皆さんこんにちは。
日本の彫刻史上、最も有名な人物の一人として知られる運慶を取り上げて今回が3回目の記事になります。
前回は、壮年の運慶の活躍を中心にご紹介しました。
新たな時代の支配者として台頭してきた東国武士と、親密な関係を早くから構築した奈良仏師は、源頼朝が全国的な権力を掌握後、南都復興における仏像造像の中心的な存在となっていきます。
父、康慶最後の大仕事となった大仏脇侍の造像と、運慶が棟梁として初めて臨んだ東大寺南大門金剛力士像の造立で、慶派の南都復興における存在感は、最大のものとなっていきました。
今回は、その後の運慶と、没後の評価の変遷をご紹介したいと思います。
興福寺北円堂
1203(建仁3)年、東大寺南大門金剛力士像の造像を果たし、法印という僧鋼位の最高位に上り詰めた運慶。
次に一門を挙げて取り組むことになったのは、興福寺伽藍復興の最後を飾る、北円堂造立にともなう造像でした。
1208(承元2)年12月、仏像の材となる木材を清める御衣木加持(みそぎかじ)が、運慶も参列して挙行され、弥勒坐像、脇士坐像2体、羅漢立像2体、四天王立像を作製します。
北円堂に納められたのは1212(建暦2)年頃と見られますので、3年の制作期間を要した大仕事でした。
このうち、北円堂の本尊である弥勒坐像と、世親・無著の両羅漢像が現存し、3体全てが国宝に指定されています。
特に、世親、無著の像は、圧倒的な実在感を誇り、鎌倉彫刻の最高傑作のひとつとして名高いですね。
なお、実際に両像に鑿を振るったのは、運慶の子息たちであり、弥勒坐像やその他の像についても、慶派の主だった仏師たちがその腕を振るったものであったことがわかっています。
かつて、南円堂での父康慶がそうであったように、運慶はあくまで工房の棟梁として、北円堂の造像の全体を統括したのです。
晩年の運慶
興福寺北円堂の造像を終えた後の運慶の事跡は、奈良を離れることになります。
北円堂の造像と同時期に、運慶は京都法勝寺の九重塔の造像に、嫡男湛慶とともに参加しました。
後鳥羽院が願主となったこの造像には、院派、円派の仏師たちも参加し、慶派が中心となったものではありません。
基本的に朝廷主体の造像においては、南都復興の時もそうでしたが、院派、円派、慶派の各仏師がバランス良く配置され、この時代、少なくとも京都の宮廷社会においては、慶派が他派を圧倒するような構図になかったことがうかがえます。
さて、晩年を迎えた運慶の仕事は、鎌倉幕府関係の仏像造立が集中することになります。
1216(建保4)年、将軍源実朝が発願した持仏堂本尊の釈迦如来像を京都で作成し、正月に開眼供養が行われています。
同年11月には、実朝の乳母大弐局の発願により、大日如来、愛染明王、大威徳明王を作製しました。
このうち、大威徳明王坐像は神奈川県の称名寺光明院に現存し、重要文化財に指定されています。
座高21cmほどの小像で欠損個所も多いですが、現在に伝わる運慶最晩年の貴重な一作となっています。
続いて運慶の造像の願主となったのは、父北条時政を追放し、1213(建保元)年に和田義盛を滅ぼして、侍所と政所の別当を兼職、執権として幕府最大の実力者となっていた北条義時でした。
1218(建保6)年、義時が鎌倉に建立した大倉薬師堂の本尊、薬師如来像造立を運慶が担うことになります。
この大倉薬師堂は北条氏が初めて鎌倉に建立した寺院であり、本拠地を伊豆から鎌倉に移し、かつて頼朝が居を構えた大倉の地に建立することで、北条氏の鎌倉におけるプレゼンスを高めるための重要な寺院でした。
その本尊の作成を任された運慶は、やはり関東においては抜群の存在感をもつ仏師であったといえるでしょう。
さらに翌1219(承久元)年には、北条政子の発願で暗殺された将軍実朝の追善のため、勝長寿院内に五仏堂が建立され、この本尊の「五大尊」の造立も、運慶が担いました。
将軍源実朝、執権北条義時、そして尼将軍北条政子と、当時の鎌倉幕府首脳が願主となった寺院の造像を一手に担ったのは運慶であり、鎌倉で院派、円派といった他派の仏師に声がかかることはありませんでした。
やはり関東における運慶の存在感は、京都とは違い、他派を圧倒していたと言えるでしょう。
記録に残る確かな運慶の造像活動は、鎌倉勝長寿院の五仏堂本尊が最後となり、その4年後、1223(貞応2)年12月11日、運慶は世を去りました。
承久の乱から2年、時代は本格的な武士の世を迎えていました。
高まる名声
生前の運慶は、院派、円派に対して、圧倒するような評価を得ていたかというと、必ずしもそうではなかったと言えるかと思います。
先にも述べた法勝寺九重塔における運慶の扱いを見ても、少なくとも京都の権門層における認識は、慶派が他派に優越する存在としていなかったことは明らかです。
運慶没後、彼の名声を高めるうえで、大きな役割を果たしたのは「七条仏師」と呼ばれた運慶の後継者たちでした、
彼らが代々継承する「東大寺大仏師」の職が、運慶に始まるという認識から、その伝承に努め、近世にはいって江戸へ進出した七条仏師たちが、改めて関東でもその名声を広めました。
そして、飛躍的にその名声を高めたのは明治維新による、西洋美術の導入であったと思います。
維新期の近代化において、進歩性や独創性を重視する価値観が強くなると、従来の定朝様から一線を画した運慶の仏像は、停滞した定朝様を克服し、独自の表現を確立したものとして、高い評価を受けるようになりました。
その迫真性と実在性あふれる「リアル」な表現が、西洋彫刻にも引けを取らぬものとして、扱われるようになっていったわけです。
古代ギリシア、ローマやミケランジェロに比肩する彫刻が我が国にもある。それは運慶であり、慶派による「鎌倉彫刻」であるという評価は、今なお根強いんじゃないでしょうか。
また、太平洋戦争の敗戦後、平安末期からの武士の勃興を、停滞した古代の貴族に替わる新たな支配層の出現と肯定的にとらえる史観が、史学会の主流を占めたことも、運慶の名を高めるうえで大きな影響があったと思います。
新たな支配層である武士政権の造像を担った運慶は、新進の気風を現す写実性や人間味に富んだ表現を行った仏師として、現在も中高の歴史教科書で紹介される人物となり、広く一般に知られるようになっていったのです。
美術史だけでなく、文化史においても時代の画期を代表する人物であると評価され、その名声は不動のものとなりました。
運慶の実像
従来の運慶は、南都復興において綺羅星のように出現し、新興支配層である武士の支持を受けて他派を圧倒していったと見られてきました。
しかし実際には、東大寺、興福寺の復興における運慶をはじめとする慶派の扱いは、院派、円派と比べて突出したものではなく、特に朝廷や寺社権門の評価としては、第一人者は同時代、院尊以来、院派が占めていたと考えるのが妥当でしょう。
しかし、武士をはじめ、朝廷、寺社まで、運慶ほど幅広い支持を受けていた仏師は他になく、この点は同時代の仏師たちの中で、運慶が傑出している点であることは間違いないと思います。
表現においても、従来の平明な定朝様を克服し、人間性あふれる「写実的」表現を行った点が進歩的とされてきました。
しかし、このような現代的価値観だけで運慶の仏像を評価することには、いささか違和感があります。
そもそも運慶の仏像が「写実的」かといえば、実際には仏像は架空の存在ですから、そもそも「写実」は不可能です。
実際にその場に生身の肉体が存在しているかのような「実在感」こそ、運慶の仏像の最大の特徴といえるでしょう。
では、どうして運慶は、仏像に実在感を追求していったのでしょうか。
一つの考えとしては、平安末期から盛んとなる「生身の仏」に対する信仰があります。
行者などが、この世に姿を現した仏、即ち「生身の仏」に会うという説話が平安末期に相次いで成立し、それらが流布されることで、人々は「生身の仏」に強い憧れを持ち、新たに作られる仏像に、より「生身性」を求めるようになりました。
鎌倉時代の仏像に特徴的な「玉眼」の使用や、裸形の仏像に布地の着物を着せる「裸形着装像」は、仏像の「生身性」を高めるために採られた技法であるといえます。
こういった時代に生きた運慶は、もとより現代の芸術家とは違い、個人の内面的な欲求から造像するわけではなく、あくまで願主や信仰する人々が望む仏像を、工房の棟梁として具現化したのではないでしょうか。
すなわち、運慶仏のもつ圧倒的実在感と迫真性は、生身の仏を求める社会の要望に極限まで応えた結果生まれたものだったのでしょう。
実際の運慶の仏像は、筋肉の盛り上がりや、衣のひだなど、実際には多くの誇張、デフォルメが見られますが、一見すると実物よりも実物らしく、恰好よく見えるよう、巧妙に造形されており、単純に写生的な表現というわけではありません。
実在感の徹底的な追求こそが、運慶の真骨頂であり、それが同時代のあらゆる層から評価を受け、現代を生きる我々をも圧倒する仏像表現となったと言えるでしょう。
そして驚くべきは、個人としての技巧ではなく、工房のリーダーとして、これらの造像を行ったということです。
自身の技量だけでなく、棟梁としての人遣いの巧さや作品全体を整える力量がなければ、チームワークで多くの優れた作品を遺すことはできなかったはずです。
この点においては、弟子を信用して使うことが苦手だったミケランジェロを、はるかに凌駕する才能があったと言えるかもしれませんね。
時代の要請に応え、実在性あふれる作品を、多くの仏師を率いて作成した大仏師運慶は、単に「天才」という言葉で片付けられない奥深さがあります。
<参考文献>
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