大和徒然草子

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奈良県の怪異・妖怪の伝承(8)「たたり・怨霊」

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皆さんこんにちは。

 

古来より、恨みを抱いて亡くなった死者が、怨霊となって祟る、怪異をなすというお話は多いですね。

 

四谷怪談や番町皿屋敷など、怨霊は怪異譚の定番ともいえる題材ですが、今回は奈良県に伝わる怨霊にまつわる怪異譚をご紹介したいと思います。

 

 

寺つつき

さて、奈良県で怨霊にまつわる怪異というと、実のところ古代の権力争いに破れた者の、恨みや祟りといったものが非常に多いのが特徴です。

寺つつきという妖怪も、そんな怪異のひとつになります。

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江戸時代の妖怪画の大家、鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」でも描かれたこの妖怪。

聖徳太子によって討伐された物部守屋が怨霊となって妖怪となり、法隆寺四天王寺などの聖徳太子ゆかりの寺をつついて、破壊しようとしたと伝えられます。

源平盛衰記」では鷹に化身した聖徳太子により追い払われ、二度と現れなくなったとされます。

現在ではキツツキの一種であるアカゲラがその正体と目されているのですが、法隆寺の柱をつつくアカゲラを、守屋の怨霊ととらえるのが面白いですね。

聖徳太子への信仰が篤かった人々からすれば、太子の遺徳も顧みず(まあ、鳥なので当たり前なのですが…)、法隆寺をつついて傷めるキツツキは、太子に恨みを抱いて死んだ、物部守屋の怨霊に違いないと感じたのでしょう。

 

蘇我入鹿の首

大和は古代政治史の中心地でしたので、政争で悲運の内に憤死した人々も多く、奈良に伝わる「たたり・怨霊」の中心は、先述の物部守屋のような、政争により命を失った人々にまつわるものが非常に多いです。

さて、古代史の一大転換点となったのが乙巳の変

中大兄皇子中臣鎌足によって、当時朝廷で権勢を振るっていた蘇我入鹿が殺害され、蘇我本宗家が滅亡した大事件です。

 

入鹿殺害のシーンといえば有名なのが、談山神社の「多武峰縁起絵巻」で描かれたこのシーン。

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中大兄皇子に刎ねられた入鹿の首が、高く宙を舞っている様子が描かれています。

この入鹿の首、なんとこの後、中大兄と共謀して自身を殺害した鎌足に襲い掛からんと、宙を舞って鎌足を執拗に追いかけたというのです。

 

鎌足は入鹿の首から逃れるために、飛鳥から多武峰の方へ向かって逃げました。

そして、「ここまでくれば、もう来ぬ」と、石に腰を下ろしたという場所が、こちらです。

 現在この場所は「氣都倭既神社」が鎮座しており、通称「茂古(もっこ)の森(もうこんの森)」と呼ばれ、この時鎌足が腰掛けたといわれる石も残されています。

 

一方、宙を舞った入鹿の首はどうなったか。これには非常に多くの伝承があります。

まずは、蘇我氏所縁の地でもある奈良県橿原市曽我町。

この町は古代の官道、横大路が東西を貫いていますが、横大路沿いで隣町の小綱町との境に架かる「首落橋」付近に、宙を舞った入鹿の首が落下したと伝わっています。

また、逃げる鎌足を追って、遠く大和伊勢国境である高見山まで飛んだという伝承もあり、高見山にも入鹿の首塚が残されています。

ちなみに、飛鳥寺付近に残された入鹿の首塚は、首だけとなっても宙を舞う入鹿の怨念を鎮めるために建立されたとされます。

 

謀反のかどで首を刎ねられ、その後も怨霊となって首が舞うというのは、平将門の伝承に通じるものがありますね。

 

長屋王

長屋王天武天皇の長子、高市皇子の子で、奈良時代皇親勢力を代表する政治家として権勢を誇った人物です。

藤原不比等の子たちである藤原四兄弟と激しい政争を繰り広げますが、729(神亀6)年に呪詛の疑いをかけられ、妃の吉備内親王とその間に生まれた諸王ともども自害に追い込まれました。

その後、735(天平7)年から3年にわたり、天然痘が大流行し、日本は未曽有の国難に襲われます。

九州から広がり始めた天然痘の猛威は、一説には当時の日本の人口の約30%となる、100万人以上の命を奪い、犠牲者は庶民から貴族まで、あらゆる階層に及びました。

2019年からこの記事を書いている20年にかけ、新型コロナウィルスの世界的流行に日本も巻き込まれていますが、この天然痘の流行は、古代最大の疫病蔓延でした。

737(天平9)年6月には、ついに朝廷が政務を停止。

さらに長屋王の政敵であった藤原四兄弟が、全員この疫病で命を落としてしまうのです。

この疫病による災厄を、「長屋王のたたり」と当時考えられていたのではないか、と見る説があります。

もっとも史料に、この疫病が長屋王のたたりであると明記されたものは一つもありません。

しかしながら、疫病が蔓延して藤原四兄弟が相次いで死亡した後、生き残った長屋王の遺児である安宿王黄文王不定期の叙位が行われていることから、これは長屋王のたたりを鎮めるために行われた傍証とされます。

 

平安時代に編纂された「続日本紀」では、長屋王の変藤原四兄弟の陰謀とされており、当時の支配層の間では、長屋王は無実の罪で無念の死を遂げた人物と認識されていたようで、たたりをなす怨霊と化してもおかしくない人物とみられていたのは間違いないでしょう。

ただ、奈良時代に、後の早良親王のような「怨霊」の概念があったのかは正直わかりません。

長屋王の二人の息子の叙位にしても、二人の母は不比等の娘で藤原氏に近かったこともあり、宮中の死者が多く、大量の欠員を埋めるために叙位されただけと見ることもできるかもしれませんね。

 

長屋王でたたりといえば、長屋王の屋敷跡に建てられた、「奈良そごう」、「イトーヨーカドー」が相次いで閉店になったのを、「長屋王の呪い」なんていう、都市伝説もあるようです。

長屋王は、祟り神としては疫神になるので、商売は個人的に関係ないと思うのですが、どうでしょう(笑)

現在はミ・ナーラとなっている同地ですが、是非ともこのような都市伝説を払拭してもらいたいです。

 

井上内親王他戸親王

井上内親王は、聖武天皇の娘で、光仁天皇の后となった人物です。

そして他部(おさべ)親王光仁天皇井上内親王の間に生まれた皇子になります。

この二人、名前を知ってる方は結構な古代史通ではないでしょうか。

 

壬申の乱で皇統が天智天皇の系統から天武天皇の系統に移り、奈良時代は天武系の天皇が続きました。

しかし、聖武天皇の娘である称徳天皇の代までに、有力な天武系皇族の多くが粛清、没落しており、称徳天皇没後に即位したのが天智天皇の孫であった光仁天皇です。

この時、光仁天皇即位の決め手となったのが、聖武天皇の娘である井上内親王との間に皇子(他部親王)が生まれていたこと。

将来、他部親王天皇となれば、聖武天皇と近縁の皇統が続くことになるので、自身と同じ天武系皇族を排除しまくった称徳天皇の信認も厚く、その崩御に際して、遺言で光仁天皇が後継指名されたとされています。

 

こうして770(宝亀元)年、光仁天皇の即位により、井上内親王は皇后、他部親王が皇太子となりました。

しかし、772(宝亀3)年、井上内親王光仁天皇を呪詛した疑いで廃后となり、他部親王廃太子となります。

ちなみにこのとき、新たに立太子されたのが山部親王、後の桓武天皇です。

井上内親王と他部親王の悲運はさらに続き、773(宝亀4)年には、光仁天皇の同母姉、難波内親王を呪殺した疑いで、身分を庶人に落とされ、大和国宇智郡(現奈良県五條市)に幽閉されます。

そして、775(宝亀6)年4月27日、幽閉先で井上内親王と他部親王は同日に薨去するという、不自然な死を迎えました。

暗殺されたとみても、その蓋然性は決して低くないでしょう。

 この井上内親王と他部親王の失脚については、山部親王と彼の擁立を目指す藤原百川藤原式家兄弟の策謀があったといわれています。

 

井上内親王、他部親王母子が不審な死を遂げてから約2ヶ月後、百川とともに山部親王擁立派であった藤原蔵下麻呂が急死。

これを井上内親王と他部親王の「怨霊」と恐れおののいたのが、光仁天皇と山部親王でした。

光仁天皇は翌776(宝亀7)年に秋篠寺建立を勅願しますが、これは井上内親王と他部親王の怨霊を鎮めるためともいわれています。

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しかし、その後も天変地異が続いただけでなく、 777(宝亀8)年には光仁天皇が病に倒れ、12月には皇太子の山部親王も病で、一時生死の境をさまよったほか、天変地異が相次ぎます。

山部親王が病を発した3日後の12月28日、井上内親王の遺骨は改葬され、墓を「御墓」と追称したうえで、墓守一戸を置く決定がなされます。

一連の不幸をいよいよ井上内親王と他部親王の怨霊、祟りと、天皇以下、当時の朝廷の首脳部が感じたと、よくわかる決定ですね。

その後も藤原式家の兄弟やその子息たちの急死が相次ぐなど、朝廷内での不幸が重なり、桓武天皇に代替わり後の、800(延暦19)年には、いわゆる御霊信仰の嚆矢ともいえる早良親王の名誉回復に合わせて、井上内親王には「皇后」が追号されたうえに、墓も「御墓」から「山稜」と追称しました。

そして同年、大和国宇智郡の地に霊安寺を建立して朝廷はその鎮魂につとめました。

霊安寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、同時期に霊安寺の隣に創建された御霊神社は、現在も同地に鎮座しています。

こちらには井上内親王、他部親王早良親王がお祀りされています。

桓武天皇を終生悩ませた三大怨霊が、まさにそろい踏みです。

 

井上内親王と他部親王を襲った悲運は、奈良時代末期から平安時代初期にかけ、光仁桓武、平城、嵯峨と4代の天皇にわたり繰り広げられた、血で血を洗う凄惨な政争劇と、それに伴う政情不安の嚆矢であり、平安時代以降盛んとなる御霊信仰の先駆けだったといえるでしょう。

桓武天皇といえば、平安京を建設し、歴代天皇の中でも強力な親政を布いた、非常に強い人物というイメージがあります。

権力奪取の過程で、政敵を手段を選ばず次々に葬るあたり、歴代の天皇の中でも抜群のあくの強さが感じられます。

その一方で、怨霊を鎮めるため、葬り去った政敵の名誉回復をはかったり、寺社を創建したりと、桓武天皇の後ろ暗い気持ちを感じる行動を見るにつけ、等身大の良心というものが感じられ、人間らしい心の弱さを感じてほっとする思いがします。

 

怨霊とは

2015年、一人の男が殺人を犯したことを自首し、逮捕されました。

 

「被害者が枕元に立って…」自首の52歳無職男、82歳内縁の妻殺害容疑で逮捕 奈良県警 - 産経WEST

男は2年前に認知症の内縁の妻を自宅で殺害したのですが、自首した動機は、毎晩被害女性が枕元に立ち、仕事も手につかなくなるほど精神的に追い込まれたから、とのこと。

当時、幽霊が犯人を追い詰めたと話題になったのを憶えていますが、怨霊やたたりの本質を見る気がする事件でした。

 

怨霊は祟られる方の、後ろ暗い気持ちが大きければ大きいほど、恐ろしいものとなるといえるでしょう。

被害者に何の非もなく、無念さが推し量れるほどに、加害者の心をむしばみ、後世の人々に畏れられるものになります。

 

しかし、通常政治的敗者が「神」として崇め敬われるというのは、世界的にも珍しい現象ですね。

そもそも同じ王朝が編纂させた史書に、政争の敗者が実は無実の罪でだったなんて書くこと自体珍しいことだと思います。

明治以後、西欧を模範とした「マッチョ」な体質の近代日本では考えられない思想で、非は非として認めてしまうという柔軟性が、国家レベルで古代国家は持ち合わせていたのかもしれません。