大和徒然草子

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「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(2)

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皆さんこんにちは。

 

法隆寺の金堂復興、法輪寺の三重塔再建、そして薬師寺の復興伽藍造営と、数々の歴史的な寺院の改修、復興に携わった不世出の宮大工、西岡常一

前回は、その生い立ちと、棟梁になるまでをご紹介しました。

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1934(昭和9)年に始まる法隆寺昭和の大修理で、常一は東院礼堂の解体修理で初めて棟梁となりますが、当時、大陸では1931(昭和6)年の満州事変以来、日中両国の緊張が高まり、ついに1937(昭和12)年、盧溝橋事件を契機として日中は全面戦争に突入しました。

法隆寺の大修理に取り組む常一は、数度にわたって戦地と修理現場への復帰を繰り返すことになります。

 

戦時下の大修理

1937(昭和12)年7月、盧溝橋事件の発生から日中が全面戦争に突入すると、同年8月に常一は伏見の野砲連隊に応召し、翌年4月にいったん招集解除されたものの、5月に再び招集され、8月ついに138連隊の衛生兵として中国へ渡りました。

奈良で編成された138連隊は後に南方方面に進出し、インパール作戦にも参加して多数の死傷者を出すことになるのですが、1938(昭和13)年に編成された当初は、長江下流域、揚子江河畔の警備にあたっていました。

揚子江を航行する輸送船を、中国軍から守ることが重要な任務であり、揚子江は漢口と南京を結ぶ重要な兵站路であったことから、両軍の激しい戦闘が繰り返され、常一も戦闘中は次々と運ばれてくる負傷兵たちの治療にあたり、夜は負傷者一人一人の怪我の状況の記録におわれる日々を送ります。

翌1939(昭和14)年6月に内地に戻り、8月末にようやく招集を解かれて常一は法隆寺に戻り、大修理の現場へ復帰しました。

 

復帰後に取り掛かったのは、東院の絵殿、舎利殿、伝法堂の解体修理で、常一は復元調査、地下調査を主に担当します。

伝法堂の解体修理と復元にあたって問題となったのが、軒を支える垂木の形状でした。

伝法堂の屋根の南側は、垂木が上下2段からなる二軒(ふたのき)となっていましたが、北側は地垂木だけでの一軒(ひとのき)で二軒の上段部となる飛檐(ひえん)垂木がありませんでした。

この形状が創建当初以来のものなのか、それとも北側も元々二軒であったのかで論争となったのですが、確証となる史料もないため論争は決着しません。

この論争に決着をつけたのは、常一が見つけた「釘跡」でした。

南側の飛檐垂木の中に、北側へもっていくとピタリと釘跡が一致するものがあることに常一は気づきます。

釘は大工が様々な角度で打つため、釘跡が一致するということは、元々その飛檐垂木は北側の屋根にあったという確証になるわけです。

費用や部材が不足していたためか、過去の修理の際に、南側の飛檐垂木の替えとして北側のものを流用し、北側はそのとき一軒になったことがわかったのです。

こうして伝法堂の軒はすべて二軒で復元されることになりました。

 

この発見以降、古社寺の復元にあたっては、従来の形式、様式論だけでなく、部材の釘跡も重要視されることになり、大工ならではの、より実証的な視点を加えた意義は、大変大きな成果といえるでしょう。

 

また、現在伝法堂は、貴人の住居を移築したものというのが通説になっていますが、解体修理中に堂の天蓋が、寝台の天蓋かどうかで論争がおきました。

この時、常一は寝台の天蓋であると主張します。

伝法堂には、いわゆる「天井」がなく、屋根裏が直接天井になっています。

このような場所で寝るには、天井のある寝台が必要であり、先の出征で、天井のない家に住む中国の人々の寝台に屋根がついていることを知った常一は、伝法堂の天蓋が「これと同じ」と確信していました。

そして、後に調査で実際に寝台の屋根ということがわかりました。

 

東院の絵殿、舎利殿、伝法堂の解体修理が終わった1941(昭和16)年8月、常一は再び招集され、満州トルチハの兵站病院に着任します。

衛生兵として着任した常一でしたが、病院での仕事は「経理」の営繕主任でした。

主に病院設備の保守が役割で、建物の修繕が必要な時は、常一が設計して大工を監督していました。

この病院勤務で、常一は生涯ただ一度の経験をします。

英米戦が始まり、いよいよ物資も窮乏していく中、入院している兵士たちの食料を賄うため、残飯を餌とする養豚が発案されました。

養豚には養豚小屋が必要ということで、営繕主任の常一に小屋づくりが命じられることになったのです。物資の少ない中、余った木箱をつぶして板を作り、柱などは廃材を用いて、それでも足りない分は、経理を通して購入し、常一は戦友たちと一緒に豚小屋を作り上げました。

後にも先にも、この養豚小屋が、常一が寺社仏閣以外で手掛けた唯一の建築となりました。

 

満州終戦直前のソ連参戦まで、前線から離れた平穏の地であったため、休日には常一もよく町に出たといいます。

職業柄、やはり現地の建物に目が行き、中国の建物の軒が、日本に比べて浅いことや、壁や屋根の材質が違っていることに気付きます。

日本は多湿で、壁が風雨で痛むのを避けるため、日本の寺社の軒は大陸に比べて非常に深くなっているのですが、その土地土地の風土によって、理にかなった建築が行われいることを知るうえで、大陸での経験は、つらいことも多い時期だったでしょうが、常一の知見を広めるうえで大事な時期ともなりました。

 

ほかにも、トルハチで常一の目を引いたのは、現地のノミでした。

全体が細長い三角形状で、先は丸みを帯びたノミでした。

この形状は飛鳥時代のノミの形状と同じで、古い絵文書などに書かれたものと同じものが、中国で実際に使われていたのです。

常一はこれを数本購入して使ってみると、刃の寸法が一定でないため扱いが難しいものの、よく切れるうえに、四角いノミでは出せない味わいが出て、のちに飛鳥の工人たちの技法を探るうえで、非常に参考になったといいます。

 

2年以上の兵役を務め、1943(昭和18)年10月、常一はようやく招集解除され法隆寺に戻ってきました。

常一不在の間も法隆寺の解体修理は続き、いよいよ最後にして最大の課題であった、五重塔と金堂の解体修理が始まることになり、1942(昭和17)年から五重塔の解体が開始されました。

ところが、現場では多くの働き手が兵隊や徴用に取られていたため、慢性的な人手不足に発生していたのです。

しかし、解体を急ぐ必要がありました。

1942(昭和17)年に、ドーリットル中佐率いる16機のB-25によって、東京、名古屋、神戸が空襲された、いわゆるドーリットル空襲が発生しており、本土空襲への危機感が日に日に増していたのです。

男手が足りない中、保存事務所の女子職員も参加して、五重塔の解体は進められました。

大修理へ復帰した常一は、五重塔の解体調査に取り組みますが、解体と同時に部材の疎開も行っています。

重要部材は、安堵村の豪農の蔵まで運び、その他の部材は裏山に掩体壕を掘って、その中にあわただしく退避させたといいます。

また、常一は伽藍の隅々に迷彩網という網を被せたり、防空壕づくりに忙殺され、兵役から戻ったといっても、戦時下にあっては解体修理に集中できる状況ではありませんでした。

 

常一が五重塔、金堂の解体修理と空襲対策に忙殺される中、1944(昭和19)年7月、法隆寺東院の北にある、斑鳩三塔の一つ、法輪寺の三重塔が落雷により焼失します。

火事の知らせに常一も現場に駆け付けたものの、折からの日照り続きで乾燥していたため火の回りも早く、国内最大で最古と伝わる三重塔が焼け落ちるのを、ただ見守るしかありませんでした。

国宝であった法輪寺の三重塔には、避雷針がつけられていましたが、戦時中の金属供出で取り外されており、そのため落雷により火災が発生したのです。

間接的ながら、これも戦争による被害といえるかもしれませんね。

後に常一は、この法輪寺の三重塔再建に大きくかかわることになります。

 

1945(昭和20)年3月13日、空襲警報が出たため法隆寺を守りに飛び出した常一は、寺の屋根から大阪に火の雨のように降り注ぐ無数の焼夷弾を目撃します。

大阪大空襲でした。

ところで、米軍は京都や奈良の寺社仏閣を空襲の目標から外したと、まことしやかに伝わりますが、京都が大規模な焼夷弾による空襲を免れたのは、有力な原爆の投下候補地であったためであるとみられ、奈良は1945年6月以降、奈良市中心市街地を含め、県下全域に爆撃をともなう空襲が行われており、米軍が京都、奈良の寺社に対する攻撃を憚ったというのは「神話」といえるでしょう。

法隆寺近辺でも興留地区で機銃掃射をともなう空襲がありましたが、幸いにして法隆寺焼夷弾が落とされることはありませんでした。

 

4月、常一は再び招集を受け、朝鮮木浦望雲飛行場に派遣されました。

通算4度目、戦中で3度目の兵役です。

飛行場の警備任務にあたりながら、塹壕防空壕の設計に追われる毎日となります。

空襲に遭うなど、命の危険にもさらされましたが、常一はこの地で終戦を迎えました。

10月に釜山から福岡に渡り、常一は法隆寺に帰ってきます。

戦中3度も応召しながら、常一は戦争の時代を生き抜きました。

 

金堂炎上

 

法隆寺に無事戻ることのできた常一でしたが、彼を待っていたのは深刻な経済的困窮でした。

終戦直後の混乱で法隆寺の大修理も中断同然の状態となっており、収入の道を断たれた常一一家は日々の糧を得るのも困難な状況にあり、戦友から融通してもらったヤミ物資の靴や、結婚式の時の羽織袴まで、身の回りの売れるものは全て売って糊口をしのぎました。

大修理の作業といえば、各地に疎開させていた部材を法隆寺に戻し、資料整理するのがやっとという状態だったようです。

夜には五重塔の学術模型を作ったころに身に付けた、木工芸の技術で厨子を作るなどしてわずかな収入を得ていました。

 

このような苦しい生活が続く中、1949(昭和24)年1月26日未明、法隆寺金堂が炎上し、国宝の法隆寺金堂壁画が全焼するという悲劇が起こります。

当時、金堂では解体修理に合わせて壁画の模写が行われていましたが、画家たちが使っていた電気座布団の過熱が原因といわれています。

しかし、皮肉にもこの火災がきっかけで、国も文化財の保護に本腰を入れるようになり、翌1950(昭和25)年には文化財保護法が制定。

法隆寺の大修理にも国から予算が付くことが決まりました。

予算が付いたことで中断同然だった解体修理も再び動き出すことになったのです。

火災前、米一升25円のこの時代、普通の大工の日当が600円ほどだったころ、常一の日当はわずか8円20銭でした。

しかし、火災後に修理に国の予算が投入されたことで、常一の日当は一気に450円まで上がり、ようやく一家を養うのに、その日の食料にも事欠く状況からは解放されます。

 

金堂の火災では、壁画は焼損したものの、既に上層の解体が始まっていたため、仏像や上層の部材は火災に巻き込まれなかったことは、不幸中の幸いでした。

下層部は新材を用いて復元し、上層は修理することで金堂を復興することとなり、常一が棟梁となります。

 

さて、いよいよ再建となった頃、常一に突然の不幸が降りかかります。

栄養失調に過労がたたったのか、常一は結核をり患して、現場を離れざるを得なくなったのです。

さらに不幸は重なって、妻のカズエも感染してしまい、夫婦ともに病に臥せることになってしまいました。

中学生の長男をはじめ、4人の子どもを抱えながら収入も断たれ、このときが常一の人生で最もつらい時期だったかもしれません。

まだ特効薬もない時代で、栄養をつけて静養し、回復を待つしかない状況で、父の楢光は苦しい経済状態でも肉や卵を無理してでも手に入れて、常一らに食べさせました。

また、楢光はこの苦境を乗り切るため、田畑も売り払います。

 

人生最大の苦境にあった常一でしたが、当時の法隆寺管長、佐伯定胤が信徒の製薬会社の人に、「寺の棟梁が困っているさかい、いい薬があれば」と相談し、その人を通じて、当時日本ではまだ製造されていなかった、抗生物質ストレプトマイシンの投与を受けることができたのです。

この効果はてきめんで、医者から完治まで三年かかるといわれていたところ、急速に回復して、妻ともども2年もたたないうちに回復し、常一は棟梁として金堂再建に復帰しました。

 

法隆寺の鬼

さて、金堂修復における常一のエピソードで有名なものの一つに、金堂の屋根の形状に関する学者との論争があります。

すなわち、創建当時の金堂の屋根は「錣葺き」か「入母屋造り」かというものです。

当時、藤島亥治郎(東京大学工学部名誉教授)や村田治郎(京都大学工学部名誉教授)といった、古代建築の泰斗たちは、創建時の法隆寺金堂の屋根は、玉虫厨子と同じ「錣葺き」であると主張し、学界の通説ともなっていました。

建築様式の推移上、「錣葺き」に違いないという訳です。

しかし、実際に金堂を解体し、目の前の部材の組み方を大工として考えたとき、常一には「錣葺き」で金堂のような大きな建物の屋根に、玉虫厨子のような大きな反りを造るのは無理だと思いました。

そして、学界の巨頭たちを向こうに回して「入母屋造り」であると主張します。

しかし、棟梁とはいえ、一介の大工に過ぎないと見られていた常一の意見に、学者たちは耳を貸そうとしません。

ここで常一は、実に実証的に学者たちを論破するのです。

 

まず、現場に学者たちを呼んで、集めた調査資料をもとに、目の前で屋根を組んで見せました。

目の前で「錣葺き」で組むことはできず、必然的に「入母屋造り」となることを示したのです。

学者は自分たちで屋根を組むことはできませんから、常一に誰も反論できる人はいなかったそうです。

とはいえ、この時点ではまだ学者たちも自説をひっこめるまでには至りませんでした。

 

この論争にとどめを刺したのが、伝法堂の時と同じ「釘穴」でした。

常一は解体の際に、屋根の下から上下の垂木をつないでいた当て木を発見し、垂木の位置と当て木についた釘跡から、「入母屋造り」であったこと、「錣葺き」はありえないことを実証して見せたのです。

明確な証拠を見せられては、学者たちも様式論に基づく自説を変更せざるを得ず、金堂はそれまでの通説を覆す、「入母屋造り」で再建されることになりました。

 

常一は、学界の権威といえど、大工として現場で得られた知見と事実に反する説には、ひるむことなく反論し、その歯に衣着せぬ舌鋒に、「法隆寺の鬼」と一目置かれる存在となります。

伝統と経験に基づく、大工としての気付きと、自説を実証的に伝えられるところが、常一を不世出の宮大工ならしめているところといえるでしょう。

  

そして金堂修理における、常一にまつわるエピソードで忘れてはならないのが槍がんなの復元です。

槍がんなは室町時代に姿を消した工具で、飛鳥時代に造られた法隆寺の柱などの表面加工に使われてた工具でした。

現在木材の表面加工といえば台がんなが主に使われますが、台がんなでは飛鳥時代から残る、法隆寺の柱の風合いをどうしても出すことができません。

金堂下層の修復は飛鳥様式で行うこととなっていましたが、焼失した柱の表面加工を行うには、槍がんなが必要と常一は考えます。

しかし、室町時代に絶えてしまった工具で、大工道具としての実物は既に存在せず、その復元は非常に困難なものになりました。

正倉院の宝物として残されていた、工芸用と思しき小さな槍がんなから、形状を類推することはできたものの、大工道具としては小さすぎ、これをそのまま復元しても使えません。

そこで常一は、法隆寺の柱に残る槍がんなの削り跡を計測し、ここでも大工ならではの実証的な視点で、刃の大きさは10センチ前後と突き止めました。

こうしてようやく試作品を作成したものの、これが全く切れない代物で、常一は最初、自身の技術の低さを疑ったものの、何度試してもダメで、徐々に鉄の材質に問題があるのではと考えます。

そこで解体修理で出てきた古代の釘を、刀匠に鍛えなおしてもらって槍ガンナを作成したところ、これが驚くほどよく切れました。

刃には鍛え抜かれた和鉄を用いることで、ようやく槍がんなの復元に成功したのです。

 

さて、道具を復元しても、使えないことには話になりません。

とはいえ、形状はわかっているものの、使い方を記した文献は全く残っておらず、常一は「春日権現絵巻」などの絵巻に残された、槍がんなを使う大工の絵を参考に、3年をかけて習得しました。

常一によると、槍がんなは体全体を使い、腹に力を込めて一気にさっと引くのがコツで、若い者には「へそで削れ」と指導したといいます。

槍がんなは扱いも手入れも難しいものの、木の繊維のとおりに戦意細胞を破壊せずに削ることができるため、これで仕上げた木の表面は、濡れても水切れが非常によく、腐食しにくい特性を持ちます。

これが電気がんなでは、刃で木の繊維を千切るように削るため、表面が顕微鏡レベルで見るとけば立っており、濡れると水が入り込んですぐにカビが生えて傷むといいます。

 

法隆寺の飛鳥建築が千年以上残ったのは、こういった道具で丁寧に仕上げられた結果といえるでしょう。

 

道具がそろい、戦中、戦後と大変な時期に、20年にわたって営々と続けられた法隆寺の大修理は、いよいよ完成に向かってラストスパートとなりました。

 

 

 参考文献


 

 


 

 


 

次回はこちらです。

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