歴史好きの大和徒然草子

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「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(3)

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皆さんこんにちは。

 

不世出の宮大工、西岡常一棟梁をご紹介してきましたが、今回3回目となります。

 

1934(昭和9)年に始まった法隆寺昭和の大修理は、日中戦争とそれに続く太平洋戦争の時期に重なり、棟梁の一人として解体修理に従事していた壮年の西岡常一は、3度の招集を受けて戦地と修理現場の往復を繰り返すことになりました。

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戦争を乗り切り、法隆寺に復帰した常一でしたが、戦後の混乱で修理は停滞し、常一も家族を抱えながら食うや食わずの困窮に陥ります。

1949(昭和24)年、失火により法隆寺金堂が焼失する事件がきっかけとなり、修理が本格的に再開されると、常一は棟梁として金堂の復興、復元修理に取り組みました。

 

明王院解体修理への参加

1954(昭和29)年10月、20年にわたる法隆寺の大修理はついに完了します。

大修理の終了で大きな作業が無くなり、常一は大修理の中で出てきた廃古材の整理や、寺の営繕、修理調査など日々の作業を続ける日々となります。

1959(昭和34)年10月からは、広島県福山市にある明王院の解体修理に参加します。

明王院鎌倉時代の本堂と南北朝時代五重塔(ともに国宝)を擁する古刹で、1964(昭和39)年9月まで、常一は福山に単身赴任で解体修理に従事します。

この間、明王院五重塔の調査用の模型工作やオリンピック賛助出品の沼隈神社能舞台模型の製作、伯耆大仙寺本堂厨子の修理など、明王院解体修理以外にも精力的な仕事を残しました。

この明王院の修理が終わると、再び常一に大きな大工の仕事はなくなり、法隆寺の営繕作業や、模型製作などに従事する日々となります。

 

1966(昭和41)年2月、そんな常一のもとに一人の青年が訪ねてきます。

栃木からやってきた高校三年生のその青年は、前年修学旅行で訪れた法隆寺の建築に感動し、自分もこのような建築を作ってみたい、弟子にしてくださいと言いました。

青年の名は小川三夫

常一の唯一人の内弟子となる人物です。

しかし、常一はこの申し出を断りました。

宮大工、とくに常一のように民家を一切やらない宮大工には仕事がなかなかありません。

棟梁である常一ですら経済的に困窮するほどでしたから、軽い気持ちで続けられるような職業ではありませんでした。

また、大工修業を始めるには、18歳の小川は少し歳をとりすぎていると常一は感じていました。

父の楢光も二十を過ぎてから祖父の常吉に弟子入りしましたが、大工修業に入るのが遅かったため、技術的に大変苦労しているのを常一は間近に見てきました。

こういった理由をならべ、常一は小川に思いとどまるよう説得します。

しかし、小川は頑として引き下がりません。

 

小川の決意を受け止めた常一でしたが、弟子をとるうえで、当時最も大きな障害がありました。

小川の修業の場となるべき「現場」がなかったのです。

法隆寺の大修理も終わり、常一ですら大工仕事がない状況で、実際に弟子を養う経済的余裕もありませんでした。

そういった事情もあり、常一は小川に、仕事ができたら弟子に取るからと約束し、この時は小川の弟子入りを断ります。

しかし、突然訪ねてきた小川のため、文部省の文化財保護委員会宛てに紹介状を書くなど、小川の宮大工になりたいという想いに応え、以後、弟子になるまで、小川とは書簡でのやり取りを繰り返すことになります。

 

法輪寺三重塔の再建

さて、明王院の仕事以来、しばらく大きな大工仕事がなかった常一でしたが、数年ぶりの大仕事に取り組むことになります。

1944(昭和19)年、落雷によって焼亡した法輪寺三重塔の再建です。

 

法隆寺五重塔法起寺の三重塔と並んで斑鳩三塔の一つであった法輪寺の三重塔は、焼亡前は国宝に指定されていた飛鳥時代の貴重な建築物でした。

当時の住職井ノ上慶覚は、焼亡直後から三重塔の再建を企図したものの、焼亡で国宝指定を解除されたことから、国費による援助が望めず、資金は自前で調達する必要がありました。

地道に寄付を募り、昭和30年代後半になって再建事業としての形を取り始め、1967(昭和42)年ようやく着工となります。

常一にとっては最初から最後まで棟梁として新築する初めての建造物であり、解体修理で培った知見を、十二分に発揮できる機会となるはずでした。 

 

しかし、この法輪寺三重塔の再建で、常一はその建築技法について、設計を担当した名古屋工業大学教授、竹島卓一と激しく対立することになります。

竹島地震や台風に対する耐久性を考慮し、鉄のボルトによる補強を行うことを主張しました。

飛鳥時代の設計どおり、軒を非常に深くしようとしたとき、隅の方にボルトを掘り込み、それを中央に現代の建築工学引き上げて補強する必要があるとしました。

これは現代建築工学では常識的かつ忠実な設計といえました。

しかし、常一は、ヒノキだけの純木造建築を主張します。

明治期の修理で、木材に穴をあけて鉄製のボルトで補強した塔が、後にボルトが錆びて効力を失うばかりか、木材の腐食まで進める事例を目の当たりにしていた常一は、木材の寿命を縮めるとして、ヒノキの材にボルト補強を行う技法に猛烈に反対します。

そんなことしたら、木が泣きよります

このとき、常一が発した言葉です。

 

また竹島は、将来伝統的な古代建築の技術が絶えてしまった場合を考え、比較的わかりやすい、江戸時代の工法での再建を主張しました。

これにも常一は強く反対します。

常一は法隆寺明王院の解体修理を通じて、飛鳥から江戸時代までの年代の違う工法に直接触れてきましたが、時代が下がるにつれて、木材の特質を活かして丈夫で長持ちさせようという方向から、見栄えよく、なおかつ効率的で経済性の高い工法となっていると気づきます。

よって、木材の特質を活かすという点において、常一には江戸時代の工法は飛鳥の工法に比べて「未熟」と映ったと思われます。

常一は竹島に、飛鳥時代の建築を復元するのに、江戸時代の未熟な技術で復元するとはどういうことか、猛烈に反論しました。

法隆寺の解体修理でも、江戸時代の修理については、常一の言葉を借りれば「もっともお粗末」で、「典型的なやっつけ仕事」であったといいます。

後世、自分の仕事を見た大工に、同じように思われることは常一には耐えがたいことだったのではないでしょうか。

また、技術が失われ、将来の大工が修理できなくなるという考えにも、強く反発しました。

難しい作り方では未来の大工はわからなくなるから、簡単な作り方で残そうというのは、常一には、あまりに未来の大工を馬鹿にした傲慢な考えと映ったのでしょう。

常一の考えは、将来技術が途絶えようとも、「本物」を残すことが大事だ、ということです。

常一自身が法隆寺金堂の復元で、柱の表面の仕上がりから、失われたヤリガンナの技法を復活させたように、「本物」さえ残しておけば、たとえ技術が失われようとも、ちゃんとした大工なら必ず実物から正解にたどり着けるという確信があったのでしょう。

ここで飛鳥の工法による「本物」を残しておかなければ、それこそ伝統技法が永遠に失われてしまうことになり、常一には絶対に許容しがたいことでした。

 

建物を長持ちさせたい、丈夫にしたいという想いは、常一も竹島も同じですが、拠って立つものの違いから、論争はますますエスカレートしていきます。

常一の反論に、竹島が「あなたは学問を信用しないのか」と返すと、常一は「われわれの伝統が千二百~千三百年来の法隆寺を支えてきたんや。そうした工法こそ信用するが、今の学者たちの学問は信用しません」と、言い放ちます。

厳然と目の前に千年以上残る法隆寺を形作った工法は信用できるが、耐久性を実証できない学問など信用できるか、という訳です。

 

論争はヒートアップして、新聞紙面で論陣をはるまで揉めに揉めましたが、最終的には「最低限の鉄材を使用する」ところで妥結しました。

しかし、後の常一の著作物を見る限り、実際のところ常一は見かけ上鉄材は使ったものの、事実上鉄材を用いた工法で施工しなかったようで、当時の法輪寺住職も黙認していたようです。

 

法輪寺三重塔再建は万博開催による人件費の急騰という、思わぬ事態で中断する困難も乗り越え、1975(昭和50)年に完成。

31年ぶりに、斑鳩三塔が斑鳩の里に揃うことになったのです。

 

内弟子をとる

1969(昭和44)年4月、常一は小川の弟子入りをようやく許しました。

法輪寺三重塔の再建作業が本格化し、修業環境が整ったことが大きな理由でした。

3年前に弟子入りを断られた小川は鉋やノミなど道具を使えるようにと、家具屋や仏壇屋に勤めたり、常一の紹介で神社の社殿の図面書きの仕事などを経験していました。

書簡のやり取りはこの間も絶えることなく、法輪寺の三重塔の再建に常一が取り組んでいるという新聞記事を見た小川が、弟子入りのチャンスと見て手紙を送り、常一も弟子入りを許したのです。

 

弟子入りした小川は、常一の家に住み込みで修行することになりました。

いわゆる内弟子です。

さて、常一には二人の息子がいましたが、二人とも宮大工とは違う道を進んでいました。

息子二人には幼少期から自分が受けたように、基礎的な道具の使い方など仕込んではいましたが、戦後経済的にも困窮した時期もあり、常一も自分の仕事を継ぐよう無理強いすることはありませんでした。

小川を内弟子とするにあたり、常一は家族に向かって言い渡します。

「小川は私の跡を継いでくれる人や。これからは何でも小川はわたしの次にする」

実際に食事の席次などは、常一の隣の席になるなど、小川は西岡家の中で「跡取り」同様の扱いを受けることになります。

 

弟子入りして小川がまず課せられたのは、道具の研ぎです。

これは常一自身も幼少時に、祖父の常吉から叩き込まれた、大工としての基礎中の基礎でした。

「これからは本も新聞もテレビも見んでええ。とにかく研ぎをやれ」

技術的な解説書の知識が、感覚的な技術の習得に邪魔になるという考えでしょう。

かつて教科書通りに農作物を作って、思うような結果を得られなかった経験からの言葉と思います。

小川は常一のこの言葉通り、寝る間も惜しんで 一心不乱に研ぎの修業に明け暮れます。

 

常一の小川に対する指導は一貫していました。

ああしろこうしろとは一切言いません。

考えるヒントだけ与えて、気付くのを待つ。

道具の使い方の手本を一回見せて、同じようにやってみろとやらせてみる。

当然初めて使う道具で、最初からまともに使いこなせるわけがありませんが、できるようになるのをひたすら見守ります。

見守る方も、習得するほうも非常に過酷です。

気が遠くなるほど、時間がかかる育成方針で、効率と短期的成果を要求される現代企業では、受け入れられない教育方法でしょう。

しかし、子育てを考えたとき、実に示唆に富んだ教育の姿です。

徒弟制の本質って、社員教育ではなく、子育てなのだなあと感じます。

 

小川は弟子入りの翌日から法輪寺の現場へ連れていかれ、常一と二人きりで、その仕事ぶりを見続け、ともに作業をする中で実地に技術を磨いていきます。

間近に常一という一流の大工の技を見ながら、現場ですぐに自分の仕事が形になって目に見えるという環境は、小川の成長を促すのに最善の環境でした。

弟子入り5年目の1973(昭和48)年には、法輪寺三重塔再建の副棟梁を任されることになります。

 

さて、小川が内弟子となった1969年といえば、大阪万博の前年となります。

万博のパビリオン建設などで人件費が高騰し、法輪寺三重塔の再建は資金難に陥り、ついに1970(昭和45)年には再建を中断せざるを得ない状況となりました。

 

よもやの事態で現場を失った常一でしたが、この年、戦後最大の大仕事と邂逅を果たします。

薬師寺の伽藍復興が始まろうとしていました。

 

 参考文献


 

 


 

 


 

次回はこちらです。

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