大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

思ってたんと違う(10)ヤクザ、右翼~近代議会政治と暴力はいかに結びついたか~政治と暴力2

皆さんこんにちは。

今ではコンプライアンスの徹底で、民間はもとより政治の世界でもすっかり「暴力」の影が、公然と姿を現すことは稀になっています。

しかし、つい最近まで日本の政治と暴力は半ば公然と近しい関係にあり、本来「暴力」とは対極の「言論」を武器とすべき議会政治の発達とともにその結びつきを強めました。

※前回は明治維新から、自由民権運動、男子普通選挙の実施までの政治と暴力の結びつきをご紹介しています。

有権者がごく少数に限られた制限選挙の時代、有権者への恐喝・投票妨害といった直接的暴力は選挙結果に影響を与える有効な手段とされました。

しかし、1925(大正14)年に公布された普通選挙法により、大量の有権者が創出されると、有権者への直接的暴力はコストメリットがなくなり衰退します。

しかし、政治と暴力の関りが消えることはありませんでした。

 

代議士となった親分・吉田磯吉

日本の議会政治と暴力の親和性を語るうえで、大変興味深い人物が1915(大正4)年から1932(昭和7)年まで憲政会(のちに民政党)選出の衆議院議員として活躍した吉田磯吉です。

吉田は現在的な視点で見れば広域暴力団の首領、つまりヤクザの大親分と言ってよい人物でした。

 

吉田磯吉は1867(慶応3)年に現在の福岡県芦屋町に生まれました。

貧しい境遇から10代中ごろまで職を転々としますが、筑豊炭田と若松港を結ぶ遠賀川の水運業で身を立てます。

20代になると賭場へ出入りして、名だたる親分衆と交際を持ち、本格的に博徒の世界に身を投じました。

一方で家族を養うために小料理屋を開くなど、実業家としての活動も継続しており、地元経済界とのつながりも生まれます。

吉田が本格的に博徒の親分となっていくきっかけは、地元財界人から当時若松(現福岡県北九州市若松区)に割拠していたヤクザの縄張り争いを調停するよう依頼され、それを引き受けたことでした。

ヤクザの抗争仲裁には、紛争当事者を実力で黙らせる暴力が必要であり、吉田は子分を集め始めます。

そして1900(明治33)年、当時若松で大勢力だった江崎組を暴力抗争の末に打ち倒すと、若松の博徒の親分衆はみな吉田の軍門に下り、博徒大親分としての地位を確立しました。

吉田磯吉をヤクザの親分と考えるかは議論もありますが、多くの子分(組員)を抱える親分を自身の子分として裏社会を支配した吉田の在り方は、外形的には現在の広域暴力団組織のそれと同様であり、ヤクザ関連著作で知られるジャーナリストの猪野健治は吉田をして「近代ヤクザの祖」と主張しています。

 

実業と裏社会で名を売った吉田は、1915年の衆議院選挙に出馬して当選。翌年結成された憲政会に参加しました。

吉田の国政進出と憲政会参加の動機は判然としませんが、政府要人に働きかけて全額国家収入とされていた鉱業税の半分を、課税地域に移譲させるなど、地元福岡の地域振興に繋がる動きを見せていることから、実業に対する高い関心がうかがえます。

 

国政への参加を果たした吉田は、その暴力性を国会議場内外で発揮していきました。

現在でも与党の強行採決が行われた際など、国会内で議員同士が揉み合いになることは時々ありますが、吉田自身もしばしば議場内での議員同士の取っ組み合いに参加しています。

当選直後の1915年、首相大隈重信が野党の政友会を審議中に厳しく批判した際、その批判に激高した政友会議員が壇上に立つ大隈の手をつかんで引きずり降ろそうとしました。

これを見た吉田は大隈を逃がそうと政友会議員につかみかかり、吉田の仲間や政友会議員たちがそれを止めよとした結果、議場の床に議員たちが折り重なって倒れこむ事態となります。

また、1927(昭和2)年にも議事進行に不満を持った政友会議員たち数名が副議長に押し掛けた際、吉田はそれらの議員たちを押し戻して壇上から払い落としたといいます。

自身の腕っぷしの強さだけでなく、吉田は子分の博徒まで政争に引き込みます。

1919(大正8)年、若松実業新聞の社主で品川信健が帰宅中に刺殺されるという事件が起こります。

品川は政友会支持者で吉田への批判を口にしていた人物として知られていましたが、検挙された犯人は中西長之助という吉田の子分でした。

また、1924(大正13)年、国会内で乱闘が起こり吉田もこれに参加。議院の混乱はなんとか鎮まったものの、「親分が蹴られた」という噂を聞きつけた吉田の子分10名ほどが国会外に集まり、政友会の院外団と睨み合いとなりました。

ここでわかるのは、吉田の子分たちが政党の院外団同様に、政治的な暴力集団として機能していることです。

 

そして吉田の暴力が最も大きな存在感を示したのが、日本郵船をめぐる、憲政会と政友会の対立でした。

両党は党の財源を贖うため、財界との太いパイプを作ることに腐心していましたが、1921(大正10)年、政友会が日本郵船の積立金を意のままにするため、株主総会に壮士を送り込んで総会を妨害し、現社長を辞任させたうえで、党の言いなりになる人物を社長に据えようと画策しているという情報が、反政友会の政治家たちの間に伝わります。

反政友会の山形有朋らは、政友会が日本郵船を通じで三菱財閥と通じることを恐れ、政友会の実力行使に対抗して頼ったのが、他ならぬ吉田でした。

吉田は山県らの依頼に応じると、九州から株主総会までに人を集めるよう子分に連絡。

数百人の子分や壮士が上京し、うち70人ほどが日本郵船の株を買って憲政会の代理人として総会に出席しました。

一方の政友会側壮士は160人が総会に出席して一触即発となります。

壮士やヤクザが街中にあふれかえる事態に、警察とマスコミが活発に動き出したこともあり、騒ぎを大きくしたくないという意思が働いたのか、結局政友会が株主総会を妨害しないことを約束して、この騒動は手打ちとなりました。

 

このように吉田は、その突出した暴力により時の政治家からは頼りとされ、選挙民からは恐れられた一方で、地元への利益誘導も積極的に行ったこともあり、強い支持も受けました。

吉田は1932年に国政を離れますが、最晩年まで地方政界に力を持ち続けます。

死後は地元への貢献を顕彰され、若松港を望む高塔山公園には吉田の銅像が今も立っています。

※写真は下記リンクをご参照ください。

日本の幕末から男子普通選挙の開始までの政治史を見ていて興味深いのは、暴力が必ずしも民主主義を否定する相容れない存在ではなかったという点です。

江戸の封建制を打破したのは志士たちの暴力であり、自由民権運動においては官憲の暴力に対抗するためにも壮士の暴力は振るわれ、国会開設後は藩閥政府への一定のチェック機能を果たしていた側面があります。

暴力が日本の議会政治を形成するうえで、いびつながらも一定の役割を担ったことは、政治の場で暴力が許容される風土を作っていったのかもしれません。

 

言論の府である議会の内外でその暴力を隠すことなく発揮しながら、吉田が大衆から受け入れられた背景には、政治的にもっともらしい理由や思想があれば、暴力をふるうことも許容される政治風土が、当時広く浸透していたことを物語っています。

そのような政治風土を背景として、吉田が切った張ったの博徒渡世から政治の世界にスムーズに入っていけたのは、両方の世界とも暴力の持つ役割が相似の関係にあったことを示し、経済的、政治的利益の獲得とそれを維持する手段として、世間一般に受け入れられていたということでもありました。

 

大日本国粋会

議会内外でのヤクザ、院外団による敵対政党への暴力は、各政党の既成政党化によって徐々に影を潜めていきます。

しかし、政治と暴力の結びつきは以後も切れることはなく、暴力の対象が変化することで温存されました。

1917年、ロシア革命により世界初の社会主義国ソビエト社会主義共和国連邦が成立して世界各国の左翼運動が活発化すると、それに対抗する極右的、超国家主義的な運動も盛んになります。

イタリアのファシスト党(源流組織は1914年発足)、ドイツのナチス1920年発足)が結成されたのもロシア革命前後の時期です。

日本でもイタリアやドイツと同様に様々な右翼組織が誕生しましたが、1919(大正8)年に結成された大日本国粋会(以下、国粋会)は、主要な既成政党であった政友会主導のもと、全国の博徒たちを糾合して設立された右翼団体として知られます。

ちなみに、現在広域暴力団山口組の二次団体である國粋会は、いったんGHQの命令で解散された戦前の国粋会復活を目指して1958(昭和33)年に結成された組織を源流とします。

 

国粋会の発起人は原敬内閣の内務大臣床次竹次郎で、当時高まっていた左翼運動、とりわけ労働争議に対する危機感から、これに対抗するための右翼団体設立を企図して、全国の土木建築業者や博徒の親分に参加を呼びかけました。

当時の博徒の親分は土木建築業者を兼ねるものも多く、労働争議への警戒感が高かったこともあって両者の思惑は一致し、国粋会が発足します。

初代総裁は貴族院議員の大木遠吉伯爵が務め、会長には政友会院外団を取り仕切っていた村野常右衛門が就任。そして関東、関西の有力な親分衆が各支部長に就任していきました。

時の政権政党が、堂々と博徒たち暴力組織をまとめ上げ、右翼団体を設立するなど現在では到底考えられないことですね。

しかし、当時国粋会は反社どころか、1930年代には全国に90ほどの支部を抱え、総会員数は20万人はいたと推定される、公然の巨大組織でした。

 

院外団壮士たちが敵対する政党や政治家を打ち倒すことを目的とするのに対し、国粋会が主たる標的としたのは、左翼運動家や労働争議に参加する組合員たちで、左翼思想や運動そのものを標的とする点で、従来の政治的暴力とは一線を画していました。

その性質は従来の院外団より、ファシスト党の黒シャツ隊やナチスの突撃隊に近く、実際に海外の研究者たちの中には国粋会を、黒シャツ隊や突撃隊と同一視する向きもあります。

実際に国粋会が猛威を振るったのは、経営側についたスト破りで、八幡製鉄所1920年)、シンガーミシン(1925年)、野田醤油(1927~28年)などの労働争議に暴力的に介入し、ストライキへの参加者や組合活動に激しい攻撃を加えました。

また、攻撃対象は労働運動だけにとどまらず、1923(大正12)年には奈良県川西村(現川西町)の被差別部落で発生した差別事件に介入し、部落解放運動を主導していた水平社と衝突する水国事件を引き起こしています。

 

1920年代盛んとなった超国家主義団体による反共主義的な暴力の横行ですが、さすがに世間もこの傍若無人に沈黙を続けることはありませんでした。

特に政友会の村野をはじめとした一部の政党政治家と超国家主義団体との「癒着」は、大衆の政党への信用を著しく損ない、当時の知識人たちは公然と暴力を振るう国粋会と、それに連なる政治家たちを批判します。

文藝春秋』を創刊した作家でジャーナリストの菊池寛は、政府が国粋会と共犯関係にあることは、左翼と右翼の対立に暴力的なイデオロギー闘争に火をつけると警鐘を鳴らし、同時代の多くの言論人が政府が国粋会の暴力を容認するにとどまらず、奨励していると非難しました。

国粋会や院外団による度重なる暴力と、その背後にある政友会への批判は左翼系言論人だけにとどまらず、朝日、毎日といった大新聞からも起こり始めます。

とくに1926(大正15)年3月、政友会総裁の田中義一に対して、軍の機密費の不正支出に関して糾弾した代議士・清瀬一郎を、院内の政友会代議士たちが襲い掛かるという事件が起きました。

議会内が大混乱になったことはもちろんですが、議院廊下でも院外団同士による大乱闘となり、最終的に議員も含めて16名が起訴されることになります。

この事件を受けて、大手新聞社は議会政治の危機を訴え、一斉に政友会の無軌道な暴力を批判しました。

戦前、激しい政党間の闘争に明け暮れ、そのために暴力を手放せなくなっていた既成政党への批判と失望は、1940(昭和15)年の大政翼賛会成立による、政党政治の終焉へとつながっていくのです。

大政翼賛会の設立が当時国民の支持を受けた背景には、日中戦争に向けた国家総動員体制の確立のみならず、暴力をコントロールできなくなっていた既成政党への信用低下と、議会内の秩序を期待する世論があったのです。

 

木村篤太郎と反共抜刀隊

1940年の大政翼賛会の成立で、院外団はその歴史的役割を終え、ほとんど有名無実の集団となっていきます。

国粋会ら超国家主義団体も、1945(昭和20)年の敗戦でGHQから相次いで解散を命じられ、戦前猛威を振るった政治的暴力はいったん収束しました。

戦後は、戦前以上に暴力への忌避感が高まったこともあり、戦後の保守政党も院外団を組織したものの、戦前のような直接的暴力は鳴りを潜め、主に選挙活動や政治運動要員として機能するようになっていきます。

しかし、第二次世界大戦後、アメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国の間で東西冷戦が深刻化する中、戦前以来の保守政治家の中には、強い反共イデオロギーを維持し、左翼の暴力革命に対抗するためには、アウトローの動員もためらわない政治家もいました。

そんな人物の一人が木村篤太郎です。

木村は1886(明治19)年に奈良県五條町(現五條市)で生まれた法律家で、東大法学部卒業後は在野の弁護士として活躍し、帝国弁護士会の理事長まで務めた人物です。

また高校時代から熱心に剣道に取り組み、1941(昭和16)年には大日本武徳会剣道部会長を務め、戦後もGHQにより禁止された剣道の復興に取り組んだ人物として知られます。

1946(昭和21)年、幣原内閣のとき検事総長となったことがきっかけで政治の道に入った木村は、続く吉田茂内閣の時に司法大臣となって、日本国憲法の署名にその名を残すことになりました。

1951(昭和26)年、保守政治家や右翼思想家らが近代的な反共運動を啓蒙する「日本青少年善道協会」を設立しますが、当時法務総裁(現法務大臣)だった木村は、「啓蒙運動では手遅れ」との考えから、全国の博徒テキヤ20万人を結集した「反共抜刀隊」を構想します。これは、戦前の国粋会復活とほぼ同義といえました。

木村は、解散した大日本国粋会の理事長だった博徒梅津勘兵衛に取りまとめを依頼。

梅津はいったん拒絶したものの、「刑法を改正して賭博犯は現行犯以外は逮捕させないようにすること」を条件に、木村の申し出を受諾しました。

木村の「反共抜刀隊」構想は、首相吉田茂が強固に反対したため刑法の改正(改悪ですよね)も行われず頓挫することになりますが、戦後国粋会が再結成されるきっかけとなりました。

 

一方で、法務大臣として1952(昭和27)年には破壊活動防止法の制定に尽力し、法律で左翼の暴力を取り締まろうと努めました。

ちなみに現在破防法の調査対象団体には、木村が標的とした日本共産党をはじめとした左翼団体だけでなく、木村が組織しようとした極右団体も多数指定されています。

皮肉な結果ですが、公平な法運用が行われているようにも感じますね。

 

1960(昭和35)年に巻き起こった60年安保闘争では、吉田茂は認めなかった暴力団の動員を、時の首相岸信介はついに決断します。

同年6月のアイゼンハワー大統領訪日を控え、国会周辺を埋め尽くす安保反対のデモ隊を、警察や右翼団体の協力だけで排除できないと考えた岸は、右翼の大物であった児玉誉士夫を通じて松葉会、錦政会(現稲川会)、住吉会などにデモ隊排除の協力を取り付け、木村が率いる右翼団体、新日本協議会にも行動部隊として参加を要請しました。

6月15日、ついに暴力団と右翼がデモ隊を襲撃して大きな混乱が生じると、国会正門前から国会内に乱入してきたデモ隊と機動隊が衝突し、死者1名を出す大惨事となります。

 

結局アイゼンハワー大統領の訪日は延期(のちに中止)となり、前代未聞の政府主導による暴力団の大規模動員が実現されることはありませんでしたが、木村や岸が、もっともらしい理由があるならば、政治上で暴力を振るうことも許容されるという「伝統」的な日本の政治風土を、戦後も持ち続けた政治家であったことは、以上の事実からも確かでしょう。

 

しかし、60年安保闘争で深く結びついたヤクザと右翼は、独自に横の連携を強め、政治家たちに圧力をかける存在ともなりました。

安保闘争の経験から、左翼へ対抗するため、全国の博徒テキヤの連合体を構想した児玉誉士夫の提唱で、関東の主要な暴力団が参加した関東会は、1963(昭和38)年、突如加盟7団体の名で自民党の衆参議員200名に対して、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」という警告文を送付します。

これを「児玉誉士夫と親しい河野一郎を擁護するもの」と受け取った、河野派以外の自民党議員は激しく反発し、それまで蜜月を保った保守政党暴力団の関係はあっという間に崩壊しました。

関東会の警告文を暴力団による公然の政治介入と判断した自民党政権首脳は、暴力団の徹底的な取り締まりを警察に指示し、組織の首領たちを片っ端から逮捕して組織を解散に追い込む、いわゆる第一次頂上作戦を開始するのです。

困ったときに都合よく利用するだけ利用して、用が済めば切り捨てるという政治権力の伝統的なやり方が、再び繰り返された瞬間でした。

以後、公然と保守政党が裏社会の団体と手を結ぶことはなくなります。

 

しかし、政治家個人のレベルでは別で、木村は議員引退後も亡くなるまで自民党院外団の「自由民主党同志会」の会長を務め、テキヤ組織の寄り合いである街商組合の顧問を務めた関係で、隠然とした政治力を発揮し続けました。

対抗勢力も公然と暴力を振るう時代に身を置いた政治家の木村にとって、暴力は現実的に身近に置いておくべき政治的ツールだったのでしょう。

 

ちなみに現在奈良県の五條新町にある木村の生家は、「まち屋館(旧辻家住宅)」として一般に公開されており、木村の遺品などが展示されています。

江戸中期の貴重な町屋建築でもあり、五條新町を散策された際はぜひお立ち寄りください。

※過去の紹介記事はこちらです。

 

左翼と暴力

ここまで主に、保守勢力と暴力の結びつきについてお話してきましたが、左翼の側も暴力と無縁であったわけではありません。

現在では憲法9条堅持を訴え、「平和」の党というイメージを前面に出している日本共産党も、1950年代までは公然と暴力を振るうことも厭わない政党でした。

現在の日本国憲法採決時、戦後初めて帝国議会に5議席を獲得していた共産党は、反対票を投じます。

反対の大きな理由は、天皇制が温存されたことと並んで、9条によって自衛権が放棄され民族の自立を危うくすることでした。

この時の共産党の主張は、「対外侵略戦争」のみを禁じるべきで、現在の条文では戦争一般を禁じてしまうために防衛戦争までできなくなるではないかというもの。

正直、現在の自民党と言ってることはあまり変わらない印象ですね。

 

戦後ようやく合法政党となった日本共産党は、当初はアメリカをはじめとした連合軍を「解放軍」と位置づけ、戦後の民衆の困窮を背景とした大衆運動に力を入れて党勢を拡大。

議会での多数派形成により占領下での平和革命を目指しましたが、米ソ冷戦の激化により1950(昭和25)年、GHQ日本共産党の国会議員ら24名に公職追放・政治活動の停止を命じるレッドパージを行うと、一転してアメリカを「帝国主義による侵略者」と位置づけ、翌1951(昭和26)年には暴力革命を目指す綱領を制定します。

この綱領に基づいて警察官の射殺事件といったテロ(練馬事件、白鳥事件)が頻発したほか、血のメーデー事件などの騒乱事件が数多く引き起こされました。

しかし、この武装革命路線は、戦後特に暴力を忌避した国民に全く受け入れられず、1952年に破壊活動防止法が制定されると日本共産党は調査対象団体に指定され、1953(昭和28)年の総選挙で候補者が全員落選。

1955(昭和30)年についに武装革命路線を放棄します。

ちなみに、現在も日本共産党破防法の調査対象団体ですが、これは日本政府が日本共産党は政権獲得前に時の政権の出方次第では、暴力革命も辞さないと団体と見做しているためです(日本共産党は政府の歪曲した見方と非難しています)。

ともあれ、公然と暴力を振るうことはやめた日本共産党に対し、やはり革命のために暴力を辞さないという勢力が、学生運動を中心に出現。

これを一般に新左翼と呼びます。

60年安保闘争で国会に突入してヤクザや右翼、警察と激しく衝突したブント共産主義者同盟)や、中核派革マル派などが有名ですね。

新左翼の時に暴力を伴う活動は、一部の国民には指示をあつめたものの、活動の成果が得られなかったことや、活動路線の違いから内部分裂と内部抗争(内ゲバ)を繰り返して弱体化。

過激化した一派によるあさま山荘事件山岳ベース事件における大量殺人、一般市民を標的とした爆弾テロの頻発により、大衆の支持を完全に喪失してしまいました。

 

ところで、ヤクザというと「右翼」というイメージが強いかと思います。

左翼のヤクザなど想像もできないかと思いますが、かつて自由民権運動など、窮民の立場から革新的な大衆運動に身を投じた博徒たちが多数いたことを考えれば、戦後の混乱期に貧しさの中からヤクザになった人々を、左翼が組織化する道もあったのではないかと思います。

しかし、そうはなりませんでした。

もちろんインテリ風を吹かす左翼運動に、多くのヤクザたちが嫌悪を示したこともあるでしょうが、決定的だったのは、日本の左翼運動家がヤクザをルンペンプロレタリアートと見做して切り捨てたからでしょう。

ルンペンプロレタリアートとはマルクスが使用した用語で、社会の最底辺で階級意識を持たず、生産性もなく、組織化もされないので、無階級社会実現の障害になるとされた人々です。

資本家についてもそうですが、社会の構成員である人々をひとくくりにレッテルを貼り、まるで存在しなくてよいかのようにバッサリと切り捨ててしまうところが、個人的に左翼への嫌悪を感じる部分なのですが、左翼側は以上のような理由で、ヤクザを組織化しようとは動かなかったのです。

しかしながら、学生運動がまだまだ盛んだった1970年代。

ゲバ棒を振るって新左翼運動に身を投じた学生たちを、最も熱狂させた映画のひとつが「仁義なき戦い」だったというのは皮肉ながらも興味深い現象です。

 

現在の状況

コンプライアンスが浸透し、あらゆる暴力に人々が敏感に反応し、忌避するようになった現在、政治と暴力が公然と結びつくことは、ほとんど考えられなくなっています。

しかし、2022年に安倍晋三元首相が、奈良西大寺参院選の遊説中に銃撃を受けて殺害された事件は、暴力がいかに政治に対して強いインパクトを持つかということを、人々に改めて認識させたと思います。

現在のところ殺害の動機について、政治性は希薄であったとされますが、事件当日は参院選投票直前の金曜日にもかかわらず、ほとんどの党が選挙活動を取りやめ、自民党最大派閥トップの突然の死は、否応なくその後の政権運営に影響を与えることでしょう。

 

1925(大正14)年の普通選挙法施行と、1945(昭和20)年の敗戦後の選挙法改正により有権者が爆発的に増え、選挙において有用なのは暴力よりカネという流れは一層加速しました。

政治における暴力は、現在日本においては非日常の世界であるといえるでしょう。

しかし、それは完全に日本の政治風土から暴力が消え去ったことを意味しません。

安倍元首相の殺害事件でも明らかなように、暴力の政治へに対して有効性をもつことは、現在もなお私たちの議会政治や民主主義への現実的な脅威なのです。

 

<参考文献>

近代日本の保守系政党と暴力、アウトローを中心とした暴力組織との関係が非常によくわかる一冊です。

 

戦後の日本共産党日本社会党を中心とした左翼の潮流が非常によくわかる一冊。

どうしてともにマルクス主義政党でありながら、日本共産党日本社会党犬猿の仲であったのかが、わかりやすく明らかにされています。

学生運動の流れや、いかにして学生運動が過激化して衰退していったのかが、明らかになる一冊です。