皆さんこんにちは。
最後の法隆寺宮大工棟梁、西岡常一棟梁の足跡をご紹介する記事の今回は4回目です。
戦後、法隆寺金堂の復元修理を終えた後、広島県福山市の明王院の解体修理、法輪寺三重塔の再建に参加していた常一ですが、いよいよ常一の宮大工としての集大成ともいうべき仕事に取り組むことになります。
薬師寺宮大工棟梁となる
1967(昭和42)年、薬師寺の管長に高田好胤が就任します。
好胤といえば、話の面白いお坊さんとして有名ですね。
仏法の種をまくことが、自身の使命と考えた好胤は、修学旅行生への法話に力を入れ、ユーモアあふれる法話が人気を博し、東京の三越劇場でも多くの聴衆を集めて法話を行うほどの有名人でした。
そんな好胤が管長となって目指したのが、歴代薬師寺住職たちの悲願であった伽藍復興です。
薬師寺は、飛鳥時代に天武天皇の発願により創建され、平城京遷都ともに現在の地に移転してきた白鳳期の寺院ですが、1528(享禄元)年、一説には筒井順興(順慶の祖父)による放火ともいわれますが、兵火によって東塔以外のほとんど全ての伽藍が焼失しました。
好胤が管長に就いたころは、創建から残る東塔のほか、鎌倉時代に建てられた東院堂、室町時代に建てられた南門、そして江戸時代に再建された金堂、講堂が残されていたものの、傷みがひどく、かつての壮麗な白鳳伽藍の面影など見る影もない有様となっていました。
時は高度経済成長期。
このような時代だからこそ、精神性を伴った伽藍復興を志向した好胤は、いわゆる「百万巻写経勧進」を推し進め、白鳳伽藍再建の実現を目指しました。
思うように勧進が進まないこともありましたが、なんとか費用のめどが立ち、いよいよ金堂再建に向け、具体的に動き始めたところで大きな問題が生じます。
建設を依頼した大手のゼネコンに、すべて断られてしまったのです。
最終的に伏見桃山城の模擬天守などを手掛けた、東京の池田建設に建設業者は決まりましたが、金堂再建ともなれば高度な木造建築の技術が必要となり、鉄筋コンクリートは問題ないが、木造は困難ではないかとの声が、復興委員会の中で起こっていました。
かつて薬師寺に専属していた宮大工は、既に絶えてしまっており、適任の棟梁が見つからなかったのです。
そこで、白羽の矢が立てられたのが、常一でした。
法隆寺の大修理で棟梁として活躍し、すでに学者たちの間でも一目置かれる存在となっていたのでしょう。復興委員会の中で「西岡棟梁がいれば、どこの建設会社でも一緒や」という声が上がったのです。
1970(昭和45)年5月、当時薬師寺復興委員会で金堂復興の委員長であった東大教授、太田博太郎から棟梁を務めてもらいたいと依頼を受けます。
当初、常一は、既に還暦を超えて体力的に衰えを感じていたことや、管長の高田好胤を当時は「タレント住職」と批判的に見ていたこともあり、金堂再建の仕事に前向きではありませんでした。
しかし、薬師寺前管長の橋本凝胤長老から、「太田さんは、西岡さんしか、おらんという。金堂を頼む。」と涙ながらに懇願され、心を打たれた常一は、昭和で最大規模の木造建築となるこの大仕事を引き受けることに決めたのです。
折しも、法輪寺三重塔の再建が資金難で中断していたこともあり、法隆寺も薬師寺側からの申し出を了承。
こうして常一は法輪寺と兼務で、薬師寺宮大工棟梁となり、失なわれた白鳳建築の再建に取り組んでいくこととなるのです。
金堂再建
薬師寺金堂の再建にあたって、まず難問となったのが、どのような姿で再建するかということでした。
白鳳期の薬師寺金堂については図面もなく、様式、姿かたちを具体的に示すものが全く残っていません。
わずかに、薬師寺縁起の中で、初層の柱の高さなどの記述が残されているのみでした。
そこで参考にしたのが、唯一残された創建当初からの遺構である東塔です。
東塔を細かく調査したうえで、その意匠を模して裳階(もこし)から上の二層以上の意匠が検討され、専門家の設計図をもとに常一が10分の1の模型を製作。
こうして最終的な現在の金堂の姿が決められました。
形が決まり、次に問題となったのが施工方法です。
ここで、論争が勃発します。
常一は総ヒノキ造りの木造建築での再建を考えていましたが、復興委員会は鉄筋コンクリートによる再建を進めようとしていました。
常一は、ヒノキに比べ耐用年数が劣る鉄筋コンクリートの導入に強く反発します。
しかし復興委員会側としては、幾度も火災の危機に遭った金堂を、国宝薬師三尊像の防火シェルターにしたいという想いがあり、最終的には防火シャッター付きの鉄筋コンクリートの中に、本尊の薬師三尊を安置し、それをヒノキ造りで覆うという形で再建させることになりました。
施主である薬師寺側の意向に、最終的に常一は従いましたが、やはり不満は消えなかったらしく、「木に竹をつぐ、とはいうが、木にコンクリートをつぐなど聞いたことがない」と漏らしています。
施工方法が決まり、今度は木材選びです。
法隆寺も薬師寺東塔も、飛鳥白鳳の時代から千年以上残る建造物は、全てヒノキでできています。
それも切り出された時点で樹齢千年程度のものが選ばれており、これより若いと腐食しやすく、逆に古すぎても硬くてもろくなるといいます。
しかし、この時すでに日本国内では樹齢千年を超えるようなヒノキはなく、台湾からヒノキを取り寄せることになりました。
このとき、常一は特に願い出て、自ら台湾に足を運んで木材選びを行っています。
法隆寺宮大工の口伝「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」を実践したのです。
木材の検察が終わり、全国から多くの宮大工たちが集って、1971(昭和46)年5月、いよいよ金堂再建が起工しました。
軒の長さは発掘調査で「雨だれ」の跡が見つかり、礎石の位置からピタリと決めることができました。
実際の施工で常一を最も困らせたのが、鉄筋コンクリートとの調整です。
本尊の薬師三尊のシェルターであるコンクリートの箱を、木で囲うように造るため、非常にやりづらい工事であったと、後に述べています。
特に耐震構造について頭を悩ましましたが、コンクリートと木をつなぐボルトの穴を楕円にすることで「遊び」を作り、揺れた際に鉄筋コンクリートと木組みの構造が別個に揺れるようにすることで、解決しました。
防火対策とはいえ、鉄筋コンクリートを用いることに、常一は最後まで不満を感じていましたが、棟梁として見事に「木にコンクリートをつ」いで見せたのです。
金堂は1975(昭和50)年7月に完成し、翌1976(昭和51)年4月に落慶法要が行われました。
法輪寺三重塔再着工と父楢光の死
薬師寺金堂再建が進む中、1973(昭和48)年8月には、資金難で中断していた法輪寺三重塔再建が再着工します。
この時、常一は弟子入りして5年目、26歳の小川三夫を副棟梁として、法輪寺の現場を任せます。
常一は小川を最初から棟梁として育成すると決めていたようで、本来なら下働きから始める大工修業も、小川に対しては弟子入りして間もないころから、図面引きなど、上の仕事からどんどんと任せました。
今度もキャリア5年目の小川に、事実上の棟梁役を任せるというのは、小川にとってもかなりハードルの高い作業だったことでしょう。
小川の下についた大工たちも、全員小川より年上だったといいます。
小川は持ち前の度胸の良さと人使いの巧みさもあって、これまで常一の無茶ぶりともいえる課題をこなしてきたように、1975(昭和50)年3月、見事に三重塔を完成させます。
しかし、度胸のよい小川といえども、塔が完成して足場や素屋根が外される瞬間はさすがに緊張したようで、一番上の素屋根が外されたとき、屋根が大きく傾いて見えたときは、「こりゃ腹切ってお詫びせにゃならん」と顔が青くなったそうです。
結局は目の錯覚で、塔はまっすぐ立っていたのですが、そのあと何度も確認したのはもちろん、屋根が傾いて見えた様は、後年になっても何度も夢に見たと語っています。
法輪寺三重塔竣工から間もなく、病床にあった常一の父、楢光が世を去りました。
享年91。
23歳で西岡常吉の婿養子となってから大工修業を始めたこともあり、技能の習得に大変な苦労と努力を重ね、昭和の大修理では総棟梁を務めるなど、義父常吉に次いで法隆寺の棟梁をつとめました。
息子の常一とは、師匠がともに常吉であったことから、仕事の上では兄弟弟子となります。
そういうこともあって、いわゆる「仲良し親子」とはいいがたい面もありましたが、常一が一人前の大工として、そして棟梁としての成長を促すよう、橿原神宮や法隆寺の修理で時機に即した仕事を与えたのは楢光です。
常一は、大工としての基礎や、棟梁の心得は祖父常吉から学びましたが、学んだことを実践する場を提供したのは、常吉隠居後家長となった楢光であり、楢光なくしてその後の常一の活躍は決してなかったといえるでしょう。
また、戦後結核に倒れた常一を経済的に支えたのも楢光でした。
常一は実父である楢光について、大工としては非常に厳しい評価をしていますが、楢光は規矩や人のまとめ方が非凡で、やはり優れた棟梁でした。
1955(昭和30)年に紫綬褒章、1965(昭和40)年には瑞宝章を受章するなど、広くその功績を認められてもいます。
実は、法輪寺三重塔の再建は、楢光が当初務める予定でしたが、図面を引いた段階ですでに80歳という高齢だったこともあり、住職に勧められて息子の常一に棟梁を譲っていました。
本音の部分では息子に仕事を取られたと、悔しい思いもあったようで、死の間際、病院から自宅に戻るとき、車窓から完成した三重塔を常一が見せようとしても、一瞥もすることなく「もう見たから行け」と言ったそうです。
死の直前まで息子といえども、「取られた仕事」など見たくないという大工のプライド、意地を感じる話ですね。
楢光死後、常一は再建された法輪寺三重塔の通り肘木に「総棟梁西岡楢光」と書きました。
この塔を再建した棟梁は父楢光だと、末永く後世に残そうとしたのです。
薬師寺西塔再建
さて、常一は、高田好胤管主について「タレント住職」という風評から、当初良い印象は持っていませんでした。
しかし、直接会って言葉を交わすうちに、仏法を誰にでもわかりやすく説く、僧侶としての高い学識と力量をもちながら、それでいて、てらいがなく謙虚な人柄に感心し、「この人こそ本当の坊んさんやないか」と敬服するようになります。
金堂が完成間近となったころ、常一は好胤に一通の手紙を送ります。
それは西塔の再建を願うものでした。
当時、西塔跡は雨が降れば水たまりのできる「廃墟」となっていました。
この様子を見た常一は、「東塔だけあって西塔がないのはおかしい。これは仏法の衰退ではないか」と思い、それを好胤に伝えたものでした。
手紙を受け取った好胤は、常一に笑って言いました。
「西岡さんはひどい目にあわす人や。私の代では金堂だけでもうええと思とったのに」
しかし、西塔の再建には当時の文化人たちを中心に猛烈な反対意見が沸き上がります。
反対意見の第一は「景観を破壊する」というものでした。
今となっては東西両塔が並び立つ姿は、すっかり奈良、西ノ京地域を代表する景観となっていますが、当時は西塔が焼失して既に4世紀が経過。
東塔だけが白鳳伽藍唯一の面影を残すものであり、その景観こそが歴史的で美しい姿と認識されていたのです。
焼け残された東塔と朽ち果てた土塀、「滅びゆく中に見える美」こそ、奈良の古社寺には相応しい。そういう見方は今でも根強くあると思います。
好胤も通常どの寺院も塔は一つが当たり前で、薬師寺にしても塔が一つ残ったのだから、西塔を再建する宗教的意義が見いだせず、当初再建には前向きになれずにいました。
そのような中、好胤とともに金堂再建を推進した執事長、安田瑛胤(後に管長)が、西塔再建を果たすため、情熱的に関係者の説得にあたりました。
瑛胤は、薬師寺を生きた信仰の場であり続けることの重要性を説きます。
歴史ある生きた寺院の建築には、平安時代のものもあれば、鎌倉、室町時代のものもあります。
「昭和に何もできなかったら、その時代の僧侶はなにしとったんやとなる」
瑛胤はそう言って関係者を説得して回りますが、「滅びゆく美」が美しいと見る向きは大変強く、説得は一筋縄ではありませんでした。
このような状況で、常一は瑛胤に、「安田さん、願を持っていなはったらできまっせ」と言葉をかけ励まします。
瑛胤は、古くから伝わる伝統や歴史を残すことも大事と考えましたが、生きた宗教は「生々しさ」をもつものだという信念がありました。
本来寺院の建物は、必要があって建てられたのだから、なくなれば復興するものであり、天武天皇、持統天皇の時代の国造りの情熱を今に広めるためにも、今の形も大事だが、西塔を蘇らせる必要があると説得を続け、急転直下で西塔の再建が決まったのです。
1976(昭和51)年4月、金堂落慶法要と同時に西塔の再建が始まりました。
この西塔再建で設計を担当した京都大学教授の金多潔は、東大寺大仏殿の修理で、鉄骨造屋根に初めてスライド工法を用いるなど、鉄骨造工学を駆使した伝統建築保存の嚆矢となった人物でした。
しかし、西塔再建にあたっては鉄材を用いず施工することを認めました。
理由は「東塔が千年前から立っているのだから」というもので、「西岡さんの思うようにやってください」と常一に伝えます。
常一にすれば、我が意を得たりという思いだったことでしょう。
常一にとって、法輪寺三重塔、薬師寺金堂では果たせなかった、古代のままの再建が、ようやく実現できることになったのです。
着工準備が進む中、ここで常一は再び病魔に襲われます。
初期の胃癌でした。
ようやくこれまで培ってきた古代建築の知見を、存分に活かせる仕事を目の前にして、常一は工事に間に合うよう手術を行います。
70歳を目前にし、この仕事は何としてもやりとげたいという常一の執念が感じられますね。
1977(昭和52)年10月、西塔再建の工事が始まると、常一は自宅療養もそこそこに現場に復帰します。
西塔はもちろん東塔を模して造られたのですが、実は東塔よりもオリジナルの白鳳期の様式で再建されました。
というのも、東塔は現在白壁ですが、X線検査の結果、実は室町時代の修理まで、連子格子だったことが判明しており、壁面は連子格子で再建されています。
ちなみに、2009~2020年にかけて、東塔も全面的な解体修理が行われましたが、元の連子格子は再現されず、白壁のまま修理が行われています。
室町での修理の結果を、それはそれとして尊重した結果でしょう。
こうして、白鳳伽藍の生き残りながら、室町の様式となっている東塔と、昭和に再建されたものの白鳳の様式を再現した西塔が現在並び立つことになったのです。
1981(昭和56)年、西塔は多くの宮大工、瓦職人、鍛冶職人たちの伝統技術が結集した結果として完成し、落慶法要を迎えます。
西塔は東塔を模して造られましたが、軒の反りも高さも東塔とは違っています。
千年経てば、荷重で現在の東塔と同じ高さ、軒の反り具合になるよう計算して造られた、というのは有名な話ですね。
しかし、常一は西塔が完成しても、本当に思うようにできたかどうかは、大きな台風や地震が来なければわからないと思っていました。
東塔は、白鳳時代に建てられてから、近世だけでも慶長伏見地震や宝永地震、伊賀上野地震といった最大震度6以上の巨大地震に何度も遭いましたが、歪んだり、一部損壊はあったものの倒壊しませんでした。
倒壊しなかったからこそ千年以上も残り続けたわけです。
常一にとって西塔は、向こう千年残り続けるよう、もてる知見のすべてをささげて取り組んだ仕事です。
次に大きな地震が起きて、「東塔がゆがんだまま立っているのに、西塔が倒れたということになったら、私は生きてはいられないですな。腹切って死ななければなりませんな」と、その思いを述べています。
気候変動による温暖化で年々巨大な台風の上陸が増え、近い将来、必ず起こる南海トラフ巨大地震では、奈良県北部も震度6以上という大きな揺れが想定されています。
「その日」は西塔の真価が問われる日ともなるでしょう。
参考文献
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