皆さんこんにちは。
その人生と実像が謎に包まれた嶋左近(島左近)について、筒井順慶の家臣時代について、ご紹介してきました。
今回は、順慶死後の左近の動向について、ご紹介していきたいと思います。
筒井氏退去
順慶死後も、左近は筒井定次の旗下にあったようで、1585(天正13)年3月の秀吉による紀州攻めに参加した様子が、「根来焼討太田責細記」に記述されています。
この紀州攻めでは、定次が大きな活躍を見せるのですが、「根来焼討太田責細記」によると、激戦となった千石堀城の戦いにおいて、「根来一の荒法師」とおそれられた守将の的一坊を討ち取ったのは、左近とされています。
後の猛将イメージどおりの活躍といえますね。
同年閏8月に、筒井氏は伊賀に転封となりますが、左近もこれに従って伊賀に赴いたようです。
しかし、実際のところ、史料上、伊賀での左近の動向は、これまたほとんど史料に残っておらず、ほとんど不明というほかありません。
あまりの資料の少なさに、左近は実際には定次の伊賀転封には従わなかったのではないか、とする説さえあります。
伊賀に行かなかったとする説は、河内守護で管領家でもあった畠山氏の末流を称する池田秀陳らが、18世紀中ごろに著した畠山氏とその家臣たちの活躍を記した軍記物、「畠山家譜目録」を出典とするものです。
こちらでは伊賀に同行したのは左近の子である新吉で、左近は順慶時代に与えらた吐田氏の闕所豊田村(現奈良県御所市)に引き続き住んだというものです。
実際に左近が豊田村に住んだかどうかは不明ですが、左近が吐田氏の闕所を領有したのは事実ですので、筒井氏が伊賀に移ったあとも、引き続き同地を左近が領有していた可能性はあり、蓋然性も低くないでしょう。
なお、「畠山家譜目録」を著した池田らは、葛上郡、宇智郡といった現御所市地域の人物で、地元の伝承に沿って記述したとも考えられます。
伊賀における左近の動向について、同時代の一次史料については皆無という状況なのですが、関ケ原の戦いからおおよそ80年後、伊賀上野の国学者、菊岡如玄が著した「伊乱記」にわずかに伊賀時代の左近の動向が記述されています。
「伊乱記」は、天正伊賀の乱から、筒井定次の伊賀治世までを記述した軍記物で、必ずしも歴史的事実を正確に記述していない可能性に注意を払う必要があるのですが、筒井氏治世から100年ほどしか経っていない時期に記述されており、「和州諸将軍傳」などに比べれば、信憑性が高いのではないかと考えています。
伊乱記によると、左近は上野の城下町の南西部にあたる木興(きこ)村(現伊賀市木興町)に2000石の領地を有していたとされます。
そして、1596(慶長元)年に発生した旱魃で、同僚の中坊飛騨守と領地の水争いが発生。このとき主君定次が中坊飛騨守に有利な裁定を下したことから、それを不服とした左近は筒井家を去り、かねてより誼を通じていた石田三成のもとに走ったと記述されています。
しかし、1590(天正18)年に、三成からの使者として、常陸の佐竹氏家臣と交渉していた左近の書状があることや、この時代の一級の一次史料である「多聞院日記」には、1592(天正20)年に左近の妻が三成の本拠地である佐和山に住んでいることが記述されており、筒井家退去の事情はともかく、退いた年次は間違いなく誤りといえるでしょう。
筒井氏退去の時期や理由については、中坊飛騨守との確執以外に、主君定次の暴虐ぶりや、取り巻き連中の傍若無人に愛想をつかしたというものがあります。
「和州諸将軍傳」の記述がこの説をとっており、1588(天正16)年に筒井家を去って、興福寺の塔頭持宝院に遊居したといいます。
持宝院は、左近の父とされる嶋豊前守が建立に関わったとされ、嶋氏にとってゆかりの深い寺院となります。
では実際のところ、左近はいつ、いかなる理由で定次のもとを去ったのでしょう。
直接、左近が筒井氏の配下から外れた年代や事跡を伝える一次史料は残されていないのですが、1589(天正17)年から翌、1590(天正18)年にかけ、筒井家中で内訌が発生し、秀吉の奉行の一人である浅野長政の調停で解決されたことが伺える記述が、「多聞院日記」に残されています。
この筒井氏の内訌は深刻なものだったらしく、定次の国替えの噂が立ち、順慶の生母である大方殿が家中の不和が収まることを祈願して、3日間祈祷まで行ったと記されています。
結局この内訌は、長政の調停、すなわち秀吉の介入により解決されるわけですが、その際、筒井家中の一部は他家に移籍することになったとされています。
秀吉によって、筒井氏の家臣団が再編されたと考えられます。
定次の伊賀転封に従った、筒井の有力家臣のうち、松蔵氏も最終的に筒井氏傘下から離れて豊臣の直臣となっていきますが、左近ともども、おそらくこの時期に筒井氏の傘下から離れていったとみるのが、自然かと考えます。
こうして見ていくと、筒井氏を離れた時期は伊賀転封後から1589年ごろまでで、理由は家中の政争に巻き込まれたからではないかと、「多聞院日記」の記述からは推察できます。
この時期に筒井氏を去ったとすると、1590年に三成のもとで活躍を開始する左近の動向と、全く矛盾がなくなりますね。
筒井家中の内訌について、詳細は現在のところ不明です。
もともと筒井氏の家臣団は、中坊飛騨守に代表されるような、筒井家に古くから服属していた内衆と、左近に代表されるような、もともと筒井氏と同格の国人層が混在していました。
独立心の強い国人出身層と、筒井家の近世大名化を図りたい、定次や内衆との間で、大小様々な対立が生じ、結果的に家臣団の分裂を引き起こしてしまったというのが実情かと推察されます。
石田三成の家臣へ
さて、筒井氏を去った左近はどこにいき、いかなる経緯で石田三成の家臣となったのでしょうか。
これも残念ながら、左近が三成の家臣となった明確な時期や、いきさつを示す同時代の史料は、現在発見されておらず、詳細は不明のままです。
とはいえ、筒井氏退去後の左近については「多聞院日記」の記述に断片的に登場するため、おおよその動きを掴むことはできます。
さて、筒井氏退去後の左近の動向を知るうえで、注目すべき人物に北庵法印という人物がいます。
北庵法印は、興福寺に所属する医者で、この時代の「多聞院日記」の執筆者である英俊の友人であったことから、たびたび「多聞院日記」に姿を現す人物なのですが、実は彼の娘というのが、左近の妻なのです。
そういうわけで、「多聞院日記」の中に、北庵法印の話として、左近の妻(自分の娘)がどこにいたかや、左近その人の動向が断片的に登場します。
まず、筒井氏退去後とみられる1590(天正18)年5月、北庵法印は小田原征伐のため出陣した左近の留守を預かる娘を見舞うため、「亀山」に赴いたと「多聞院日記」にはあります。
この記述から左近が小田原征伐に従軍していたこと、妻と「亀山」と呼ばれる地域、もしくはその近在に住んでいたということが、類推できます。
この「亀山」を伊勢亀山とみなして、左近は当時の亀山城主の関一政や、一政が与力として仕えた蒲生氏郷に仕えていたという説があります。
しかし、近年、小田原征伐のおり、常陸の大名、佐竹氏へ石田三成からの使者として左近が登場する文書が発見されており、蒲生氏配下にいたというのは、個人的には少し疑念があります。
では、北庵法印が赴いた「亀山」がどこなのかを考えるとき、大きなヒントが、娘を見舞った後の北庵法印の足取りにあります。
実は北庵法印は、娘に会った後、奈良には帰らず、6月に丹後の天橋立に立ち寄っていることが 「多聞院日記」に記されています。
となると、「亀山」の場所は伊勢ではなく、奈良から見て北側にあたるとみる方が自然ではないでしょうか。
伊勢亀山では、奈良から見て東にあたるため、そこから直接天橋立に向かうのは不自然です。
となれば、「亀山」とはどこか。
私は、当時左近夫妻は京に住んでいて、「亀山」とは現在の嵐山近辺ではないかと推察しています。
推察の根拠となるのは、興福寺の塔頭寺院蓮成院の記録で、これも一級の一次史料である「蓮成院記録」の1589(天正17)年9月の条に、大和の豊臣秀長配下で1万石以上の者は、3年間の期限付きで、妻をともなって京都に住むよう指示があったとあります。
1587(天正15)年に聚楽第が完成し、翌年には後陽成天皇の聚楽第行幸、毛利輝元の上洛など、ちょうど秀吉の政権が確立した時期で、諸大名を自らの本拠地に集住させようという施策の一環だったのでしょう。
順慶時代に、左近は1万石以上の領地を大和に持っていたと伝わっており、「畠山家譜目録」にあるよう、筒井氏の伊賀転封後も旧領を維持していた可能性があります。
筒井氏退去後に旧領に復したとするならば、秀長指揮下の1万石以上の知行持ちということになって、当時京都に住んでいたのではないかと推察が成り立つのです。
嵯峨野の亀山近辺といえば、古来からの景勝地です。
現在でも亀山公園(嵐山公園)は人気の観光スポットですね。
京都にいる領主の妻女は「人質」ですから、それほど遠方への旅行は許されないでしょうが、日帰りの嵐山見物くらいなら許されたんじゃないでしょうか。
そこで、娘の見舞いに一緒に亀山(嵐山)に赴いたと推察するわけです。
状況証拠しかないのですが、筒井氏退去後の左近は浪人したわけではなく、箸尾氏などと同様に旧大和国人領主として復帰し、秀長配下に入っていた可能性や蓋然性は、十分にあると考えます。
ちなみに、筒井氏退去後に豊臣秀長に仕えたという説がありますが、大和の旧領に復帰していたということであれば、大和国の在地領主は秀長の軍事指揮下に入りましたから、ある意味正しいということなります。
筒井氏退去後に左近が領地の住民や寺社などに発給した文書などが発見されれば、いっきょに筒井氏退去後の左近の動向も明らかになるでしょうね。
さて、次に左近夫妻の居住地が「多聞院日記」に登場するのは、1592(天正20)年4月、左近の妻が近江佐和山に居住していたという記述があります。
前年の1591(天正19)年4月に、石田三成は江北の蔵入地(秀吉の直轄領)の代官として、佐和山城に入城していることから、この年には左近が三成のもとで働いていることが伺える記述になります。
小田原征伐の時点で、左近の妻がいたのが先述の通り、京であったとするなら、当時の三成の領地は美濃国安八郡神戸(現岐阜県神戸町)付近ながら、三成本人は基本的に秀吉に近侍していたでしょうから京、大坂にあり、左近もすでに三成の直臣になっていた可能性があります。
ここまでの左近の動向を整理すると、1588年~1590年5月までの間に筒井氏を退去し、遅くとも1592年までには、三成に本格的に仕えたということが言えそうです。
また仕えるに至った経緯も、筒井氏退去後の左近の身の振り方により大きく変わってくるといえますね。
所領を失い、完全に浪人となったのであれば、関一政の食客として小田原に参陣し、縁あって三成の佐竹氏帰順工作に加わったことがきっかけで、三成に仕えたというような筋も成り立つでしょう。
また、大和の旧領に復して秀長配下、もしくは秀吉の直臣となっていたなら、小田原では三成の与力について、佐竹氏の帰順工作に関与したとも考えられます。
個人的には、佐竹氏一族で重臣だった東(佐竹)義久への使者として左近が出向いていることから、使者の「格」を考えた場合、やはり左近はこの時点ですでに1万石以上の大身の武士だったのではないかと考えます。
使者はただ手紙を持ってくるだけでなく、交渉を行う外交官ですから、軽輩だったり著しく交渉相手と「格」が違うと信用されません。
お家の将来を交渉する使者が、浪人上がりの新規採用者より、それなりの立場のある者、この場合なら、豊臣氏の中核に近い大身の武士のほうが、交渉相手としての信用が格段に高いことは明白でしょう。
また、三成の石高はこの時点では多くて数万石で、とても大身の直臣を抱える経済力はなかったと考えられます。
そうなるとこの時期は、三成の直臣というよりは与力、つまり、秀吉、秀長といった豊臣の臣であった、蓋然性が高いのではないかと考えています。
小田原征伐における三成といえば、忍城の攻城失敗など、軍略面で低く評価されがちですが、関東の雄、常陸の佐竹氏が秀吉に謁見することを仲介し、佐竹氏の秀吉政権帰順に大きな役割を果たしています。
その交渉の最前線に左近はいました。
このとき一緒に働いたことで、三成は左近の能力の高さにほれ込み、しばらくは引き続き与力としてともに働き、秀次失脚後の1595(文禄4)年、佐和山19万4千石を与えられたことを機に、直臣として大禄で召し抱えたのかもしれません。
ここから先は完全に状況証拠からの想像になってしまいますが、筒井氏退去後の左近は、1595年まで大和に旧領を持ち、所属上は豊臣秀長、秀保と続く大和豊臣家の組下ながら、三成を与力として支え、1595年4月におこった秀保の急死による大和豊臣氏の断絶と大和国内の領地再編、7月の三成の佐和山領有を契機として本格的に近江に移った、などと考えると、秀長、秀保に仕えたという伝承とも齟齬がなくなり、三成への仕官も自然な流れに見えるのですがいかがでしょう。
さて、三成が左近を召し抱えたときの逸話として最も有名なのが、水口4万石の領主だった三成が、自分の知行の半分である2万石で浪人の左近を召し抱えたというものがあります。
戦国時代を舞台とする、多くの歴史小説のネタ本となった「常山紀談」にもみられる逸話ですが、これについては水口の当時の領主は中村一氏であり、三成が水口の領主だった事実はなく、近年では虚構、もしくは三成が若年のころ知行のほとんどを割いて、武勇の士を召し抱えた逸話の誤伝とみられます。
不明な部分が多いだけに、いろいろと状況証拠から想像が膨らみます。
そこが嶋左近の最大の魅力ともいえるかもしれないですね。
参考文献