歴史好きの大和徒然草子

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運慶(1)~慶派誕生

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皆さん、こんにちは。

 

運慶という仏師の名はご存知の方も多いでしょう。

同時代を生きたもう一人の著名な仏師快慶とともに、平安末期から鎌倉時代初頭にかけて、一世を風靡した仏師集団慶派の全盛を主導し、仏像表現に革命的な変化をもたらしたとされる人物です。

 

日本の伝統的な彫刻美術といえば、やはり仏像ということになりますね。

飛鳥時代から始まる日本の仏像彫刻。

運慶はその発展の到達点として位置づけられ、江戸、そして明治時代にその評価は飛躍的に高まりました。

そして日本の彫刻史上、最大の偉人として評価され、現在もほぼその評価は揺るがないものといえます。

一方で、そのあまりの名声ゆえに、実像からかけ離れた評価や扱いをうけることもしばしばある運慶。

その実像をご紹介していきたいと思います。

仏師とは

そもそも仏師とは何でしょう。

 

日本で最初に仏師と呼ばれた人物は、史料上、飛鳥時代に活躍した止利仏師です。

法隆寺釈迦三尊像の作者としても知られる人物ですね。

623年作とされる釈迦三尊像の光背銘文にその名が記されているのが、日本の史料上の初見となります。

次に仏師の名が史料上に現れるのは、100年ほど後の734(天平6)年で、空白期間はあるものの、おおよそ7世紀初めごろから、日本には仏像を作成する工人が存在しました。

奈良時代になり、仏の力で国を鎮める、いわゆる鎮護国家仏教が興隆すると、国家事業として全国に寺院が造立されます。

官寺と呼ばれる国立寺院は、国家が運営する官営工房により建設され、寺院内に安置される仏像も、工房に所属する技術者たちにより作成されました。

当時のこれら技術者は、仏師と呼ばれる場合もありましたが、一般的には仏工と呼ばれていたようです。

この時代までの仏師の特徴は、僧侶ではなく、世俗の職人でした。

僧籍の仏師が出現するのは平安時代の前期で、10世紀ごろには一般化していきます。

 

当初は官営工房や寺院に属していた仏師たちでしたが、やがて特定の寺院などに属さず、独立した工房を運営する仏師が現れました。

その最初とされる人物が、10世紀末、関白藤原道長やその一族の発願による仏像の造像を担った康尚です。

康尚は大規模な私工房を持ち、宗派に関わらず広く造像に携わるという、後世における仏師の在り方を確立したほか、仏師で初めて朝廷から講師という僧官位を授けられた点でも、エポックメイキングな人物でした。

講師は僧官の中でも中程度で、高位の僧侶というわけではありませんでしたが、仏師の社会的地位を大きく上昇させたといえます。

定朝の登場と奈良仏師

康尚が興した工房の次代と目される定朝は、宇治平等院の本尊阿弥陀如来坐像の作者として知られます。

定朝は、康尚に続いて時の権力者、関白道長やその一族が造営する寺院の仏像造像を多く担い、仏師では初めて僧鋼位と呼ばれる僧官の最高クラスの位階を与えられ、上から二つ目の法眼にまで登りました。

その造像は「仏の本様」と称せられ、仏像の理想像として貴族からの大きな支持を受けたことで、定朝仏を模範として多くの仏像が、日本全国に広く作成されるようになります。

後に定朝様と呼ばれる、平明優雅な平安時代を代表するこの様式は、長らく日本の仏像のスタンダードとなりました。

また、定朝は、寄木造による仏像制作の完成者ともいわれます。

寄木造は、複数のパーツから一体の仏像を作成する手法です。

一つの木材から作成する一木造に比べ、複数の職人が分業によってパーツを作製することで、効率的に造像が可能な寄木造は、権門による大寺院の造立が相次いだ平安後期において、大量の注文に短期間で応じるには最適な技法でした。

定朝は、工房の分業システムを構築した点で画期となった仏師といえます。

即ち定朝以後の工房のリーダーたる大仏師には、多くの弟子、職人を束ねて仏像のデザイン、制作を統括するだけでなく、作品の受注、部材の調達や費用の見積といった広範な管理業務をこなす経営能力が、求められるようになりました。

定朝工房の規模については、1206(万寿3)年、道長の依頼により27体の等身像を定朝が作った際には、定朝のもとに20人の大仏師がつき、一人の大仏師には5人の小仏師が付いたとされます。

定朝にも同じく5人の小仏師がついたことから、小仏師105人で、定朝を含めて126人規模のプロジェクトチームであり、常時この規模を維持していたかどうかは不明ですが、少なくとも当時の工房のリーダーは、100人規模の仏師たちを統率する能力がなければ、務まりませんでした。

当時の仏師、とりわけ大仏師と呼ばれるような、リーダー層の仏師は、独り木に向き合い、黙々と造像する孤高の芸術家というわけではなかったことがわかりますね。

定朝以後、彼の子や弟子たちは親や師匠から工房を引き継ぎ、あるいは独立して、大規模な工房を運営するようになります。

その系譜から、円派、院派、そして奈良仏師と呼ばれる工房の系統が生まれました。

この三派は定朝の正統な系譜をひく仏所(=仏像を作製する工房)と、当時の宮廷社会では認識されたようで、権門からの仏像造像の注文を独占的に受け、その褒賞として僧鋼位を与えられる仏師が多数輩出されることになります。

この三派の内、奈良仏師は、その名から奈良を拠点にしていたと思われる方もいるかもしれませんが、京都の七条仏所を拠点としていました。

興福寺との関係が深く、その造像を多く担っていた系統であったことから南都仏師、南京仏師とも称された集団です。

定朝の孫と目される頼助に始まる奈良仏師は、康助、康朝と続きましたが、康朝が早くに亡くなると、後継者の成朝が若年であったことから、工房を引き継いだのが運慶の父、康慶でした。

 

慶派誕生

康慶は、奈良仏師に属し、康助、もしくは康朝の弟子であったと目されていますが、生年も没年も不明な謎多き人物です。

康慶が歴史の表舞台にその名を現すのは、1177(治承元)年に完成した蓮華王院五重塔の8体の仏像制作でした。

蓮華王院と聞いてぴんと来ない方も多いかもしれませんが、その本堂が三十三間堂といえば、ああ、あの寺かと思われる方も多いでしょう。

蓮華王院は後白河上皇が自身の離宮内に造営した寺院で、康慶はこの像仏賞により、法橋の位を得て、一躍奈良仏師を代表する大仏師となります。

奈良仏師の血統上の正統は、若年とはいえ康朝の子成朝であり、康慶は傍系の弟子筋といえました。

しかし、蓮華王院以降も後白河との関係は続いた模様で、治天の君であった上皇の仕事を任されるということは、傍系の中でも格別の扱いを受けていたと見られます。

単なる弟子筋ではなく、康助、康朝ら奈良仏師の嫡流と何らかの血縁があったのではという説もあります。

 

そんな康慶の嫡男として生を受けたのが運慶でした。

運慶の生年は、実のところ不明です。

その嫡男湛慶の生年が1173(承安3)年であることが三十三間堂の本尊台座銘からわかることや、現在判明している中で、運慶がその造像に携わった、最も古い作品とされる奈良忍辱山・円成寺大日如来坐像の制作年が1176(安元2)年であることから、生年は12世紀中ごろと推定されています。

父康慶の弟子として、父の工房でその腕を磨いたと推察されます。

現存する最初期の関係作品としては、先にご紹介した円成寺の国宝・大日如来坐像があります。

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「木造大日如来坐像 運慶作 1躯」の名で国宝指定されているこちらの仏像。

その台座の墨書には、以下のように記載されています。

運慶承 安元元年十一月廿四日始之
給料物上品八丈絹肆拾参疋也
已上御身料也
奉渡安元弐秊丙申十月十九日
大仏師康慶
実弟子運慶
(花押)

この墨書により、この仏像が「運慶作」とされているわけです。

しかしながら、運慶の名の前に、父である康慶が「大仏師」と記載されており、実のところこの像は、康慶が工房のリーダーとして受注し、実子であり弟子でもある運慶が、仏像の本体部分を工房の小仏師として担当したものというのが、実際のところではなかったかと考えられます。

近年の研究では、同時代の康慶作とされる浄瑠璃寺大日如来坐像ならびに瑞林寺地蔵菩薩坐像と、円成寺大日如来坐像の正中断面が重なることや、寄木造の各パーツの配置関係がほぼ重なることがわかっています。

これが意味するところは、この3体の仏像が同じ設計図面をもとに制作されたことを強く示唆しています。

即ち、運慶の独創ではなく、康慶工房の受注作である可能性が高いのです。

また、円成寺大日如来坐像には、玉眼という技法が使われていました。

玉眼は仏像の目の部分をくりぬいて、内側から水晶の板を当て、そこに瞳を書いた紙を固定することで、実際の瞳のような実在感を出す技法です。

玉眼については、後年運慶が大仏師、工房のリーダーとなってからは、一部の例外を除いて如来像、菩薩像に玉眼を使用しておらず、明確に使い分けをしていました。

その為、この大日如来坐像の玉眼については、若き日の運慶は、後年のような使い分けを確立できていなかったのだと従来説明されてきました。

しかし、当時まだ大仏師ではなかった運慶が、独創の表現を振るう裁量は限られており、大仏師である父、康慶の指示に服すしかなかったというのが、本当のところではないでしょうか。

父の康慶には、運慶のような玉眼の使い分けは見られず、この点からも大仏師である康慶の指揮監督のもと、若き運慶が大日如来坐像の本体部分の作成を担当した蓋然性が高いと言えます。

そうなってくると、この円成寺大日如来坐像は「運慶作」というより、本来は「康慶作」とすべきではとも思われますね。

先にも述べた通り、当時の仏師は独り木に向き合う孤高の芸術家ではなく、棟梁である大仏師の指揮のもと、分業により仏像を制作していました。

では、このような過程で作られた仏像の作者を誰とすべきであるかと考えれば、これは棟梁たる大仏師の作品と、本来すべきと思われます。

にもかかわらず、円成寺大日如来坐像が、「運慶作」とされるあたりは、運慶の存在が特別視されている証左ともいえるでしょう。

もっとも、衣の下にある肉体の実在感や瑞々しさなど、後年の運慶作品に見える高い表現力の萌芽はすでにこの頃から溢れており、父、康慶の指導の範囲には収まらない、運慶の個性が大きく見えることもまた事実ですね。

運慶がどうしてここまで特別視されるのかについては、おいおい述べていきたいと思います。

 

玉眼の使用や深浅自在な衣文線などにより、伝統的な定朝様の枠を抜け出し、より実在感を強調する作風を生み出したのは、康慶でした。

康慶の下、運慶、快慶といった才能豊かな仏師たちが活躍することで、康慶の系統「慶派」は奈良仏師の中心的存在となっていきます。

そして、いよいよ平安末期、慶派の地位を、一躍押し上げる機会となる事件が発生しまた。

1180(治承4)年に勃発した、平氏による南都焼き討ちが慶派の運命を大きく拓くことになるのです。

<参考文献>


 

 

 

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