皆さんこんにちは。
前回は筒井氏の伊賀転封から、嶋左近(島左近)の筒井氏退去、石田三成の家臣となるまでの動向をご紹介しました。
今回は三成のもとでの左近の活躍を追っていきたいと思います。
文禄の役と大和検地
前回、1592(天正20)年4月に、左近の妻が佐和山に暮らしており、この時期には三成と行動を共にしていた可能性が高いとご紹介しました。
三成のもとでの左近の活躍についても、筒井氏時代と同じく、同時代の一次史料がほとんど残されておらず、現在知られる活躍のほとんどは、後世書かれた軍記物によるものになります。
筒井氏同様、石田氏も大名家としては絶えてしまったため、家中の文書が残らずに散逸してしまい、左近の事跡も主人の三成の陰に隠れてしまって、具体的な事実がなかなか伝わっていないということでしょう。
さて、1592年というと、豊臣秀吉が明の征服を目指して4月に朝鮮へ出兵を開始。いわゆる文禄の役が始まった年です。
同年10月、左近の妻の父である北庵法印が、娘婿である左近の高麗陣からの生還を祈願して春日社に願を立てたことが、「多聞院日記」に記されており、このことから左近も文禄の役に参加していたことが伺えます。
実際に朝鮮へ渡海していたかどうかは、残念ながら不明です。
三成の軍事指揮下にあったとするならば、第二軍として渡海していたと考えられますが、この時期、まだ大和国衆であったとするならば、豊臣秀保配下として名護屋に在陣していたとも考えられますね。
文禄の役は当初日本軍が朝鮮半島を短期間のうちに席捲するものの、7月に明が本格的に介入してくると戦線が膠着し、兵站が伸び切った日本軍は兵糧不足で戦線の維持が困難となったため、翌1593(文禄2)年7月に小西行長と三成が中心となって明と休戦交渉をまとめて、日本軍が釜山周辺まで南下。
いったん文禄の役は収束します。
文禄の役における具体的な左近の活躍は資料がなく不明です。
仮に三成の旗下にあったとすれば、激戦となった碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参戦していた可能性があります。
史料上、再び左近が姿を現すのは朝鮮半島での戦いが沈静化した1593年閏9月、左近が西陣(文禄の役)から佐和山に帰還したと「多聞院日記」に記載されており、いったん軍役から戻ったことが伺えます。
その後の左近の足取りですが、意外なところに登場します。
1595(文禄4)年8月、豊臣秀保が7月に急死して豊臣大和大納言家が絶えた後、郡山城に増田長盛が入ると、大和国内で太閤検地が大々的に行われ、このときの「文禄検地帳」の検地奉行の中に「嶋左近」の名が見えます。
左近はこの時、平群郡岡崎村(現奈良県安堵町)を担当しており、同郡竜田村(現奈良県斑鳩町)には三成の名が見え、他郡では三成の兄で豊臣直臣の正澄や増田長盛、長束正家といった豊臣政権下で主に内政面で活躍した奉行たちの名が、記されています。
三成の補佐として、一緒に旧領の平群郡を担当したのでしょう。
おそらく全体的な検地のとりまとめは、三成たち秀吉子飼いの武将が務めたのだろうと思いますが、左近をはじめとした各奉行たちは、ほぼ同列に扱われており、このことは左近がこの時期、三成の直臣というよりは、与力について補佐にあたっていた可能性を示していると見ることもできます。
同時期、小大名級の武将が他の大名の与力につくことは、豊臣政権下では普通に行われています。
わかりやすい例は豊臣秀次の例です。
近江八幡時代の秀次には、田中吉政、山内一豊、中村一氏といった数万石クラスの知行を持つ武将たちが、与力としてつけられていました。
このうち、城を持たない吉政は、3万石の知行を持ちながら近江八幡の屋敷に住んで、秀次を補佐しています。
江戸時代、将軍の直臣扱いながら徳川御三家各家の家老を務めた付家老のような立場ですね。
三成と左近の関係も、このようなものだったのかもしれません。
佐和山での左近
「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に佐和山の城」
という有名な狂歌がありますね。
1592(天正20)年には、佐和山に住んでいたとみられる左近ですが、その事跡は先述の通りほとんど不明です。
清凉寺は1602(慶長7)年、彦根の藩祖井伊直政の墓所として、井伊直孝が左近の屋敷跡に建立した曹洞宗寺院で、井伊家の菩提寺になっています。
この清凉寺には「清凉寺の七不思議」という怪異が伝わっており、うち4つが左近にちなみものです。
1)「左近の南天」
現在も清凉寺に残る南天の木は、左近が生前愛でていたと伝わりますが、これに触ると腹痛を起こすというものです。
2)「壁の月」
清凉寺の方丈は、左近の屋敷の居間を移築したものと伝わりますが、その壁には月形が浮かび上がり、何度塗りなおしても再び浮き上がってくるといわれています。
3)「唸り門」
左近の館の表門をそのまま山門としたが、大みそかになると風もないのに低く不気味なうなり声のような音が聞こえたといいます。
ちなみにこの門は1796(安永5)年に残念ながら焼失し、現在の山門はその後再建されたものになります。
4)「洗濯井戸」
左近が茶の湯に使った井戸があり、そこに汚れた衣類を浸しておくと、一晩で真っ白になったといいます。
前の3つは、祟り神めいたお話ですが、この話だけは少々異質ですね。
残りの3つは左近に直接関係はありません。
5)「佐和山の黒雲」
井伊家の家臣が、佐和山城からの戦利品を虫干ししていると、佐和山の方角から黒雲が沸き上がって風が吹き、戦利品を持ち去られたというもの。
6)「木娘」
本堂前に現在もタブの古木がありますが、夜な夜な女に化けて参詣者を驚かせたといいます。
7)「血の池」
墓地の一角にある池には佐和山落城の際に、多くの人々の地が流れ込み、夕刻になると血みどろの女性の顔が浮かび上がるという、かなりおどろおどろしいものです。
関ヶ原の戦いのあと、佐和山攻城戦は凄惨な掃討戦になりました。
戦後まもなく三成の故地に入封した井伊家の人々にすれば、左近も含めた石田方の怨念や祟りを恐れるのも郁子(むべ)なるかなというところでしょう。
佐和山時代の左近の事跡としては、百間橋の架橋が、数少ない伝承として残されています。
戦前まで、佐和山の西側、現在の彦根城の北側には松原内湖という大きな内湖が広がっていました。
佐和山城から松原内湖を挟んで対岸には、琵琶湖に面する松原の港がありました。
佐和山城から松原に向かうには、松原内湖を大きく迂回する必要があったのですが、琵琶湖の水運に直接アクセスするため、左近の指揮のもと城と松原の間に架けられたのが百間橋でした。
百間橋は幅が5メートル、全長540メートルにもおよぶ巨大な木橋で、左近の屋敷の前から架橋され、当時としてはたいへんな威容を誇ったと考えられます。
「三成に過ぎたるもの」の狂歌では左近と並ぶものとして「佐和山の城」が有名ですが、後に「島の左近と百間の橋」とも歌われたといいます。
江戸時代になると、佐和山から彦根に城下が移ったため、百間橋の位置は三成時代とは違う場所に付け替えられましたが、重要な交通路として昭和の初めまで残っていました。
松原内湖は1944(昭和19)年から、戦中の食糧増産を目的として干拓がはじまり、1947(昭和22)年に干拓が完了して姿を消しました。
松原内湖の消滅とともに百間橋も姿を消して、現在は跡地に「百間橋跡」の石碑を残すのみです。
また、2008(平成20)年に発見された、三成が発給した文書に嶋左近の名が見えます。
この文書は1596(慶長元)年から1599(慶長3)年ごろに発給されたものとみられ、内容は、年貢率は嶋左近・山田上野・四岡帯刀に伝えてあるから、その指示に従って年貢の収納を行うよう、今井清右衛門尉なる人物(おそらく代官か)に指示するものでした。
平時において、行政官として働く左近の姿を伝える貴重な史料で、佐和山時代の左近の動向を示すほぼ唯一のものではないでしょうか。
嶋左近といえば、関ヶ原での剛勇ぶりから、とかく軍事指揮官のイメージが強いですが、小田原征伐における対佐竹帰順工作での活躍や、大和での検地奉行から佐和山での年貢収納など、外交、内政ともに実務をそつなくこなしています。
具体的な事跡はほとんど伝わっていないものの、三成にとって、左近はオールラウンダーな頼れる片腕であったことでしょう。
関ヶ原
1598(慶長3)年8月、慶長の役が続く中、豊臣秀吉が世を去ります。
翌年、前田利家も病没すると豊臣家中では三成ら文治派と、加藤清正、福島正則ら武断派の対立が先鋭化し、そこに付け入った徳川家康が天下人への階段を上り始めます。
利家が没した翌日、正則ら武断派の襲撃を受けた三成は、家康の仲裁により奉行職を解かれ、佐和山へ蟄居することとなり、豊臣政権内で失脚しました。
そして1600(慶長5)年7月、家康が会津の上杉景勝討伐に向かった間隙を縫って、ついに三成は大坂で反家康の兵を挙げることになります。
この頃の左近の具体的な動向を記す、同時代の一次史料はありません。
ある程度信憑性がある史料といえば、19世紀に成立した徳川幕府の正史である「徳川実記」に、上杉討伐のため江戸へ下向する家康を、その途上討ち取るよう、左近が三成に進言したというエピソードがあります。
家康が上杉討伐のために江戸へ向かう途上、長束正家の領地、水口へ入りましたが、これを察知した左近が、夜襲を献策したというものです。
すでに水口での家康暗殺は、正家と申し合わせ済みであったようで、三成は左近の出撃を不要としましたが、左近は強く願い出て出撃します。
しかし、事前に襲撃計画を察知した家康は先を急いでおり、結局左近は家康を急襲することはできませんでした。
三成挙兵後、左近の活躍でよく知られるのが杭瀬川の戦いです。
関ヶ原本戦の前日9月14日に行われた戦いですが、この時まで西軍は岐阜城を失陥したほか、河渡川の戦いでも敗戦を重ねて、著しく士気が落ちていました。
そのうえ、9月14日予想以上に早く家康が赤坂に到着したとの報が伝わり、西軍側に大きな動揺が走ります。
味方の意気が上がらない状況に危機感を持った左近は、東軍に一撃を与えて戦意を高揚させようと三成に奇襲攻撃を提案しました。
三成の許可を得た左近は宇喜多秀家の家臣、明石全登(あかしたけのり)とともに少数の兵を率いて出撃。
西軍本陣の大垣城と、東軍本陣の赤坂の中間を流れる杭瀬川河畔の茂みに兵を伏せて渡河し、東軍の中村一栄隊の目前で、稲を刈り始めて東軍を挑発しました。
この挑発に乗った中村隊と有馬豊氏隊が左近の軍に攻撃を仕掛けます。
攻撃を受けた左近隊が、頃合いを見計らって川を渡り退却を始めると、中村隊、有馬隊も追撃すべく渡河しました。
ここで伏兵が追撃してきた中村隊、有馬隊の退路を断ち、退却を装った左近も反転攻勢して挟み撃ちにします。
いわゆる「釣り野伏」の戦術が見事に当たった形となり、包囲攻撃にさらされた中村隊、有馬隊は家老を討ち取られるなど壊乱状態となりました。
この様子を見た家康は、これ以上の戦線拡大をのぞまず、撤収を命じ、左近も深追いはせず引き上げました。
それまで、前線で連敗が続いて落ち込んでいた西軍の士気は、この快勝で大いに高まったといいます。
「釣り野伏」はおとり部隊が、敵の攻撃を受けながら意図的に撤退するという高度な技術が必要で、指揮官の時機を図る能力と兵士たちの統率力がともに高くないと成立しない戦法です。
左近の優れた軍事指揮能力、旗下の兵士の精兵ぶりがうかがえる戦いですね。
しかし翌日、まさか半日で西軍が大敗を喫して潰走することになろうとは、この時点では左近をはじめとした西軍緒将はもちろん、家康すら想像もしなかったでしょう。
杭瀬川の戦いのあと、家康は大垣に布陣する西軍主力を無視して正常する動きを見せたことから、西軍も本陣を関ヶ原に移し、いよいよ関ヶ原の戦いは本戦を迎えることになります。
何度も小説の題材となり、映画やドラマで描かれ続けたこの天下分け目の合戦ですが、意外にも同時代の一次史料はごくごくわずかで、一次史料からうかがい知れる合戦当日の内容は以下の通りです。
・先手の井伊直正、福島正則の攻撃に東軍諸隊が続き、小早川秀秋、脇坂安治らが裏切ったため、西軍は敗走した。
はい。関ヶ原の戦いの「超概要」という内容で、当然左近の当日の詳細な活躍ぶりを示すものは何もありません。
関ヶ原の戦いの詳細を記した史料のほとんどは後世の二次史料で、こちらは大量にあります。
合戦後、左近は死体や首が見つからなかったようで、戦後の消息も各史料で様々に伝えられています。
戦死したと伝わるものは、銃撃により死亡したという史料が「関ヶ原合戦大全」や「黒田家譜」など多くの史料に見られ、乱戦の中で戦死したものもあります。
また、関ヶ原から撤退後、佐和山城で自刃したというものから、西国へ脱出したというものもあります。
一方、生死不明というものもあり、これがおそらく実態ではないでしょうか。
個人的には乱戦の中で戦死したのだろうと思うのですが、首実検が行われた記録もなく、その遺体が見つからないまま、その後表舞台に現れることもなかったため、左近は消息不明となったのでしょう。
左近は筒井順慶の晩年、にわかに歴史にその姿を現し、天下分け目の関ヶ原で忽然と姿を消した、非常にミステリアスな存在です。
同時代の史料に乏しいものの、左近の仕えた、順慶、三成はともに若年ながら老獪な実力者、松永久秀、徳川家康を相手に立ち向かった武将であり、左近は年若い主君を支える忠勇の士として、実に脚色のしがいがある人物だったといえます。
後世、左近について様々な逸話が伝えられた理由も、そんなところにあるのでしょう。
左近は史料上、おおよそいつ頃、何処にいたかが断片的にわかるだけの人物です。
しかし、その断片からも、筒井家中で順慶の晩年には、有力な筒井氏の臣下となっていたこと、三成のもとで外交、内政で重要な役割を果たしていたこと、関ヶ原ではその戦死の報が伝えられるほど、名の高い武士となっていたことは明らかでしょう。
また、大和の一国人から、秀吉政権を支えた三成に見いだされ、重用されたという事実からも、地縁血縁に拠ることなく、能力的にも優れた人物であったことが伺えます。
しかし、性格や人柄をしのばせる史料は全くと言っていいほど残すことなく、実像が大変見えにくい人物であることは間違いありません。
それゆえに様々な想像を掻き立ててくれるところが、嶋左近という武将の最大の魅力なのかもしれないですね。
<参考資料>