大和徒然草子

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山の辺の織田氏旧跡を巡る~柳本・芝村陣屋跡

皆さんこんにちは。

 

さて、奈良県内に戦国随一の有名大名家である織田家の城下町があるのをご存知でしょうか。

 

戦国の覇者だった織田信長ですが、織田家は彼の横死後に小大名に転落し、江戸時代大名家として残ったのは、次男信雄の家系と、茶人として有名な弟有楽斎(長益)の家系だけでした。

この内、有楽斎の家系が現在の奈良県天理市から桜井市にかけて広がる山の辺の里に、城下町を営んでいたのです。

 

本能寺の変の後、豊臣家の家老となっていた有楽斎は、他の豊臣直臣の多くがそうであったように大和国に領地を持っていました。

大坂夏の陣を前にして大坂城を脱出した有楽斎はしぶとく生き残り、子孫に領地を遺します。

4男長政が式上郡戒重(現奈良県桜井市戒重。後に芝村に陣屋を移転)に1万石、5男尚長式上郡柳本(現奈良県天理市柳本町)に1万石を分与され、明治に至るまで大名として存続しました。

今回は山の辺の里に残る織田氏の旧跡を巡り、ご紹介していこうと思います。

柳本陣屋

まずは柳本藩から。

先述の通り、織田有楽斎の5男であった尚長を初代とする藩で、山辺郡と式上郡に1万石の領地を持っていました。

こちらの藩で特筆すべきは、1709(宝永6)年、4代藩主の秀親が、寛永寺で前将軍徳川綱吉の法会の最中、かねてから仲の悪かった大聖寺新田藩主の前田利昌によって殺害されてしまった事件になるでしょう。

大名が大名を殺害するという江戸時代でも大変稀な出来事です。

当時秀親に子がなかったため、危うく柳本藩は無嗣断絶の危機に陥りましたが、家老たちの機転で利昌は病死したこととし、急遽弟の成純を養嗣子にたてて、この危機を乗り切りました。

小藩であったことから財政状況は厳しく、江戸中期ごろから領民に重税を課したため、度々住民の強訴、一揆が起こり、1802(享和2)年に起きた大規模な一揆では住民と藩兵が衝突し、多数の死者が出るに至りました。

 

幕末は天誅組の乱の鎮圧に加わり、維新期には領内の崇神天皇陵の修築に努めるなど早くから新政府側に近づく動きを見せました。

1871(明治4)年の廃藩置県で柳本県となり、その後奈良県編入され現在に至ります。

そんな柳本藩の中心地である陣屋の場所はこちらです。

さて、JRの万葉まほろば線柳本駅から、かつての柳本陣屋を目指します。

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駅前から、かつての大手筋に直接アクセスできます。

 

大手筋から東を臨む。右手に白漆喰の蔵が見えますが、かつての家老屋敷にあたり、大手筋の奥に陣屋の西門がありました。

 

陣屋西門の脇にあった使者留跡の石垣。

現存する大変貴重な陣屋遺構となります。

 

陣屋内から大手筋を西に臨みます。家老屋敷跡の白壁が見えますね。

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右手に見えるJAならけん柳本支店のちょうど前に西門が立っていました。

 

陣屋の跡は現在柳本小学校になっています。

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元は、中世の大和国人であった柳本氏の居館があったとされる場所で、寛永年間(1624~44年)に織田尚長により陣屋が築かれました。

小学校正門の片隅に柳本陣屋の案内板が設置されています。

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上記案内板の陣屋絵図から、陣屋の縄張りを現在の航空写真に重ねると下図のようになります。

柳本陣屋縄張り図(国土地理院HPより作成)

南北約450m、東西約250m四方を堀とヤブ(土塁)で囲んだ陣屋で、古墳の堀も陣屋の堀として取り込んでいました。

小学校西側の道路から一部残された陣屋の石垣をはっきりと見ることができます。

陣屋のすぐ西には上街道が通り、北へ向かえば奈良・大坂に通じ、南へ向かえば伊勢本街道に通じます。

かつての上街道沿いには、現在も古い町屋が数多く残っていました。

ちなみに陣屋内にあった表向御殿は、橿原神宮に移築され、重要文化財として現存しています。

eich516.com

陣屋の御殿が残っているのは全国的にみても非常に珍しく、貴重な遺構ですね。

そもそも江戸時代の御殿自体、残っていることが珍しい!

 

小学校前にある黒塚古墳の濠。

前述の通り陣屋の堀としても機能していました。

古墳の環濠にも柳本藩時代の石垣が奇麗に残っています。

黒塚古墳は3世紀後半に築造された大型の前方後円墳です。

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崇神天皇陵と並んで、こちらも柳本地域の観光の目玉となる史跡ですので、ぜひこちらもお立ち寄りください。

 

古墳に併設されている古墳展示館は、黒塚古墳の出土品は勿論、柳本藩関連や中世城郭として利用されていた古墳の縄張り図などの展示も豊富です。

www.city.tenri.nara.jp

 

 

芝村陣屋

柳本陣屋跡を後にして、芝村陣屋に向かうため、山の辺の道を南下します。

途中、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳があります。ゆっくり見るのはこれが初めてだったのですが、いやはやデカいです。

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3世紀にこれだけ大規模な土木工事を行ったというのは、我々のご先祖様も大したものだと思いますね。

 

さて、箸墓古墳のすぐ南側に、かつての芝村藩領が広がります。

芝村藩織田有楽斎の4男長政が、父から1万石を分与されたのが始まりで、当初は同じ式上郡戒重に陣屋を構えていました。

1745(延享2)年に、藩領の中心に近い芝村に陣屋が移り、明治まで芝村を拠点とします。

江戸中期には幕府天領の預かりを任されるようになり、1746(延享3)年には預かり地が9万石に達し、本領と合わせて10万石以上の領地を治めるようになりました。

しかし、1753(宝暦3)年に年貢の増徴政策を実施したことが預かり地領民の不満を招いて、反対の一揆が頻発。ついには預かり地の8村と芝村藩領の領民たちが、年貢減免と預かり替を、集団で京都所司代に訴え出る事態となりました。

芝村騒動とよばれるこの事件は、村民200名が一味徒党の罪で処断されて鎮圧されますが、1794(寛政6)年に預かり地における芝村藩役人の不正が発覚したため、芝村藩は全ての預かり地を召し上げられます。

財政は江戸中期から窮乏状態にあり、幕末期には莫大な借金を抱え、ほぼ財政破綻していたといいますが、明治の廃藩置県奈良県編入されるまで存続しました。

 

また、芝村の織田家には有楽斎の茶道についての考えを記した「茶道正伝集」が伝えられ、御家流武家茶道として有楽流の茶道を守ってきました。

元々御家流で一般に広めようという考えもなかったそうですが、昭和に入り有楽流の茶道を学んだ人々からの働き掛けもあり、現在は芝村織田家の当主筋の方が、宗家となっています。

dot.asahi.com

 

まず、芝村織田家菩提寺である慶田寺に向かいます。

場所はこちらです。

曹洞宗のお寺で山号は「三輪山」。

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南側の山門は、かつての芝村陣屋の惣門で、廃藩置県後に移築されました。立派な門構えです。

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芝村陣屋の数少ない貴重な遺構になっています。

ちなみにご本尊の拝観は事前に予約が必要です。

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こちらは芝村織田家菩提寺ですので、歴代当主の墓所もあります。茶人大名であった織田有楽斎の墓もこちらにあります。

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芝村藩歴代当主の墓所織田有楽斎の墓

慶田寺から芝村陣屋跡へ向かいます。芝の町内は古くからの路地が縦横に走り、古い町家も散見されるエリアです。

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陣屋跡の西隣に建勲神社がありました。

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建勲神社といえば当然御祭神は織田信長です。地元では「しんちょこさん」の通称で親しまれているとのこと。信長公の音読みである「しんちょうこう」が転訛していったのでしょうね。

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ちなみに芝村織田家の家系は信長の弟、有楽斎の家系なのですが、4代目の長清は信雄系の宇陀松山藩出身であり、血統上は幕末までは信長の直系子孫が殿様の家でした。

さて、いよいよ陣屋跡へ参りましょう。

場所はこちらです。

下図は『大三輪町史』の芝村陣屋図を参考に御殿の配置と、現在は失われた堀と門を航空写真に記入したもの。

芝村陣屋縄張り(国土地理院HPより作成)

柳本陣屋と同様、上街道のすぐ東側に南北約270m、東西約200m四方を堀で囲んだ陣屋が築かれていました。

 

現在、桜井市織田小学校の敷地がかつての藩邸跡です。

校名もさることながら、校章も織田家家紋である織田木瓜

かつて織田氏城下であったことを現在に色濃く伝える小学校となっています。

 

後年積み直しされていると思われますが南側の石垣は現存しており、往時の陣屋と同じく白漆喰の塀が校舎を囲んでいます。

白壁や陣屋門を模した立派な正門が陣屋の記憶を後世に伝える桜井市の意気込みを感じました。

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小学校の正門わきに設置された案内板。

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小学校南側に残された堀跡。

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かつての陣屋の南口で、惣門が建てられていました。

 

山の辺の里は、多くの古墳に代表される古代史跡や、大神神社などの古社が数多い場所ですが、実は戦国の覇者織田家の末裔たちが治めた城下町でもありました。

城下町ってイメージは全くないところなんですが、少し視点を変えてめぐってみるのも楽しいものです。

 

柳本、芝は、どちらもかつての大手筋や、古い町並みや町割りがそのままの残っているところも多く、かつての街並みを想像しながら散策していてとても楽しい場所でした。

こういった古い町並みが、今なお人々の生活の場として息づいている場所が多いのも、奈良県の大きな魅力だと思います。