大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

二つの宮座が併存する高山八幡宮・無足人座と高山茶筌の発祥を考える~きたやまと散歩(2)

奈良県生駒市北部は、都会の利便性と自然豊かな田舎暮らしを両立できる「トカイナカ」として近年注目のエリアですが、中世以来、大和、山城、河内三ヶ国の国境が交わる特殊性もあって奈良県下の他の平野部とは一線を画す、独特な歴史を育んできた地域です。

前回は中世に生駒市北部を根拠として、奈良県内だけでなく畿内戦国史で大きな存在感を示した国人・鷹山氏と、同氏が築いた高山城を紹介しました。

高山城に続いて今回ご紹介する高山八幡宮は、室町時代に建てられた本殿の他、近世から続く宮座行事に使用される建物が残り、様々な見所が詰まったお社です。

2つの宮座が併存する非常に珍しい神社で、宮座の一つ・無足人座の由来は高山茶筌発祥の伝承や謎と深く関わりを持ちますので、高山八幡宮の歴史や境内の様子と併せて紹介します。

 

注)高山では茶筅を「茶筌」と表記するため、高山の茶筅茶筅師については「高山茶筌」「茶筌師」と当記事では表記します。

高山八幡宮とは

高山八幡宮の場所はこちら。

生駒市高山町のほぼ中央に位置します。

創建年は不詳ですが、『続日本紀』に749(天平勝宝元)年12月18日の記事に「奈良東大寺に勧請する宇佐八幡神平群郡で迎えしめた」とあります。

実際の高山は平群郡ではなく添下郡なのですが、神社の方ではこちらを創建年とされています。

また、江戸時代まで高山八幡宮の神宮寺であった法楽寺に伝わる『八幡宮神縁起』『法楽寺縁起』によると、746(天平18)年に聖武天皇の勅願で行基によって法楽寺が開創された後に、平城宮の南にあった梨原宮(現在東大寺東隣りにある手向山八幡宮の元の鎮座地)から寺院鎮守社が勧請されたとあります。

ともに当社創建の由来を示す直接の史料ではありませんが、東大寺との関係を強く示唆する由来になっていますね。

現在法楽寺に安置されている僧形八幡神像と神功皇后像は、江戸時代まで高山八幡宮に本尊として祀られていた神像で、ともに平安時代作とされることから、少なくとも千年以上の歴史を持つ古社にルーツを持つことは間違いないでしょう。

生駒市デジタルミュージアム僧形八幡神像神功皇后像の写真がありましたのでリンクしておきます。

1283(弘安3)年には当社で西大寺叡尊が高山八幡宮で菩薩戒を授けており、鎌倉時代には法楽寺と一体化した神仏習合の霊地になっていたようです。

 

中世には高山(当時は鷹山庄)の荘官多田源氏の後裔を称した鷹山氏から、氏神として崇敬を受けました。

度々兵火にも巻き込まれており、1474(文明6)年には応仁の乱にともなう戦いで法楽寺共々焼き討ちに遭い、1567(永禄10)年には東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆筒井順慶に勝利した松永久秀によって、再び焼かれました。

永禄の兵火からの復旧は消失直後から始まり、1572(元亀3)年に鷹山氏一族の鷹山藤逸によって現本殿が再建されるなど、現在の境内は戦国末期から江戸時代にかけて形成されます。

 

江戸時代は傍示地区を除く高山村各郷の氏神として地域祭祀の中心となって存続し、神仏混交の祭事が盛んにおこなわれました。

明治になると旧村社に指定され、神仏分離令で境内にあった神宮寺の中之坊は廃寺になり、村の祭祀儀礼から修正会(八日薬師)のような仏式行事は廃されましたが、宮座を中心とする伝統的な祭りが現在も続いており、高山八幡宮の宮座行事は生駒市指定の無形民俗文化財となっています。

 

境内

それでは境内に入っていきます。

富雄川沿いの旧街道に面した鳥居をくぐりると東向きの参道が70mほど続きます。

旧村社ではかなり広い部類の境内だと思います。

 

境内入り口北側の現在駐車場となっているスペースには、かつて神宮寺であった中之坊がありました。

江戸時代まで中之坊が社僧となって祭祀を司りましたが、明治の初めに廃寺となって境内の仏堂は全て取り壊されました。

かなり広い駐車スペースで、神社のHPによれば50台ほど駐車可能と言いますから、旧中之坊の庫裏、仏堂の規模の大きさがうかがえます。

 

社務所の前で参道は北に折れて手水舎を挟んで、左右二つの石段が丘陵の上に延びています。

右側の石段は、そのまま高山八幡宮の社殿へと続きます。

左側石段の先に建物はなく、基壇の跡と思しき構造物が石灯籠に囲まれて残っていました。

明治の廃仏で取り壊された仏堂の跡かと思われます。

 

本殿前の広場空間には、宮座の行事が行われる舞台や座小屋が建ち並んでします。

 

1799(寛政11)年建立の舞台では、大正の初め頃まで雨乞いや雨悦びの農耕儀礼能楽が奉納されていました。

また、戦前までは翁講があり、講が保有する翁田の収入を財源として秋祭りのときに翁能が奉納されていましたが、戦後の農地改革で翁田が消滅すると財源を失い、まもなく翁能の奉納もなくなってしまいました。

立派な舞台だけに、余り活用されなくなってしまったのは、ちょっぴり残念ですね。

 

さて、高山八幡宮の大きな特徴となっているのが、神社の祭祀を主催する宮座(高山では「座」と呼ばれています)の集団が2つ併存し、別個に祭祀を行っているということです。

ひとつは江戸時代までの農民階層の人々によって構成された平座で、もうひとつは鷹山氏の旧臣をルーツとする茶筌師たちにより構成された無足人座です。

現在、平座は毎年10月に、無足人座は毎年3月に祭礼を行いますが、それぞれ交わることなく別個に祭祀を行います。

一つの神社の中に職能の違いによる複数の宮座が併存し、独立して祭祀を行っている例は極めて珍しいケースで、その特異性は各宮座の有する座小屋の配置にも表れています。

 

舞台を挟んで東西に並ぶ座小屋は、平座の座小屋です。

平座は江戸時代まで10座ありましたが、現在は池田座、大北座、大東座、久保座(西新座)、東座(東新座)、前田座の6座が残ります。

 

一方、無足人座の座小屋は拝殿西隣にあり、平座の座小屋より一段高い場所に設けられています。

無足人座を構成した茶筌師達は、旧鷹山氏家臣をルーツとしたことから領地を持たない士分(無足人)とされ、江戸時代までは座小屋を持たずに祭礼時は寺座とともに拝殿西側に座付していました。

もともと高山八幡宮には平座だけが存在していたようで、江戸時代初頭1667(寛文7)年の神社保管の文書では無足人座の名は見えません。

無足人座の名は1770(明和7)年に『神主英寿成弘之記』に初めて見え、その後も高山八幡宮所蔵の1802(享和2)年の文書に「茶筌仲間座」、それ以降の文書にも「茶筌師座」と見えることから、無足人座は17世紀後半から18世紀にかけて、平座より後発で発足したと考えてよいでしょう。

後発ながら、身分的特権によって座小屋を作らず拝殿へ座付する無足人座に対しては、身分制が揺らぎ始めた幕末には平座からの反発も生まれたようで、拝殿の西隣に無足人座の座小屋が設けられました。

平座の座小屋より一段高い、拝殿と同じ高さの場所で格上とされる西側に無足人座の座小屋が設けられたのは、座を構成した茶筌師達が寺座や村役人と同じく郷村で上位の身分階層に属していたことを表す名残と言えるでしょう。

※無足人座については、高山茶筌の歴史とも密接に関係してきますので、後ほど詳しく紹介します。

 

こちらが拝殿です。

1566(永禄9)年の棟札が残りますが、様式から江戸前期に再建されたものと見られています。

 

こちらが本殿。

1572(元亀3)年建立の檜皮葺三間社流造の美しい本殿は国の重要文化財に指定されています。

ご祭神は誉田別命応神天皇)、足仲津彦命仲哀天皇)、息長足比売命(神功皇后)の三柱。

2017(平成29)年から2021(令和3)年にかけて解体修理が行われ、建造当初の美しい朱塗りの本殿が蘇りました。

 

本殿東側には右から岩船社、住吉社、若宮社、高良社、西側には右から神倭盤余彦社、玉依姫宮、天照太神宮が境内社として並びます。

全て棟札が残っており、天照太神宮が1830(文政13)年の建立で、その他は全て1659(万治2)年と江戸初期の建築になります。

 

柱の間の彫刻も解体修理で彩色が塗りなおされ、往時の美しい姿がよみがえっています。

年月を経て古色蒼然とした社殿の佇まいも味わい深いですが、修理され建造当初の美しさが伝えられていくことも大事で、信仰が生き続けている事を実感させてもらえます。

無足人座の成立と高山茶筌

さて、高山の茶筌師達の宮座として知られる無足人座ですが、正確な発足年は不詳ながら、先述した高山八幡宮所蔵の文書からおおよそ17世紀後半から18世紀にかけて成立したと見られています。

構成員は鷹山氏の旧臣と伝わる人々で、15世紀に鷹山氏出身の連歌師鷹山宗砌が侘茶の祖・村田珠光の依頼を受けて発案した茶筅作りの技術を受け継ぎ、16世紀末に鷹山氏が高山を去った後も当地に残って無足人(=領地を持たない武士)となり、江戸時代以降茶筌師として活躍したとされます。

高山茶筌が500年の歴史を持つというのは、この伝承に基づくものです。

現在、連歌師・宗砌によって茶筅が発案されたという伝承は、歴史学的には事実ではないというのが通説となっていますが、それでは実際のところ高山でいつ頃から茶筅が作られ始めたのか、高山以外の場所で残された史料を中心に辿り、無足人座の発足時期と併せて解き明かしていきたいと思います。

高山茶筌

1554(弘治3)年に成立した茶道具の手引書『茶具備討集(ちゃぐびとうしゅう)』には茶筅の産地として最上品に「奈良茶箋」が挙げられており、続いて幡枝(はたえだ・現京都市左京区岩倉)、尾張、加賀が挙げられ、既に戦国時代には奈良が茶筅の名産地として認識されていたことが分かります。

1645(正保2)年2月に刊行された俳諧論書『毛吹草』の「名物」には「高山茶」とあり、遅くとも今から約400年前の江戸初期には高山茶筌は全国的にも知られる名産品となっていました。

ところで、同時期に高山とともに大和で茶筅の産地として知られたのが宝来(現奈良市宝来町)です。

宝来茶筅は京都の幡枝茶筅と共に「利休好み」とされ、17世紀末には高山茶筌を上回る人気を博したのですが、この宝来茶筅高山茶筌のルーツであるという興味深い記事が奈良奉行所の記録である『庁中漫録』に残されています。

1683(天和3)年、奈良奉行所与力の玉井定時は、幕府若年寄稲葉正休が河川検分で大和に入国するのに先立ち、富雄川沿いの村々を事前調査の為に訪れましたが、高山村を訪れた際に茶筅が名産となった理由を当時の高山村民から聞き取り調査していました。。

玉井が聞き取った内容によると、高山村の甚之丞という者が宝来から茶筅作りの製法を学んで村に帰って茶筅作りを始め、太閤・豊臣秀吉に献上したところ気に入られて茶筅師として取り立てられ、以来高山村で茶筅作りが盛んになったというのです。

秀吉の時代と言えば、筒井氏に従って鷹山氏が大和を離れた時期と一致し、甚之丞なる人物が元々鷹山氏家臣だったのかは不明ですが、禄を失った旧鷹山氏家臣たちが、内職として茶筅の製法を学んで持ち帰ったというのは十分にあり得ることと思われます。

18世紀になると一転して高山茶筌の人気が高まり、享保末(1719~21)年頃には宝来、幡枝での茶筅作りは見られなくなって、高山茶筌が市場を独占するようになりました。

無足人座が発足した時期は先述のとおり17世紀から18世紀頃と考えられ、高山茶筌茶筅市場を独占した時期とも符合します。

 

高山村の無足人は、1615(慶長20)年の大坂夏の陣終結後、藤堂高虎徳川家康から恩賞として得た高山・芝の小物成地55石より、元和の初めから幕末まで米を与えられ援助を受けていたと伝わっています。

津の藤堂家は伊賀国などで帰農した地侍たちを無足人として士分の扱いとし、領地支配で活用した事が知られますが、高山の無足人をどうして支援したのか、理由は定かではありません。

小物成地からの収入は微々たるもので、無足人たちは茶筅作りに励み、18世紀にはライバル生産地であった宝来、幡枝との競争に勝って市場を独占。さらに18世紀に宇治の茶商たちが大名たちへの営業対策として、人気の高かった高山茶筌を贈答品として大量に贈ったことが、茶筌師である無足人たちの経済状況を大きく好転させたと考えられます。

無足人たちは旧支配層として名字を名乗り、帯刀、大髷を結い、地元農民とは通婚することもなく村内では孤立した存在で、当時高山は奈良奉行所が管轄する旗本領でしたが、村役人の命令にも服さなかったとされます。

その背景には旧支配層であるという矜持以外にも、藤堂家の小物成地や茶筅製造、販売の収入による経済的自立があり、18世紀以降は将軍家や大名、宮中への御用品を作る茶筌師という社会的地位の向上があったのでしょう。

 

高山八幡宮は戦国時代に兵火で焼かれ、近世になって再建されますが、その祭祀の中心を担ったのは高山の郷民を中心とする平座であることは、17世紀中頃の社伝に平座10座しか現れないことからも明らかでしょう。

16世紀末に鷹山氏の転出で高山に残った旧臣たちは、理由は定かではありませんが帰農して新たな領主となった幕府旗本に従う道は取らず、無足人となりました。

そのため在地の旧支配層ながらその社会的地位は決して高くはなく、経済的にも当初困窮したと考えられ、安土桃山から江戸初期に復興した高山八幡宮の祭祀に、当初は座を組んで参加することができなかったのかもしれません。

しかし、18世紀になると高山茶筌で経済力も社会的地位も向上し、後発ながら無足人座を結成して、高山八幡宮の祭祀に復帰したのではないでしょうか。

 

あと、無足人たちが鷹山氏の旧臣をルーツとする伝承については、それを決定的に裏付ける史料はないようですが、私は信憑性が高いと考えています。

というのも、後発の宮座である無足人座が座小屋を持たず、祭礼の時に平座の座小屋より一段高い拝殿に座付することに対しては、近世になって高山八幡宮の中心的な宮座であった平座の郷民たちから相当の反発が想像されますが、江戸時代には大きな混乱や対立があったとは伝わっていないからです。

いかに無足人たちが士分と認められようと、元々無足人たちが平座と同格の郷民から成り上がった人々であったり、外来の人々であったなら、そうはいかなかったのではないでしょうか。

無足人と郷民双方に、元々無足人たちが高山の支配層であったという共通記憶があったからこそ、元々高山八幡宮祭祀の中心的地位にあった旧支配層の子孫である無足人が拝殿に座付することに対して、無足人座の人々も平座の人々も当然のこととして受け止め、大きな混乱や対立が生じなかったのだと考えられます。

 

とはいえ、一部の無足人が村内で刃傷事件を起こしたことから無足人が村内で大小を帯刀することを禁じられたり、平座の祭礼で酒を飲んで暴言、喧嘩に及ぶ無足人がいたことや、茶筅作りを疎かにして博打や遊興に耽って堕落した一部の無足人の姿が伝わるなど、一定の不満は平座側にはあったようで、そういった不満が幕末維新期の無足人座の座小屋創設に繋がっていったのでしょう。

それでも無足人座の座小屋が平座より一段高い拝殿と同じ高さに設けられたのは、平座側も旧支配層の子孫であるという無足人座の立場を尊重した結果と考えられます。

 

現在、平座と無足人座は平和的に共存し、その祭礼はともに生駒市から無形民俗文化財の指定を受け、現存する貴重な宮座行事として高山地区の人々によって守られています。

人々のライフスタイルの変化や地域コミュニティの変容によって、各地の伝統行事が姿を消していく中、末永く行事が続いていくとよいですね。

 

さて、茶筅は消耗品でありながら、現在までほとんど全ての行程が職人の手仕事による手工芸品です。

一品一品、精緻な造りの竹細工で高い技術と手間が非常にかかりますが、一流の職人の一品でもお手ごろな値段で入手できるものが多く、日本のメインカルチャー・茶道で使う伝統工芸品でありながら普段使いできる日用品である点は、茶筅という茶道具の大きな魅力でもあります。

私も実はインスタントコーヒーを混ぜるのに茶筅を愛用しています。

空気が良く入るのでブラックでも信じられないくらい口当たりがまろやかになります。

※もちろん普段使い用のお安いものを使用していますが(苦笑)。

 

ここまで高山八幡宮と無足人座、高山茶筌の歴史についてご紹介してきました。

中世から近世にかけての高山は謎も多く、高山茶筌の発祥については様々な伝承に彩られていますが、伝承の事実性はさておいても、今回様々な史料に触れて、高山茶筌が戦国時代から続く大和の茶筅500年の伝統を綿々と受け継いできたことは、間違いない事実だと確信できました。

この伝統が受け継がれていくためにも、様々な形で高山茶筌を愛用していきたいと思います。

 

基本情報

■住所:奈良県生駒市高山町12679-1

■電話/FAX:0743-78-1014

■駐車場:あり(50台)

■アクセス:

奈良交通バス 高山八幡宮前バス停下車すぐ

近鉄奈良線富雄駅」、もしくはけいはんな線学研北生駒駅」から「傍示」「庄田」行きバス乗車

公式ホームページ

参考文献

『鷹山家文書調査報告書』 生駒市教育委員会

『重要文化財高山八幡宮本殿の保存修理』 岩永雄一郎

『大和高山の宮座(一)』 野口省吾

『大和高山の宮座(二)』 野口省吾

『奈良歴史案内』 松本俊吉 著

『茶道全集 卷の六 高山茶筅』末宗廣

『上林三入家文書における茶筅の役割』沢村信一

『宝来町の歩み』藤久保美員 

『伏見町史』伏見町史刊行委員会

 

次回はこちら。

北和の有力国人・鷹山氏と奈良県最北の城・高山城~きたやまと散歩(1)

奈良県生駒市北部は、1980年代後半から学研都市として学術研究施設の建設や宅地開発が盛んな地域で、近年は近鉄けいはんな線の延伸で交通アクセスの利便性が大幅に上昇したことから、都会の高い利便性と自然豊かな田舎の暮らしを両立できる「トカイナカ」として注目されているエリアです。

1957(昭和32)年に生駒町(現生駒市)へ編入されるまでは北倭村だった地域で、江戸時代までは現在生駒市中心街のある生駒町地域が平群郡だったのに対して、富雄川沿いの生駒市北部は奈良市西部や大和郡山市と同じ添下郡に属し、同じ生駒市でも全く異なる歴史定背景や地域性を持っています。

この生駒市北部に、北和の有力国人・鷹山氏が築いた中世城郭・高山城があります。

鷹山氏は生駒市北部を中心に勢力を伸ばした国人領主で、河内、山城との国境地帯に領地を有した関係から、他の大和国人とは一線を画す活動を見せ、近年畿内戦国史研究が盛んになる中、畿内中央の政治史に深く関わったことから注目度が高くなっている大和国人です。

今回は鷹山氏の活動と、同氏が築いた高山城の現在の様子をご紹介します。

 

高山城と鷹山氏

高山城について

高山城の場所はこちら。

奈良県大阪府府県境のほど近く、キャンプ場として地元では有名なくろんど池のすぐ南側にあります。

下図は北和周辺の主な戦国期の城郭と当時の街道(紫線)で、高山城は大和国の城郭の中では最北端にあり、傍示峠を越えて河内交野に通じる平安時代以来の街道(傍示越)沿いに築城されました。

北和周辺の主な城郭(国土地理院HPより作成)

地図で見ると主要な城郭の多くが、街道沿いの要地に配されていることがよく分かりますね。

高山城の正確な築城年は不明ですが、文献上の初出は1498(明応7)年の『尋尊大僧正記』八月六日条で「古市ハ高山城ニ在之。」とあります。

この記事の前年、1497(明応6)年は応仁の乱終結の1477(文明9)年以来続いた大和における古市氏越智氏の優位が崩れた年で、筒井順賢百毫寺の戦い(1497年11月)で大敗を喫した古市澄胤は、本拠の古市を失陥して当時逃亡の身でした。

『尋尊大僧正記』の記事の時は、縁戚で同盟者の鷹山氏を頼って高山城を拠点とし、筒井方の宝来衆、秋篠衆と激しく争って、竹林寺(現生駒市)をはじめとして各所が焼かれたと記載されています。

※この時代の大和の歴史については下記記事で詳しくご紹介しています。

1559(永禄2)年の松永久秀による大和侵攻では、鷹山庄は久秀によって焼き討ちに遭っていますが、高山城が合戦の舞台となったかは不明で、確かな文献で高山城が登場するのは、管見では『尋尊大僧正記』の1498年の記述だけのようです。

廃城時期も不明ですが、遅くとも1580(天正8)年に織田信長の命で行われた大和国内の城割(郡山城以外の全城郭を破却)の時には廃城になった思われます。

 

国境の国人・鷹山氏

高山城を築城した鷹山氏は、多田源氏源頼光の後裔を称し、家伝や『法楽寺縁起』によると鎌倉時代大和国鷹山庄(現生駒市高山町)に移住してきたとされます。

史料上その名が最初に見えるのは『大乗院日記日録』文安元年(1444)六月十三日条に「高山奥」の名が見え、これは一乗院方の官符衆徒・鷹山奥頼弘を指していると見られます。

記事の内容は嘉吉の変後に復権を果たした河内守護・畠山持国が鷹山氏を攻めたが、筒井氏と結んだ鷹山氏の反撃を受けて敗退したというもので、幕府重臣の軍勢を打ち破れるほどの武力を有した鷹山奥頼弘に、後の鷹山氏隆盛の片鱗を見えますね。

鷹山庄の荘官下司職)として活動していた鷹山氏が、大和国人の中で存在感を高めたのは応仁の乱で、越智氏古市氏とともに西軍の畠山義就に従い、大和国内で東軍の筒井党と激しく争いました。

応仁の乱は東軍勝利に終わったものの、畠山義就河内国大和国でライバルの畠山政長を圧倒し、義就に与した鷹山氏は越智氏、古市氏とともに大和国内で大きく勢力を伸ばします。

その後、15世紀末に筒井氏が勢力を挽回して越智氏、古市氏は没落しましたが、鷹山氏は勢力を維持し、奈良盆地大和国衆とは一線を画して幕府管領細川氏(京兆家)や畠山氏の被官として独自の活動を行いました。

東山内の柳生氏や宇陀郡の秋山氏が、ともに春日社国民でありながら柳生氏は伊賀守護・仁木氏、秋山氏が伊勢国司・北畠氏と隣接する他国の有力勢力と深い関係を築き、時に被官となって活動したのと同様の動きで、国境の大和国人に特徴的な行動を鷹山氏も取ったのです。

鷹山氏の最盛期は天文(1532~55年)年間に活躍した鷹山弘頼が当主の時代です。

畠山尾州家(政長流)の被官となっていた弘頼は、1536(天文5)年に木沢長政の指揮下で摂津中嶋城(現大阪市淀川区十三)に籠城する一向一揆軍の攻撃に参加したのが文献上の初見で、このとき大きな武功を立てて管領細川晴元から感状を受けています。

1541(天文10)年に木沢長政が細川晴元に反旗を翻すと、弘頼は晴元の依頼を受けて長政に与同する動きを見せた山城上三郡国衆を抑え、翌年の太平寺の戦いでは畠山尾州家の重臣遊佐長教率いる畠山軍に加わって、三好勢を主力とする細川軍とともに木沢長政と戦い、勝利に貢献するなど、戦国畿内の中枢で活躍しました。

太平寺の戦い前後から弘頼は遊佐長教の被官となったようで、以後同じ大和出身の安見宗房とともに長教の下で活躍し、河内、摂津を転戦。1546(天文15)年には宗房と共に山城上三郡の半国守護代に任じられました。

さらに弘頼は長教から和泉国深井庄や摂津闕郡(現大阪市浪速区付近)内の関所を宛がわれるなど、畠山家中でも有力者となります。

しかし、1551(天文20)年に遊佐長教が暗殺されると畠山家中で内紛が勃発し、安見宗房との政争に敗れた弘頼は1553(天文22)年に高屋城(現大阪府羽曳野市古市)で自害に追い込まれました。

1559(永禄2)年から始まる松永久秀の大和侵攻後、鷹山氏は1568(永禄11)年に鷹山藤寿が反松永派の篠原長房から河内国交野に領地を与えられる一方で、1571(元亀2)年には鷹山藤逸松永久秀に与するなど家中が分裂したと見られ、対外的には往時の勢威は鳴りを潜めます。

そして筒井順慶が1576(天正4)年に大和守護となり、翌年に松永久秀が滅亡すると筒井氏への従属が強まったと見られます。

1580(天正8)年に鷹山宗家の嫡流断絶に伴い、鷹山氏の血縁で筒井氏とも血縁のある鷹山頼一が窪庄氏から養子に迎えられると、完全に鷹山氏は筒井氏被官となり、1585(天正13)年に筒井氏の伊賀転封に頼一も従って伊賀へ移住し、ついに中世以来の領地だった高山の地を離れました。

その後、頼一は筒井氏改易後は旧縁を頼って島原に加増転封された松倉氏に仕えました。

一方、頼一の子、鷹山頼茂は筒井氏改易後は高山の地にいたようで、1614(慶長19)年から始まる大坂の陣では、母方の祖父でかつて北田原城主だった坂上尊忠とともに大坂城へ入城します。

翌1615(慶長20)年に大坂夏の陣豊臣氏が滅亡すると、頼一は逃亡して高山に隠棲しますが、その後許されて美作国津山の森忠広丹後国宮津京極高広に仕えました。

しかし1650(慶安3)年には京極家も去って奈良に移り住み、剃髪して自省と号して1686(貞享3)年に85歳で亡くなるまで奈良で余生を過ごしました。

東大寺再興に生涯をかけた公慶上人

さて、鷹山氏出身の人物として最も著名な人物が、頼茂の第七子として丹後国宮津で生まれた公慶です。

公慶上人坐像(東大寺蔵・重要文化財南都七大寺大鏡 第七十五集 東大寺大鏡. 第14冊』より引用)

3歳で父に連れられ宮津から奈良に移った公慶は、1660(万治3)年に出家して東大寺大喜院に入寺します。

当時13歳の少年だった公慶が、入寺後まもなく大雨の中で目の当たりにしたのが、1567(永禄10)年に松永久秀三好三人衆筒井順慶の戦いで大仏殿が全焼し、野ざらしで雨に打たれる大仏の無残な姿でした。

この光景に衝撃を受けた公慶は、永禄の兵火で頭部が溶け落ちた後、簡易的な補修しかされていなかった大仏の修理と焼失した大仏殿再建を心に決め、その生涯を捧げることになります。

出家から24年後の1684(貞享元)年に公慶は幕府の許可を得て全国勧進を開始。8年後の1692(元禄5)年に、まず大仏の修理を完成させ開眼供養にこぎつけます。

この公慶の功績を将軍・徳川綱吉も高く評価し、幕府の後援を得た東大寺再建事業はついに大仏殿再建に移りました。

しかし、17世紀初頭の京都方広寺大仏殿再建や全国的な築城ラッシュで巨大な柱や梁に使える巨大な木材が枯渇し、大仏殿再建用の建材確保は困難を極めます。

公慶は不屈の精神で全国で建材探しに奔走し、長さ13間という巨大な虹梁に用いる大木をようやく確保し、1705(宝永2)年についに上棟までこぎつけました。

しかし、同年公慶は長年の無理が祟ったのか江戸で客死し、遺骸は奈良に戻されて鎌倉時代に大仏殿を復興した重源が開いた五劫院に葬られました。享年58。

そして、公慶の死から4年後の1709(宝永6)年に再建成った東大寺大仏殿は落慶の日を迎えます。

現在我々が目にする東大寺大仏殿はこの時再建されたもの。

もし13歳の少年・公慶が東大寺の再建を誓わなければ、今も奈良の大仏は鎌倉の大仏同様に青空の下にあったかもしれませんね。

 

高山茶

さて、鷹山氏が本拠とした生駒市高山町は、全国シェア90%を超える茶筅の産地としても大変有名です。

茶筅用の竹の寒干し(高山竹林園)

高山には茶道具の茶筅は、侘茶の祖・村田珠光に依頼された連歌師宗砌(そうぜい)が考案したという伝承があります。

伝承によれば宗砌は鷹山頼栄の次男であり、その茶筅作りの技術が鷹山氏に伝えられ、鷹山氏が高山の地を去った後も、当地に残って帰農した一族・郎党に受け継がれたとされます。

歴史上の宗砌は15世紀中頃に亡くなっており、15世紀後半に起きた応仁の乱の頃の当主・鷹山頼英の次男であるとは考え難いこともあり、伝承は史実ではないとする見方が現在支配的ですが、鷹山氏に連なる武家の子孫であることを矜持とした高山の茶筌師達の思いが伝わる伝承ですね。

 

現在の高山城

さて、それではいよいよ現在の高山城の様子をご紹介しましょう。

高山城は標高217mの丘陵上に築かれた山城ですが、比高は40mほどなので、登山道を利用すれば比較的軽装でも気軽に城跡にたどり着けます。

南北の尾根筋200mにわたって

高山城登城ルート(国土地理院HPより作成)

元々の大手筋は城山南麓にあるようですが、大手の出入口は私有地になっているようなので、城跡の東側を通って北側へ回り込み、2006(平成18)年に整備された登山道を目指します。

城跡に駐車場はありませんので、近鉄富雄駅から生駒北スポーツセンター、庄田行の奈良交通バスに乗車し、西庄田バス停下車のルートがおすすめです。

ちなみに筆者は城跡の南側にある高山竹林園内の鷹山氏墓所を訪ねた際に、事務所の方にお許しを戴いて園内の駐車場にそのまま駐車させていただきました。

 

西庄田バス停~登山道入り口

西庄田バス停で下車したら東へ進み、最初の交差点を北上します。

高山溜池から流れてくる美の原川分流沿いに進みます。

左手に見える竹藪が高山城で、川沿いのガードレールには「高山城跡 直進」の看板が城跡方向に向かう橋の手前に掛けられています。

 

竹藪の切れ目で丘陵へ登る坂道が、登山道への目印。

こちらにも「高山城跡 直進」の看板がありますが、正解はこちらの橋を渡って西に向かいます。

丘陵を登ると登山道の入り口が見えてきます。

登山道~城跡入り口

下図は高山城縄張りの概略図です。

高山城縄張り概略図(国土地理院HPより作成)

丘陵の山上にへの字型の主郭があり、南側の九頭竜王が祀られている小曲輪とは土橋でつながっています。

主郭の一段低い山腹には比較的広い平場があり帯曲輪となっています。

さらに南側にも曲輪があるとのことですが、道が険しく今回は足を踏み入れるのを諦めました。

 

竹藪の中の登山道を進みます。

2006(平成18)年に開通した登山道は城跡遺構を破壊しないよう考慮されて建造されたとのこと。

 

登山道に入って10分足らずで、主郭と東側の曲輪を遮断する堀切と思しき地形が見えてきます。

明確な堀切はほとんど見当たらない城で、防御施設は切岸と土塁が中心です。

 

高山城再興と遊歩道開通記念碑」が見えてきました。

登山道はここから南小曲輪まで続き、急坂となっています。

主郭下の帯曲輪

登山道の途中、山腹に見えてくる平場が主郭下の帯曲輪です。

登山道は基本的に城跡遺構を避ける形で作られているので、道なりにそのまま進むと帯曲輪や主郭へは到達できません(汗)

登山道からいったん東側に外れて、帯曲輪へ進入します。

 

帯曲輪はきっちり削平された平場となっていて、主郭に匹敵する広さを持っています。

北側切岸の上段が主郭になります。

帯曲輪を東に進むと給水設備があり、主郭へ回り込むことができます。

主郭

給水設備の方から北西に回り込み、主郭へ入ります。

主郭東南側の曲輪は、自然地形のまま緩やかに山頂方向に上がっていく傾斜になっていました。

城郭の中心部に自然地形の傾斜がそのまま残っているというのは、なかなか珍しいかと思います。

かの城郭考古学者・千田嘉博さんも『奈良県高山城の構造』の中で「城郭としての主要部に自然地形の傾斜を残すのは奇異である。」と評されていました。

高山城は他の戦国末期の山城に見られるような竪堀、横堀の組み合わせによる複雑な縄張り等が見られない点も含めて、領主居館を含めた常設の拠点城郭というよりは、戦時の詰城を臨時的に増設し、一時的な拠点として利用していた城砦という印象を受けます。

鷹山氏の同盟者である古市澄胤が、高山城を反撃の臨時拠点とした『尋尊大僧正記』の記事とも合致する構造になっているかと思われます。

 

主郭中央の平場に出ると北側に土塁が見えます。

主郭南西端に大きな窪地がありました。

井戸跡かもしれませんね。

主郭南西側の曲輪は東側とは対照的にきれいに削平されていました。

真っ直ぐに南小曲輪まで細長い削平地が続きます。

南小曲輪へ続く土橋と堀切。

登山道付近から見られる光景としては、もっとも城跡らしい構造がこちらの土橋周辺かもしれません。

南小曲輪

土橋を渡って登山道に合流し、少し登ると現在登山道の終着点となる南小曲輪に到着します。

九頭竜王が祀られ、石鳥居と十三重石塔、祠が石段の上に設置されていました。

城跡一帯は、鷹山氏の後裔を称し高山で代々茶筌師の伝統を継いできた谷村氏の土地でしたが、同氏のご厚意で生駒市に寄贈されて城跡整備が進んだとのこと。

 

高山城跡の案内板も、こちらの曲輪にあります。

 

十三重石塔は1917(大正6)年に谷村氏が祖先の遺徳を偲んで建立されたようです。

上層の2層が長年の風雨でずれて倒壊の恐れがあったためか、塔の左脇に下ろされて設置されていました。

九頭神の祠は、大正末期に当地に祀られたとのこと。

もともと高山城のある庄田地区の小字・九頭神(富雄川上流地区)に祀られていた祠が、川の氾濫で高山八幡宮(一説には富雄の葛上神社)の前まで流されて八幡宮に祀られていましたが、大正末期に元々の鎮座地に近い高山城内に九頭神地区の住人たちが改めてお祀りしたのだそうです。

※下記ブログに詳しい記事がありました。

曲輪の西側縁。

かなり急峻な切岸になっています。

南側の樹木が伐採され、城跡では唯一見晴らしの良い場所です。

城下の庄田地区を見下ろすことができます。

天気の良い日には気持ち良い場所です。

※主郭と南小曲輪を紹介する動画がありましたので是非ご覧ください。

現地を訪れた印象としては、戦時に使われた中世山城段階のまま城郭としての進化は止まり、筒井氏の椿尾上城や十市氏の龍王山城のような領主居館と政庁と山城が一体化した戦国期拠点城郭には発展しなかった城郭と感じました。

 

『日本城郭体系』には、南へ1Kmほど離れた法楽寺付近に鷹山氏居館はあったと記載があり、正確な位置は不明ながら、高山城の麓から法楽寺にかけての山麓や突出した台地の縁に居館が置かれていたのでしょう。

 

円楽寺跡

高山城に登城した際に、ぜひ一緒に訪れていただきたいのが、高山竹林園内の円楽寺跡にある鷹山氏墓所です。

円楽寺は鷹山氏菩提寺で、鷹山氏が当地を去った後も存続しましたが、明治の廃仏で廃寺となり、堂宇は取り壊されました。

現在は旧寺地の片隅に鷹山氏歴代の墓地が残されています。

寺は廃寺となりましたが、鷹山氏の一族郎党を祖先とする茶筌師達によって江戸時代に組織された高山八幡宮の宮座・無足人座の方々が、現在も墓地を守っていらっしゃいます。

コの字型に鷹山氏歴代の五輪塔が並びます。

鷹山氏の最盛期を築いた弘頼の五輪塔は、意外にも他の五輪塔と比べて小さなものでした。
奈良県戦国史の中では、筒井氏や越智氏と比べて存在感が薄い印象の鷹山氏ですが、応仁の乱以降の山城、摂津、北河内を巡る畿内中央の戦国史では、大きな存在感を見せます。
大和国内にとどまらず、南山城から河内、摂津にまで影響力をもった鷹山氏は、大和国人の中でもひときわ大きなスケールで活躍した一族だったと言えるでしょう。

 

参考文献

『城陽市史 第1巻』城陽市史編纂委員会 編

『大和古文書聚英 興福院文書 篠原長房知行宛行状』 永島福太郎 編

『鷹山家文書調査報告書』生駒市教育委員会

『日本城郭大系 第10巻』平井聖 [ほか]編修

『大乗院寺社雑事記 第11巻 尋尊大僧正記. 10-188(自長禄2年12月至永正元年4月)』

『奈良県高山城の構造』千田嘉博

 

次回はこちら。

ちゃんちゃん祭りの御旅所を巡る・大和神社(後編)~上街道散歩(6)

奈良県天理市新泉町に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)は、創建が記紀神話の時代まで遡る長い歴史を持つ古社です。

古代から国家祭祀を執り行う官社として朝廷から重んじられ、明治から戦前にかけては官幣大社に列するなど、国家との強い結びつきを持つ神社でした。

その一方、中世以降は大和郷氏神として、現在でも地域の紐帯にとって中心的な存在です。

前回は大和神社境内の様子を中心に、その歴史や由緒、ゆかりについてご紹介しました。

今回は境内を離れ、毎年4月1日に執り行われる例祭、通称・ちゃんちゃん祭りで御渡りが行われる御旅所と、多彩な境外社を中心にご紹介します。

下図は今回ご紹介するスポットの周辺図で、上街道と山の辺の道という奈良県を代表する古道沿いのエリアになります。

大和神社周辺図(国土地理院HPより作成)

本題と直接関係ありませんが、航空写真で見ると改めて山の辺の道沿いって古墳だらけなのが分かりますね。

前方後円墳だけで何基映ってるかわかりますか(笑)

 

ちゃんちゃん祭りとは

ちゃんちゃん祭りは旧大和郷9町の氏子による祭礼で、岸田町の御旅所を経由して中山町大塚山の御旅所・大和稚宮神社までを風流行列で神幸する行事です。

15世紀には2基の神輿が岸田を経由して中山の御旅所まで神幸する、ほぼ現在と同じ形式で執り行われていた歴史ある祭礼で、古式を伝える貴重な風習として、2018(平成30)年、奈良県指定無形民俗文化財に指定されました。

※ちゃんちゃん祭りの詳細についいては下掲の動画も参照ください。

ちゃんちゃん祭りの通称の由来は、列の先頭で鉦を「ちゃんちゃん」と打ち鳴らして行進するから、あるいは長岳寺の寺僧が奉迎の際に打ち鳴らす鉦の音から等諸説あります。

※2019年撮影のお祭りの様子。御旅所での祭礼の様子が簡潔にまとめられています。

上街道沿いの境外社

それでは、最初の御旅所、境外社がある岸田町の小字・市場へ向かって、大和神社から上街道を南下しましょう。

市場の御旅所までは、大和神社一の鳥居から南へ700mほど、徒歩10分ほどの距離になります。

大市観音地蔵菩薩

岸田町市場集落の北口に「長岡岬 大市観音地蔵菩薩」の石碑があります。

大きな古木の根元に10体ほどのお地蔵様が集められてお祀りされていました。

石碑の「大市観音」とは、江戸時代まで当地にあった蓮池観音堂のことと思われます。

1875(明治8)年に廃寺となったため、本尊の木造十一面観音菩薩立像は、市場集落内に鎮座する渟名城入姫神東隣の公民館に移されました。


市場集落

市場の集落は明治から昭和初期頃の町屋が残る、旧街道沿いの風情漂う街村です。

中世は岸田の枝村で尻懸(しっかけ)と呼ばれ、上街道沿いに商工業者が集まり、鎌倉時代の刀匠・尻懸則長(日本最古の刀剣の伝法・大和伝五派のうち尻懸派の事実上の創始者)も工房を構えるなど、上長岡(かみなんか)から続く長岳寺の門前として発達しました。

1536(天文5)年頃に十市遠忠が本拠を十市(現橿原市)から龍王山城に移すと、街道沿いの城下町として賑わい、最盛期を迎えます。

しかし遠忠死後、松永久秀の大和侵攻や宇陀の秋山氏との抗争で、十市宗家最後の当主となる十市遠勝龍王山城を失い十市城へ退去すると、当地で市は開かれなくなりました。

近世に商業地は南に隣接する柳本の町へと移りましたが、小字名の「市場」に往時の賑わいの名残をとどめます。

御旅所・岩懸神社

市場集落の北口からほど近く、上街道の東側に御旅所・岩懸神社があります。

社地中央の台石はちゃんちゃん祭りで、神幸の小憩に使用されます。

大和神社を出発した神輿は当地に到着すると台石で小憩し、兵庫町の氏子によって龍の口舞が行われます。

もともと、上街道を挟んで西側に鎮座する大和神社の境外社・渟名城入姫神境内の一部だったようですが、室町時代以降の戦乱で社地が分断縮小したと見られます。

 

渟名城入姫神社(ぬなきいりひめじんじゃ)

御旅所から南へ100mほど進むと西に入る小さな路地があり、こちらが渟名城入姫神への入り口になります。

控えめに案内板が住宅の塀に掛けてありますが、北側から来ると見落としてしまいそうです。(実際に私は最初の訪問時に見落としました・苦笑)

 

こちらが境内。

石鳥居に本殿と2010(平成22)年に竣工した拝殿が建つシンプルな境内です。

 

ご祭神の渟名城入姫は第10代崇神天皇の皇女で、天照大神とともに宮中で祀られていた日本大国魂大神崇神天皇の命令で穴磯邑(あなしむら・現桜井市穴師周辺と推定される)に移した際に斎女となった人物です。

日本書紀』には、渟名城入姫は斎女となったものの、日本大国魂神の荒ぶる神威で髪は抜け落ち体も瘦せ細りって祭祀を継続できなくなったため、次代の垂仁天皇の時に市磯長尾市倭国造の祖)が改めて祭主となるよう命じられ、ようやく日本大国魂神も世情も鎮まったとあります。

大和神社に最初にお仕えした人物として祀られているのだと思いますが、境外の少し離れたところにお祀りされているのは、斎女のときのご苦労を気遣ってのことでしょうか。

神社の東隣にある市場公民館の建物には「大市観音寺」の表札が掛けてありました。

蓮池観音堂の本尊だった木造十一面観音菩薩立像はこちらに移されているとのこと。


公民館の敷地には多くの六字名号碑や石仏が集められています。

小さなお堂は庚申堂で、青面金剛の石仏と「庚申」と刻まれた石碑が安置されていました。

道路の拡張、改良工事などで近在の路傍に祀られていた石仏が集められてきたのだと思いますが、奈良県内の古くからの街道沿いにはこういった形で集められている石仏が、非常に多いですね。

 

山の辺の道沿いの境外社

上街道沿いにある市場の御旅所の次は、山の辺の道沿いにある中山町の御旅所へ向かいます。

 

上街道からおおよそ1kmほど東に進み、山の辺の道に入って北上すると、木々の茂った小高い丘が見えてきます。

実はこの丘、中山大塚古墳という前方後円墳で、御旅所は古墳の前方部にあります。

ちなみに中山大塚古墳の築造は古墳時代前期の3世紀後半と推定され、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳に匹敵する古い古墳です。

被葬者は不明ですが、『天理市史』によると大和神社の祭神・日本大国魂大神の斎女で、市場の神社に祀られていた渟名城入姫の墓と伝承されているとのこと。

 

丘の麓から御旅所へ続く石段。

かなり古い石段です。

中山観音堂

御旅所の南西隣に中山観音堂があります。

本尊は、奈良時代の高僧・行基長谷寺の観音の試し彫り像とされ「試みの観音」と通称される十一面観音菩薩立像。

平安時代以降に確立した寄木造の観音像なので「行基作」というのは伝承上のことですが、元々この観音像が祀られていたのは、現在の大和神社御旅所の境内にあった行基開創の中山寺をルーツとする「中山坐観音寺殿」でした。

 

中山寺(中山中楽寺)は745(天平17)年に行基が霊木から彫り出したとする十一面観音菩薩を本尊として創建されたとされる古代寺院です。

続日本紀』の天平勝宝二年条(750年)の記事にもその名が見えること、寺跡から八葉福弁蓮華文の施された奈良時代の瓦が出土していることから、創建時期は伝承の通り奈良時代でほぼ間違いないとされ、最盛期には大塚山を中心として付近の丘陵地一帯に堂宇塔頭が建ち並ぶ大寺院でした。

中世は興福寺大乗院の末寺でしたが、『天理市史』等によれば1576(天正4)年に十市城落城に際しての兵乱で全山焼亡し、いったん滅亡したとされます。

当時、分裂状態だった十市氏の旧領を巡って、十市遠勝の娘を妻に迎えていた龍王山城主・松永久通(久秀嫡男)と、十市氏庶流の十市城主・十市遠長との間で1575(天正3)年から武力紛争が起こっており、1576(天正4)年に十市城が松永久通の攻撃で陥落。

十市遠長は河内へ逃亡していることから、この時の戦いに巻き込まれたのでしょう。

中山寺境内にあった中山大塚古墳は、発掘調査から戦国時代は城郭化されていたことが分かっており、近傍の柳本城でも戦闘が起こっていることから、戦場となった蓋然性は高いと考えられます。

近世は前述のとおり中山坐観音寺殿として観音堂と庫裡だけが建つ真言宗の小規模な寺院として復興・存続し、『式内社の研究 第1巻』によると、江戸時代は現在は大和稚宮神社に隣接する歯定神社の神宮寺だったようです。

境内はちゃんちゃん祭りの際に供奉社の休憩所に充てられていましたが、明治の神仏分離令により中山坐観音寺殿は廃寺となり、境内には中山大塚古墳の墳丘上に鎮座していた大和稚宮神社が移されました。

境内の仏堂は取り壊され、本尊の十一面観音菩薩立像は長谷寺の小池坊に移されましたが、後年現在の場所に観音堂が建てられて返還・安置され現在に至ります。

 

ところで、大和神社の4月1日の例祭(ちゃんちゃん祭り)は、『尋尊大僧正記』1491(延徳3)年の四月朔日条に「大和明神祭礼也中山寺ニ神向」とあるように、中世以来、中山寺に神幸する祭礼と認識されていました。

仮に中山寺の本尊・十一面観音のもとに御渡りする形式だったとすると、観音様は日本大国魂大神に所縁ある神の本地仏と見なされていた可能性もあるんじゃないでしょうか。

一説にはちゃんちゃん祭りは日本大国魂大神の母、伊恕媛命のもとへ渡御する行事ともされる(『天理市史』)ことから、十一面観音は伊恕媛命の本地仏だったのかもしれません。

境内の中山大塚古墳が、最初に日本大国魂大神の祭祀を執り行った渟名城入姫の墓と伝えられていることも示唆的で、十一面観音菩薩は渟名城入姫の本地仏かも、など、色々と妄想が尽きません。

廃仏で一度は長谷寺に移された十一面観音菩薩立像が、もとの境内の隣接地にお堂を用意されて再び迎えられたことには、観音様に対する地元の人々の篤い信仰を感じますし、祭礼で重要な役割を担っていたことを強く示しているのではと感じます。

 

中山観音堂の敷地には、中山町の集会所の他、多くの石仏も集められています。

フェンスに掛けられた棟鬼飾りは、破却された中山坐観音寺殿のものでしょうか。

 

御旅所

こちらが御旅所です。

250名もの氏子が集まって御旅所祭が執り行われることもあり、大きな広場空間があります。

神前の広場では神事の他、氏子の方々による舞の奉納や会食、粽撒きもあって、厳かながらも楽しいイベントが盛りだくさんで行われます。

神と氏子の交歓という御渡り行事の本来的な意義がきっちりと伝わっている伝統行事になっていますね。

中世は中山寺の本寺である興福寺大乗院の後援もあってか、大倭祭猿楽が興行され『大乗院寺社雑事記』によると1459(長禄3)年の大倭祭猿楽には大和猿楽のほか宇治猿楽も招いて賑々しく挙行されたことが記述されています。

当時の人気猿楽一座の共演で、祭りは文字通りの「フェス」状態だったことでしょう。

 

御旅所には二つの社があります。

向かって右が大和稚宮神社(おおやまとわかみやじんじゃ)、左が境内社歯定神社(はじょうじんじゃ)です。

大和稚宮神社(御旅所坐神社)

こちらは大和稚児神社の社殿。

祭神は大和神社と同じで日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神で、檜皮葺・三間社流造で朱塗りも鮮やかな社殿です。

祭神については先述のとおり伊恕媛命だったとする伝承も残されています。

江戸時代まで現在の鎮座地の背後にある中山大塚古墳の墳丘上に鎮座しており、現在の場所には中山坐観音寺殿の観音堂が建っていました。

歯定神社

こちらは境内社歯定神社

祭神は大己貴神少彦名神の二柱です。

少彦名神は医療神ともされるため「歯の神様」としても信仰されている神社です。

元来中山の氏神だったようで、もともとは現在地から南東の歯定堂で祀られていました。

中山寺が1576(天正4)年に焼亡した後に当地に移転したものと思われますが、遷座した時期は不明です。

中山坐観音寺殿が当社の神宮寺であったとするならば、近世初頭には遷座していたのかもしれません。

 

大和神社とは関係の深い神社で、1118(永久6)年に大和神社御神体と本殿が火災で焼失した際には、一時的に高槻山へとご神体が移されたと記録されており、1583(天正11)年に大和神社が再度火災に見舞われたときも、歯定堂へ一時ご神体が奉安されたとされます。

ちなみに、歯定堂は小字名で残っており、おおよその位置は下記の場所。

ちょうど中山集落の北側にある丘陵地になるので、集落の鎮守とするには丁度良い場所ですね。

高槻山一帯は当時長岳寺領で、一時退避中の御神体には長岳寺の寺僧が奉仕し、現在もちゃんちゃん祭りの神幸で市場の御旅所へ長岳寺から奉迎の者が派遣されるのは、この時の名残かもしれないと『天理市史』では推察しています。

大和神社の元々の鎮座地が長岳寺境内で長岳寺が大和神社の神宮寺であったとの伝承もありますが、中世の二度の火災で高槻山へ大和神社が退避したことで、長岳寺との深い関係が築かれ、様々な伝承も生まれたのかもしれません。

歯定神社は大和神社と高槻山・長岳寺との関係や、現在の御旅所のロケーションを考える上でも重要な神社になるのです。

 

こちらが歯定神社の本殿です。

2014(平成26)年に社殿が修理されたこともあり、きれいな社殿です。

 

前庭に並べられた石は、元の鎮座地である歯定堂でご神体として祀られていた自然石と伝わります。

地元でも歯痛の快復にご利益があるとされる神社で、形が犬歯や臼歯のように見えるこちらの磐座は、隠れたパワースポットと言えそうです。

 

大和神社中山寺も歴史ある大規模寺社でしたが、火災や戦災などで多くの文書が失われ、近世初頭以前の確かなことがほとんどわからなくなっています。

しかし、確かなことが不明な分、遺され伝えられてきた祭礼や多くの土地の伝承、旧跡から様々な想像をかきたてられます。

 

実際に現地を散策して旧跡に触れながら、どうして今こうなっているのか、自分なりに考え、推理するのを存分に楽しめるエリアでした。

 

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』 天理市史編纂委員会 編

『朝和村郷土誌』朝和村教育会

『奈良県山辺郡誌 中巻』山辺郡教育会 編

『式内社の研究 第1巻』志賀剛 著

次回はこちら。

 

記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5)

大和政権発祥の地とも考えられている奈良盆地南東部(現在の桜井市天理市エリア)は、古代からの歴史を持つ神社や旧跡が、数多くあります。

奈良県天理市に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)も、同地域の石上神宮(現天理市)や大神神社(現桜井市)と同じく、創建以来長い歴史を持つ一社。

社殿は近代以降建て替えられたものが多いのですが、古代から近代まで長い歴史の中で積み重ねられた様々な由緒や所縁を持つスポットであふれる当社は、山の辺の道や上街道の散策でぜひお立ち寄りいただきたい神社です。

参拝された際により深くスポットを味わっていただける由緒や歴史を詳しくご紹介していきます。

 

伊勢神宮に次ぐ社領を有した大和神社

大和神社の場所はこちら。

大神神社石上神宮、長岳寺といった古代から続く同地域の寺社が山の辺の道に面しているのに対し、大和神社は古代官道・上ツ道に由来する上街道沿いに鎮座しています。

もともとの鎮座地は、「大市長岡岬)」で、現在の桜井市穴師から箸中付近もしくは長岳寺境内付近の丘陵地とされ、古代は山の辺の道沿いに鎮座していたと見られます。

中世以降、上街道の往来が盛んになって、氏子の郷村が街道沿いに発達していったこともあり、現在地に遷座したのでしょう。

 

主祭神日本大国魂大神倭大国魂大神:やまとのおおくにたまのかみ)は、『日本書紀』にのみ登場する神で、元々宮中で皇祖神・天照大神とともに祀られていた神でした。

しかし崇神天皇6(紀元前92)年、国内で疫病が大流行して多くの死者がでたため、国が乱れるのは神威の大きな二柱を宮中で祀っていると考えた崇神天皇は、天照大神と日本大国魂大神を宮中の外に祀るように命じます。

そして創建されたのが伊勢神宮大和神社でした。

記紀神話の記述通りであるなら創建から2000年以上の古社ということになりますが、692(持統天皇6)年に持統天皇藤原京造営にあたって伊勢神宮住吉大社とともに当社に奉幣したと『日本書紀』にあるため、遅くとも飛鳥時代には朝廷から篤く崇敬を受ける神社として存在していたことが分かります。

奈良時代の767(神護景雲元)年には、大和、尾張常陸、安芸、出雲、武蔵の6か国327戸もの社領を有し、これは伊勢神宮に次ぐ多さでした。

平安遷都後も朝廷からは引き続き重んじられ、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、11世紀の白河天皇のときに確立した二十二社にも選ばれ、朝廷からの奉幣を1449(宝徳元)年まで受けました。

 

しかし平安末期から徐々に衰え、1118(永久6)年2月には火災で本殿とご神体が焼亡。さらに中世から近世にかけて武家による社領の蚕食が進み、1583(天正11)年には再び火災に見舞われ、社領に関する文書が全て焼亡したことから中世以前の社領をすべて喪失してしいます。

2度に渡る火災で神社の由緒に関わる文書も多く焼失した為、現在地への遷座の経緯といった中世以前の詳細な神社の記録も失われてしまったのは大変残念ですね。

 

15世紀には朝廷からの奉幣も絶えた大和神社は、国家祭祀の神社から大和郷9か村(新泉・成願寺・兵庫・長柄・岸田・佐保庄・三昧田・萱生・中山)の信仰に支えられる地域に根付いたお社として存続しました。

18世紀末に刊行された『大和名所図会』には、江戸時代中期の境内の様子が描かれています。

大和神社(『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会 巻四』)

本殿三社や境内社の他、神宮寺であった北之坊の庫裏や、上街道を行き交う人々の様子も描かれています。

明治に入ると神仏分離令に従って神宮寺であった北之坊は廃寺となり、建物は社務所に改装されました。

そして、1871(明治4)年に近代社格制度では最上位となる官幣大社に列せられると、再び国家祭祀の神社としての性格が強まり、近世以来神主を世襲した市磯氏は職を解かれ、仏教風の建築であった社殿も取り壊されて国費で新築されました。

神社の由緒から、明治国家から重視された結果と言えるでしょう。

戦後は国家の統制を離れ、再び地域に根差した神社に戻り、現在に至ります。

15世紀以前から続く大和神社ちゃんちゃん祭りは、旧大和郷9町の氏子が参加して催され、当社が地元の人々に支えられている姿を示す大規模な祭礼です。

ちゃんちゃん祭りは、風流行列で神社から御旅所へとお渡りする古くからの形式を現在まで伝える祭礼として貴重であり、2018(平成30)年に奈良県指定無形民俗文化財に指定されました。

境内

上街道の西側に面して境内が広がります。

一の鳥居

こちらが一の鳥居で、駐車場は鳥居から境内に入ってすぐ、参道の南側にあります。

鳥居に向かって左(南)側に立つ社標の台石は、もともと鳥居の正面に設置されていたものです。

大和名所図会』にも描かれているこちらの台石の大きさは、大和神社から上街道を700mほど南下した場所にある小字・市場の御旅所にある神輿渡御の際に使われる台石とほぼ同サイズ。

1407(応永14)年に寄進されたもので、もともとは祭礼の際に神輿台として使われていたものです。

明治に入って一度市場の御旅所に移されましたが、1893(明治26)年に社標が建立された際に、その台石として転用されたとのこと。

 

一の鳥居を入り駐車場を過ぎると、日清戦争に従軍した旧朝和村(旧大和郷で現在の朝和小学校校区とほぼ一致)の出征者54名の姓名を刻んだ記念碑が建っています。

日清戦争終結の翌1896(明治29)年に村民たちによって建立されました。

二の鳥居

一の鳥居から200mほど西に進むと二の鳥居です。

二の鳥居から本殿までさらに100mほどあります。

鎮守の森をまっすぐに延びる参道はマイナスイオンいっぱいで、歩くと大変心地いいです。

本殿

こちらは拝殿。

1874(明治7)年に仏式の建築を取り壊して新たに造営された建物です。
官費で建造されたこともあり、非常に立派な拝殿。

また大和神社では2011(平成23)年から2017(平成29)年にかけて、本殿をはじめとした境内各社殿の大修理が行われたため、どちらの建物も外観が整っています。

 

拝殿には大和大明神の額がかけられていました。

奥に見えるのが本殿三社を囲む玉垣と中門。

本社三殿は玉垣に覆われて屋根しか見えません。

中殿に日本大国魂大神、左殿(向かって右)に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、右殿(向かって左)に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られています。

日本大国魂大神は、先述のとおりかつては天照大神とともに宮中で祀られていたと伝わる神で、大和国の地主神、あるいは大国主神と同一神とする説もあります。

八千戈大神は大国主神の別名で、御年大神はいわゆるお正月に各家庭にやってくる年神様。

現在のご祭神は三柱とも国津神地祇)です。

 

境内社

本殿の他にも多くの境内社があります。

御子神

二の鳥居をくぐってすぐの場所にあるのが、増御子(ますみこ)神社

祭神は猿田彦神天鈿女命の夫婦二柱と初代神主である市磯長尾市(いちしながおいち)。

猿田彦神は道の神、旅人の神として知られますが、ちゃんちゃん祭りでは御渡りの先導役となります。

境内で最も出入口に近い場所でお祀りされているのも、そのためでしょうか。

 

高龗神社(たかおおかみじんじゃ)

本殿の南隣に鎮座しているのが高龗神社です。

龗(おかみ)とは龍の古語なので、要するに龍神様になります。

大和郷は北隣の布留郷と同様、地理的に水源に乏しく古代からしばしば水不足に苦しめられたエリアでした。

そのため祈雨の神として大和神社境内社の中でも特に篤い信仰を受けてきたお社です。

 

こちらは雨師の磐座

雨師とは雨の神になります。

背後の大黒様は2023(令和5)年に奉納されたとのことで真新しいです。

 

本殿は1950(昭和25)年の台風(おそらくジェーン台風)で半壊したとのことですが、2005(平成16)年に建て替えられたとのことで、真っ白な漆喰に朱が映える美しい社殿でした。

 

丹生川上神社との関係

高龗神社について、大和神社のHPでは「丹生川上神社の本社」とあり、『天理市史』の記述にも「吉野郡丹生川上神社は、当社の神霊を勧請して分祀したもの」(『天理市史 上巻 改訂』P693)とありました。

初耳だったので現在三社ある丹生川上神社の方の史料をあたって裏取りしようとしたのですが、吉野側では大和神社についての記事が全く見当たりません。

もっとも丹生川上神社は、応仁の乱で朝廷からの奉幣が途絶えた15世紀以来、正確な鎮座地が忘れられてしまい、現在丹生川上神社となっている三社も上社(現川上村)は「高龗神社」、中社(東吉野村)は「蟻通神社」、下社(現下市町)は「丹生大明神」と江戸時代までは全く異なる社名で、吉野側の記録に何も残ってないのも当然かもしれません。

とはいえ、違和感がぬぐえずよくよく調べてみると、吉野の丹生川上神社が高龗神社から分霊された別宮であるとする根拠史料は、1167(仁安2)年に大和神社の祝部大倭直盛繁という人物が著したとされる『大倭神社注進状』であることが分かりました。

『大倭神社注進状』は平安時代末期の文書として後世の史家に評価され、『群書類従』にも収められている史料ですが、実は18世紀中頃に活動した在地神道家・今出河一友の創作物、いわゆる偽書であると指摘されている文書だったのです。

延喜式』巻三、神祇三の丹生川上神社の項には「凡奉幣丹生川上神者。大和社神主随使向社奉之。」とあり、10世紀頃に丹生川上神社大和神社の間に深い関係があったのは事実のようです。

『大倭神社注進状』でもこの『延喜式』の記述を引用しているのですが、続けて「是丹生川上神社為当社之別宮也」と加筆しており、オリジナルの『延喜式』にはないこの記述が、丹生川上神社が高龗神社の別宮である根拠となっていると考えられます。

全てが荒唐無稽な作り話ではなく、歴史的事実や信憑性の高い史料を織り交ぜて記述するのは偽書作成の常套手段で、『大倭神社注進状』における丹生川上神社に関する記述もその典型と言えます。

また、由緒の創作に盛り込む神社として、近世には鎮座地不明となり反証が困難な丹生川上神社をチョイスした点も、容易に偽書と看破されまいとする今出河一友の巧妙さが強く感じられますね。

ちなみに江戸時代、由緒書や古文書偽造の罪は、死刑になる重罪でした。

そのため簡単にはバレない工夫の他、万一バレても「ただの落書き」と言い訳できるよう、わざと同時代の書札礼を無視した書式にするなど、専門家が見れば偽書と分かる書き方にしてあることが多いとのこと。

 

江戸時代、寺社が復興を図る上で「由緒書」が必要不可欠であり、各地で多くの偽書が作成されました。

天正の火災で中世以前の文書をほとんど喪失していた大和神社も、神社の復興のために口伝や噂レベルの伝承ではなく、「由緒正しい正伝」を求めたのでしょう。

『大倭神社注進状』もそういった希求に応えて生まれた偽書の一つでしたが、その内容が「そうあってほしい史実」として後世の人々に受容され、作成から約300年を経て現在では信仰や神事の根幹をなす大事な伝承のひとつになっています。

偽書」と聞くと「歴史を捏造して真実を曲げるもの」であるとか、「史料的に価値のないもの」といったネガティブなイメージが付きまとい、「無価値」で有害なものと考えられがちです。

たしかに「偽書」の内容を実際の史実として研究することは無意味で時間の無駄だと思います。

しかし、「偽書」の内容がどのような経緯で作成され、どのように人々に受容されていったのかを知ることは、地域の歴史を理解するうえで大きな意義があり、「偽書」も重要な史料といえます。

また、各地で多くの地域社会がその伝承とともに消えていく中で、伝承が史実として地域に受容され、そこから積み重ねられてきた歴史と伝統にこそ誇るべき価値があり、伝承が「偽書」に基づくものであることは、信仰への誇りを損なうものでは全くありません。

ただ、自治体史である『天理市史』にあたかも確定的な史実であるように記述されているのは、歴史学的に信憑性の薄い伝承に自治体がお墨付きを与えることになりかねないので、やや問題があるかなと思います。

次回改訂されることがあれば、「そういう伝承がある」くらいの紹介にとどめるのが良いかもしれませんね。

 

近年、高龗神社では古伝に基づいて復興された神事もあるとのことで、長年地域で大切に守られてきた祈りの場が活気づくのは、これからも地域の伝統が引き継がれていく点でうれしく感じています。

 

さて、今出河一友という人物を私は今回初めて知ったのですが、『大倭神社注進状』の他、石上神宮大神神社といった古社の由緒も作述しているとのこと。

最近↓のような研究書も刊行されていて興味が尽きないのですが、なかなか手が出ないお値段です(泣)

※偽文書について興味のある方は江戸時代の偽書「椿井文書」についてご紹介した下記記事も是非ご一読ください。

 

朝日神社・事代神社・厳島神社

高龗神社の南側に右から朝日神社事代神社厳島神社が並んで鎮座しています。

朝日神社の祭神は朝日豊明姫神で、もとは大和神社から上街道を1kmほど北へ進んだ街道沿いにありました。

日本三代実録』の869(貞観11)年の記事にその名が現れる古社ですが、後年廃れて小祠だけが残り、朝日山円通寺の寺僧が管理していたとのこと。

その後、1875(明治8)年に円通寺も廃寺になってしまい、当地に移されました。

事代神社の祭神は事代主神で『元要記』によれば弘法大師により三輪の市から勧請されたと伝わります。

厳島神社の祭神は市杵島姫命で、こちらも『元要記』によると天川から勧請されたとされます。

ちなみに『元要記』は1188(文治4)年に後鳥羽院により勅選されたとされる寺社の沿革が記載された史料です。

 

2015(平成27)年建立の万葉歌碑「好去好来」。

好去好来」は733(天平5)年に遣唐使として渡唐する多治比広成に、山上憶良が贈った歌で、日本大国魂大神をはじめとした神々の加護により無事に帰国できることを祈念する内容になっています。

ちなみに「好去」とは「さようなら」、「好来」とは「無事に帰る」を意味します。

歌の内容については、うるとら凡人さんの万葉集鑑賞ブログ『大和の国のこころ、万葉のこころ』で、詳しく紹介されていますので是非ご覧ください。

社務所(旧北之坊跡地)

境内北側の社務所は、神宮寺だった北之坊の跡で、江戸時代まで社僧が神社に奉仕していました。

明治の神仏分離で北之坊の建物は社務所に改造されました。

大和神社の神宮寺は北之坊の他、南之坊(観源坊)もありましたが、時期は不明ながら境内北側の兵庫へ移り、現在は神護寺という融通念仏宗の寺院になっています。

南之坊は宮池の南側にあったとされますが、『大和名所図会』にもその姿は見えず、江戸の中頃までには現在地に移転したと考えられます。

 

祖霊社と戦艦大和記念塔

参道の北側に鎮座しているのが祖霊社です。

1874(明治7)年、大国主神大和郷氏子の祖霊を祀るため、新たに創建された神社になります。

現在の祖霊社社殿は、本殿の改築時に日本大国魂大神を祀っていた中殿を移築したものとのこと。

神社のHPによると、当時官幣大社で祖霊社の設置が許可されたのは珍しい例であるとのことで、国家祭祀の神社であるとともに大和郷の郷社としての性格が強い神社であったことの現れとも言えそうです。

さて、祖霊社は本来大和神社氏子の祖霊を祀る境内社でしたが、1953(昭和28)年に坊ノ岬沖海戦で撃沈された戦艦大和戦没者が合祀され、1972(昭和47)年には坊ノ岬沖海戦で戦死した第二艦隊の戦没者も合祀されました。

 

大和郷とは一見無関係の戦没者が祖霊社に合祀されたのは、1942(昭和17)年に戦艦大和の艦内神社として大和神社の分霊が奉祀されたためです。

艦内に大和神社が祀られていたため、その乗組員を氏子と見做して祖霊社に合祀されたということだと思います。

祖霊社の傍らには「戦艦大和ゆかりの神社」と刻まれた石碑が建立されていました。

戦艦大和日本海軍最大の戦艦で、太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年12月16日に、大和級戦艦の一番艦として就航します(二番艦は武蔵、三番艦は信濃(後に空母に改装))。

当時、法令の定めは特にないものの、海軍の軍艦には艦名に因んだ神社を勧請して艦内神社を祀ることが通例化していました。

勧請する神社については、戦艦長門長門国一之宮の住吉神社であったように、国名が付された戦艦はその国の一之宮を勧請する例が多かったようですが、大和には大和国一之宮の大神神社ではなく、大和神社が勧請されます。

翌1942(昭和17)年の分霊後、全乗組員が参加する軍艦祭には三度に渡り大和神社宮司が出向いて奉仕しました。

ちなみに戦時中、大和の存在は極秘にされたため、一般の民間人が大和の存在を知るのは戦後のことです。

なので、大和を訪れた当社神職は戦中に大和の存在を知った数少ない民間人で、口外無用と厳しく口止めされていたことでしょう。

また、大和には艦内神社の他、艦長室に日本画の巨匠・堂本印象大和神社三社殿を描いた「戦艦大和守護神」という日本画が掲げられていました。

戦艦大和守護神」は大和の最後の出撃前に、火災の原因となる危険があるため持ち出され、奇跡的に残り、現在は海上自衛隊第1術科学校教育参考館に所蔵されています。

 

大和は太平洋戦争で各地を転戦しましたが、1945(昭和20)年4月、沖縄への突入攻撃を企図した天一号作戦の実行部隊・第二艦隊旗艦として出撃、4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖でアメリカ機動艦隊に捕捉され、航空攻撃により撃沈しました。

 

戦艦大和展示室

展示室内部

蔵の隣には、2011(平成23)年に建立された戦艦大和展示室があります。

中には奉納された大和の模型や、写真資料が展示されています。

 

龍王山の雨乞いの展示

大和関連の資料や模型の展示に混じって、なぜか「龍王山の雨乞い」についての解説が掲示されていました。

奈良盆地は古来から水源が乏しく、1987(昭和62)年に吉野川分水が完成するまで農業用水の不足が度々起こったため、田植え前に雨乞いを祈願して山に登るダケノボリという風習が、広く行われていました。

大和郷近辺でもダケノボリは行われ、龍王山山上の湧水池に龍王社を設けて、近年まで雨乞い行事が行われていたそうです。

龍王山山上の龍王社(写真は田龍王社)

雨乞いの祈祷はとんどを焚いたり火振りを行うことが多かったようで、龍王山近辺で広く伝承されている「じゃんじゃん火」という怪火の正体を、こちらの掲示板では、龍王山での雨乞いの火振りや、松明の行列を誤認したものではと推察されていました。

じゃんじゃん火は、「じゃんじゃん」という音を立てて現れると伝わるので、祭囃子の音と雨乞いの儀式の火を麓から事情の知らない人が見かけて錯誤したというのは説得力がありますね。

龍王山は戦国末期に没落した十市氏の居城で、悲劇的な滅亡した十市宗家の無念さに対する思いと山上の正体不明の火が結びつき、じゃんじゃん火は十市遠忠の怨念と信じられるようになったのかもしれません。

 

伊藤整一と戦艦大和の最期

展示の一角に戦艦大和沈没時の艦隊司令と大和艦長、そして大和型戦艦撃沈時の二人の艦長の写真が展示されていました。

右から、天一号作戦時の第二艦隊司令伊藤整、大和艦長・有賀幸作、武蔵艦長・猪口敏平信濃艦長・阿部俊雄になります。

伊藤整一中将は、一般に知名度が高いとは言えない人物ですが、この機会にぜひ知っていただきたい人物なので、最後に簡単ですがご紹介させていただきます。

こちらが伊藤の写真で、軍人というより学校の校長先生のような優しい風貌の人物です。※実際に戦中は長く海軍大学校の校長を兼任していました。

伊藤整一(Wikipediaより引用)

伊藤は、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官山本五十六と同じくアメリカに駐在武官として長期滞在経験をもつ、海軍きっての知米派将校で、山本からの信頼も厚い人物でした。

太平洋戦争開戦時には軍令部次長の職にあり、対米英開戦には反対の立場でしたが、開戦を止めることはできませんでした。

事前に前駐米武官だった横山一郎から、「必ず負ける」「うまくいっても日本は日清戦争以前の状況に戻る(実際にそうなりました)」との状況分析の報告を受けていただけに、開戦は伊藤にとっても無念だったことでしょう。

 

開戦後も軍令部次長を3年以上務め、内地で作戦指導の任に就いていましたが、1944(昭和19)年12月に第二艦隊司令長官となり、翌1945(昭和20)年4月、伊藤は大和による海上特攻作戦である天一号作戦の実行を命じられます。

この作戦は、沖縄に上陸した米軍に対して航空機による特攻作戦(菊水作戦)を実行するにあたり、大和が囮となって米軍迎撃機を引き付けることで特攻機に対する迎撃を緩和させることを主たる目的とし、沖縄本島まで到達した場合には大和を座礁させ、浮き砲台として陸上戦を支援、乗組員は陸戦隊として上陸戦闘を行うというものでした。

作戦成功の公算が極めて低い上に、参加者の生還が望めない作戦であったため、伊藤は当初納得しませんでしたが、伊藤と同じく本作戦に不同意ながら立場上伊藤を説得せざるを得なくなっていた参謀長・鹿龍之介の説得を受け命令を受領します。

伊藤は第二艦隊に着任したばかりで齢19の少尉候補生ら67名と若干の傷病兵を退艦させると、大和以下、軽巡洋艦・矢矧、駆逐艦雪風他7隻の第二艦隊計10隻は、4月6日沖縄に向けて出撃しました。

翌7日、沖縄攻略の任にあったアメリカ第五艦隊司令レイモンド・スプルーアンス大将は、沖縄に向かう大和を察知すると速やかに迎撃命令を出し、高速空母機動艦隊を率いるマーク・ミッチャー中将から坊ノ岬沖で大和発見の報を受けて攻撃の是非を問われると、アメリカ海軍史上最も短い作戦命令"You take them”.(「君がやれ」)を伝えます。

この時日米両艦隊の司令長官として対峙した伊藤とスプルーアンスですが、実は伊藤が駐米武官だったときに知り合い、深い親交を結んだ仲でした。

友人・知己が敵味方に分かれて殺し合う戦争の残酷さを物語る状況と言えるでしょう。

米軍艦載機の波状攻撃を受けた第二艦隊は壊滅的打撃を受け、大和も沈没を避けられない状況となると、伊藤は作戦中止を連合艦隊司令部へ具申し、被害の少なかった雪風、初霜、冬月の3隻の駆逐艦に生存者救助を命じて、自身は司令官室に入って沈没する大和と運命を共にしました。享年54。

坊ノ岬沖海戦で、大和だけでも約2700名が戦死し、第二艦隊全体では約4000名もの将兵が命を落としました。

しかし、大和沈没間際に伊藤から作戦中止の具申を受けた連合艦隊が、正式に作戦中止を命じたため、健在だった3隻の駆逐艦は沖縄へ向かうことなく転進し、生存者約1700名を乗せて佐世保に帰港することができたのです。

もし伊藤が最後に作戦中止を具申していなければ、残存の駆逐艦は作戦を続行し、第二艦隊は全滅して、さらに多くの犠牲者を出していたことでしょう。

伊藤は出航前に前途ある若者たちを退艦させ、作戦続行不可能と見るや作戦の中止を即座に判断しましたが、一人でも多くの将兵を絶望的な特攻作戦から生還させようと努めた伊藤の姿勢からは、無謀な作戦に対する反発と、預かった将兵の命を無為に失わせまいとする現場指揮官としての強い矜持を感じます。

 

さて、伊藤は天一号作戦で出撃する前に、妻・ちとせに一通の遺書を残していました。

海軍軍人らしい率直で簡潔な言葉から、伊藤の妻への思いやりや深い愛情があふれ出る一文を最後に紹介して終わらせていただきます。

 

親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心より感謝致候 いとしき最愛のちとせ殿

 

※伊藤の生涯とその家族については、下記のノンフィクションが詳しいので、是非ご一読ください。

 

次回の後編では、ちゃんちゃん祭りでお渡り神事が行われる、境外のスポットをご紹介します。

 

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』天理市史編纂委員会 編

『朝和村郷土誌』朝和村教育会

『延喜式 : 校訂 上巻』皇典講究所, 全国神職会 校訂

『神社の歴史的研究 第二 大倭神社注進状井率川神社記等の偽作』西田長男 著

『國學院雜誌 91(1)(994)』 國學院大學

伝説と文化財にあふれる山の辺の道の古刹・長岳寺~上街道散歩(4)

当ブログでは天理市内を中心に、上街道沿いの町並みや旧跡をこれまでいくつか紹介してきました。

今回ご紹介する長岳寺は、上街道沿いというよりは「山の辺の道」沿いと言った方が適当かもしれませんね。

奈良県天理市石上神宮黒塚古墳崇神天皇といった古代から続く神社や旧跡が数多く残る歴史ある地域ですが、県内の他の旧跡密集地帯とは違って、大規模寺院の空白地域になっています。

というのも、現在の天理市域は明治に起きた廃仏毀釈の動きが奈良県内でも激しかった地域の一つで、江戸時代まで残っていた古刹の多くが神宮寺だったこともあり、内山永久寺をはじめとした歴史ある寺院の殆どが廃寺となってしまったからです。

多くの古刹が姿を消していく中、長岳寺はその荒波を乗り越え、今では四季折々の花と紅葉の名所として、山の辺の道を散策する方々を中心に多くの参拝者が訪れる名刹となりました。

貴重な文化財や興味深い伝説に彩られた長岳寺の歴史と、現在の境内の様子をご紹介していきます。

平安時代から続く古刹・長岳寺

長岳寺の場所はこちら。

龍王山西麓、最寄駅のJR万葉まほろば線柳本駅からは徒歩20分ほどの場所にあります。

 

寺伝によると824(天長元)年に淳和天皇の勅願により弘法大師空海の開山され、平安時代の末までに多くの坊舎・塔頭寺院を有し、1225(嘉禄元)年には後に真言律宗を興す若き日の叡尊が修行するなど、大和でも有数の真言道場として知られました。

鎌倉時代末期の正中年間(1324~26年)には興福寺大乗院門跡の聖信が長岳寺住職を兼ねるなど中世から江戸時代までは興福寺大乗院の末寺でした。

長岳寺のあった楊本庄も中世は大乗院の荘園で、長岳寺塔頭の普賢院は大市庄(現桜井市箸中近辺)の下司職を務めています。

さて、長い歴史を誇る寺院が、火災や兵乱に遭うことは避けて通れず、長岳寺も例外ではありませんでした。

応仁の乱では1471(文明3)年に西軍の楊本庄領主・楊本氏が東軍の十市遠清から侵攻を受けた際、楊本氏と関係の深かった長岳寺も十市勢の攻撃を受けます。

1503(文亀3)年には原因が兵火か落雷、失火によるものか不明ながら、大規模な火災に見舞われ、境内一帯が灰燼に帰しました(「釜口仏閣以下払地炎上」(『大乗院日記目録』文亀三年二月十七日条))。

また、1506(永正3)年の赤沢朝経による2度目の大和侵攻でも占領された他、1565(永禄8)年には松永久秀筒井順慶の抗争で筒井方に寝返った龍王山城衆(十市氏家臣団か?)を攻撃するため出陣した松永氏筆頭家臣・竹内秀勝が本陣とするなど、相次ぐ兵乱で多くの堂舎が失われました。

寺領も武家の蚕食を受け、1580(天正8)年に織田信長の命で実施された差出検地では寺領300石を維持したものの、1585(天正13)年に豊臣秀長大和郡山に入り大和国が豊臣政権により直轄化され、大和国内の多くの寺社が領地の削減・没収の憂き目に遭い、長岳寺もついに全ての寺領を没収されます。

しかし秀吉の死後、関ヶ原の戦いの後に事実上の天下人となった徳川家康は、1602(慶長7)年に秀吉によって寺領を没収された大和諸寺院に、新たな所領を与えます。

家康による寺社領の回復には、秀吉によって不知行寺院となった寺社に新たな領地を与えることで、領地回復を期待する寺社の期待に応え、秀吉に替わる支配者、天下人として大和に有形無形の影響力をもつ寺社勢力の支持を取り付ける意図があったのでしょう。

この時に西大寺元興寺薬師寺といったかつての大寺も不知行状態を脱し、長岳寺も楊本に100石の寺領を得ることに成功しました。

江戸時代を迎えて太平の世になると境内の復興も進み、本堂を始めとした諸堂が再建されます。

諸堂の復活とともに塔頭寺院も再び増え、最盛期の安永年間(1772~81年)には寺坊が普賢院以下40か院を数え、続く天明年間(1781~89年)には普賢院、地蔵院など7か院が残りました。

1791(寛政3)年発行の『大和名所図会』に掲載された長岳寺は、ちょうど最盛期を迎えた頃の姿で、現在も残る本堂、大師堂の他、今は失われている愛染堂や不動堂、そして多くの塔頭寺院が描かれています。

釜口長岳寺『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会 巻之三より』

また、門前から延びる参道と上街道の交差点に建つ五智堂傘堂)まで描かれ、上街道沿いを往来する人々や柳本城下町の町屋が街道沿いに軒を連ねる様子まで見えますね。

戦国末期の寺領喪失を乗り越え、江戸時代に再建を果たした長岳寺でしたが、明治の廃仏毀釈により、再び存亡の危機に直面することになりました。

現在の天理市内で、江戸時代に寺領を有した寺院は長岳寺の他、内山永久寺(現杣之内町)、竜福寺(現滝本町)、在原寺(現櫟本町)、光明寺(現森本町)の五か寺がありましたが、内山永久寺、竜福寺、在原寺は明治に入って間もなく廃寺となり、本光明寺は廃寺は免れたものの、堂舎が1889(明治22)年頃に大和郡山市矢田山(矢田寺か?)に売却されてしまい、1900(明治33)年に当時廃寺となっていた田原本の勝楽寺跡へ移転することになります。

長岳寺は、中世以来本寺だった興福寺大乗院が、1868(慶応4)年に廃仏毀釈のあおりを受けて門跡が還俗、廃寺となったため、明治の初年に高野山の末寺となりました。

1873(明治6)年には寺禄が全て没収され、存続の危機に立たされます。

しかし、本寺が高野山になったことがプラスに働いたのか、1891(明治24)年頃には檀徒75人に加え、大師信仰の信者850人の支えを受けるようになり、塔頭寺院は全て消失したものの、天理市内の大寺では唯一現地で存続することができたのです。

 

門前の町並み

それでは長岳寺へ向かいます。

JR柳本駅から東に向かうと、龍王山が見えてきました。

布留川水系の水源地となる山で、戦国時代には山上に十市氏の居城である龍王山城が築かれていました。

龍王山城の紹介記事はこちらです。

長岳寺境内は龍王山西麓に広がります。

 

門前の上長岡(かみなんか)集落では、今も近世の面影を残す町屋や蔵が多く見られます。

集落内の金毘羅宮

大神宮の常夜灯の他、多くの石仏が集められています。

 

金毘羅宮を抜けるといよいよ長岳寺の境内。。。なんですが、まだまだ大門が見えません。

長岳寺の敷地面積は、龍王山中腹の奥の院から麓にかけて約4万平方メートル!

想像以上に広大な境内です。

下馬碑の近くにも多くの石仏が集められていました。

長岳寺境内

大門から旧地蔵院

ようやく大門が見えてきました。

1640(寛永17)年再建の長岳寺総門で、「肘切門」の異名を持ちます。

長岳寺の僧が、刀匠・尻懸則長(しっかけのりなが)に注文して持ち込まれた刀の切れ味を疑ったため、則長がこちらの大門の肘木を切り落としてその切れ味を示したという故事に由来しています。

以来、大門は「肘切門」、肘木を切り落とした刀は「肘切丸」と名付けられましたが、残念ながら肘切丸は長岳寺から持ち出されて現在消息不明とのこと。

尻懸則長は、鎌倉時代の刀鍛冶・大和伝五派のうち尻懸派を興した人物で、現在の天理市岸田町の上街道沿い、小字市場付近に住していました。

鎌倉時代の初代則長から、戦国時代まで、何名か則長を名乗っている人物がいるので、こちらの逸話がいつの時代かは不明ですが、江戸時代再建の大門の肘木は、切断された様子もなくしっかりと屋根を支えてくれていました。

 

大門をくぐると漆喰の白壁に挟まれた長い参拝道が100mほど続きます。

かつての塔頭はほぼすべて空き地になっていますが、往時の規模を実感できるアプローチの長さです。

 

こちらは楼門の手前にある庫裏で、旧地蔵院

元々普賢院の建物と考えられていましたが、解体修理で発見された棟札から地蔵院の建物だったことが分かりました。

かつて48もあった長岳寺塔頭の建築で、唯一現存している建物です。

ちなみに普賢院は1281(弘安4)年10月、若き日に長岳寺霊山院で真言密教を学んだ叡尊が経典を開講したのが始まりと伝わる塔頭で、長岳寺の中心的な子院でした。

普賢院が地蔵院の建物に移り、別に新たに地蔵院が建立されたとも伝わりますが、詳細は不明とのこと。

 

現在の建物は江戸初期1630(寛永7)年築で、唐破風の格式高い玄関と室町時代の様式を色濃く残した書院造で、国の重要文化財に指定されています。

鶴や孔雀など彩鮮やかな障壁画がすばらしい室内です。

小規模ながら、中央の樹齢400年を超える老松(姫五葉松)が見事な亀鶴庭園が縁側の先に広がります。

池泉鑑賞式庭園で、池のなかに組まれた石組が亀、姫五葉松を鶴に見立てたお庭とのこと。

 

縁側から庫裏と渡り廊下で接続されている旧地蔵院本堂延命殿です。

棟札から1631(寛永8)年に地蔵院本堂として建設されたことが分かっており、こちらも国の重要文化財に指定されています。

延命殿に安置されている普賢延命菩薩

大和十三仏霊場、四番札所の本尊とのこと。

長岳寺の仏像と言えば、本尊の阿弥陀如来像のイメージが強いですが、こちらの普賢延命菩薩像も力感にあふれ着色も鮮やかな仏様です。

作者や作成年代を調べてみましたが詳しいことはわからず、文化財指定も受けていませんが、お顔や象など細部の造作が美しいご本尊でした。

楼門

こちらの楼門は、かつて上層に梵鐘が吊られていた鐘楼門です。

上層は平安時代末期、下層は安土桃山時代の建築で、現存する日本最古の鐘楼門になります。

創建間もない頃の姿を今に伝える貴重な建築で国の重要文化財に指定されています。

華美な装飾がない、安土桃山時代以前の建築に特徴的なシンプルデザインが美しい門でした。

本堂

こちらは1783(天明3)年に再建された本堂です。

16世紀中頃の永禄年間に焼失したされるので、十市氏と松永氏の抗争で兵火にまきこまれたのかもしれませんね。

 

本堂には本尊である阿弥陀三尊像(阿弥陀如来像、観世音菩薩像、勢至菩薩像)多聞天増長天の国の重要文化財5体の他、愛染明王大威徳明王が安置されています。

本尊の阿弥陀三尊像は、平安末期の1151(仁平元)年の作。

当時流行の定朝様とは一線を画し、凛とした顔つきと深く刻まれた衣紋線や肉付きを強調した表現は、後の慶派の作風を先駆ける作品と評価され、玉眼が使用された現存最古の仏像で、国の重要文化財に指定されています。

多聞天像、増長天像は、もともと大神神社の神宮寺・大御輪寺(現大直禰子神社・桜井市)で祀られていた仏像で、10世紀から11世紀中頃の平安中期の作と考えられており、こちらも国の重要文化財

※二つの像が安置されていた大御輪寺については下記記事で詳しくご紹介しています。

大御輪寺は明治の神仏分離令で廃寺となったため、同寺の仏像は本尊の十一面観音像(現・聖林寺蔵)をはじめとして各地に移され、多聞天像と増長天像は長岳寺に移されました。

また本堂では、10月末から11月にかけ、寺宝の六道絵、いわゆる大地獄絵が開帳・公開されます。

9幅の構成の長岳寺六道絵は京狩野の祖・狩野山楽によって安土桃山時代に描かれた大作で、奈良県の指定文化財となっています。

公開中は週末に住職による絵解きも行われます。

※六道絵と絵解きの様子は下記動画をご覧ください。

住職の絵解きは、事前に申し込みをすれば、平日も行っていただくことが可能とのことで、私が訪れた時もたまたま団体さんで参拝されている方々向けに絵解きをされていて、一緒に六道絵のお話を聞くことができました(ラッキー!)。

長岳寺本堂の血天井伝説

さて、長岳寺本堂・廻縁の天井板には、指で掻いたような赤黒く変色したシミが、所々に見えます。

こちらの天井には、いわゆる血天井の伝承があります。

伝承では、これらのシミは戦国時代に長岳寺境内で発生した十市氏と松永氏の戦闘で負傷した武士たちの血痕で、血まみれとなった縁側の床板を天井に張り替えたものとされます。

天井の片隅に足形がはっきりと残っていて、本堂に駆け込んできた武士のもの、あるいは、戦国武将の十市遠忠が、松永久秀と切り結んだときに付いたものとも伝わります。

この足形から、武士の亡霊が現れて天井を逆さまに歩くといった、恐ろしい怪談も残っています。

 

しかし、現在の本堂は永禄年間に焼失してから200年ほどたった江戸中期に再建されたもので、戦国時代の床板を再建時に転用しているとは考えづらいかと思われます。

また十市氏と松永氏が抗争した永禄年間の当主は遠忠の子・遠勝で、遠忠は松永久秀の侵攻に先立つこと14年前の1545(天文14)年に死亡しており、長岳寺に着陣した松永方の将も先述のとおり久秀の重臣・竹内秀勝であることから、遠忠と久秀が直接対峙することは不可能なので、遠忠と久秀が切り結んだというのは、後世に作られた伝承かと思います。

素手や素足で木材に触れて汗が付着すると、汗に含まれる脂分が酸化して変色し、手形や足形が浮かび上がるケースがあるので、長岳寺の血天井も、再建時に活躍した大工さんたちの手形や足形が、後年天井に浮かび上がってきたものなのかもしれません。

 

龍王山付近では、遠忠の怨念ともされるじゃんじゃん火の伝承もあることから、戦国末期に悲劇的な没落を遂げた十市氏の記憶が現地で語り継がれ、長岳寺の天井に残った不気味な手形や足形から、血天井にまつわる伝承も形作られていったのではないでしょうか。

※じゃんじゃん火の伝説については下記記事で詳しくご紹介しています。

 

大師堂

こちらは大師堂弘法大師の木造坐像と不動明王像が祀られています。

1645(正保2)年の再建で、奈良県指定の有形文化財

江戸時代、庶民の間にも弘法大師信仰が広まり、空海は「お大師さん」として親しまれました。

明治の廃仏毀釈では民衆の支持や信仰を篤く受けていたか否かが、寺院存廃を分けた大きな要因になったので、民衆人気の高い弘法大師ゆかりの霊場であったことは、長岳寺の存続に大きな要因になったんじゃないでしょうか。

 

十三重塔

放生池の東側にある十三重塔は、鎌倉時代の石塔で、叡尊の供養塔と伝わります。

※自分で撮影した写真がピンボケだったのでWikipediaから写真を引用させていただきました。

十三重塔(Wikipediaより引用 撮影者:663Highland)

最上層が外されて土台のそばに置かれており、十二層の石塔になっています。

微妙に湾曲しており、大きな地震があったら崩れてしまいそうです(汗)

 

弥勒石棺仏~弘法大師

境内東側斜面に上へと昇る階段があります。

通路に沿うように小さな祠がありますが、八十八か所の写し霊場(ミニ遍路)になっています。

斜面中腹に、2mほどの大きな石仏・弥勒石棺仏があります。

石棺の蓋に彫られた石仏です。

こちらの石仏以外にも、長岳寺境内には鎌倉時代から江戸時代にかけての石仏が、多数設置されていました。

 

斜面麓の弘法大師

大和名所図会』を見ると、江戸時代までは不動堂があった場所になります。

おそらく明治にかけて堂舎は消失し、現在大師堂に安置されている不動明王像が祀られていたのでしょう。

 

鐘楼~放生池

放生池の南側に「一願成就の鐘」が吊るされた鐘楼があります。

家族の健康を願って、一打させていただきました(合掌)

 

さて現在放生池の南側エリアには、鐘楼以外の建物はありませんが、江戸時代まで長岳寺の主要な堂宇の一つだった愛染堂がありました。

愛染堂は鎌倉時代末期の嘉暦年間(1326~28年)に建立されましたが、その後焼亡したらしく(1503年の火災か?)、1550(天文19)年、1576(天正4)年に再建の勧進が行われ1694(元禄7)年にようやく再建されました。

以後、明治まで残ったものの1885(明治18)年に火災で焼失し、その後仮堂が一時設けられましたが現在はその仮堂も姿を消して、本尊の愛染明王像は現在本堂に安置されています。

かつて愛染堂のあった区画には立派な石垣が残り、往時の威容の面影をわずかに残します。

放生池越しに見える本堂、楼門。

阿弥陀如来がご本尊である長岳寺境内は、池を中心とした浄土式庭園で池越しに見る本堂は、長岳寺の代表的な風景です。

紅葉の季節はさらに美しいですね。

紅葉の他、ツツジなど四季折々の花が全ての季節で迎えてくれます。

 

五智堂

さて、長岳寺境内から西へ1kmの境外地にも長岳寺の建造物があります。

参道からまっすぐ西へ向かい、上街道との交差点にある五智堂です。

 

こちらが五智堂。

中央の心柱と四方の細い柱で屋根を支える構造で、「堂」と呼ばれますが板壁がなく、全面吹き抜きという特徴的な外観の建築です。

心柱で構造を支えているという点では、原理的には仏塔と同種の建物と言えるかもしれないですね。

形状が傘に似ていることから「傘堂」、どの方向から見ても正面にみえるため「真面堂」とも呼ばれています。

密教の五つの智慧如来に当てはめたものを五智如来と呼びますが、中央の心柱を大日如来(法界体性智)に見立て、方角ごとに北・不空成就如来(成所作智)、南・宝生如来(平等性智)、西・無量寿如来(妙観察智)、東・阿閦如来(大円鏡智)の梵字を刻んだ額を掛けて、お堂全体で五智如来を表していることから五智堂と名付けられています。

五智堂 北・東・南・西の梵字

正確な建築年は不明ですが鎌倉時代末期の建築で、なんと国の重要文化財

奈良県下ではお馴染みの、「道端にしれっと重文建築」の一つです(笑)

長岳寺では楼門と並ぶ古建築で、このような建築が人の入れ替わりや往来の激しい街道沿いに残っているのは、奇跡としか言いようがありません。

上街道から長岳寺へ向かう参道との辻にあったため、参詣者の目印になっており『大和名所図会』でも「傘堂」の名でしっかりと紹介されています。

 

一本の心柱で屋根の殆どの荷重を支える珍しい建築で、私は他に同様の建物を見たことがありません。※類似の建築としては葛城市の當麻寺のそばにある「傘堂」があるそうです。

中々お目にかかれない珍しい建物ですので、長岳寺にお越しの際はこちらも是非ご覧いただきたいです。

 

基本データ

■住所:奈良県天理市柳本町508

■拝観時間:9:00~17:00(年中無休)

■拝観料:

・大人:400円

・大学生、高校生:350円

・中学生:300円

・小学生:250円

・小学生未満:無料

■電話番号:0743-66-1051

公式ホームページ

■駐車場あり

■交通アクセス

・電車:

JR万葉まほろば線柳本駅から徒歩約20分

・バス:

奈良交通 上長岡(かみなんか)バス停から徒歩5分

天理駅から桜井駅方面、桜井駅からは天理駅方面に乗車。

 

周辺情報

■柳本陣屋、黒塚古墳

織田氏1万石の本拠であった柳本陣屋と、陣屋の堀としても利用された3世紀後半の古墳・黒塚古墳の紹介記事です。

 

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』天理市史編纂委員会 編

『天理市史 史料編 第1巻 改訂』天理市史編纂委員会 編

『天理市史』天理市史編纂委員会 編

『大乗院寺社雑事記 第12巻』

『慶長七・八年付大和諸寺宛徳川家康判物・朱印状の発給年次』林晃弘(日本史研究 (602))

 

次回はこちら。

行基、忍性 二人の菩薩が眠る寺・竹林寺~生駒谷散歩(2)

奈良県生駒市近鉄生駒駅より南側、近鉄生駒線の沿線はかつて生駒谷十七郷と呼ばれた中世以来の郷村が集中するエリアで、新興住宅街が目立つ生駒市内にあって、古くからの街道と集落や旧跡が残っています。

前回記事では生駒谷十七郷の氏神として、生駒市壱分町に鎮座する往馬大社をご紹介しました。

往馬大社から600mほど南にある竹林寺は、奈良時代の僧・行基鎌倉時代の律僧・忍性が葬られた地として知られます。

大衆の中に分け入り、困窮する人々を救済する社会事業を先駆的に進めた行基と忍性、二人の高僧が葬られた竹林寺の歴史は南都仏教の盛衰と共にありました。

その歴史と現在の様子をご紹介します。

 

竹林寺とは

竹林寺律宗寺院で、第二阪奈道路の壱分ICの南西、生駒山東麓の丘陵地にあります。

竹林寺周辺図(国土地理院HPより作成)

暗越奈良街道や清滝街道からも近く、古代から交通アクセスも良好な場所に立地していました。

寺号の由来は中国の文殊菩薩信仰の聖地・五台山大聖竹林寺で、正確な創建年は不詳ですが、奈良時代の高僧・行基が704(慶雲元)年もしくは707(慶雲4)年に生駒山麓に移って営んだ生馬仙房(草野仙房)が前身と考えられています。

行基菩薩坐像(重要文化財) 唐招提寺蔵(竹林寺が明治に廃寺となったあと移された)
(『南都七大寺大鏡 第32集 唐招提寺大鏡 第5册 唐招提寺大鏡. 第1-8冊』 東京美術学校 編より)

行基は668(天智天皇7)年に河内国大鳥郡(現大阪府堺市)に生まれ、682(天武天皇11)年に出家・得度し、飛鳥寺薬師寺法相宗の教学を学びました。

705(慶雲2)年に病身の母を呼び寄せ、共に大和国添下郡佐紀郷(現平城宮跡付近)に佐紀堂を構えて暮らしていましたが、平城京の造営にともなって退去を命じられ、移り住んだ先が生馬仙房とされます。

行基は710(和銅3)年に母が亡くなった後、民衆の中に入って近畿地方を中心に貧民救済や治水土木事業を推進し、当時一般民衆には解放されていなかった仏の教えを人々に説きました。

行基のもとには僧俗問わず多くの人が集まり、教団の肥大化を警戒した朝廷の弾圧を受けることになりますが、その活動が反政府、反権力的な性格を帯びていないことが分かってくると、朝廷は行基の優れた社会事業の推進能力をむしろ積極的に利用しようと方針を転換。難航していた東大寺の大仏造営を軌道に乗せ、引き続き多くの社会事業を進めました。

行基は大仏造営中の749(天平21)年、喜光寺で81歳の生涯を終え、その遺骸は生駒山で荼毘に付されて生馬院(竹林寺)に葬られます。

喜光寺

行基はその死後、朝廷からは「菩薩」の諡号が送られた他、生前多くの困窮した民衆を救済したことから文殊菩薩の化身と崇められ、行基自身が信仰の対象となりました。

行基の没後まもなく竹林寺は荒廃し、鎌倉時代までには唐招提寺の末寺となってかつての寺勢は失われていましたが、1235(文暦2)年に行基の舎利瓶が境内の廟所から発見されたことが、復興の切っ掛けとなります。

銅製行基舎利瓶残片(奈良国立博物館所蔵)

この時発見された舎利瓶と銅製墓誌は再度埋められましたが、後に墓誌の残片が江戸末期に発掘され、現在は重要美術品「銅製行基舎利瓶残片」として奈良国立博物館に所蔵されています。

舎利瓶の発見を本寺・唐招提寺へ報告した寂滅行基廟の整備を進め、文殊信仰、行基信仰の聖地として竹林寺の復興を進めました。

寂滅の努力もあり、竹林寺には鎌倉時代の南都仏教再興の中心人物たちが次々と集まって、寺勢が興隆することになります。

 

行基廟が整備されて間もない1235(嘉禎元)年、早くも同寺を訪れたのが若き日の忍性でした。

後に生涯の師となる叡尊とともに戒律復興運動の中心人物になる忍性ですが、この時はまだ官僧となったばかりの十代の若者でした。

母の影響で熱心な文殊信者であった忍性が、文殊の化身とされた行基の遺徳を慕い修行の地と選んだ点からも、復興間もない竹林寺が同時代に行基ゆかりの寺として注目されていたことがうかがえます。

※忍性について詳しく知りたい方は下記記事をご覧ください。

その後6年間にわたり忍性は竹林寺へ月詣を続けました。

後に幕府首脳である北条一門の帰依を受け鎌倉極楽寺の住職となった忍性は、行基と同様広く困窮する民衆の救済に尽力し、1303(乾元2)年に死去すると遺言でその舎利の一部は竹林寺に葬られることになります。

また竹林寺には、1236年(嘉禎2)年に東大寺で自誓受戒する直前の叡尊が訪れて律を学び、1241(仁治2)年には法相教学の大家・良遍興福寺での栄達を倦んで同寺に隠棲しました。

良遍は、叡尊とともに戒律復興を進め、後に唐招提寺中興の祖となる覚盛の影響を受けて自身も戒律復興に取り組み、竹林寺を清浄戒律の道場とします。

竹林寺の最盛期は、良遍の弟子で東大寺戒壇院院主となっていた円照が寂滅の跡を継いで住職となったときで、四方を鬼取山、般若窟、矢田山、信貴山に囲まれる生駒の地を中国の五台山に見立て、文殊信仰の拠点としての地位が確立されました。

 

奈良時代行基ゆかりの寺として興り、鎌倉時代に南都仏教の復興とともに興隆した竹林寺ですが、鎌倉幕府滅亡後の南北朝の戦乱と室町時代に南都仏教が衰退すると、再び寺勢が衰えます。

戦国時代には1561(永禄4)年に松永久秀の生駒谷焼討で堂宇が焼亡したと見られ、一時無住となるなど大打撃を受けました。

江戸時代初期の1649(慶安2)年に唐招提寺第六十一世・智教上人が文殊堂再建に着手し復興されましたが、明治にはついに無住となり、1874(明治7)年いったん廃寺となります。

その後、100年以上寺地は放置されましたが、行基1250年忌を目前にした1997(平成9)年に唐招提寺によって再び堂舎が再建・整備されました。

 

竹林寺境内

それでは、現在の竹林寺の様子をご紹介します。

竹林寺は最寄駅の近鉄生駒線・一分駅から南西へ1Km弱の場所にあり、徒歩15分ほどで到着します。

文殊山と呼ばれる丘陵地の上にあります。

こちらがお寺の南側にのびる参道。

石畳の参道前に、3台ほど駐車可能な専用駐車場があります。

 

参道を登ると、石段の手前で東側に竹林寺古墳が見えてきました。

築造年代は古墳時代前期の4世紀中頃と推定され、被葬者は当時生駒谷を支配した豪族とされています。

前方部が破壊されているので円墳に見えましたが、生駒谷では唯一の前方後円墳とのこと。

生駒谷一帯を見下ろせる位置にあり、当地の支配者の墓が築かれるには適地と言えるでしょう。

 

さらに石段を登ります。

石段を上がると本堂と庫裡が見えてきました。

再建から25年以上経ちますが、白壁がまだまだ美しい堂舎です。

基本的には無住とのことですが、地元ボランティアの皆さんの協力もあってか、手入れが行き届いて清浄が保たれている境内でした。

行基の月命日である毎月2日には唐招提寺の僧侶により法要が開かれるとのこと。

ちなみに石段を登って右に進むと行基墓、左に進むと忍性墓へと通じています。

 

まずは行基に向かいます。

一見何もないように見えますが、一辺10mほどの方形墳丘墓です。

火葬後に行基の舎利が埋葬されたと伝わる場所で、1921(大正10)年に国指定史跡となりました。

行基の廟所があったことで、竹林寺文殊信仰の中心地となったことを考えると、竹林寺の始まりの場所と言えるでしょう。

 

こちらは忍性墓です。

元は行基墓と同じく約10m四方の方形墳丘墓で、墳丘の上に瓦葺の木像建造物が建てられていました。

忍性は1303(乾元2)年7月に世を去り、その遺骨は鎌倉極楽寺と故郷にほど近い額安寺(現大和郡山市)、そして敬愛する行基の廟所である竹林寺に分骨、埋葬されました。

※額安寺の忍性墓については下記の記事をご参照ください。

1986(昭和61)年の発掘調査で墓穴から埋葬された銅製骨蔵器が発見され、既に発見されていた極楽寺、額安寺の忍性骨蔵器と全く同型で銘文もほぼ一致していることから、伝承のとおり忍性の遺骨は所縁ある3つの寺に分骨されたことが分かりました。

忍性の銅製骨蔵器は3点とも国の重要文化財に指定されています。

ちなみに現在竹林寺の忍性墓に設置されている五輪塔は、発掘調査終了後の1988(昭和62)年に建てられたものです。

発掘調査前の忍性墓には円盤形の石が積まれて墓塔が組まれていました。

かつての墓塔の石材は、現在の五輪塔の奥に積まれています。

五輪塔残欠(忍性墓塔)というこちらも立派な文化財なのですが、訪問時は案内板もなく無造作に積まれて放置された石材のように見えました^^;

忍性墓の周囲には他にも古いお墓が数基あり、良遍や智教といった竹林寺にゆかりの深い僧たちの墓もあるとのことですが、案内板もなくどちらのお墓かは判然としませんでした(残念!)。

 

本堂の方に向かいます。

まだまだ新しい本堂には本尊の文殊菩薩騎獅像行基菩薩坐像が祀られています。

廃寺後、本尊と行基菩薩坐像は本寺である唐招提寺に移されていましたが、本堂再建に伴って文殊菩薩騎獅像と複製の行基菩薩坐像が安置されました。

文殊菩薩騎獅像は獅子像が1561(永禄4)年の造立で、文殊菩薩像などは欠損していたらしく近代に作られたものです。

獅子像の造立年から、松永久秀による焼討(1561年5月25日)の前後に作られたものということになり、焼失をかろうじて免れたものなのかもしれないですね。

ちなみに元々竹林寺に安置されていた行基菩薩坐像は国の重要文化財に指定され、引き続き唐招提寺に安置されています。

なお、普段は本堂の中を拝観することはできませんが、毎月2日は行基の月命日の法要では開扉され、直接お参りすることができるそうです。

 

本堂の裏には役小角堂もあります。

小角の諡号である「神変大菩薩」の石碑があり、銘に「天保四年」とあるので江戸末期の1834年に建立されたもののようです。

役行者と前鬼、後鬼像が小さなお堂に安置されていました。

生駒で役行者と言えば竹林寺からもほど近い鬼取山で、前鬼、後鬼を改心させ、従者にしたという伝説が非常に有名で、生駒山地は古来より修験道が盛んな地域でもあります。

ちなみに役行者も江戸時代、神変大菩薩諡号を授与されており、竹林寺行基、忍性、役行者と菩薩号をもつ三人の修行者と、身近に触れ合える霊場ということになります。

奈良時代に南都仏教の興隆と共に創建され、平安時代に一時廃れた後は、鎌倉時代の戒律復興と文殊信仰の隆盛により全盛期を迎え、室町時代には南都仏教の衰退とともに衰えて、明治にはついに廃寺となった竹林寺は、大きな時代の流れとともにその様相を変えてきた寺院です。

個人主義能力主義の浸透により個々人が大きなストレスを抱える現代社会において、竹林寺のように心静かに自分と向き合い、仏様に手を合わせてる場所が復活を遂げたのも、時代の流れに沿った出来事なのかもしれません。

 

竹林寺生駒山周辺の散策で、ぜひ足を運んでいただきたいスポットです。

参考文献

『史朋 (5) 中世の文殊信仰と竹林寺』 佐々木晶子

『奈良朝寺院の研究』 福山敏男 著

『大日本仏教全書 119』 仏書刊行会 編

往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)を参詣する。近世以前の生駒の歴史・生駒谷散歩(1)

奈良県生駒市は1914(大正3)年の大阪電気軌道(現近鉄)・生駒駅が開業してから、最初は宝山寺参道沿いに県下最大の花街が発達、大阪近郊の歓楽地となりましたが戦争で花街が下火になると、戦後は大阪のベッドタウンとして発展を遂げた町です。

※現在の生駒市中心街の発展史について詳しくは下記の記事をご参照ください。

古社寺を始めとした文化財や、奈良まちや今井町といった古くからの町並みが多く残る奈良県内にあって、生駒市は近代に発達した住宅街というイメージが強く、旧跡、史跡のイメージが湧かない方も多いんじゃないでしょうか。

しかし、生駒もやはり奈良県の町。

市中央部・生駒山麓の壱分町に鎮座する往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)こと往馬大社(通称・生駒神社)は、生駒山神奈備御神体)とした古式の信仰を守る日本有数の古社なんです。

往馬大社は創建年は不詳ながら、延喜式神名帳(927(延長5)年編纂)にもその名が見える古社で、生駒谷十七郷氏神として地域の精神的紐帯の中心を担い、大切に守られてきました。

また、古来より天皇家とも所縁の深い神社で、現在もその関係は続いています。

 

実は筆者は往馬大社の近くにある高校に通っていたのですが、在学中はお参りする機会もなく、どうして現在の市中心部からは少し南に離れたこの場所に「往馬(いこま)」の名を冠する神社があるのか、ずっと気になっていました。

高校卒業から30年足らず経って参拝する機会に恵まれ、神社や周辺地域のことを調べましたので、現在の様子も含めてご紹介します。

往馬大社と周辺地域の歴史について知ると、「新興住宅街」とは違う原風景の生駒が頭の中に思い浮かんできます。

 

往馬大社とは

こちらは、1791(寛政3)年刊行の大和名所図会で紹介された往馬大社の図。

大和名所圖會 巻之3 往馬神社』 奈良県立図書情報館蔵

ほぼ現在の境内と同じ姿で描かれています。
創建年は不詳ですが『総国風土記』の記事の458(雄略天皇3)年が史料に見える最古の記載とされています。

もっとも『総国風土記』は17世紀の初めに『風土記』を擬して編纂された偽書と一般的に評価されているので、その記述を鵜呑みにするわけにはいきませんが、正倉院文書の『大倭國正税帳』(730(天平2)年)に当社の名が見え、自然の山や滝、岩などを神奈備として祀る古神道の信仰形態を持つ点からも、間違いなく凡そ1300年以上の歴史を持つ古社であることは間違いないでしょう。

主祭神生駒山を神格化した伊古麻都比古神(いこまつひこのかみ)、伊古麻都比賣神(いこまつひめのかみ)の男女神二柱が元々祀られていましたが、鎌倉時代八幡信仰の隆盛で八幡神である神功皇后仲哀天皇応神天皇神功皇后の父母の五柱も併せて祀られ生駒八幡宮と呼ばれるようになりました。

江戸時代になると元々の主祭神である男女神二柱は忘れられ、替わって牛頭天王と八王子が祀られるようになりましたが、1875(明治8)年旧名に復す形をとって現在の社名となり、牛頭天王と八王子が祭神から外されるとともに、生駒山の男女神二柱が主祭神として復活します。

 

伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神は古来から火神として信仰されており、風神の龍田大社三郷町)、水神の廣瀬大社(河合町)とともに朝廷からの崇敬も厚く、歴代天皇が即位に際して行う大嘗祭斎田点定の儀(亀甲を焼いてヒビの入り具合から大嘗祭で用いる新穀の産地を決める儀式)で浄火を起こす火燧木(ひきりき)は、往馬大社から献上される習わしで、今上天皇の即位に際しても境内の神木・上溝桜(うわみぞざくら)が献上されています。
※斎田点定の儀の動画。

ちなみに境内の神木・上溝桜は、祓戸社のそばにあります。

また、毎年10月の第2日曜(元は10月10日)の例祭は「火祭り」と呼ばれ、神前の火から採火した松明を若衆が抱えて石段を全速力で駆け降りる「火取り」行事が特色の祭事です。

平安時代には神仏習合が進み、11もの神宮寺があったと伝わりますが、明治の神仏分離令で神宮寺は廃寺となりました。

ただ、江戸時代の『大和名所図会』を見ても境内に仏塔等は見えず、近世までに神宮寺の力は弱まっていたのかもしれません。

 

往馬大社境内

それでは、往馬大社の境内へ向かいます。

往馬大社の場所はこちら。近鉄生駒線一分駅が最寄り駅になります。

一分駅を下車。

この駅で下車するのは実に30年ぶりですが、駅もその周辺も様子は高校時代とあまり変化がなく実に懐かしい(笑)
ちなみに当駅の北側踏切を渡る小道は旧清滝街道。在学中は全く意識してませんでしたが、生駒線は菜畑駅付近から清滝街道と竜田川に沿って並走します。

 

竜田川国道169号線のバイパスを渡り、往馬大社前の道に突き当たると地蔵堂がありました。

1624(寛永元)年に当地に移され往来の人々を見守ってきたお地蔵様ですが、左側の十三仏板碑は1553(天文22)年の銘があり、中央のお地蔵様も室町中期の石仏とされます。

生駒市から平群町にかけ、竜田川沿いの古道には中世以来の十三仏板碑やお地蔵様が多数残されており、こちらもその一つです。

 

往馬大社の境内が見えてきました。

道を挟んで大きな駐車場があります。

祭礼の日や初詣シーズン以外は、自家用車でお参りしても駐車場で困ることはなさそうですね。

正面の石鳥居。

鳥居両脇の石灯籠には「生馬大明神」の神号が刻まれ、神仏習合の信仰の名残が残っていました。

 

鳥居をくぐると、祭事が執り行われるスペースが広がります。

広場の四方を高座、北座、南座管弦楽座といった宮座の建築が取り囲む、中世以来の姿を今に伝える貴重な空間です。

 

本殿のスペースは広場から一段上がった鎮守の森の中にあります。

なお、往馬大社の鎮守の森(社叢)は、宅地化が進んだ生駒山麓にあっては貴重な極相林で、学術的価値の高さから1998(平成10)年に県指定の天然記念物に指定されました。

 

広場から南側斜面にある禊場。

参拝した日は水が流れていませんでした。

 

石段を上ると、立派な楼門が姿を現します。

参拝した年(2023(令和5)年)の干支・ウサギが描かれた額が掛けられていました。

パッと見は楼門というより一層の唐門に見えますね。

 

1877(明治10)年再建の拝殿と社殿。

2018(平成30)年から令和の代替わりを記念して社殿や駐車場など境内の改修事業が進められているとのこと。

 

春日造の本殿が7棟並びます。

修理も終わり、美しい佇まいです。

 

拝殿前の杉の古木は、戦前に落雷に遭い、その後も火災にも遭いましたが「災いに負けない強い生命力を持った御神木」として信仰の対象となっています。

落雷の衝撃による亀裂と火災の跡が生々しいですね。

 

往馬大社には本殿の他にも、多くの境内社があります。

本殿北側の英霊殿と北末社

英霊殿と北末社

末社には春日社、神明社、大山祇社など5社が祀られています。

 

境内の北隅には仏堂がありました。

2001(平成13)年に再建された観音堂です。

仏堂が境内に「仏堂」として残っている神社も珍しいですが、再建された神社も珍しいんじゃないでしょうか。

 

堂内には主祭神の一柱である神功皇后本地仏十一面観音立像が祀られています。

案内板には「伝雲慶作 鎌倉末期~室町初期」とありました。

「雲慶」は東大寺南大門の金剛力士像が代表作である運慶の別名ですが、作成年代が運慶の活動時期から大きくずれているので、違う仏師の作なのか、運慶作と伝えられてきたものなのかは判然としませんでした。

後背や台座など金細工が非常に美しいですが、傷みが激しかったため2011(平成23)年に新たに造り替えられたとのこと。

地元の方々から現在進行形で篤く信仰を受けていることが感じられ、美しいお姿の仏様でした。

 

拝殿南側の祓戸社。

ちなみに火燧木として献上された神木・上溝桜は、こちらのお社のすぐそばにあります。

 

こちらは南末社

住吉社など4社が祀られています。

末社の両脇にある生駒戎神社と稲荷社。

生駒戎神社・稲荷社

生駒山の二柱の他、八幡神春日神、皇祖神、住吉神、戎神、稲荷神など、主要な神様が勢揃いしており、延喜式内大社の名に相応しいお社でした。

 

生駒谷十七郷とは

さて、往馬大社は中世以降、平群郡生駒庄(生馬庄)に成立した生駒谷十七郷氏神として、同地に鎮座してきました。

下図は江戸時代の主要な街道と寺社、生駒谷十七郷の位置関係を現在の地図に記入したものです。

往馬大社は生駒庄のほぼ中央にあり、生駒山山頂の真東に鎮座していることからも生駒山神奈備としていることが明確に感じ取れるロケーションです。

往馬大社と生駒谷十七郷(国土地理院HPより作成)

上図を見ると古くからの郷村は、現在の生駒市中心部よりずいぶん南の方に集中していることが分かります。

宝山時への参道も、現在は生駒駅前から表参道が伸びていますが、大軌生駒駅が開業するまで、山麓からの表参道入口は現在の菜畑駅付近にあり、椚峠を越えてくる奈良、大和郡山方面からの参詣者で賑わいました。

今も石畳の旧参道が残り、市内でも石畳を敷いた江戸時代以前の古道は暗峠宝山寺参道だけで、参詣者の多さを物語っています。

 

生駒谷を東西に走る暗越奈良街道は、古代には平城京と難波津を結ぶ交通の大動脈であり、中世から近世にかけては主要な伊勢参宮街道の一つで、萩原、小瀬で奈良街道と直行する清滝街道は守口宿から東進して田原で磐船街道と合流して南下、斑鳩の龍田大橋で龍田越奈良街道と合流していました。

生駒庄の郷村は四方に延びる古くからの街道沿いに発達していったのです。

古代からの主要街道である暗越奈良街道沿いには特に郷村が集中しており、南北の街道が交差する交通の要衝だった生駒庄は、中世には馬借たちが盛んに活動した地域でした。

室町時代の馬借(石山寺縁起より)

1428(正長元)年に勃発した正長の土一揆では、生駒庄と街道沿いに隣接する鳥見(現奈良市富雄地区)の馬借が蜂起し、西大寺付近を荒らしましたが、興福寺の命を受けた官符衆徒・筒井覚順の手で鎮圧されています。

近年では土一揆は民衆蜂起であるだけでなく、与同した土豪・国人たちの深い関与も注目されており、生駒庄でも室町時代には原城(現生駒市青山台付近と推定される)を拠点に国人の萩原氏が馬借を支配していたとされ、武士の盛んな活動が推察されます。

ちなみに萩原には暗越奈良街道沿いに萩原遺跡があり、弥生時代から室町時代までの住居跡等の遺構が発掘され、生駒地域でも最も古くから人々が活動した地域でした。

 

生駒庄は平安末期の院政期に成立した荘園で、南北朝期までは興福寺一乗院領と仁和寺領が存在していたことが、『大乗院寺社雑事記』などの一次史料から分かっています。(当時の史料では「生馬庄」と記載される例が多い。)

近世までに西畑、藤尾、萩原、小平尾、乙田、小瀬、壱分、有里、大門、鬼取、小倉寺、菜畑、山崎、辻、谷田、俵口、小明と17の郷村が成立し、生駒谷十七郷はその総称で、江戸時代まで生駒といえば生駒谷十七郷の地域でした。

暗越奈良街道と清滝街道の交差点付近は、現在は長閑な農村の風情が色濃く残る地域ですが、近世以前は生駒地域の中心だったのです。

 

ちなみに、生駒谷十七郷が平群に属するのに対し、現在の生駒市北部である高山田原鹿畑は江戸時代まで奈良市西部や大和郡山市と同じ添下郡で、1957(昭和32)年に旧生駒町に編入されるまで全くの別地域でした。

生駒市北部は2006(平成18)年の近鉄けいはんな線延伸で近鉄生駒駅へ直接アクセスできるようになりましたが、それまでは鹿畑、上、高山は奈良市西部の学園前駅富雄駅が鉄道の最寄り駅で、生駒市内でありながら旧平群郡だった生駒市中部より、むしろ同じ旧添下郡に属していた奈良市西部と生活圏が現在も一体化している地域です。

 

現在の生駒市は北部と中南部でかつて所属していた郡が違っていたこともあり、近世以前の歴史もそれぞれ独自の展開を見せました。

北部は中世から戦国時代にかけて、興福寺一乗院衆徒で鷹山庄(現生駒市高山町)を拠点とした官符衆徒・鷹山氏が、有力国人として強勢を誇ったのに対し、中南部の生駒庄には突出した勢力を持つ国人は現れませんでした。

生駒庄を本貫と称した武家で最も有名なのは、江戸時代に讃岐高松や出羽矢島で大名、旗本となった生駒氏です。

生駒氏は、その家伝によると藤原北家藤原良房の末裔で、代々生駒庄の荘官を務めていましたが、応仁の乱の頃に生駒庄を追われて尾張国へ移住したとされます。

尾張に移った生駒氏は小折城(現愛知県江南市)を拠点に馬借業で財を成し、周囲の有力国人と縁戚を通じて関係を深め勢力を拡大しました。

美濃の国人・土田氏には娘を入れ、その子親重を分家養子に迎えて美濃に進出、親重の子が後に豊臣家三中老となる生駒親正で初代高松藩主となります。

また親重の女兄弟に織田信長の生母である土田御前がいました。

若き日の信長は大商人であった生駒氏のもとに、母方の祖母の実家でもある気安さもあってか頻繁に出入りするようになり、生駒氏の娘を妻に迎えます。

信長の事実上の正妻となった生駒氏の娘は、信長との間に嫡男の信忠信雄そして松平信康の妻となる五徳を儲けました。

生駒氏は織田氏と深く結いたことをきっかけに、後の豊臣、徳川の世でも大名、旗本として栄えたのです。

もっとも、生駒氏の大和での事績は一次史料では確認できず、『寛政重修諸家譜』等に記載された生駒氏の家伝の信憑性は必ずしも高いとは言えません。

しかし先述の通り、中世の生駒庄は馬借業が盛んで、生駒氏が尾張移住後に財を成したのも馬借業というのは興味深い符合ですね。

 

生駒氏以外で生駒庄での活躍が伝わる国人としては、田原口城(現俵口町の長福寺)を拠点とした俵口氏や先述の萩原氏などがあげられますが、具体的な活動は一次史料になく詳細は不明です。

戦国期の生駒衆は、現在の平群町を拠点とした島氏島左近を後に輩出する)の傘下に入り、筒井党の一員として活動していたと見られます。

1507(永正4)年の赤沢長経、1559(永禄2)年の松永久秀と相次いだ他国衆の大和侵攻に際しては、生駒衆は筒井党として戦い、長経、久秀によって生駒谷の郷村が焼かれたと『多聞院日記』に記載されています。

豊臣政権以降は竜田藩を経て郡山藩領となり、1679(延宝7)年大和郡山に藤井松平家松平信之が入ると、その弟・信重が5000石で生駒庄を分知されて旗本・藤井松平家として独立し、本家が郡山を離れた後も生駒に留まりました。

以後は郡山藩領と旗本・藤井松平家領が混在し、幕末には山崎村、壱分村、小倉寺村、鬼取村、大門村、藤尾村、西畑村、乙田村が郡山藩領、小瀬村、小平尾村、萩原村、有里村、谷田村、辻村、俵口村、小明村は藤井松平家領、そして菜畑村は郡山藩領分と藤井松平家知行が混在した状態で明治を迎えます。

 

江戸時代、生駒谷の領主は藩領と旗本領に分かれたものの、上下(南北)二郷に分かれて争う往馬大社の祭礼「火祭り」によって、地域としての一体性は明治まで保たれました。

大軌生駒駅が開業した後は、地域の中心地は生駒駅周辺へと移りましたが、生駒谷十七郷と往馬大社は生駒の歴史的背景を下支えする大きな土台のひとつとなっているのです。

 

参考文献

『寧楽遺文 上 大倭國正税帳』 竹内理三 編

『寛政重修諸家譜 第21』 堀田正敦 等編

『姓氏家系大辞典 第1巻』 太田亮 著

『ふるさと生駒の地名と私』 藤本寅雄 著

『奈良県の歴史 (県史シリーズ ; 29)』 永島福太郎 著

国立歴史民俗博物館 旧高旧領取調帳データベース

 

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