しい状況にありました。

 

1564年の4月には、幼主順慶を支え続けた後見役の叔父順政も堺で客死するなど厳しい状況に置かれます。

時に順慶、数えで16歳。

当時としてはそろそろ元服かなという年齢になってきました。

ここまで、じり貧状態の筒井氏でしたが、大きな転機がこの年訪れます。

畿内の覇者、三好長慶が享年43で病死するのです。

 

前年の1563年に、長慶の嫡男であった義興がすでに早世しており、急遽養子とした義継(実弟十河一存の子で甥になる)が後継者になったばかりの長慶の死は、三好政権を大いに揺るがすことになります。

長慶の跡を継いだ三好義継は順慶と同い年。

若年であったため、三好三人衆と呼ばれる三好長逸三好政康岩成友通ら3人と久秀ら重臣たちが後見して支える形をとりました。

 

長慶の死から翌年の1565年、大事件が起こります。

三好三人衆と久秀により、こともあろうか将軍足利義輝が暗殺されたのです。

世にいう永禄の変です。

長慶の死をきっかけにさらなる将軍権力の拡大を目指した義輝を、三好政権の中核であった三好三人衆と久秀が実力で排除したものとされています。

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足利義輝像(国立歴史博物館蔵) 長慶死後、積極的に戦国大名たちの紛争に介入し将軍権力の拡大に努めた。

ちなみにこの将軍殺しはよく久秀の三大悪事にあげられますが、実際に手を下したのは三好三人衆であり、久秀は事件当時大和にいて実際に手を下したわけではありません。

また、義輝の弟で当時奈良で一乗院門跡であった覚慶(のちの義昭)は助命して幽閉しています。

将軍暗殺を黙認したので「共犯」と評価されてしまったのですが、これも久秀の偉大な「悪名」のなせる業といえるでしょう。

 

将軍暗殺では協調した久秀と三好三人衆でしたが、同年ついに両者は袂を分かち、三好政権は義継、三人衆と久秀の陣営に分かれて内戦状態となります。

大きな畿内情勢の変化の中で、順慶は義継、三好三人衆と電撃的に手を組みました。

敵の敵は味方というわけですね。

三好三人衆との同盟で、形勢は徐々に順慶優勢に変わっていきます。

 

翌1566年、三好家中で一門衆である三好康永、安宅信康らが三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍足利義栄から討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で完全に孤立してしまいました。

久秀は河内の畠山高政らと同盟を結び、三好義継の居城高屋城を攻撃し、何とか勢力の挽回を図ろうとします。

この動きに三人衆も反応して和泉へ進軍。

順慶も呼応して和泉まで進軍、堺近郊の上芝で松永・畠山連合軍を挟撃。
三人衆・筒井連合軍がこれを撃破し、久秀は多聞山城に敗走します。

 

大和での主導権を一気に握ろうと、順慶は果敢に攻め続けました。

同年4月には三人衆の援軍を取り付けた順慶は、奈良に進軍、小競り合いを続けながら多聞山城南郊の古市(奈良市古市町近辺)まで侵入し、久秀方の美濃庄城(大和郡山市美濃庄町)を降伏・開城させることに成功します。

ここにいたって果断な動きをみせた順慶。

形勢は順慶有利に傾きました。

 

大和での形勢を逆転された久秀は乾坤一擲の奇策に出ます。

突如多聞山城を抜けだすと旧領摂津で味方を募り、畠山高政と和泉で合流して巻き返しを図ろうとします。

しかし、これは三好三人衆の反撃にあって上手くいかず、逃げ込んだ堺を包囲されます。

5月30日、久秀はこの囲みを破って脱出。文字通り「雲隠れ」して、数か月間行方不明となるのです。

 

この混乱を順慶は見逃さず、本拠であった筒井城の奪回を実行します。

 

筒井城跡(Googleマップストリートビュー) 

現在は城域は市街化されているが一部堀や土塁が残っている。久秀の拠点である信貴山城と多聞山城の中央に位置する要地のため争奪戦が繰り返された。

多聞山城と信貴山城の中間に位置し、両城の連携のため、久秀も筒井城を重要視していましたが、和泉出兵で守兵も少なかったのか、順慶は大きな抵抗を受けることなく6月に筒井城を奪回します。

7年ぶりの本拠地奪回でした。

陽舜房順慶」の誕生と大仏炎上

翌年1567年窮地に陥っていた久秀が巻き返しを図ります。
転機は三好家当主の義継が、突如三好三人衆から離れて久秀に合流したことから始まりました。

三好義継は、三人衆と久秀が手切れとなった後、本拠飯盛山城へ三人衆に押しかけられ、家臣を殺害された上に河内高屋城(大阪府羽曳野市)に移されました。

三好家当主として政権の旗頭にされたのです。

家中の争いの中、主導権をとるために「玉」となる存在を抑えるのはいつの世も常套手段ですね。

しかし、足利義栄が14代将軍に擁立されると三人衆をはじめとする三好家の重臣たちは義栄を尊重し、義継をないがしろにするようになります。

これを不満に思った義継が高屋城を脱出。堺で久秀と合流し、信貴山城に入ります。

行方不明だった久秀が、再び表舞台に登場しました。

名ばかりとはいえ三好家当主の義継を抱えることは久秀の軍事行動に大義名分を与えることになり、久秀の動きが再び活発化します。

窮地の中でもただでは起きないところが、謀略家松永久秀の面目躍如といったところでしょうか。

義継を迎え入れた久秀が多聞山城に移ると三好三人衆は大和に進軍。

順慶も加勢して、1567年4月から多聞山城攻撃を開始しましたが戦闘は膠着状態となります。

多聞山城の戦いが膠着する中、同年9月に順慶は春日大社に詣で、剃髪得度して名を「藤政」から「陽舜房順慶」と改め、正式に興福寺の衆徒となりました。

今まで便宜上「順慶」と書いてきましたが、彼が「順慶」と名乗るのはこの時からです。
ときに18歳。

ずいぶんと大きくなりました。
合戦のさなか、前線から目と鼻の先の春日大社で儀式を執り行うあたり、余裕があるというか、当時の戦ってのんびりなのねと思ってしまいますね。

久秀と義継連合軍は奮闘していたものの、三好三人衆、順慶方のほうが数的には優位のまま膠着が続いて約半年、10月に久秀は三人衆の本陣がある東大寺に突如奇襲を仕掛けました。

これが「東大寺大仏殿の戦い」です。

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東大寺の大仏(ウィキペディアより)大仏殿の戦いによる火災で頭部が溶け落ちた。まもなく大仏の頭部は銅板で仮補修されたものの、大仏殿の復興は江戸時代の1709年まで待たねばならず、140年余り野ざらしの状態となった。


長期間の膠着状態で、数的にも優位にあり三人衆側に気の緩みもあったのか、不意を突かれた三人衆の軍は戦闘中に発生した火災が混乱に拍車をかけて総崩れとなり、摂津、山城方面へ敗走しました。

この戦闘による火災で、東大寺は大仏殿他、伽藍の多くが焼失し、大仏は首から上が溶け落ちて無残な姿となってしまいます。

この火災については久秀の三つの悪事にもあげられ、久秀が奇襲に乗じて放火したという説もありますが、近年では戦闘における不慮の失火という説が有力視されているようです。

このとき順慶は大乗院山(現在の奈良ホテル付近)に陣を構えており、久秀の奇襲による損害は受けませんでしたが、三人衆の軍が潰走したため、筒井城に引き上げます。

大仏殿の戦いで一度は三好三人衆や順慶を退けた久秀ですが、苦しい状況は続きます。

翌年1568年9月には三人衆の一人、三好政康に重要拠点の信貴山城を落とされてしまいます。

この動きに順慶も即座に呼応して多聞山城を攻撃。

一気に久秀の息の根を止めようとする勢いでした。

しかし、ここで順慶の生涯最大の暗転がおこります。

織田信長の登場です。

 

信長の上洛

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織田信長像(長興寺蔵)信長の上洛が畿内の情勢を一変させた。

信長は同年9月に13代将軍義輝の弟、義昭を報じて京を目指し、近江の六角義賢を一蹴して上洛を果たしました。

絶体絶命の久秀はこのときすぐさま信長に人質を差し出して恭順の意を示すのです。

上洛後、信長は山城、摂津の三好三人衆の拠点を次々と陥落させ、三人衆を駆逐してしまいます。

10月には久秀と久通親子と三好義継が信長に拝謁して、信長は久秀に「手柄次第切取ヘシ」と大和を武力で制圧するよう命じました。

六角、三好三人衆をことごとく打ち破った信長の勢いに、畿内の諸勢力が次々と信長になびく中、大和でも信長の後ろ盾を得た久秀に寝返る勢力が続出します。

順慶も遅まきながら足利義昭に接近しようとしますが、久秀より後手を踏んだためか臣従を拒否され、完全に孤立してしまいます。

一方の久秀はさらに信長から援軍の約束も取り付け、大和へ帰国するとすぐさま筒井城攻略に乗り出しました。

意気上がる松永勢によって筒井城は2日で陥落。

順慶は一族である福住氏を頼って、再び東山中に逃れ福住中定城(奈良県天理市)へ逃れます。

順慶は久秀を土俵際まで追い詰めながら、うっちゃりをくらって土俵の外にたたき出される格好となりました。

あと一歩のところまで久秀を追い詰めながら、信長上洛という歴史の大波にまさに飲み込まれての大暗転。

また、久秀の粘り腰も見事というよりほかないでしょう。

7年越しで奪回した筒井城を、2年足らずで順慶は再び奪われてしまいました。

久秀とのその後の抗争はまた次回にご紹介します。

 

参考文献

「梟雄」として知られる松永久秀ですが、当時の一次資料からあらたな久秀の側面を浮き彫りにした大変面白い本です。

松永久秀といえば裏切りを繰り返して下克上を成し遂げた人物というイメージが強いですが、実は誰も「裏切っていない」のでは?という視点を持たせてくれました。

 戦国畿内の複雑怪奇な情勢を読み解くのに大変役立つ一冊になっています。

 

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