現在奈良県宇陀市の中心市街となっている近鉄榛原駅周辺は、江戸時代まで奈良、京都、大坂と伊勢を結ぶ伊勢本街道の宿場町・萩原宿として栄えました。 現在に残る旧街道の様子と往時の賑わいを伝える痕跡を紹介します。
松永久秀滅亡後、知行宛行権を除く広範な大和の支配権を織田信長から認められた筒井順慶は、信長政権のもとで急速に近世大名への道を歩みます。 順慶によって大和の中世は終焉を迎えることになるのです。
59年ぶりに2回目の関西ダービーとなった2023年の日本シリーズ。 関西のメディアを中心に大きな盛り上がりを見せていますが、1964年に阪神と南海が戦った日本シリーズは、日本シリーズ史上最低の観客動員を記録するほど集客面で苦戦しました。 その原因はなん…
大和で1559年から続く筒井順慶と松永久秀の抗争は1571年辰市城の戦いで順慶が久秀に勝利したことで大きく筒井氏の優勢に傾きます。 織田信長が大和支配で順慶を重用する一方、劣勢の久秀は1577年、居城・信貴山城に籠って信長に反旗を翻しました。
1564年から70年にかけ、大和で繰り広げられた筒井順慶と松永久秀の一進一退の攻防を紹介します。 三好長慶の死から大きく畿内の情勢は動き出し、三好家中で孤立した久秀に順慶の反転攻勢が始まります。
1550(天文19)年に大和を統一した筒井順昭が28歳の若さで死去すると、2歳の遺児・順慶が当主となります。 一族・家臣の支えで筒井氏による大和の平和は守られましたが、1559年松永久秀による大和侵攻でその平和は打ち破られました。
木沢長政の死後、大和で台頭したのが筒井順昭でした。順昭は長政派の残党を掃討しながら勢力を強め、元々同格の有力国人だった箸尾氏、十市氏、そして最大のライバル越智氏を降してわずかか4年で大和統一を果たします。 順昭の大和統一事業と最期を紹介しま…