大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

南和の雄・越智氏の本拠・越智城界隈を巡る~越智谷散歩(1)

戦国時代の大和国(現奈良県域)では南北朝の争乱以来、激しく抗争する二つの国人がいました。

一つは添下郡筒井(現大和郡山市)を本拠として、戦国後期に大和の覇権を握る筒井順昭順慶父子を輩出した筒井氏

そしてもう一つが、高市郡越智(現高取町)を本拠とした越智氏です。

越智氏は大和南部を中心に勢力を伸ばし、南北朝時代には南朝方主力として活躍した他、応仁の乱では西軍・畠山義就軍の中核兵力として大和、河内、京都を転戦し、一時は筒井氏ら東軍勢力を大和から駆逐して北和にも勢力を広げました。

戦国後期には一族間の争いもあって衰退し、近世初頭に筒井順慶の策謀と家中の混乱により滅亡しましたが、越智氏は筒井氏と並んで大和を代表する武家であり、越智氏なしでは大和の中世史は語れない重要な一族です。

 

越智氏が本拠とした越智は、西に曽我川、東は高取川にはさまれた、標高約200mほどの山塊からなる越智岡丘陵の中央を東西に延びる、南北約250m、東西約2kmの細長い谷間・越智谷にあります。

越智谷の場所はこちら。

最寄りはJR和歌山線掖上駅、もしくは近鉄吉野線の飛鳥駅で、散策には飛鳥駅からレンタサイクルの利用がおすすめの場所になります。

越智氏滅亡から400年以上経ちますが、現在も越智谷に残る越智氏ゆかりの旧跡を散策しながら、今回はその足跡をご紹介します。

 

越智氏について

まず、越智氏について簡単にご紹介しておきましょう。

越智氏は平安時代中期、藤原道長に仕えて大和国司となり、大和南部に勢力を扶植した源頼親を祖とする大和源氏の一流を称した一族です。

越智氏が本拠とした越智(現地ではオウチと発音する)は、鎌倉時代春日大社領の南越智庄で、鎌倉時代中期の南越智庄荘官の中に源家弘の名が見え、源姓で、かつ越智氏歴代の通字「家」を名乗っていることから越智氏の先祖とも考えられています。

鎌倉時代後期にかけて、全国的に幕府や荘園領主の命に服さない「悪党」が跋扈しますが、高市郡は大和でも最も悪党の勢力が強かった地域の一つでした。

大和を知行国とする興福寺は寺領の保全と治安維持のため、これらの悪党たちのうち、強力な勢力を懐柔して体制内に取り込み衆徒・国民として傘下に収めていきましたが、越智氏も春日大社国民となって興福寺の傘下に入り、やがて地域の武士団のリーダー的存在になりました。

大和の武士団は、興福寺により鎌倉後期から南北朝期にかけ、春日若宮の祭礼を通して地域ごとに組織化されていきますが、越智氏を中心とする散在党は、大和国内ではいち早く組織化され、鎌倉末期には強力な武士団に成長します。

 

越智氏が歴史の表舞台に出現するのは南北朝の争乱期。

1350(正平5)年10月、足利尊氏と弟・直義の関係が悪化し、身の危険を感じた直義が大和へ逃亡して南朝方に降伏した時、直義と南朝の間を取り持ったのが越智氏で、この時『大乗院日記目録』に名が出る越智伊予守が、一次史料に現れる越智氏の初見となります。

越智氏は大和国における南朝方主力となって活動し、幕府方として勃興した筒井氏を中心とする勢力と熾烈な抗争を続けました。

南北朝合一後も越智党と筒井党の戦いは、15世紀前半まで実に150年以上も続くことになります。

 

越智氏は南北朝時代に勢力を拡大し、高市郡(現横大路(伊勢本街道)以南の橿原市、明日香村、高取町)の全域を勢力下に収め、葛上郡(現御所市)の一部にも進出します。

越智氏勢力図(国土地理院HPより作成)

上図は越智氏の勢力下に築かれた城郭等の分布図で、越智岡の谷間にある越智城を中心に、一族や被官化した有力国人を要地に配して、一躍南和の雄となったのです。

 

越智氏は1429(正長2)年に発生した大和永享の乱室町幕府6代将軍・足利義教から討伐を受け、当主・越智維通が戦死して一時没落しますが、1441(嘉吉元)年に嘉吉の乱で将軍義教が暗殺されると、義教により冷遇されていた河内の畠山持国復権し、持国の後援を受けて維通の遺児・越智家栄が越智氏を再興します。

家栄は持国死後はその子・畠山義就に仕え、応仁の乱では西軍主力として活躍し、大和だけでなく、京都、河内を転戦しました。

そして応仁の乱本戦が東軍勝利で終わった後も、家栄は河内に割拠した畠山義就とともに転戦し、大和から東軍勢力だった筒井氏、十市氏、箸尾氏を駆逐して、古市澄胤とともに大和の覇権を掌握。越智氏の最盛期を築きます

しかし、1497(明応6)年に筒井党の反攻を受けて家栄が敗北すると、越智氏の運命は暗転します。

家栄は本拠の越智郷を追われると、1500(明応9)年に失意のうちに病死して、以後越智氏の勢力は振るわなくなりました。

ライバルの筒井氏が一族間の結束が強固だったのに対して、越智氏は一族間の争いが絶えずに弱体化し、1546(天文15)年には筒井順昭の侵攻を受けて越智郷が占領され、ついに筒井氏の軍門に降ることになったのです。

以後、度々本領復帰を目指して筒井氏に対して散発的な反抗を繰り返すものの、筒井順慶の時代には完全にその傘下に入ります。

そして1583(天正11)年、布施氏から惣領家に養子として入った越智家秀は、順慶に通じた家臣たちによって暗殺されて、ついに越智氏は滅亡しました。

越智氏の遺領には松倉右近ら筒井氏内衆が入り、筒井氏による南和支配が完成することになります。

 

越智谷

さて、下図はかつて越智氏がほ本拠とした越智谷の航空写真に、旧跡や河川、鉄道駅等を記入したものです。

越智谷周辺図(国土地理院HPより作成)

越智岡丘陵の中央部を南北に分断する越智谷の西端に、越智氏の居館である越智城があり、越智城周辺には越智氏初代の越智親家が創建したと伝わる天津岩門別神社、親家を祀った有南神社、越智氏歴代の墓所がある光雲寺があります。

そして丘陵北側のピークには詰城である貝吹山城が築かれ、谷の北側、東側を防護していました。

下掲の写真は越智谷の遠景で、手前の鉄塔が立つ小山が領主居館を取り囲む越智城、奥の山が詰城であった貝吹山城です。

越智岡丘陵は飛鳥のすぐ西側にあり、古代には多くの貴人が葬られ、近年、斉明天皇の陵墓と推定され注目を受ける牽牛子塚古墳をはじめとした多くの古墳が築造されましたが、越智城、貝吹山城ともに古墳群の墳丘や周濠を曲輪(防御陣地)や土塁、堀として活用していました。

 

また、当地に残った越智氏の一門、郎党の子孫とされる人々の聞き書き等を近世まとめた『越智家覚書』によれば、越智氏居館の周りには家臣の屋敷地が広がり、谷の中央に位置する寺崎集落の東側には「勘定場」があって、「南北の大道」沿いには商家が並んで六斎市が開かれるなど、城下町の様相を呈していたとされます。

そして、谷の北西に位置する字・大石には城下の北の関門である乾木戸があったとされ、越智岡丘陵を天然の城壁として谷間に領主居館と城下町が広がる様から、越前朝倉氏が本拠を置いた一乗谷とよく似た構造だったと想像されます。

東西2km以上の越智谷と越智岡丘陵全体を城郭と捉えることも可能で、中世大和国人の本拠地としては、最大の規模を誇る城塞都市だったと言えるでしょう。

 

越智城

下掲は現在の越智城跡周辺の航空写真に城域の字と遺構等を記入した図です。

越智城概略図(国土地理院HPより作成)

コの字型の丘陵に囲まれた小字・オヤシキが越智氏居館跡で、丘陵の尾根上には古代の古墳群を利用した曲輪群が並び、数か所の堀切で遮断されています。

発掘調査で城跡南西に溝跡が検出されており、屋敷地の区画を仕切る堀と見られ、鎌倉から室町時代にかけての建物跡や土器などの遺物も発掘されています。

ただ、遺物の殆どは14~15世紀頃のもので、戦国時代後期の16世紀のものは殆ど検出されておらず、城跡北西の北ノ寺廃寺跡の瓦も概ね15世紀頃のもので、火災で焼かれた跡が見られるとのこと。

15世紀末の1497(明応6)年に、越智家栄は筒井順賢十市遠治に敗れて越智城を失陥しており、以降は高取城が越智氏の中心城郭となっていきます。

越智城近辺で15世紀末以降の遺物が見られなくなる発掘結果は、家栄の敗走後、本拠地としての越智城は破棄され、より要害堅固な高取城周辺に越智氏の拠点が移動したことを示すものと言えるでしょう。

 

こちらは現在の越智城を南側から見た姿です。

コの字型の丘陵に囲まれた旧居館跡は畑地になり、南に広がる字・馬場、中馬場、南馬場一帯も水田と農業ハウスが広がります。

 

居館跡の字・オヤシキは三段の平坦地になっており、面積が最も広い二段目に越智氏の居館があったと考えられています。

国人領主の居館跡が住宅化されずに畑地化されているのは、奈良県内の中世城郭跡ではお馴染みの光景ですね。

なお、居館跡を囲む丘陵部には獣害対策の電柵が張り巡らされており、現在立ち入るのは危険で電柵を破損させてしまう可能性もあるため、おすすめできません。

 

城跡の南側を流れる横山川(与楽川)は、外堀の役割を担っていたのでしょう。

 

こちらは溝跡が検出された付近。

越智氏居館の周囲には被官の屋敷が立っていたと伝わるので、こちらの付近も往時は武家屋敷が並んでいたのかもしれません。

 

天津石門別神社(旧九頭神社)

越智城跡から小川を挟んで南西に鎮座しているのが天津石門別神社です。

現在の祭神は天手力男命(あめのたじからおのみこと)で、天岩戸に籠った天照大神を外の世界に引き出した神様ですが、江戸時代までは九頭明神を祀り、九頭神社という社名でした。

『越智氏系図』によると、1185(元暦2)年に平家滅亡後に当地に凱旋した越智家初代・越智親家が戦場守護の神として九頭明神を祀り、以後越智氏一族・郎党紐帯の中心として篤い崇敬を受けた神社とされます。

1875(明治8)年に奈良県の示達により延喜式神名帳に記された現在の社名と祭神に改められましたが、従来の祭神と全く関連性がなく、変更経緯は全く不明です。

 

こちらは拝殿。

基礎など見ると真新しいコンクリートが打ってありますので、近年改修されたもののようです。

境内も手入れが行き届いていて、居心地が良いです。

こちらは一見本殿のように見えますが、祝詞舎です。

実は、こちらの神社は本殿がなく、大変珍しい形状のご神体が祀られています。

 

こちらがご神体。

石板で囲った玉垣の中に一株植えられたがご神体になります。

古式の神籬造(ひもろぎづくり)という様式で、全国的にも珍しく、多くの古社が残る高取町内でも当社を含めて二つしかない貴重なご神体です。

 

自然崇拝の古い信仰形式を残しているため、当社は鎌倉時代に越智氏初代により創建されたと伝えられますが、実際にはもっと古くから祀られていたお社ではないかと思われました。

 

越智集落

越智城跡西側の越智集落には、古くからの町並みが、旧街道沿いに残ります。

街道沿いに家屋が密集する街村として発達した集落です。

伝承に伝わる「南北の大道」は、集落内を南北に貫く旧街道と見られます。

越智城に近い街道北側はクランクが多く、中世街道の風情を感じますね。

有南神社

さて、越智城から谷間を挟んで越智岡の麓に鎮座する有南神社は、越智氏初代の越智親家を祀る神社です。

『越智氏系図』によると、1197(建久8)年に没した越智親家は当地に葬られましたが、1391(明徳2)年の明徳の乱で軍功を挙げた越智氏一族の米田俊武が、曽羽(高取町市尾)に領地を得た時、遠祖・親家の墓所に廟を立てて有南神社と称したことが始まりとされています。

こちらは拝殿。

天津岩門別神社と同様、境内の手入れが行き届いたお社で、氏子の皆さんのお社を大事にされる思いが伝わる神社です。

春日造の立派なご本殿が建てられていました。

屋根に越智氏家紋の「立引ニ向柏(たてびき に むかいかしわ)」が掲げられています。

越智氏の出自については詳細が不明な点も多く、遺された系図も複数あって、大和源氏説の他、物部氏系の伊予越智氏説や伊予河野氏説などもあります。

しかし遺された系図の共通点が家祖を越智親家とすることと、中世の歴代当主が清和源氏を称したことは確かで、有南神社は越智岡を中心に近隣へ広がった一族紐帯の象徴となる神社だったのでしょう。

光雲寺

最後に訪れたのは、有南神社から西へ200mほどの場所にある越智山光雲寺

こちらの寺院には、越智氏歴代の墓所があります。

 

光雲寺は寺伝によると1346(貞和2)年に越智邦澄が越智氏菩提寺として建立したとされます。

越智邦澄は『越智氏系図』によれば、1333(元弘3)年1月に吉野で倒幕の兵を挙げた護良親王に呼応し、高取城を築城したと伝わる人物ですが、その他の一次史料には名が見えず、実在の是非を含めて謎に包まれた人物です。

光雲寺の元の名は興雲寺といい、1446(文安3)年に京都大徳寺の高僧で竜安寺を開創したことで知られる義天玄詔により復興されました。

時の越智氏当主は、後に越智氏全盛期を現出させる越智家栄で、興雲寺の復興は家栄により推し進められたと考えられます。

というのも、1439(永享11)年に大和永享の乱で将軍・足利義教に反抗した家栄の父・維通は敗死し、当時8歳の家栄こと春童丸(家栄幼名)は、越智氏家督を親族の楢原氏に奪われました。

1441(嘉吉元)年6月、嘉吉の乱で将軍・義教が暗殺されると、翌7月に河内守護・畠山氏の後援を受けた春童丸は、楢原氏を撃破して越智氏家督と本領を奪回します。

興雲寺が復興された1446年は春童丸の家督回復から5年後にあたり、15歳となった春童丸の元服時期とも重なることから、越智氏菩提寺の復興は、家栄の家督継承の正当性を内外に大きくアピールするための事業と考えることができるのです。

さらに、復興開基ではなく、そもそも実際の開基は家栄だった可能性もあるでしょう。

室町時代に越智氏菩提寺として復興した興雲寺でしたが、近世初頭に越智氏が滅亡すると寺勢は衰え、しばらく浄土宗寺院として細々と継続することになります。

時代は下って江戸時代の天和年間(1681~1684年)に、黄檗宗の禅僧・鉄牛道機が再興し、寺名を興雲寺から現在の光雲寺に改めました。

その後、高取城主・植村家の帰依所となるなど、江戸時代は伽藍の復興も進み安定した光雲寺でしたが、明治になると寺領を失い一時無住となるなど存続の危機に見舞われますが、歴代住職や檀信徒の努力で寺門が維持され、現在に至ります。

 

こちらは光雲寺門前の樹齢千年を超える杉の大木、厄除杉

天正年間に筒井順慶の侵攻を受けた際、越智氏被官の鳥屋氏の子息二人が、この木によじ登って身を潜め追手を逃れ、そのときの二人の年齢が42歳と25歳の厄年であったことから「厄除けの杉」と呼ばれるようになったと伝わります。

明日香村の岡寺で行われる星まつりでは、この杉の枝を持ち帰り厄除け行事が行われるとのこと。

一度は枯れかけたとされますが、訪れた時も青々とした葉を茂らせていました。

 

山門は鐘楼門で、18世紀の建築です。

奥に見える庫裏は1698(元禄11)年に当時の住職・天湫和尚に帰依した今井町の細井戸多衛門の寄進で本堂と共に造営されました。

 

山門にかかる「越智山」扁額は、高取城主の植村家9代藩主の植村家長の揮毫によるもので、当寺と植村氏の関係の深さが感じられます。

ちなみに植村家長は、11代将軍・徳川家斉の代に寺社奉行若年寄、老中と幕府内のエリートコースを歴任し、植村氏で幕府要職に就いた唯一の人物でした。

 

こちらは庫裏とともに1698(元禄11)年に造立された本堂。

本尊の釈迦如来像が安置されています。

山門、庫裏とともに装飾が少ないシンプルな造りで、一切の無駄を省く禅宗寺院らしさが感じられる建築です。

境内に祀られた庚申塚とお地蔵様。

おそらく明治以降、廃仏毀釈の風潮を逃れて当寺に移されたものかと思われます。

 

境内には設置された梅原猛の句碑もありました。

元雅の魂のさまよう越智の里」とあります。

梅原猛は国際日本文化センターの初代所長を務めた哲学者で、法隆寺聖徳太子一族の怨霊封じの寺であるなど、独特の説や日本文化論を唱えたことで知られた人物ですね。

この句碑に詠まれた元雅とは、能楽の大成者・世阿弥の嫡男であった観世元雅のことです。

元雅は演者としても劇作家としても父・世阿弥に勝るとも劣らない才を持ちましたが、将軍・足利義教が従兄弟の音阿弥(元重)を寵愛して世阿弥を疎んじたことから、父ともども仙洞御所や興福寺といった京都、奈良の主要な舞台から締め出され、不遇のうちに30代の若さで伊勢で客死した人物です。

元雅死後、観世座の嫡流である観世太夫は名実ともに元重の系統に移りましたが、元雅の子・十郎太夫は越智家栄の庇護の下で大和を中心に活動し、音阿弥の観世座とは独自の一流を築いて後世に越智観世と呼ばれました。

特に境内に案内はありませんが、梅原猛の句碑は、越智観世の祖となった元雅を偲んで建立されたものと思われます。

※観世元雅や越智観世の成立についての詳細は、下記の記事をぜひご覧ください。

越智観世は戦国後期には庇護者であった越智氏の没落もあって駿河に下向し、今川氏の庇護を受け、その地で徳川家康との縁に恵まれます。

世阿弥と音阿弥の不和もあったため、『風姿花伝』『申楽談儀』といった世阿弥の著書は観世座本体には伝わらず、越智観世や世阿弥と血縁のあった金春座にのみ伝わっていましたが、大和から駿河へ移った駿河十郎太夫から家康へ世阿弥の伝書は献上された他、時の観世太夫・観世宗節が家康との縁で駿河十郎太夫から世阿弥の伝書を受け継いだことで、世阿弥の演劇論や美意識が現在まで無事に受け継がれ、能楽だけでなく「幽玄」といった日本独特美意識の発達に大きく貢献することになりました。

 

越智氏が越智観世を庇護したのは、政治的な思惑もあってのことでしょうが、もし越智氏の庇護がなく越智観世が早々に消滅していたら、中世から近世にかけて形成された日本の伝統的美意識へ多大な影響を与えた『風姿花伝』等の世阿弥の伝書は、後世に伝えられることもなく消失していたかもしれません。

 

本堂脇に展示されているのは、越智氏ともゆかりの深い高取城の屋根瓦です。

現存する高取城の遺物として非常に貴重なもので、植村氏の家紋・丸に一文字割桔梗が刻まれています。

明治の中頃に高取城の建物が破却解体された際に、一部の建物は移築されましたが、その時に現在の香芝市の庄屋さんに引き取られたものとのことで、2007(平成19)年にご子孫から当寺へ寄贈されたとのこと。

高取の植村氏は藩祖・家政が2代将軍・徳川秀忠付の500石取りの小姓を振り出しに、異例の抜擢で大名に取り立てられた大名家として知られますが、元々徳川家最古参の譜代とされる酒井、本多、大久保と並ぶ安祥七譜代の一家でした。

家政の父・家次が家康嫡男の松平信康の近習だったことから、信康が謀叛の疑いで切腹されると一時牢人した影響で、植村家は大名家になるのが遅れたとも考えられます。

江戸時代、城郭の修理は些細なものでも幕府の許可が必要でしたが、植村氏は3代将軍家光から高取城の修理について直々に「一々言上に及ばず」と幕府に無許可で修理することが認められており、少禄ながら譜代大名でも格別の扱いを受けた家でした。

 

さて、境内西側の斜面上に越智氏歴代の墓所があります。

こちらは、光雲寺を創建したとされる越智邦澄(左)、越智邦永(右・邦澄の父)の供養塔。

鎌倉末期から南北朝時代にかけての越智氏当主で、事実上の家祖ともいえる二人の五輪塔は、一際立派なものです。

 

こちらは貞享年間(1684~1688年)に、光雲寺から越智谷を挟んで北側の山麓にあった越智氏の供養塔を改葬したものとのこと。

銘文は摩滅して判読不明なものが殆どで、誰の墓かはわからないようです。

 

こちらには越智氏一族の無数の五輪塔とともに十三重石塔が立っていました。

一点意外だったのが、越智氏の最盛期を築き、光雲寺が室町時代に再建された際に当主だった越智家栄の位牌も墓も不明な点です。

『高取町史』でもその点について不自然さが指摘されていますが、越智氏は一族間の主導権争いが激しく、『越智氏系図』などではいかにも一つの家で家督が継承されたかのように記述されていますが、実際は複数の一族間の力関係で、惣領家が頻繁に交替していたと見られるため、越智氏の複雑な家督の在り方が影響しているのかもしれません。

 

墓所の一角に、「越智氏御廟修復記念碑」がありました。

光雲寺では2016(平成28)年秋の集中豪雨で墓所の土手が崩落して墓石が倒れるなど、大きな被害が出ましたが、翌2017(平成29)年から修復事業を開始し、2018(平成30)年10月に災害復旧の完了を記念して建立されたものです。

広く募金で募り短期間で災害で破壊された墓所が再建されたことは、素晴らしいことですね。

 

次回は、越智氏の詰城で戦国末期には筒井氏と松永氏の攻防の舞台ともなった貝吹山城に向かいます。

 

参考文献

『高取町史』高取町史編纂委員会 編

『越智氏の勤王』山田梅吉

 

大和の戦国史を紹介してきた当ブログですが、戦国大和を代表する国人・筒井氏、越智氏、十市氏、箸尾氏、古市氏の本拠を、今回でようやく全てご紹介することができました。

※他の四氏本拠地については、下掲の記事をぜひご覧ください。

■筒井氏の筒井城

十市氏の十市

■箸尾氏の箸尾城

■古市氏の古市城

 

筒井順慶反撃の最前線となった中世城館・窪之庄城~上街道散歩(11)

飛鳥時代の古代官道・上ツ道をルーツとし、現在の奈良市桜井市を結んだ上街道は、中世以来、大和国内の主要な南北幹線であり、沿線には古代から近世までの長い歴史の中で生まれた名所・旧跡が多く残されています。

この上街道沿いの散策スポットを当ブログで紹介していますが、前回は奈良市南郊の帯解周辺エリアをご紹介しました。

今回は、上街道から分岐し、五ヶ谷街道を東へ1kmほど歩いた場所にある窪之庄城をご紹介します。

窪之庄城の場所はこちら。

国道169号線沿いの窪之庄集落北側にある城跡で、奈良県平野部の城跡には珍しく中世館城の土塁と堀が良好に現存する貴重な城郭遺構になります。

窪之庄城とは

下図は現在の窪之庄の航空写真に、城域や環濠、土塁・堀の位置を『日本城郭大系』の縄張図をベースに記入したもの。

窪之庄城略図(国土地理院HPより作成)

窪之庄城は山村台地を堀と土塁で遮断した二つの単郭方形居館(領主の館城)を内郭とし、居館南側の環濠集落を外郭として構成された城郭です。

高土塁と空堀で居館を方形に囲む城館の造りは、三重県伊賀地方によくみられる形式で、奈良県内でも石打城(現月ヶ瀬村)など大和高原(東山中)地域で見られ、東部山間地域の城館形式が麓の窪之庄でも採用されている点で大変興味深い城跡でもあります。

また、領主である国人の館城を中心として環濠集落が発達し、その旧態を遺したまま現在もその集落形態を保っている点で、中世集落の成立過程を研究するうえでも大変重要な場所とも言えます。

 

窪之庄城を拠点とした窪城氏は、もともと東大寺領荘園だった窪庄の預所だった一族で、室町時代には大乗院方坊人となっていました(『大乗院寺社雑事記』康正三年四月二十八日条)。

応仁の乱前の当主・窪城順専は、筒井氏出身の実力者・成身院光宣の妹を妻とし、娘を十市氏や古市胤栄に嫁がせて男子を福住氏の養子に出すなど周辺の有力国人と縁戚関係を結ぶことで勢力の維持に努めましたが、次代の春藤丸は隣接して対立関係にあった高樋氏が筒井方であったことから古市方に味方します。

しかし分家の窪城西家は筒井氏に与して一族は分裂し、応仁の乱以降の戦乱では一族間で古市方の本家と筒井方の西家に分かれて激しく抗争しました。

窪之庄城の内郭というべき居館は、東西二つに分かれていますが、東側が本家、西側が西家の屋敷跡と考えられています。

お隣の親戚同士で本気の殺し合いをするというのは、なんとも凄惨な話ですね。

応仁の乱直後の大和は西軍・畠山義就に与した越智氏・古市氏が優勢となりましたが、両氏はその後関係を悪化させ、1497(明応6)年に京都へ亡命していた筒井順賢十市遠治らが河内の畠山尚順の挙兵に呼応して反攻を開始すると、越智家栄家令父子と古市澄胤は各個撃破されて没落し、筒井党が大和へ復帰して越智・古市党と筒井党は一進一退の状態となります。

1506(永正3)年7月、窪城氏は高樋氏の拠る高樋城に攻め寄せましたが攻略に失敗。

逆に高樋氏の後援に駆け付けた筒井勢の攻撃を受けて窪城氏は没落し、窪之庄城は筒井氏に攻略されました(『多聞院日記』永正三年七月十七日条)。

その後、窪之庄城には現生駒市高山町を本拠とした鷹山氏の一族・鷹山頼円が入り、その子藤宗から窪庄氏を名乗ります。

窪庄藤宗は筒井順昭の弟・順政の娘を妻に迎え筒井氏に従って行動し、1559(永禄2)年に三好長慶重臣松永久秀が大和侵攻を開始すると、筒井順慶に与して対抗しました。

1568(永禄11)年9月、織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、松永久秀は信長や新将軍・義昭と結びます。

翌10月になると信長は久秀の大和攻略を支援するため、細川藤孝佐久間信盛らに二万の大軍を預けて大和へ侵攻し、圧倒的な織田勢の兵力を前にして、10月10日、窪之庄城は敢え無く落城しました。

その後しばらく松永方の支城となっていましたが、1571(元亀2)年に松永久秀とその主・三好義継が敵対していた三好三人衆と和解して旧三好勢力が再結集されると、松永久秀と将軍・足利義昭の関係が急速に悪化。

畿内で孤立することを恐れた義昭が筒井順慶に接近したことから、大和における筒井党の反撃が始まります。

1571年5月までには窪之庄城は筒井方に奪回され、5月9日から11日にかけて松永勢の攻撃を受けましたが撃退に成功(『多聞院日記』元亀二年五月九日条、十一日条)。

窪之庄城は東山中から奈良盆地へ反転攻勢をかける順慶と、多聞山城を拠点に奈良を死守したい久秀が攻防を繰り広げる最前線の城となりました。

その後、7月に窪之庄城から北西約3kmに築城された辰市城筒井順慶松永久秀に大勝して、大和での覇権を奪い返すのです。

元亀2年の記述を最後に、窪之庄城は史料から姿を消し、正確な廃城年は不明。

筒井氏被官となった窪庄氏のその後も定かではありませんが、藤宗次男の頼一嫡流が絶えた鷹山氏宗家を継ぎ、江戸時代前期に現在の東大寺大仏殿の再建に尽力した公慶上人は、頼一の孫になります。

※鷹山氏については、下記記事で詳しくご紹介しています。

江戸時代になると、窪之庄は柳生氏の領地となり明治を迎えることになりました。

窪之庄城跡

それでは、窪之庄城の現在の様子をご紹介していきます。

内郭となる城館跡の東殿、西殿は、南側半分以上が道路と宅地によって地形改変が進んでいますが、丘陵地寄りの北側に、土塁や堀などの遺構が残っています。

八坂神社(東殿)

東西二つの館跡のうち東側の東殿には、現在八坂神社が鎮座しています。

祭神は素戔嗚尊で、江戸時代は牛頭天王を祀る牛頭天王社でした。

 

境内は東西と北側をコの字型の高土塁で囲まれています。

春日造の本殿。

本殿をはじめとした社殿は1980(昭和55)年に修理され、丹塗りの朱がまだまだ鮮やかです。

境内には多くの石灯籠が奉納されていますが、本殿左奥には「柳生家御武運長久 文政十三年云々」と刻まれた石灯籠があり、窪之庄が柳生領だったことを示す痕跡になります。

(ちなみに文政13年は西暦1830年です。)

 

本殿背後は崖に見えますが、実は内郭を囲む高土塁

台地の縁を利用して築造されたものと思われますが、奈良県内の平野部で残されている中世城郭遺構としては最大級の土塁だと思います。

 

境内の西側の土塁に上ると、東殿と西殿を遮断する堀と西殿の土塁が見えます。

写真で見てもはっきりとわかる巨大な堀切です。

西殿北側を遮断する堀切も見えます。

北側台地

八坂神社境内北側の山村台地の上へ回り込んできました。

 

東殿北側の台地上は平場になっており、台地南側の堀切で台地と内郭が遮断されています。

東殿と北側台地を遮断する堀切と土塁は、場所によっては2mほどの深さがあるでしょうか。

 

削平地と東殿を遮断する堀切と土塁(写真左側)。

ここは堀が埋まってかなり浅くなっていますね。

 

西殿北側の堀切と土塁が見えます。

概して東殿に比べて西殿側の方が堀が深く、土塁も高く感じられます。

実際に西殿の堀は、東殿の堀に食い込むような形で新たに深く掘られており、16世紀初頭に窪城本家が筒井方に追われ、分家の窪城西家が当地を支配するようになった時系列とも一致する構造になっていました。

あと、北側の台地上からは南側の内郭は丸見えになっているので、このままだと台地を的に占拠された場合、内郭を飛び道具(矢や石)で攻撃されてしまいますから、往時は土塁を竹薮にして城壁としていたのでしょう。

中央の大堀切

八坂神社南側の県道187号線にもどり、八坂神社の西側に進むと道路からも東西両郭を遮断する堀切がはっきりと確認できます。

住宅街からすぐの道路わきに中世城跡の巨大な堀切が確認できる好スポットですね。

西殿

西殿の一部は現在亥丸大神を祀る神社の境内となっており、その他は宅地以外、竹薮化が進んで中に入ることはできません。

境内に入ると「亥丸大神」と刻まれた石碑があり、社殿などはありません。

町内の個人でお祀りされている神様ようで、『奈良市史』によると「商売繁盛の霊験」があるとか。

狐が神使の神様と言えば真っ先に頭に浮かぶのはお稲荷様ですが、「亥丸大神」という神様は初見です。

お隣には「白水明神」と刻まれた石碑が祀られていました。

東側には堀切越しに、東殿・八坂神社の境内が見えます。

広い削平地はなく、西殿東側の土塁の一角が境内地となっているようです。

窪之庄環濠集落

窪之庄城は内郭が近世初頭に廃城となりましたが、外郭を構成した集落は引き続き環濠集落として残り、現在も中世環濠の面影を残しています。

国道169号線の窪之庄バス停のそばにかつての濠が水路化されて流れます。

集落内は狭い路地が続き、遠見遮断の丁字路、クランクが多用される中世以来の環濠集落ではお馴染みの町並みが残されています。

集落内には枝堀だった水路も残っていました。

集落南側から北側へ通じる路地のクランク。

こちらは融通念仏宗寺院の和光山安楽寺

開基、創建年などは不詳ですが本堂前に1547(天文16)年の銘がある六字名号碑が残されています。

集落の集会所が現在も境内に隣接してあり、会所寺だったのかもしれないですね。

 

さて、窪之庄城跡は奈良県平野部に残る貴重な中世国人の館城遺構なのですが、残念ながら本格的な遺跡調査は行われておらず、現地には案内板すらありません。

東大寺興福寺の古文書にもその名が現れ、在地領主の変遷を現存遺構からも確認できる貴重な城跡ですので、椿尾上城などとともに奈良市による早急な史跡調査と保全対策を期待したい城跡でした。

 

参考文献

『日本城郭大系 第10巻』 村田修三他

『大乗院寺社雑事記 第1巻』

『多聞院日記1巻』 英俊

『鷹山家文書調査報告書』 生駒市教育委員会

『帯解町郷土誌 第2版』 帯解郷土研究会

安産祈願の帯解地蔵と貴重な和算の算額・帯解界隈を歩く~上街道散歩(10)

飛鳥時代に設けられた奈良と桜井を結ぶ古代官道をルーツに持ち、中世から近世にかけて大和国の南北を結ぶ主要幹線だった上街道

その周辺には、古代からの長い歴史の中で生まれた数多くの旧跡があります。

上街道沿いには旧跡が集まるスポットがいくつかありますが、JR帯解駅周辺もその一つで、前回は中世城郭の今市城を紹介しました。

今回は上街道と五ヶ谷街道の交差点付近を中心に、安産祈願のお地蔵様で有名な帯解寺、龍伝説とこちらも安産祈願のお地蔵様で信仰を集める龍象寺、そして江戸時代の貴重な算額が奉納されている円満寺を巡ります。

帯解周辺図(国土地理院HPより作成)

JR帯解駅

帯解の散策で玄関口となるのがJR帯解駅

実は早くもこの駅自体が、帯解地域の見所の一つとなります。

 

帯解駅は1898(明治31)年、奈良鉄道(現在のJR奈良線、万葉まほろば(桜井)線の奈良~桜井間を敷設した私鉄)が、京終~桜井間を開通させたときに開業しました。

現在の駅舎は開業当時の建物で、明治時代建造の貴重な現存私鉄駅舎であることが評価され、2022(令和4)年6月に国の有形登録文化財に指定されています。

万葉まほろば線は、当駅以外にも京終駅柳本駅、三輪駅といった駅前の町並みと共にノスタルジーに浸れるレトロ駅舎が残る路線ですね。

 

駅舎内はJR西日本無人駅仕様になってますが、窓口や改札跡に旧国鉄の香りを感じます。

万葉まほろば線は今市台地を350mほど掘り崩して線路が敷設されているのですが、ホームから奈良側方面(北側)を見ると、その様子がよくわかります。

帯解駅も敷地の半分以上は堀切の底にありますが、重機のない19世紀末に台地を350mも掘り崩すというのは、かなりの難工事だったことでしょうね。

 

上街道・五ヶ谷街道交差点

駅から北東方向にある上街道と五ヶ谷街道の交差点にやってきました。

交差点は東西に延びる今市台地の上にあり、写真奥(北)側が台地の縁で、2mほど急激に低くなっています。

五ヶ谷街道は名張街道とも呼ばれ、五ヶ谷から福住を越え、最終的に笠間峠を経て伊賀の赤目・名張へと通じていました。

奈良から名張への最短ルートでもあり、もしかすると名張・赤目の極楽寺で作られる東大寺修二会のお松明は、徒歩で運ばれていたころはこちらのルートを利用して運ばれていたのかもしれないな、などとしばし妄想します。

今では近隣住民の生活道路となっている五ヶ谷街道ですが、中世から近世にかけては重要な街道として機能していました。

戦国時代、五ヶ谷には椿尾上城、高樋城といった筒井氏の五ヶ谷城砦群が構築され、国外勢力が大和へ侵攻した際には、筒井氏は防衛力の低い本拠筒井城を捨て、椿尾上城やさらに東奥の福住に拠点を移して抵抗することを常套手段としていました。

その際に東山中から奈良盆地や南都・奈良へ反転攻勢をかける橋頭保となったのが、帯解近辺の今市城、窪之庄城といった五ヶ谷街道沿いの城郭で、筒井氏にとってこの街道は戦略上重要な街道だったのです。

近世に入ってからも、上街道沿いの奈良盆地東部には伊勢・藤堂家の広大な領土・城和領が広がっており、大和・山城の藤堂家領を統括する代官所が置かれた古市や、櫟本、丹波市、桜井といった奈良盆地東部の宿駅と伊勢・伊賀との人や物の往来が盛んで、五ヶ谷街道は大和と伊賀、伊勢を結ぶ主要幹線の一つとして機能していたのです。

 

現在の上街道、五ヶ谷街道は地域の生活道路や、混雑する国道からの抜け道として意外と自動車の往来も多い道路となっています。

上街道・五ケ谷街道沿いの町並み

かつての街村の町並みを思わせる古い町屋が散見されます。

 

帯解寺

五ヶ谷街道との交差点から上街道を北に向かうとすぐに、安産祈願で有名な華厳宗寺院・帯解寺が見えてきます。

ご本尊は地蔵菩薩であることから、帯解地蔵、地蔵院とも呼ばれた帯解寺は、元は大安寺別当空海の師ともされる勤操大徳が開いた霊松庵という寺院がルーツとされ、寺伝によると文徳天皇の皇后が当寺の地蔵尊に祈願したところ子宝に恵まれたことから、858(天安2)年に文徳天皇がこれを賞して伽藍を整備し、「帯解寺」の寺号を授けたのが始まりとされます。

正確な創建年は不明ながら、本尊の木造地蔵菩薩半跏像(国指定重要文化財)が鎌倉時代の作であり、1482(文明14)年の刻印がある書院の瓦が伝えられ、『大乗院寺社雑事記』などに「帯解」の地名が散見されるなど、中世までは確実に遡れる歴史ある寺院です。

寺伝では1180(治承4)年の平重衡による南都焼討や1567(永禄10)年の東大寺大仏殿の戦いで焼き討ちにされたとも伝えられますが、平家の南都焼討で焼亡したエリアは元興寺の手前付近とされており、松永久秀三好三人衆筒井順慶との戦いで大仏殿が焼けた際も、東大寺興福寺近辺の寺院以外が焼かれた記録はないため、史実としての信憑性には疑問符がつきます。

しかし、戦国期に帯解寺のある今市は幾度も戦場となっているため、戦災で荒廃していた可能性は十分にあり、『多聞院日記』には1570(元亀元)年5月5日に、帯解の地蔵が修理されたとの記述(「オヒトキノ地蔵幷被修理了」)が残されています。

帯解寺が本格的に興隆するのは江戸時代の初め、徳川秀忠の正妻・江が帯解地蔵に祈願して3代将軍・家光を授かり、次代の家綱も当寺に祈願して誕生したことから家光から仏像仏具の寄進を受け、家綱からも手水鉢の寄進を受けるなど、安産祈願の地蔵尊として広く知られるようになりました。

 

下図は1791(寛政3)年出版の『大和名所図会』に描かれた帯解寺の様子です。

『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会巻二 帯解地蔵』(国立国会図書館蔵)

ほぼ現在の伽藍どおりですが、江戸時代には境内に池があったようです。

また、門前の上街道沿いには商家が建ち並び、街道を行き交う人々の多さから往時の賑わいがうかがえます。

境内右(北)側に流れる地蔵院川は、現在同様に帯解寺の前で大きく蛇行しています。

地蔵院川の「地蔵院」はたぶん帯解寺のことなんでしょう。帯解近辺では町の北側を流れるので北川とも呼ばれているようです。

 

その後、明治の廃仏毀釈の荒波を乗り越えた帯解寺は、戦後、美智子上皇后に始まり、雅子皇后の他、紀子秋篠宮妃ら皇室関係の安産祈願が相次いで行われたことで、安産祈願の寺として一躍有名となりました。

 

こちらは現在の惣門。

江戸時代中期の棟門とされます。

こちらは本堂。

1854(嘉永7/安政元)年7月の伊賀上野地震で、江戸時代まで本堂が倒壊し、現在の本堂は1858(安政5)年に再建されたものです。

境内は見学自由ですが、本堂を拝観する場合は受付で拝観料を収めると、堂内に案内してもらえます。

ただし、戌の日など安産祈願の繁忙日は堂内拝観できない場合もありますので、注意が必要ですね。

※堂内は撮影不可ですが、ご本尊の地蔵菩薩半跏像など、帯解寺についてまとめた動画がありましたので、リンクしておきます。

なかなか味わい深いお地蔵さんなので、関心のある方は是非一度ご覧ください。

 

境内南側の不動堂

波切不動尊がお祀りされています。

 

鐘楼と本堂前のお地蔵さん。

鐘楼の鐘は、戦中に供出で一度失われ、戦後新たに鋳造されたものです。

 

境内の十三重石塔水子地蔵、稲荷社は近代以降に造立されたものです。

境内の建物は江戸時代から近代にかけて建立されたものが中心ですが、庫裏の書院は室町時代の建築が一部残っているとのこと。

訪れたのは特に行事のない平日の朝で、私以外参拝している方は見かけませんでしたが、毎月の戌の日や毎年3月と11月に開催される秘仏開帳期間は安産祈願で多くの参拝者で賑わいます。

 

龍象寺

帯解寺から上街道を200mほど南下すると、高野山真言宗寺院の龍象寺があります。

寺伝によると当寺は旧広大寺(廃寺)の奥の院で、聖武天皇の勅願により730(天平2)年行基によって開創されたと伝わります。

ちなみに広大寺は飛鳥時代聖徳太子により開かれたとする伝承のみが残る謎の古代寺院で、その実像は全く分かっていません。

その後の寺歴は定かではありませんが、享保年間(1716~1736年)に臨済宗の画僧としても名高い百拙元養により再興されました。

江戸時代は新規に寺院を立ち上げることは基本的に許可されなかったので、おそらく百拙が事実上の開山と考えてよいでしょう。

百拙が入寺してからは長らく臨済宗寺院でしたが、近年は住職の交代で高野山真言宗の寺院になっています。

 

ご本尊は帯解寺と同じ木造地蔵菩薩半跏像で、寄木造であることや作風から平安時代の作と見られています。

そして当寺の本尊もまた帯解子安地蔵尊として知られ、近世以前から安産祈願のお地蔵様として信仰を集めてきました。

帯解寺の方は「日本最古の安産祈願所」と打ち出していますが、龍象寺も「日本第一帯解子安地蔵尊」を前面に押し出し、五ヶ谷街道を挟んで静かながらも「我こそは帯解地蔵の元祖」といったバチバチの対抗心を感じます(苦笑)

ちなみに当寺のホームページには「安産・子授けの最古の霊刹」とあり、昭和の初め頃までの地図には、龍象寺の位置に「帯解地蔵」と書かれているとアピールされていました。

実際に1920年代の国土地理院地形図を確認すると、たしかに現在の龍象寺の位置に「帯解地蔵」と書かれています。

1920年代の帯解周辺地形図(国土地理院地形図より)

現在では帯解の子安地蔵といえば帯解寺の知名度が高くなっていますが、昭和の初め頃までは龍象寺の地蔵尊も帯解地蔵として広く認知されていた証左と言えるでしょう。

 

ところで、龍象寺門前の坂の名前が「正木坂」となっているのに帰宅後気付きました。

正木坂って柳生・芳徳寺門前の坂の名前じゃないの?と訝しく思って調べてみると、現在の龍象寺の北側民有地内(旧境内)に柳生十兵衛の墓と伝わる五輪塔が残っていると、『大和の伝説』に載っておりました。

かつて当地は柳生領で、柳生十兵衛は龍象寺で病死して当地に葬られたと伝わるとのこと。

柳生十兵衛は1650(慶安3)年に44歳で急死しますが、死因不明の不審死で『徳川実紀』や柳生藩の正史『玉栄拾遺』では南山城村、『寛政重修諸家譜』では柳生で死んだと亡くなった場所についても史書の記述にぶれがあり、その最期に謎が多い人物です。

柳生氏は十兵衛の時代に父・宗矩の領地を弟・宗冬と分割相続して1万石を割り込んで旗本となっていました。

宗矩の死後僅か4年で急死し、その後宗冬がいったん領地返上の上、柳生氏の旧領をすべて相続したことを考えると、表の歴史には残せない陰謀の匂いが漂わないこともありません。

十兵衛の墓と伝わる五輪塔は現在民家内にあるらしいのですが、動かすと祟りがあるとも伝わっており、何らかの無念を残して亡くなったと人々に認識されていたことが考えられます。

その疑惑の残る死の記憶を伝えている、もしくは後世の人が疑惑を感じてそのような伝承が残ったのかもしれませんね。

 

さて、こちらは表門です。

こちらの門は元々伊勢・藤堂家の城和領を統括した古市代官所の陣屋門で、明治に帯解小学校の校門として移築されていましたが、1955(昭和30)年に再度当寺の表門として移築されました。

江戸時代の陣屋門遺構として貴重な建築です。

 

こちらが本堂。

永禄年間の松永久秀による大和侵攻で兵火にあい、伽藍の大半は焼失しましたが本堂と開山堂だけが焼け残ったとされます。

建築年代は不明ですが、柱や屋根の装飾、構造から古くても安土桃山から江戸初期あたりの建物かなという印象です。

本堂の天井には狩野春甫(江村春甫)による帯解龍王の図が描かれています。

狩野春甫は京狩野の流れを組む絵師で、1790(寛政2)年の禁裏造営で障壁画制作に参加したことで知られ、龍象寺天井画の龍も狩野派らしいダイナミックな筆致で描かれています。

帯解龍王は、伝承によると龍象寺の境内西側に広がる広大寺池の主で、時々池から出ては近在の村人を襲って食べていました。

ついに村人たちは龍退治に乗り出しますが龍が姿を現しません。

困った村人たちの前に旅の武士が現れて合力すると池の中央に矢を射ました。

すると池の中から龍が現れ天に向かって逃れようとしたので、武士は刀を抜いて龍に組み付くと、龍と一緒に天に昇っていきました。

しばらくすると大きな雷鳴と共に赤い血の雨が降り、バラバラになった龍の死骸が落下してきて、旅の武士はそのまま姿を消しました。

旅の武士は春日明神の化身で、困った村人たちのために龍を退治したのだとされ、落下してきた龍の死骸を埋葬して、その地に建立されたのが龍象寺であるというのが、龍象寺の建立伝承になります。

また、春甫の龍図にも広大寺池に水を飲みにいくため、夜な夜な絵から抜け出していたという伝承も残されています。

 

本堂前に掲げられた扁額は、中興開山・百拙の書で、もともと表門に掲げられていたようです。

今回初めて帯解周辺を歩いてみましたが、由緒も寺歴も全く異なる安産祈願の子安地蔵が本尊の寺院が二つもあるというのは新たな発見でした。

 

八坂神社・円満寺

さて、上街道から五ヶ谷街道沿いに東へ進むと、1939(昭和14)年に建立された八坂神社の石鳥居が見えてきます。

鳥居の先に川はありませんが石橋があります。

もともと石鳥居の前に流れていたイタチ川に架けられていた旧萬歳橋になります。

 

境内はかなり広く、隣接する円満寺とほぼ一体化していますね。

こちらがご本殿。

祭神は素戔嗚命になります。

江戸時代までは祇園社と呼ばれ、牛頭天王が祀られていました。

「牛頭天皇」と刻まれた石灯籠に、神仏習合の面影が残されています。

 

八坂神社社殿と相対しているのが、真言宗寺院・円満寺の庚申堂です。

正確な創建年は不詳ですが、寺伝によれば奈良時代の千眼上人の開基とのことですが、千眼なる僧について調べましたが分かりませんでした。

本尊は木造の青面金剛立像で、庫裏の庭には室町時代から江戸初期の五輪塔が集められており、寺宝にも桃山時代の金剛盤や五鈷杵があるそうなので、中世末から近世には祇園社の神宮寺として存在していた思われます。

 

こちらのお堂で見所なのが、なんといっても軒下に掛けられている和算算額です。

日本における数学は中世まで中国から伝わった算道を家業とする公家の秘伝となって、広く世に知られることがありませんでしたが、江戸時代になると徐々に民間に広がりを見せ、17世紀後半に活躍した関孝和代数による高次方程式の計算方法を独自に発明して公開したことから、日本独自の数学・和算は飛躍的に発展しました。

18世紀になると和算は一般大衆の娯楽としても盛んになり、和算の問題や答えを記した算額を神社仏閣に奉納する風習が広がります。

円満寺算額は1844(天保15)年に「当村(旧山村か?)源治郎」もより奉納されました。

算額は全国に残されていますが、東日本に多く、奈良県内には現在5つしか残されていないので、こちらの算額はそのうちの貴重な一つになります。

 

円満寺算額には3つの幾何学の問題が書かれていますが、算数が苦手な私は、右側の問題しか解法が分かりませんでした(苦笑)。

一辺6尺の正三角形の中に図のように正六角形があるとき、正六角形の一辺は何尺になるかを問われた問題で答えは2尺。

どうして2尺になるかぜひ考えてみてください。

ちょっとした頭の体操に、たまに算数の問題するのもいいものだなあと思いました(笑)

 

八坂神社のすぐ東側に街道の分岐がありました。

左 山村御殿

右 五ヶ谷道

とあります。

山村御殿とは圓照寺のことで、歴代の住持を皇女が務めたため山村御所とも呼ばれました。(ちなみに圓照寺は境内拝観は不可のため、参道から山門の前までしか入ることができません。)

 

右の五ヶ谷街道を進むと、中世城郭の窪之庄城と環濠集落に至ります。

次回は窪之庄城と窪之庄環濠集落をご紹介します。

 

参考文献

『帯解町郷土誌 第2版』広瀬広仲 編集

『奈良市史 社寺編』

『史迹と美術 33(10)(340)』史迹美術同攷会

『大和の伝説 増補版』高田十郎 等編

南都攻防の重要拠点・今市城を歩く~上街道散歩(9)

飛鳥時代奈良盆地を南北に結ぶ官道として整備された道のうち、最も東に通され現在の奈良市桜井市を結んだ上ツ道は、中世以降も上街道として大和の主要な南北幹線道として機能し、沿線には多くの宿場や市そして城郭が築かれたため、名所や旧跡が集まるエリアです。

当ブログでは上街道沿いの旧跡をこれまで8回ご紹介してきましたが、前回まで櫟本以南の天理市内エリアを中心に散策してきました。

※前回の記事はこちらです。

今回からは天理市から少し北に移動し、奈良市南郊のJR帯解駅周辺をしばらくご紹介していこうと考えています。

 

帯解周辺の散策スポットと言えば、安産祈願で有名な帯解寺が真っ先に挙げられるかと思いますが、中世大和を中心に紹介している当ブログとしては、帯解近辺で是非ともご紹介したいスポットが、中世城郭の今市城です。

今市城は、知名度は決して高いとは言えませんが、中世大和の南都・奈良をめぐる争いで常に勝敗のカギを握った要地であり、大和の戦国史を語るとき事あるごとにその名が現れる重要な城郭でした。

また、奈良市内の市街地にある中世平城では珍しく遺構も残っている城郭なのです。

 

今市城の概略

今市城の場所はこちら。

JR帯解駅から西へ200mほどの場所になります。

「今市」の地名由来は、858(天安2)年、同地に帯解寺が建立され、参詣者を始め多くの人が集住して市を立てたことが始まりとも伝わります(『帯解町郷土史』)が、判然としません。

今市から東北にある「古市(現奈良市古市町)」と対になっているとの説(『日本地名事典 第2巻』)も見ましたが、古市かつての福島市で、鎌倉時代に現在の奈良市南市町に市場が移転された際に「古市」となったと考えられるので、これは違うと考えました。

また、今市から北西にあった「辰市(たつのいち)」は奈良時代平城京の東市があった場所で、平安時代は市が立って賑わっていたことが『枕草子』の記述でわかっており、中世以降に上街道沿いの帯解寺門前として栄えた当地が、辰市に対して「今市」と呼ばれるようになったのかもしれません。

中世には興福寺一乗院の荘園・郡殿庄が置かれた地で、一乗院衆徒の今市氏が居館を置きました。

 

さて、今市城は中世に北和、とりわけ南都・奈良ににらみを利かせる要地として、大和の覇権を狙う勢力が拠点を置きました。

今市城が要地となった理由は、なんと言ってもその立地にあります。

北和の主要城郭分布(国土地理院HPより作成)

今市城は奈良盆地を南北に貫く上街道と、中街道、下街道と接続して東山中の五ヶ谷から福住を経由し、笠間峠を越えて伊賀名張に至る五ヶ谷街道との結節点にあり、北和の主要城郭と奈良へ常ににらみを利かせる位置にありました。

この立地に最初に目を付けたのが、応仁の乱後に畠山義就軍の主力として筒井氏、箸尾氏、十市氏らを大和から駆逐した越智家栄です。

越智氏は現在の高取町を本拠とした大和南部の国人で、追放した筒井氏一党から奪った北和地域を支配するための拠点として、今市を選びました。

1478(文明10)年、越智家栄は今市氏の居館を大規模改修して城郭化すると、家臣の堤栄重を代官として置き、伊賀衆100人を傭兵として入城させました(『大乗院寺社雑事記』文明十年八月三日条)。

以後、今市城は堤氏が代官・城主を務め、越智氏の北和における支配拠点となり、1481(文明13)年7月には反撃を試みた筒井勢に対し、堤栄重は古市氏と連携して今市城から打って出て、筒井勢を撃退しています。

しかし1504(永正元)年9月、15世紀末から越智氏に対して反転攻勢をかける筒井順賢により今市城は落城。

以後は筒井氏の支配下に入り、東山中と奈良盆地内の各所を結ぶ戦略上の要地となりました。

 

1520(永正17)年6月には、両細川の乱細川高国と細川澄元・晴元父子の細川京兆家家督争い)に連動した筒井順興古市公胤の奈良を巡る大規模戦闘で、筒井氏部将の中坊美作が今市城に入り、奈良に籠る古市方を攻撃する拠点として利用されています。(『祐雄記抄、続南行雑録』

その後1529(享禄2)年4月の柳本賢治による大和侵攻では、今市城は筒井順興を撃破した賢治に奪われその陣所となりますが、翌年に柳本賢治は戦死した為、筒井氏支配に復帰したと見られています。

そして戦国末期の筒井順慶松永久秀の抗争では今市城は両勢力がぶつかる最前線の城となり、1565(永禄9)年3月には筒井氏の反攻に頭を悩ませた松永久通(久秀の嫡男)が、今市城の破却に出発したという記事が『多聞院日記』に残されています。

当時、本拠筒井城を奪われ東山中の椿尾上城を反撃拠点としていた順慶に、今市城が南都攻略の陣城・橋頭保として利用されることを久秀が恐れたことを示す記述ですね。

その後、軍事的記述の中で今市の名は、1572(元亀3)年11月に多聞山城から打って出た松永方の兵により今市が焼き討ちを受け、反撃した筒井方の兵により撃退されたとの記事(『多聞院日記』元亀三年十一月二十二日条)を最後に姿を消しました。

廃城時期は不明ですが、遅くとも1580(天正8)年に織田信長の命により大和一国にある郡山城以外のすべての城が破却された時までには、城郭としての機能は失われたものと考えられます。

 

下図は現在の今市城周辺の航空写真に、城域を書き込んだものです。

今市城略図(国土地理院HPより作成)

今市台地の西端に築かれ、五ヶ谷街道が東西を貫く小字・城ノ内一帯が城跡で、おおよそ東西250m、南北80mという長方形の城域は、現在遺構を確認できる奈良県内の中世平城としては筒井城と並んで最大規模の城郭です。

現地案内板によると、北側の青い破線で囲んだエリアも台地の縁にあたり、外郭があった可能性があると推定されています。

遺構として残存しているのは、南側の堀を拡張して近世に築かれた蒲池と集落西側に残る小さな池で、往時は四方を水堀が囲み、城内も『奈良市史』によれば4本、『日本城郭大系』によれば3本の堀で分断され、いくつかの曲輪が連立する城郭でした。

ちなみに現在蒲池から北側に向かって2本切り込まれている箇所が、城内を分断した堀のうち西側2本の堀の痕跡になります。

 

現在の今市城跡周辺

それでは現在の今市城の様子をご紹介します。

こちらは今市城の南堀を拡張して築造された蒲池。

南側から、かつての城側の姿です。

城跡は現在ほとんどが住宅街と化しています。

蒲池は今市台地の南西端にあたり、地形的には谷間となっているので、堤を築いて南堀を拡張し、農業用のため池として活用されたのでしょう。

集落の環濠や水堀が溜池化される例は、水に乏しかった奈良県内では珍しくなく、田原本町の保津環濠などは、近世灌漑用水として濠が温存されました。

 

蒲池の北西部に突き出ている区画が曲輪の跡。

2本の枝堀が池の切れ込みとして一部残っていて、現在もっとも城跡らしい佇まいの場所です。

西側にある神社の境内から曲輪西側の堀跡を間近から見ることができます。

 

曲輪の周囲を囲んでいた土塁と竹藪が西側の一部に残っていました。

大和の中世平城の往時の姿をよくとどめている場所かと思います。

かつての枝堀跡がもっとも良好に残っている場所で、今市城の旧城域では城跡感が最も感じられる場所になっていました。

集落中央を通る五ヶ谷街道側から見ると下記のような感じです。※撮った写真が残念ながらピンボケしてしまったのでGoogleマップをひとまず貼り付けておきます。

現在五ヶ谷街道より北側の堀は埋め立てられていますが、道路の起伏を観察するとガードレールの付近とリサイクルショップのある敷地の奥側が低くなっており、かつて堀があった痕跡が今も地形に残ります。

城域の西端で五ヶ谷街道の北側には、堀跡の池が残されていました。


今市城北側の小字・外堀は、20世紀末ごろまでは原形をとどめた長い水堀が残っていましたが、現在は埋め立てられて遊歩道となっています。

遊歩道の片隅に、当地が今市城の外堀跡であったことを記す案内板が設置されていました。

ちなみに当地が今市城の城跡であることを示す案内板、石碑の類は、この案内板だけです。

案内板に堀の北側も外郭の可能性ありとの記述が見えましたが、『日本城郭大系』にも同様の記載があったので、こちらから取られたのかなと思われます。

『日本城郭大系』で今市城について執筆されているのは、城郭研究の大家・村田修三さんで、村田さんは後年『奈良市史』でも今市城について記述されていますが、こちらでは城郭北側の外郭については触れておられません。

おそらく自治体史という性質上、確実な研究成果に基づかない推測として、村田さんは外されたのかと思われます。

 

東西200mほどの遊歩道が続きます。

しかし、もともと城郭の水堀であったことは微かに道筋から感じ取れるかな?という現在の印象で、近年まで残っていた貴重な中世以来の水堀が完全に失われてしまったというのは寂しい限りです。

費用的も労力的にも維持は大変なのですが、例えば南郷環濠のように堀の一部を残して親水公園的な整備の在り方もあったのではないかなとも思ってしまいました。

全ての城跡を文化財として保存することは不可能なんですが、地元の魅力を発信するツールとしての遺跡や遺構の活用という点で、やはり奈良市文化財行政は古代史偏重で中世遺構について関心が低すぎると、今市城でも強く感じてしまいました。

奇跡的に残存した遺構の価値を、しっかりと評価することもなく消失させてしまうのは、文化的にも地域振興的にも勿体ないことなので、少しでも中世遺構に対する関心が高まってくれればと思います。

 

次回は帯解寺など上街道、五ヶ谷街道沿いのスポットを巡ります。

 

参考文献

『奈良市史 通史 2』奈良市史編集審議会 編

『大乗院寺社雑事記 第6巻 』

『日本城郭大系 第10巻』 村田修三他

 

美しい天空の城塞環濠集落・竹之内環濠を歩く~上街道散歩(8)

奈良県は中世以来の環濠集落が多く残っていることで有名ですが、その多くは平野部の低地に集落の四方を濠と土塁で囲んで形成されています。

しかし奈良県天理市にある萱生環濠集落竹之内環濠集落は、山麓の高台に形成された県内でも珍しい環濠集落。

前回は、集落周辺の古墳を巧みに活用した萱生環濠集落をご紹介しました。

今回は萱生環濠から北に1kmほどの場所にある竹之内環濠を巡ります。

竹之内環濠の場所はこちら。

竹之内環濠は、標高100m、麓の国道169号線付近からの比高も30mという高地に立地する、奈良県内で最も高い場所にある環濠集落です。

竹之内環濠周辺図(国土地理院HPより作成)

濠の一部や環濠集落に特徴的な路地や土塁跡など、中世環濠集落の姿を残す町並みが残っており、戦国期には城郭としても機能した集落は、大和戦国史のターニングポイントとなる合戦の舞台ともなりました。

環濠散策をより楽しめる集落の歴史やスポットをご紹介します。

 

山の辺の道(萱生~竹之内)

さて、山の辺の道の萱生から竹之内の区間は、奈良盆地を見下ろす台地の縁を通るため、非常に眺めがよいエリアです。

そこで、竹之内環濠をご紹介する前に、萱生から竹之内に至る山の辺の道の様子を、ご紹介させていただきます。

 

萱生環濠から北へ向かってすぐの場所にあるのが、こちらの船渡地蔵(ふなとじぞう)。

言い伝えによると、昔竹之内と萱生両村で池を掘っているときに出土した地蔵で、寺院に移そうとすると運んだ村人たちの足腰がひどく痛みだしたので、地蔵様の祟りと畏れて移動させるのを諦め、見晴らしのよい当地に懇ろに祀ったところ、村人たちの足腰痛は治まったとのこと。

以後、足腰痛にご利益のあるお地蔵様として信仰されているそうです。

祟る力と癒す力は表裏一体で、ご利益を授ける力を持つ神仏は粗略に扱うと恐ろしい祟り神となり、懇ろに扱うと苦しむ人々を救ってくれるという古来からの日本人の神仏観が伝わるお話ですね。

 

舩渡地蔵のすぐ北隣には、山の辺の道散策を楽しむ方々のために公衆トイレが設置されていました。

町歩きや古道散策を楽しむものとしては、とてもありがたい設備です。

 

西に目を向けると、波多子塚古墳の先に奈良盆地が広がります。

遠く生駒山まで一望出来て、抜群の解放感。

まもなく竹之内環濠という場所に、一面の菜の花畑がありました。

北西から南西にかけて生駒山信貴山二上山葛城山金剛山と菜の花畑越しに大パノラマが広がります。

なかなかの絶景スポットですね。

 

菜の花畑から5分足らずで、竹之内町の共同集荷場前に到着。

通りを挟んで向かい(写真左側)には竹之内町の集会所もあり、現在は集落の表玄関的な場所になっています。

竹之内環濠

竹之内環濠集落の概略

さて、竹之内という地名は、天理市のホームページによると、文字通り「竹」に囲まれた内側の集落という意味で、集落が濠と竹の繁った土塁に囲まれていたことから名づけられました。

濠の内側に盛土して土塁を築き、土塁を竹薮にして敵の侵入や弓矢、投石による飛び道具からの攻撃を防ぐのは、中世の環濠や城郭では一般的な構造です。

豊臣秀吉が築いた京都の洛中を囲む御土居は竹が植えられていましたし、奈良県内でも郡山城の外堀土塁は竹薮で覆われ、郡山の土塁は八幡神社周辺に往時の姿をとどめて現存しています。

ちなみに、堀端の土塁の竹薮は水辺が近いことからタヌキやキツネの格好の住処で、近世以降に町の周辺部でタヌキやキツネに「化かされた」という怪異譚が多く伝わるのは、土塁の竹藪に多くのタヌキやキツネが生息していたからでしょう。

 

下図は現在の竹之内環濠の航空写真に、集落内の小字名や施設、路地、環濠を書き込んだものです。

竹之内環濠略図(国土地理院HPより作成)

赤の実線が路地で、青の実線で囲んだ範囲が集落西の公園前に掲示された集落地図で示されていた環濠エリアです。

集落南側の青の破線で囲んだエリアは、今回私が集落内を実際に散策して土地の高低や路地の道筋から曲輪等の存在を感じられた場所になります。

上掲の地図からも一目瞭然ですが、集落内の通路は丁字路やクランク等の遠見遮断と行き止まりが多用され、集落を一直線に貫通する通路が全くない中世環濠集落の典型的特徴を色濃く残した集落です。

 

竹之内の史料上の初見は、南北朝時代の1347(貞和3)年で興福寺造営料の反米負担の算用状の中に「乙木竹内庄」の名があり、萱生環濠と同様に鎌倉時代に成立した荘園と見られます。

以後、「乙木竹内」の名で史料上散見されるようになり、中世は興福寺大乗院領でした。

領主の乙木竹内(竹内)氏は興福寺大乗院に属して備前庄(現天理市備前町)の下司職にあったことが分かっています(興福寺大乗院文書『享徳二年大乗院御霊段銭引付』)。

係争地としてしばしば史料上にもその名が見え、応仁の乱では1471(文明3)年閏8月に東軍として参戦した十市遠清の攻撃を受け、乙木竹内氏は逃亡、或いは十市氏に降参しました(『大乗院寺社雑事記』)。

その後、乙木竹内氏は筒井氏の与党として活動したようで、1497(明応6)年に、応仁の乱後に没落した筒井氏が、河内の畠山尚順に呼応して越智、古市に反転攻勢を仕掛けた際に、筒井氏に与した国人の中に乙木竹内の名が見えます(『尋尊大僧正記』明応六年十月一日条)。

 

1546(天文15)年8月には、奈良盆地北部をほぼ平定した筒井順昭に対し、十市遠勝は父・遠忠以来の筒井氏との同盟を破棄して、竹之内へと攻め込みました(『多聞院日記』天文十五年八月二十一日条)。

このとき、『多聞院日記』には「竹内城」と記載され、集落が城郭化されていたことをにおわせます。

十市遠勝は竹内城を攻略できず敗退し、その後、順昭の圧迫によって本拠・龍王山城を放棄して吉野へと逃亡してしまいます。

この竹内城の戦いを皮切りに、順昭は遠勝を追うように南和へ侵攻し、9月には南北朝時代以来の宿敵である越智氏の本拠・越智郷に攻め入りました。

そして10月に貝吹山城を陥落させると、筒井順昭は史上初めて大和の武力統一を成し遂げるのです。

竹内城の戦いは、戦国末期の悲劇的な十市氏の没落と、筒井順昭の大和統一戦における最終局面の端緒であり、竹之内は大和戦国史のターニングポイントとなった場所と言えるでしょう。

 

江戸時代に入ると竹之内は大部分が天領となりますが、一部は柳生宗矩の領地となり明治維新まで相給の村として続きました。

 

現存の環濠周辺

それではいよいよ現在の環濠集落の様子をご紹介していきます。

まずは現存する環濠周辺を散策します。

国土地理院HPより作成

集荷場前には地域の集会所や山の辺の道散策の方々が利用できるトイレ、公園、ごみ収集場が整備されています。

こちらは元々濠跡で、濠の姿は1960~69年の航空写真では確認され、74~78年には消失していることから、70年代前半までに埋め立てられたものと思われます。

 

公衆トイレの前には竹之内環濠の案内板が設置されていました。


濠跡の公園から北側に現存する環濠。

冬場でも水量が多く大変美しい水堀です。

 

濠端から西を見ると、生駒山まで視界が開けて、眺望良好。

今まで訪れた環濠集落の中でもピカイチの素晴らしい眺めでした。

 

残存している環濠は2つあり、濠の間には土橋がかかっています。

土橋から西側の小字は「西口」という名で、近世以前からの出入り口であったと考えられます。

土橋から北側の濠は周りに草木が茂っているので、より往時の姿に近い姿になっています。

集落を囲んだ濠のうち、西側だけが近世以降も溜池として残され、今も現役の灌漑用水として活用されています。

環濠は低湿地にあった場合は農業用水以外に、洪水対策用に残されている場合もありますが竹之内のような高所の集落は洪水のリスクはありませんので、100%灌漑用水


環濠集落北側(北垣内)

集落名の由来ともなっている土塁の竹薮が残っているのが集落北側の北垣内エリアで、下図の緑で塗りつぶした場所が竹藪になります。

国土地理院HPより作成

濠に挟まれた土橋から続く集落内の路地を東に向かって進みます。

路地は途中で北に折れますが、西側に土塁跡と竹藪が続きます。

生い茂った竹薮の中は素早く突破することが難しく、弓矢も通しません。

さらに竹は耐火性にも優れていて成長も早く、重火器のなかった中世において鉄壁の城壁を築くにはもってこいの植物でした。

 

少し離れた場所から見た土塁の竹藪。

この高さなら重火器がないと、外から内側を直接攻撃することは不可能ですね。

反面、内側からも敵の様子は見えづらく、櫓台など立てないと外へ反撃することは難しそうです。

戦国末期に現れる枡形や馬出のように強力に反撃するような攻防一体の備えではなく、あくまで外からの直接攻撃を防ぎ、敵の侵入ルートを限定してコントロールするための構造物なのです。

 

東側にも北垣内の東西を中央で分けるように竹薮があります。

竹藪の東側は堀状になっていました。

後世の改変か城郭遺構かはちょっとわかりません。

 

中垣内

さて、共同集荷場の方まで戻り、集荷場の前の路地を東に向かって進みます。

公園前の掲示板案内図によると、南側の濠があったという道で、小字・中垣内を抜けて奥垣内へと通じています。

国土地理院HPより作成

竹之内の会所寺・宝伝寺の本堂裏側が見えてきました。

交差点を南(写真右)へ曲がると宝伝寺を中心とした小字・登り垣内を経て集落の南口に至ります。

この交差点から東側は土地の高さが急に上がり、上り坂になっていますが、堀を埋めて盛り土し、スロープにしたのかもしれません。

 

宝伝寺境内の東端で通路は北側へ直角に折れ、20mほど進むと再び東へ折れます。

通路の西(写真左)側は東側より1.5mほど低くなっており、集落は東に行くほど文字通り「段々」と高くなっていきます。

 

中垣内を東に進む通路は、逆コの字型にクランクしており、典型的な遠見遮断(武者隠し)となっています。

奥垣内~集落東側

中垣内から東に進み、再び南に通路が折れるあたりの東側からが奥垣内です。

国土地理院HPより作成

写真の右(北)側は現在駐車スペースになっていますが、もともと建物があったと思われます。

南垣内からの路地との合流点。

南垣内側から奥垣内に入ってくる通路も大きくクランクしており、集落の案内板では南垣内は環濠の外とされていましたが、戦国末期には南側に環濠も拡張され、枡形を構成していたのではと感じる地形になっていました。

奥垣内の北側と北垣内の東側は、環濠内では最も標高の高い場所になっており、現在は大部分が畑地となっていることから、奈良県内の他の環濠集落の例に倣うと、領主居館や城郭の主郭があった可能性が高いと思われます。

そうであれば、上掲の写真付近が城郭の大手に相当するエリアになります。

 

環濠の東端部に藪がありました。

現在は農地となって地形が大きく改変されていることもあってか、尾根を遮断するような堀切の痕跡は全く見つけることができませんでした。

 

東側から現在は集落内を見下ろすことができます。

堀切や土塁の痕跡はなく、このままだと東側から攻撃すれば集落内が丸見えで、容易に弓矢で攻撃を加えられそうですね。

おそらく往時は北側も高い竹藪に囲まれ、飛び道具による攻撃を無力化していたのでしょう。

 

登り垣内

さて、再び共同集荷場の前まで戻ってきました。

共同集荷場から南側は集落の案内板には環濠のエリア外となっていましたが、東(写真左)側の集落と西側の畑の間に高い段差があることが分かります。

後世に地形が改変されてしまい、正確なところは分かりにくいですが、宝伝寺を含む登り垣内と南垣内の一部も、竹藪で覆われた環濠の内側だったのではないかと思われました。

国土地理院HPより作成

集落の南西口に建つ大神宮の常夜灯には江戸末期・文化九年(1812年)の銘があります。

萱生環濠にもありましたが、奈良県内で伊勢に通ずる街道沿いの江戸時代以前からある集落では、必ず見かけます。

 

宝伝寺南側の通路を東に進むと、大きな桜の木の下に日露戦争戦没者を追悼する日露戦没碑が立っていました。

現在の集落のほぼ中央にある場所で、集落の通路が集まるポイントに建立されています。

石碑の西(上掲写真左)側の通路は、クランクしながら奥垣内に通じる比較的大きな道で、先述のとおり竹内城の大手だったのではないかと思われます。

集落全体から感じるのは、案内板の中世環濠の範囲とされる北垣内、中垣内、奥垣内の通路は、行き止まりなどは設けられていますが、全般的に複雑な折れなどはあまり見られません。

しかし集落南側の登り垣内、南垣内、辰巳垣内については、丁字路やクランクが組み合わせられた複雑な通路となっていることから、中世は奥垣内、北垣内付近にあった領主居館を中心に環濠が発生し、戦国時代から近世にかけ戦乱の激化に伴い、通路の「折れ」や枡形構造を取り入れながら集落が南側へ拡張されていったと考えられられそうです。

宝伝寺

集落中央に位置する寺院が融通念仏宗宝伝寺です。

本堂には本尊の阿弥陀如来坐像と地蔵菩薩立像が安置され、写真左側の薬師堂には1711(宝永8)年の墨書のある薬師如来像が祀られています。

開基の年代は不明ですが、寛政年間に河内国富田林にある浄谷寺の僧・章山が当地に移り住み、1798(寛政10)年に再建・中興したと寺伝に記載され、明治維新まで毎年6月24日の地蔵会には近隣から多くの参詣者が集まったそうです。

 

本堂正面の無縁塔婆は一時石垣として使われていた墓石や石仏、板碑を憐れんだ郷民が、当寺に移動させて築きなおし、祀ったものとのこと。

また、無縁塔婆から西(向かって右)側には牛頭天王の小さな祠が祀られていますが、もともと北垣内の藪の中に祀られていたものを1805(文化2)年に当時へ遷宮したと伝わります。

 

さらに無縁塔婆の東側には「大演習」とうっすら見える石碑がひっそりと立っていました。

おそらく1932(昭和7)年に行われた陸軍特別大演習の記念碑と思われます。

特別大演習とは年に一回、大元帥である天皇が参加する大規模演習で、戦前は各県持ち回りでほぼ年中行事のように行われており、この時も昭和天皇丹波市(現在の天理市中心部)に行幸したことから、記念碑として作成されたものでしょう。

今ならさしずめ国民スポーツ大会の記念碑などと同じ感覚のものかもしれませんね。

 

境内の会所裏にも、当時を中興した章山の供養塔を中心に無数の墓石や名号碑が並びます。

上掲写真右端の六字名号碑は1559(永禄2)年2月の銘がありました。

ちなみに、この年は8月に松永久秀が大和侵攻を開始した年にあたります。

 

最後に、宝伝寺の注目ポイントの一つが土塀の鬼瓦

柳生氏・柳生笠(二階笠)の家紋が刻まれており、竹之内の一部が柳生宗矩を藩祖とする柳生氏の領地だったことを示すものです。

柳生笠紋には二枚の笠の位置が縦置き、横置きの二種類がありますが、こちらは縦置き型。

元は江戸時代の初め、千姫事件で自害した津和野城主・坂崎直盛宇喜多直家の甥、秀家の従兄弟)の紋で、親交のあった柳生宗矩の説得で直盛が反乱を思いとどまり自害した際に、宗矩の説得に感謝した直盛から送られたとも、直盛の供養のため宗矩が家紋としたとも伝わります。

大和柳生藩の記録『玉栄拾遺』にも「二階笠 元坂崎家家紋、元和二年拝領」とあり、坂崎氏由来の家紋であることは間違いなさそうです。

 

竹之内環濠は、現存する環濠と環濠越しに見える奈良盆地の眺望のすばらしさは勿論のこと、遠見遮断の丁字路やクランクが多用された狭く路地や土塁と竹藪など、奈良県の中世環濠の特徴をほぼすべて備えた環濠集落でした。

 

山の辺の道散策の折には、是非立ち寄ってみてください。

 

参考文献

多聞院日記 第1巻』英俊

『大乗院寺社雑事記 第5巻』

『大和国若槻庄史料 第1巻』辺澄夫、 喜多芳之 編

『天理市史 上巻 改訂』天理市史編纂委員会 編

『史料柳生新陰流 上巻 玉栄拾遺(一)』今村嘉雄 編

 

古墳を巧みに活用した中世環濠集落・萱生環濠を歩く~上街道散歩(7)

ならまち(現奈良市)から天理市を経由して桜井市の初瀬街道の分岐に至る上街道沿いの地域は、古代から続く寺社や古墳、中世以来の宿場町や城跡など、歴史ロマンあふれるスポットが盛りだくさんのエリアです。

前回まで奈良県天理市にある上街道沿いの古社・大和神社と、その祭礼で御渡り神事が行われる境外社についてご紹介しました。

さて、大和神社のほど近くに、萱生環濠集落竹之内環濠集落という二つの環濠集落があります。

両環濠集落の位置は、ともに笠置山地の西麓を上街道に沿うように桜井市から奈良市までをつなぐ上古の道・山の辺の道沿いで、下図のような位置関係。

萱生環濠・竹之内環濠周辺図(国土地理院HPより作成)

奈良県内には多くの環濠集落が残りますが、両環濠集落の大きな特徴はなんといってもその立地で、平野部に形成されるのが一般的な環濠集落の中で、この二つの環濠集落は奈良盆地を見下ろす高台にある非常に珍しい環濠集落なのです。

今回は、環濠集落が多く残る奈良県内でも珍しい高台の環濠集落から、萱生環濠集落をご紹介します。

 

萱生環濠集落とは

萱生環濠集落の場所はこちら。

大和神社から東へ1kmほど離れた龍王山麓に位置します。

ちなみに「萱生(かよう)」という地名の由来は天理市のHPによると「萱(かや)」が生える地という意味とのこと。

小川の流れる谷筋が集落の南北にあり、古墳の周濠が残ることから萱が生い茂る地だったのかもしれません。

 

下掲は現在の萱生集落の航空写真に、中世の環濠集落エリア(青線・推定)と集落内の路地(赤線)を記入したものです。

萱生環濠集落略図(国土地理院HPより作成)

現在、環濠は集落西側の西山塚古墳の周濠を利用した水堀だけが残り、かつての環濠集落エリアは詳細が不明となっていますが、集落内の菅原神社境内は元々空路宮山古墳(くろくやまこふん)という前方後円墳の墳丘で、こちらの古墳にも近隣の前方後円墳同様かつては周濠がめぐらされていたと考ると、集落の西、北、東の三方を古墳の周濠を転用した堀で囲い、集落の南を流れる小川を天然の濠とした環濠集落だったと推測しています。

また、上述推定エリアの小字は、谷垣内、谷垣ノ内、谷垣ノ内ノ内、天神前という4つの小字に区分されるエリアで、古民家の密集度などからも環濠集落として最初に形成された場所で、近世までに北や東へ集落が拡張されていったと見られます。

 

地名としての萱生の名は、中世の大乗院領・萱生庄として史料上に現れ、平安時代末期の11世紀の古記録・『興福寺延久雑役免帳』にはその名が見えず、南北朝期の1347(貞和3)年に記録された春日神社文書『大乗院領田数段米注進状』に初めて名が見えることから、鎌倉時代に成立した荘園だったと考えられています。

在地の荘官としては萱生氏の名が見えますが、応仁の乱勃発後の1471(文明3)年に東軍方として筒井氏に与した十市郡十市遠清が、西軍・越智氏方の領主が多かった山辺郡への侵攻を開始し、楊本範満父子を敗死させて山辺郡一帯を占領したとき、萱生も十市氏に占領されて萱生氏は故地を追われて滅亡しました。

近世に入り十市氏が大和を去ると、豊臣政権下では織田有楽斎の領地となり、有楽斎死後は江戸時代を通じて奈良奉行所支配の天領となって明治を迎えます。

 

集落周辺

それでは、萱生集落に向かいます。

国道169号線から萱生集落へ向かう小道を東へと進みます。

天気の良い日で龍王山(写真右側の山)もきれいに見えてますね。

道の周りにあるのは柿畑

萱生は「たねなし柿」の代表的品種・刀根早生柿の発祥地であり、近辺はその一大産地として、一般に広く知られています。

 

山の辺の道との交差点に、散策者用の案内板が立てられていました。

環濠の北西隅付近に当たる場所で、小字が「出口」となっていることから環濠の北側出入り口だったのでしょう。

 

振り返ると、奈良盆地二上山生駒山が眼前に広がります。

国道付近からの比高が20m以上あり、見晴らしは良いです。

写真左側にちらりと見えるのは西山塚古墳の周濠。

西山塚古墳は古墳時代後期6世紀前半の築造と見られる古墳で、築造年代から仁賢天皇の皇女で継体天皇の皇后となった手白香皇女(たしらかのひめみこ)の墓ではないかと見られています。

宮内庁萱生町の南隣、中山町にある西殿山古墳手白香皇女の陵墓と治定していますが、西殿山古墳は古墳時代前期の3世紀後半築造と見られることから年代が合わず、実際の被葬者は別人物であろうとされています。

手白香皇女の陵墓は『延喜式』では「衾田墓」とあり山辺郡に葬られたとされるため、周辺地域で唯一6世紀の大型古墳であり、発掘された埴輪が現在学術的に継体天皇陵と推定されている今城塚古墳の埴輪と同じ場所で焼成されたものであることから、西山塚古墳が手白香皇女の陵墓との説が浮上してきました。

本格的な発掘調査は行われていないようで、現在の日本の皇室に直接連なる継体皇統への皇統交代劇でキーマンとなる人物の陵墓の可能性もあるので、今後の発掘調査に期待したいですね。

 

環濠

案内板から南に向かうと、萱生の環濠が見えてきます。

山の辺の道は環濠の中に作られた土橋で集落内とつながれています。

特に案内板に説明はありませんでしたが、西山塚古墳を出曲輪として活用すれば、道路を通って集落へ進入する敵の背後から攻撃可能で、強固な防御の備えになります。

本格的な発掘がないので、古墳が城砦に転用されたのか定かではありませんが、近隣の黒塚古墳や中山大塚古墳が戦国時代に城郭化されていたことを考えると、西山塚古墳も砦として活用されていた可能性は十分にあるかと思います。

※現在は果樹園になっていて削平されており、後世の地形改変で原状がよくわからなくなってる可能性も高いかとは思いますが(苦笑)

 

風のない日は、水面に蔵や家屋の白漆喰が奇麗に反射します。

土橋の傍に立っていた石碑は、表面の摩耗が激しく何と書かれているのか読めませんでした。

山の辺の道を再び北に戻り、大きな屋根の萱生町集荷場の前までやってきました。

おそらく収穫した柿などの農産物の共同集荷場なのでしょう。

集荷場の真ん中を通る道筋が、かつての環濠の北端部に当たると思われます。

 

南側の蔵や民家、北側の田畑より道の位置が低いことから、現在道路になっているところに、かつて濠があったのではないかと推察します。

 

菅原神社

濠跡と思しき道路を東へ進むと、南側の丘の上に神社が見えてきます。

天満宮の社標が見えますが、こちらは萱生集落のほぼ中央、堂の山に鎮座する菅原神社です。

現在の祭神は菅原道真ですが、明治までは天神社と呼ばれ、歳徳神(年神様)が祀られていました。

歳徳神も「天神様」と呼ばれるため、明治の初め頃に全国の神社が国家統制を受ける中で祭神や社名が「整理」された時、「天神様」の呼称から元々信仰されてきた歳徳神菅原道真と混同されてしまい、祭神や呼び名が現在のものにすり替わってしまったようです。

先述のとおり、境内は前方後円墳である空路宮山古墳の墳丘上にあり、本殿南側の円丘が後円部で、前方部はすっかり削平されてほぼ原形をとどめていません。

日露戦争の時、宮の山が明け方鳴動すると騒ぎが起こり、見物人が押し寄せて露店まで出たという逸話が『天理市史』で紹介されていました。

 

こちらは春日造の本殿です。

 

境内の拝殿南側に並ぶ「大神宮」のおかげ灯籠のうち、1771(明和8)年の銘がある灯籠は県内最古の灯篭の一つとのこと。

ちなみにもう一基の最古の灯篭は、伊勢街道沿い接待場(センタイバ)から近鉄八木駅の南側へ近年移設された灯籠で、こちらも明和八年の銘があります。

江戸時代、おかげ参りが大流行した年が1650(慶安3)年、1705(宝永2)年、1771(明和8)年、1830(文政13)年の4回あり、奈良県最古のおかげ灯籠は3度目の流行の年に奉納されたものです。

 

境内の北側に集会所があります。

破風の鬼に「学」と刻まれているので、もともと学校の校舎として利用されていた建物かもしれません。

江戸時代まで観音堂がありましたが、明治初年の神仏分離令で廃寺となって取り壊され、本尊だった1551(天文20)年の銘が刻まれた十一面観音石仏は、萱生の南隣にある中山町の念仏寺に預けられました。

ちなみに現在拝殿の前に設置されている手水鉢は観音堂の遺物で、「正徳二年辰二月 彼岸観音講中」の刻印があります。

 

集会所の東側には、聖観音菩薩や役行者像などの大小の石仏が並びます。

役行者像の隣には「古墳霊供養塔」と刻まれた石碑もありました。

 

境内の西側から集落中央に向かって伸びる参道。

神社の正面は西に向いており、もともと、こちらの道が表参道だったのでしょう。

集落から一直線に境内に至る階段を設けず、スロープがクランクして境内へと続きます。

一見すると城郭の外枡形のような構造で、もしかすると菅原神社境内は中世まで領主居館や、戦時には郷民が立て籠もる場所だったのかもしれません。

平地の環濠集落内でも遠見遮断の路地の「折れ」はよく見ますが、山麓斜面にある萱生の菅原神社西側にある急峻なスロープに設けられた折れは中世山城の升形を彷彿とさせる、強固な防備の造りになっています。

 

菅原神社の参道から西の環濠土橋まで狭い路地が一直線に続きます。

堀端の土蔵と民家の白漆喰が、夕日に映えて美しいです。

堀端の山の辺の道を南に進みます。

山の辺の道沿いに南へ進むと再び集落内に入りますが、道沿いの小屋が果物の無人販売所になっていました。

季節柄(訪問時は真冬)、販売所ではミカンが販売されていました。

今はすっかり刀根早生柿の産地としてお馴染みの萱生ですが、元々は日当たりのよい斜面を利用したミカンの栽培も盛んで、『天理市史』に収録された「盆踊り」の歌詞にも「萱生はよいとこ 蜜柑どこ」と歌われるなど、かつては柿よりも主力の産品でした。

一方、現在一番の名産となっている刀根早生柿は1959(昭和34)年の伊勢湾台風の後に開発された品種です。

一般的な「たねなし柿」より収穫時期が半月ほど早く、そのままでも9月中旬、ハウス栽培するとさらに早く8月中頃までに収穫できたことから、お中元や暑中見舞いのギフトとしてヒットし、今では萱生だけでなく奈良県の特産品として広く県内の柿農家で栽培されています。

 

山の辺の道をさらに南下し、萱生集落の南側出入口まで出てきました。

集落の出入り口には、大神宮の常夜灯とともに猿田彦大神の石碑が立ちます。

常夜灯には幕末1848(嘉永元)年の銘が見えました。

猿田彦大神といえば交通安全の神様。

伊勢参りに向かう萱生郷民の旅の無事を祈念して、伊勢に向かう集落南出口に建立されたのでしょう。

集落の南を龍王山麓から流れる小川は、南側の濠として活用されていたと考えられます。

二つの古墳を組み合わせて活用した強固な守りで、これまでに見たどの集落より城郭の雰囲気を備えた環濠集落だったかもしれません。

山麓斜面という立地に加え、周囲に古墳が密集しているという極めて珍しい地域的特徴が、平野部の環濠集落に比べて立体的で起伏に富んだ萱生環濠独特の風景を生み出しています。

奈良県内の環濠集落をいくつも回ってきましたが、古墳の地形をここまで活用した環濠集落は見たことがありませんでした。

 

しかし、よくよく考えると黒塚古墳や中山大塚古墳などのように近隣は中世城郭に転用された例も多く見られる地域で、萱生環濠のすぐ南にある行燈山古墳は、下掲の写真のように前方部から後円部までびっしりと墓石が並ぶ現役の墓地として活用されています(前方後円墳が墓石で埋め尽くされている光景はなかなか壮観です)。

灯籠山古墳

萱生環濠周辺は、身の回りの地形を巧みに活用してきた人々の歴史が、町の風景の特徴として刻まれていることを改めて感じる場所でした。

 

次回は、竹之内環濠集落をご紹介します。

 

参考文献

『天理市史 上巻 改訂』 天理市史編纂委員会 編

奈良盆地地理歴史データベース・小字データベース 奈良女子大学

『天理市史 下巻 改訂』天理市史編纂委員会 編

美しき国宝本堂は中世建築の傑作・長弓寺~きたやまと散歩(3)

奈良県生駒市北部は、近鉄けいはんな線の延伸もあって交通アクセスが向上し、都会の利便性と自然豊かな田舎の生活が両立できる「トカイナカ」として、注目を浴びているエリアです。

前回まで中世の有力国人・鷹山氏の本拠で現在は茶筅の一大産地である高山地区の旧跡を巡りました。

今回は高山地区の南に位置する上町地区の古刹・長弓寺(ちょうきゅうじ)を訪れました。

全国的に高い知名度を誇る寺社が多い奈良県にあっては、一般に広くその名が知られているとは言えない長弓寺ですが、国宝の本堂は鎌倉期仏堂建築の代表例ともされる名建築で、落ち着いた境内の佇まいとともに知る人ぞ知る名刹です。

その歴史と現在の境内の様子をご紹介します。

長弓寺とは

長弓寺の場所はこちら。

富雄川沿いの大和郡山と河内交野を結ぶ古くからの街道沿いにあります。

以前は最寄りの近鉄富雄駅からバスに揺られて十数分かかりましたが、近鉄学研北生駒駅の開業で、交通アクセスの利便性は大きく向上しました。

山号真弓山で、現在は真言律宗に属する寺院で、寺伝の『長弓寺縁起』によれば730(天平2)年に聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝わります。

長弓寺周辺は古代に鳥見(とみ)と呼ばれた地域の北端で、地元の豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)が聖武天皇随行して狩猟に出た際、誤って息子の放った矢に当たり絶命したため、哀れに思った天皇が菩提を弔うため行基に命じて建立。山号、寺名は小野真弓長弓の名に由来するとされます。

また、1244(寛元2)年に伽藍復興のために作成された勧進文(東大寺所蔵『春華秋月抄』に記載)では、奈良時代後期に藤原良継が狩猟の際に現境内周辺の山林で道に迷い、一寺の建立を発願して難を逃れたので檀弓(まゆみ)を削って十一面観音像を造り、後に建立したのが当寺であるとしています。

いずれにせよ奈良時代に遡る古代からの創建伝承を持ち、創建前後の動向については史料に乏しく詳細は不明な点も多い寺院ではありますが、本尊の十一面観音像が作風から平安時代の作と評価されている点からも、千年前後の歴史をもつ古刹であるのはほぼ間違いないだろう思います。

先述の勧進文では源平合戦のさ中である養和年中(安徳天皇元号)に火災が発生し、本尊は持ち出されて難を逃れたものの、伽藍は焼失したとあり、この時に古代からの堂塔伽藍は失われたと見られます。

本格的に復興するのは鎌倉時代後期で、西大寺叡尊によって本堂をはじめとした諸堂の整備が進められました。

叡尊西大寺や百毫寺、額安寺など現在も奈良県内に残る多くの古代寺院を中興させた人物で、奈良の古社寺を訪れると頻繁にその名が現れる人物です。

法然親鸞道元空海といった同時代の鎌倉新仏教の開祖と比べると、教科書での扱いも小さくて一見地味な人物ですが、大和国箕田里(現大和郡山市白土町)に生まれた叡尊は、真言宗改革のため戒律復興運動を主導して一大ムーブメントを起こし、元寇の際にはその加持祈祷でモンゴル軍撃退に貢献したと信じられ、貴賤を問わず大きな崇敬を受けた僧侶でした。

個人的には、地元(大和郡山市内)出身の有名人としてはもう少し有名になってもいいのになと思う人物です(苦笑)

叡尊について詳しくは下記記事をぜひご覧ください。

しかし、長弓寺の寺勢はその後振るわなかったようで、中世維持した僅かな寺領も1577(天正5)年に織田信長によって没収されました。

信長による大和の寺領没収というと1580(天正8)年に筒井順慶明智光秀滝川一益らによって行われた差出検池で、興福寺や額安寺などが一部または全ての寺領を没収されたことが知られますが、これに先立って長弓寺の寺領が没収された原因は何だったのか、調べてみましたが詳細はわかりませんでした。

同年10月10日に松永久秀信貴山城で滅亡しており、松永方についた国人らの領地が没収されていますが、もしかすると松永方に協力的な姿勢を見せたのかもしれませんね。

 

最盛期には塔頭寺院が20もある大規模寺院でしたが、寺領の喪失もあってか1746(延享3)年の記録では塔頭は9つに半減しています。

明治になると神仏分離令で境内に鎮座していた牛頭天王社が村社・伊弉諾神として分離・独立した他、塔頭宝光院法華院円生院薬師院の4つだけが残りました。

下図は、1891(明治24)年頃の長弓寺の絵図です。

真弓山長弓寺境内真図(『生駒郡寺院(元添下)』(奈良県立図書情報館蔵)より引用)

ほぼ、現在の境内と同じ建物が並んでおり、明治の初め頃には長弓寺境内はほぼ現在の姿となりました。

 

ところで、上図に描かれた建物で、現在の境内からは消えてしまった建物があります。

絵図の右端、現在の薬師院東隣に描かれた塔台閣です。

『大和志料』に掲載された下の境内見取り図にも、薬師院の東隣(右)に「塔」と記載されていますが、かつて長弓寺には、鎌倉末期から南北朝期に建立されたと見られる三重塔がありました。

長弓寺境内坊舎祠堂之図(『大和志料 上巻』(国立国会図書館蔵)より引用)

すでに1746年の段階で二層から上の層は失われて一階部分のみの状態となっており、大日如来が祀られていたと記録されていますが、1936(昭和11)年まで上図の「塔」の位置に建っていたのです。

塔台閣が長弓寺から姿を消すきっかけとなったのが、1934(昭和9)年9月に日本を襲った室戸台風でした。

室戸台風によって長弓寺では倒木で本堂の屋根が大破するなど大きな被害を受け、その修理費用を捻出するため、塔台閣は三井銀行出身の銀行家・前山久吉へ売却されたのです。

売却後、鎌倉へ移築された塔台閣は「長弓堂」と名付けられ、戦後前山が死去すると1954(昭和29)年に西武鉄道堤康次郎が買い取り、前年11月にオープンした品川プリンスホテル(現ランドプリンスホテル高輪)の日本庭園に移築されました。

旧長弓寺三重塔であるプリンスホテル観音堂は、現在も同庭園の中心的な建築の一つとして健在で、東京都内では非常に珍しい中世の建築です。

移築後70年以上経過していることや、現存する中世仏教建築として貴重なことから、2021(令和3)年9月に東京都港区の有形文化財に指定されました。

旧長弓寺三重塔は本堂と同じく鎌倉時代の建築と見られており、そのまま長弓寺に残っていれば、重要文化財に指定されていた可能性もあるでしょうね。

ちなみにグランドプリンスホテル高輪の日本庭園の鐘楼も、1656(明暦2)年に建立された奈良市漢国町念仏寺の鐘楼で、1959(昭和34)年に移築されて、こちらも観音堂と同時に港区の指定文化財となりました。

奈良市には五条町にも念仏寺がありますが、明治12年、同20年頃の寺院明細帳を確認すると五条町念仏寺には鐘楼がなく、漢国町念仏寺には鐘楼が存在して現存していないため、漢国町の念仏寺から移築されたと判断しました。

 

ランドプリンスホテル高輪に移築された旧長弓寺三重塔(現・観音堂)の現在の姿については、下記のリンクをご覧ください。

www.minato-rekishi.com

ちなみに旧長弓寺三重塔が移築されたグランドプリンスホテル高輪の日本庭園は、宿泊者以外の方にも無料開放されています。

筆者は、東京で暮らしていた新婚時代に妻とホテルのレストランでいちごビュッフェを楽しんだ後、こちらの庭園を散策しました…が、全く観音堂の記憶がありません(苦笑)

次回上京の折には、改めて訪問したいかなと考えております。

 

境内

それでは現在の境内の様子を見ていきましょう。

アジサイの寺としても知られ、アジサイシーズンには多くの参拝客でにぎわいますが、そのほかの季節は混雑もなく、ゆっくりと境内散策を楽しむことができます。

あと、境内は散策自由で拝観料は必要ありません。

本堂までの参道沿い

長弓寺の惣門です。

無料の駐車場は、参道南側(写真右)の側道から境内に入るとあります。

 

惣門をくぐると、参道の北側に見えてくるお堂が、宝光院地蔵堂です。

堂内に安置されている地蔵立像は鎌倉時代末期の1315(正和4)年に康俊康成父子によって作製され、現在奈良県有形文化財に指定されています。

康俊は興福寺に属した仏師で、代表作には般若寺(奈良市)本尊の木造文殊菩薩騎獅像などが挙げられます。

現存作品中4点が国の重要文化財、1点が重要美術品に指定されており、当寺の地蔵立像は、康俊の作品としては現存最古のものです。

普段は扉が閉じられていますが、小さな窓からお地蔵様のお姿を拝見することは可能です。

ちなみに宝光院は現存する塔頭のうち、唯一無住の塔頭になっています。

 

参道をさらに東へ進むと蓮池越しに塔頭の庫裏が見えてきました。

煙出しを備えた立派な庫裏です。

蓮池手前の小道を北へ上がっていくと、塔頭法華院があります。

法華院ではお庭を自由に散策できるほか、精進料理をいただくこともできます。

今回はそのまま本堂へ向かいます。

 

蓮池の東端で参道は北に向かいます。

こちらは長弓寺塔頭円生院

境内には自由に散策可能で、事前に予約すると、こちらでも精進料理をいただけます。

※詳しくは円生院のホームページをご確認ください。

 

参道の石段の先に、本堂の大屋根が見えてきました。

 

本堂へ向かう参道の途中、東側に塔頭薬師院のお堂があります。

薬師院でも事前予約で精進料理をいただけます。

詳しくは薬師院のホームページをご覧ください。

 

こちらは参道を挟んで薬師院の西向かいにある円生院護摩堂。

円生院の本尊である不動明王が祀られています。

 

伊弉諾神

参道を本堂方面へ進み、本堂手前に見えてくるのが伊弉諾(いざなぎ)神社です。

長弓寺建立の際に鎮守社として牛頭天王を大宮、八王子を若宮として祀ったとされ、近世までは牛頭天王社でした。

応仁の乱のさ中、1474(文明6)年6月2日に東軍・筒井方の秋篠氏が西軍の鳥見庄荘官・和田氏を攻撃し、この時社殿が焼けたと『大乗院寺社雑事記』にあり、現在の社殿はその後復興されたものと考えられます。

江戸時代まで長久寺の僧侶が神官を務めていましたが、明治の神仏分離令で独立し、村社・伊弉諾神社となりました。

以降、伊邪那岐命素盞嗚命大己貴命を祭神として祀りますが、通常天王社は牛頭天王と習合した素戔嗚を主祭神とする例が殆どなのにも関わらず、本社が全くこれまで祀られた気配もない伊邪那岐主祭神とする神社となったのか、経緯は不明です。

延喜式神名帳』の「添上郡 伊射奈岐神社」に比定されているため、由緒に箔付けをしたかったのかもしれませんね。

また、当社を同じ式内社の「登弥神社」に比定する説もあります。

当社から東に約1kmほど離れたかつての長弓寺境内にある真弓塚は、「饒速日命の墓」との伝承もあり、長弓寺境内は饒速日を奉じて神武東征に抵抗した長髄彦(ながすねひこ)の拠点だったとする説から唱えられているようで、『大和志料』で紹介されています。

長弓寺のある富雄川流域は長髄彦こと登美比古の本拠地だった場所で、いたるところに古墳がある奈良県内にあって、大型古墳が極端に少ないエリアです。

同地域では珍しい大型古墳・富雄丸山古墳からは、2023(令和5)年に2m37cmの国内最大の蛇行剣と過去に類例を見ない鼉龍文盾形銅鏡が発見されるなど、大和政権とは一味違う王権の存在をにおわせるような発見もあり、この地域の古社には古代史ロマンが常に漂います。

こちらは宮座の座小屋と舞台。

舞台の方は屋根は近年修理されたのか、真新しい感じになっていました。

急崖の上に建つ拝殿の先に、本殿が見えます。

春日造の立派な本殿です。

本殿の左側に境内社素戔嗚神社と熊野神社厳島神社がありました。

本殿の北東隅に富士浅間大菩薩が祀られています。

 

浅間大菩薩といえば、富士山の神格・コノハナサクヤヒメで、関東では頻繁にお見掛けしましたが、あまり奈良ではお見掛けしない神様です。

最初に「富士」だけ見えたので、一瞬富士塚かとも思いました。

 

本堂周辺

本堂前の鐘楼に吊るされた「まゆみの鐘」は、自由に撞くことができます。

心を込めて撞いた前後にご志納金をお賽銭箱にお納めしましょう。

ちなみにこちらの梵鐘は、毎年8月6日に広島の平和祈念式典で鳴らされる平和の鐘の作者である鋳金工芸家人間国宝・故香取正彦氏の作とのこと。

 

本堂の西隣にある大師堂

大師堂なので、弘法大師がお祀りされていますが、こちらの堂は大和十三仏霊場巡りでお参りする場所ともなっており、中央に勢至菩薩が祀られていました

ちなみに十三仏は、初七日から三十三回忌の追善供養を司る仏様のことで、勢至菩薩は一周忌本尊となります。

 

大師堂の北側には、板碑や五輪塔などが並びます。

左側の写真で、左から二つ目の宝塔が浮き彫りになっている板碑には、1558(永禄元)年の銘がありました。

翌年から松永久秀による大和侵攻が始まるので、筒井順昭の大和統一によって11年続いた大和の平穏な時代の最後の年に設置された板碑になります。

 

大師堂の南側には、観音菩薩の石像が、東西南北を向いてピラミッド状に並べられていました。

石仏にはそれぞれ33までナンバリングされており、頂上に設置された一番目は如意輪観音と見られるので、西国三十三所の写し霊場となっているようです。

1762(宝暦12)年の銘があり、気軽に旅行ができない時代に、観音巡礼のご利益を近隣の人々が得られるよう設置されたのでしょう。

 

本堂

それでは、いよいよ本堂です。

檜皮葺の屋根の反りがどこから見ても絵になる長久寺本堂は、屋根裏の棟木の墨書から1279(弘安2)年に2月に完成したことが分かり、鎌倉中期に建造されたことが確定できる点からも重要視されてる建築です。

弘安2年は、元寇弘安の役(1281(弘安4)年)が勃発する2年前にあたり、同年6月には幕府が元の使者を博多で斬り捨てるなど日元の緊張関係が、急速に高まっていた時期に当たります。

和様を基調としながら、桟唐戸の扉や柱から突き出た頭貫の木鼻の装飾など、鎌倉時代に中国から導入された大仏様の意匠を取り入れた新和様建築の典型例とされます。

私は鎌倉建築には構造の美に一番の魅力を感じるのですが、こちらの本堂は全国でも屈指の美しさをもつ仏堂だと思います。

どこから見ても本当に絵になり、是非多くの方に観ていただきたい仏堂です。

なお、お正月などの特別な時期を除いて、本堂内部の拝観は予約が必要です(要拝観料)。

ちなみにお正月は無料で拝観可能なのがうれしいところですね。

 

けいはんな線学研北生駒駅開業で、自家用車が無くても訪れることが可能になりましたので、散策がてらに気軽に訪れてみてはいかがでしょうか。

 

基本情報

■住所:奈良県生駒市上町4443

■拝観時間:境内散策自由、本堂のみ9:00~16:00(要事前予約)

■電話・ホームページ:

薬師院:0743-78-2468

円生院:0743-78-3071

法華院:0743-78-2437

 

■アクセス

近鉄けいはんな線学研北生駒駅から徒歩18分

奈良交通 真弓橋バス停下車5分

■駐車場:100台

閑散期は県道7号線から惣門傍の駐車場が便利ですが、通路が非常に狭く駐車場も10台程度しか駐車できないので、アジサイの季節などはならやま大通りから大型駐車場をご利用されるのがおすすめです。

■拝観料:境内散策無料、本堂:300円

参考文献

『生駒と平群 (近畿日本ブックス ; 8)』近畿日本鉄道株式会社近畿文化会 編

『大和志料 上巻 改訂』奈良県教育会 編

『史迹と美術 40(9)(409)長弓寺の旧三重塔』津田誠

『明治十二年七月調 大和国添下郡寺院明細帳』

『奈良市寺院明細帳』