皆さん、こんにちは。
場所はこちらで、近鉄橿原線の田原本駅が田原本町中心街の最寄り駅となっています。
田原本町は奈良盆地の中央に位置する町で、弥生時代の大規模環濠集落、唐古・鍵遺跡があることでも有名です。
そんな田原本町の中心地、田原本は近世「寺内町」として栄えた町で、古民家や寺社、そして掘割が今に残ります。
こちらが1704(元禄17)年の「田原本村」の絵図です。
ちなみに上下が東西、左右が北南となっている地図で、地図のもっとも上部(東)を流れる川が寺川で、町の隅々に堀がめぐらされた町だったことがわかります。
上記の絵図をもとに現在の航空写真へ環濠を書き込むと下図のようになります。
この地に町が開けたきっかけは、1595(文禄4)年、豊臣秀吉の家臣で賤ケ岳の七本槍の一人、平野長泰が田原本の地に5000石の領地を与えられたことに始まります。
長泰といえば、大河ドラマ「真田丸」で豊臣家の人質となったばかりの堺雅人演じる真田信繁の上司役として登場し、近藤芳正がコミカルに演じていたのが印象に残ってますが、加藤清正、福島正則らに比べると七本槍ではややマイナーな人物といえるでしょうか。
長泰自身は領地の田原本に居を置くことはなかったのですが、浄土真宗寺院の教行寺に寺内町を作らせ、統治させたのが寺内町田原本の始まりです。
平野氏は豊臣氏滅亡後もなんとか生き残り、参勤交代を行う大身の旗本、交替寄合として江戸幕府に仕えることになります。
1628(寛永5)年に長泰が江戸で死去し、嫡男長勝が平野氏の家督を継ぐと、田原本に陣屋を築き、領内の統治に本腰をいれるようになります。
長勝は寺内町の支配をめぐって対立した教行寺を箸尾に退去させると、その跡地に平野氏の菩提寺本誓寺を、残りの土地に円城寺(現浄照寺)を建立し、新たに町割りを行って町の発展の基礎を築きます。
以後、幕末まで田原本は交替寄合平野氏の城下町として発展するのです。
さて、田原本の町、もともと寺内町ということで、町の南北西に掘割がめぐらされており、現在でもきれいに残っております。
おおよそコンクリートに覆われてはいますが、かつての位置にそのまま堀が残っています。
南側の堀は水量も多く、ほとんど川のようでした。
用水路として現役で活用されている感じです。
奈良盆地には多くの環濠集落の堀が残されていますが、水田が多く残り、農業用水として現役で活用され続けたのが、残った理由の一つかなとも思います。
こちらは町の南にあった大門跡。
古代からの街道である下ツ道が町内を縦貫し、寺川の水運もあって交通の要衝にあった田原本は、江戸時代、橿原の今井町に負けないほどの富を集積したそうです。
町の南、大門と北、陣屋の大手前にある常夜灯です。
かつては街道を行き交う人々が大勢いたことを偲ばせますね。
こちらは堺町付近にある立派なお屋敷です。
田原本の市街中央はかつての寺内町の道幅のままの場所が多く、狭い路地が続きます。
寺内町、田原本の中心寺院であった教行寺の跡地に建つ、浄土真宗寺院の浄照寺と、平領主平野氏の菩提寺でもあった浄土宗本誓寺です。
浄照寺は明治天皇の奈良巡幸の際、こちらで昼食とご休憩をとられたとのこと。
ここから今井町のほうに向かわれたのかもしれないですね。
右手の山門は、伏見城からの移築と伝えられています。
こちらは町役場の東を流れる寺川です。
江戸時代、寺川から大和川を経て大阪とつながった水運で、田原本は問屋町として大いに栄えました。
しかし明治に入ると、奈良県内にも相次いで鉄道が敷設され、水運が廃れるとともに、当時鉄道が走っていなかった田原本の賑わいは失われていきました。
危機感を募らせた町民有志は、奈良盆地を横断する鉄道を敷設して、町を発展させようと考えます。
そして設立されたのが「大和鉄道」です。
まず、大和鉄道は1918(大正7)年に田原本と新王寺を結ぶ区間を開通させました。
大和鉄道はさらに桜井方面に延伸し、1923(大正12)年には桜井町駅までの開業にこぎつけ、1928(昭和3)年には国鉄桜井駅への乗り入れを果たしました。
当時は王寺から桜井まで、南東に向かって真っすぐ大和鉄道で行くことができたわけです。
しかし、この田原本~桜井間は1944(昭和19)年に不要不急線として休止され、線路は撤去されて他の鉄道路線に転用されてしまい、戦後の1958(昭和33)年、正式に廃線となってしまいました。
ちなみに廃線となった大和鉄道の田原本~桜井間の廃線跡は、そのまま県道14号線となっています。
地図で見ると田原本から桜井に向かって、まっすぐ県道14号線が伸びていることがよくわかりますね。
ちなみにこの大和鉄道、中小鉄道会社だったのですが、なかなか野心的で、桜井から名張、さらには宇治山田への延伸計画を立て、1927(昭和2)年には鉄道省から免許も公布されました。
しかし、大和鉄道には実際線路を敷設する実力はなく、この免許は大阪電気軌道(のちの近鉄)の子会社、参宮急行電鉄に譲渡されます。
この免許により敷設されたのが現在の近鉄大阪線桜井~宇治山田区間です。
さて、平野氏の陣屋があった付近を訪れようと、町役場までやってきました。
役場の一角に案内板がありましたが、遺構らしきものは現在ほぼ残っていません。
役場はもともと藩士の屋敷が建っていたようです。
平野氏の居館や政庁は、役場南側の郭内という地域にあったようで、現在完全に住宅地と化しています。
役場の南側の小字は「奥垣内」といいますが、その中に下記地図で紫で塗りつぶした区画が、小字「奥城ヤシキ」となっており、おそらくこの場所に藩主居館があったと推定されます。
役場前のオブジェです。
やはり町としては「弥生時代推し」ですね。
個人的には堀で区切られた寺内町の町並みもなかなか良い町だと思いますが、特にアピールポイントにはしていないようです(苦笑)。
町内の各所に江戸時代の道標が残されているのも、田原本散策の見所です。
こちらは町役場のすぐに南側にある田原本聖救主教会です。
1933(昭和8)年に建てられた教会で、昭和初期の建築としてNHKの朝ドラ、「芋たこなんきん」や「マッサン」のロケ地としても使用された建物です。
ちなみにマッサンでは、教会内で撮影されたようですね。
寺向き通りに面した江戸時代から残る民家。
写真の場所から浄照寺に向かう通りは、田原本町内で唯一江戸時代の建物がまとまって残っている地域になります。
こういった古民家は残していくのも大変かと思いますが、なんとか維持されると嬉しいですね。
こちらは平野氏2代目の長勝が田原本の町割りを行った時に、生活排水用に掘られた背割り水路です。
江戸初期の堀割が、住宅の中にひっそりと残っています。
道標もそうですが、こういう痕跡探しがとっても楽しい町でした。
さて、田原本ですがいかがでしょう。
思った以上に掘割がきっちり残っていたのと、近世寺内町の町割りがそのまま残り、古民家や道標などの痕跡探しがとても楽しかったです。
唐古・鍵遺跡があるので、どうしても古代ロマンが目立つ町ではあるのですが、その中心地もぶらっと散歩すると、隠れた魅力にあふれた町でした。