皆さんこんにちは。
前回は、寺院が丸ごと神社に姿を変えた妙楽寺をご紹介しました。
さて、「神宮寺」という言葉をご存じでしょうか。
神仏習合が進んだ江戸時代以前、神社に併設された寺院のことで、明治以降の神仏分離令で最も打撃を被った寺院といえます。
日本でも最古級の神社として名高い奈良県桜井市の「大神神社」には、かつて3つの神宮寺がありました。
いずれも神仏分離令とその後に続く廃仏毀釈の風潮の中、廃寺となりますが、今回は三者三様のその後を歩んだ、大神神社の神宮寺についてご紹介したいと思います。
大御輪寺
このブログ冒頭の絵は、江戸時代に刊行された、大和名所図会に掲載された三輪社の図です。
左側のページに「大三輪寺 若宮」と記載され、寺院が描かれていますが、これが大御輪寺(だいごりんじ)です。
大御輪寺の歴史は奈良時代にさかのぼり、そのころは大神寺と呼ばれていたようです。
もともと大神神社の祭主であった大神氏の館であった場所に建てられたともいわれ、鎌倉時代に叡尊による中興の後、大御輪寺と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代に建てられた本堂には、本尊である十一面観音像と祭神である大直禰子命(大神氏の祖とされる。大神神社祭神、大物主大神の子)の神像が併せて祀られていました。
中世以降、大神神社の神は「三輪明神」として大日如来と習合し、当寺を含めた3つの神宮寺により「三輪神道」が広く世に知られるようになり人々の信仰を集めるようになっていくのです。
しかし、明治の神仏分離令によって、奈良時代から続く古刹は廃寺となり、本堂を残してその他の堂塔の多くが破却され、境内は大直禰子神社とました。
こちらが現在の大直禰子神社です。
正面の鳥居の奥に社殿が見えますが、どう見ても寺院のお堂にしか見えませんね。
それもそのはずで、かつての大御輪寺の本堂がそのまま転用されています。
祀られていた大直禰子命の神像を安置する場所が必要だったため、その他の堂塔とは異なって破却を免れたようです。
こちらの社殿は近年の解体修理を伴う調査で、奈良時代の部材が一部使われていることが判明しており、かつての神宮寺の姿を今に残す貴重な遺構として、国重要文化財の指定を受けています。
廃寺により本尊の十一面観音は、同じ桜井市内の聖林寺に移されました。
事前に当時の大神神社の神官と、聖林寺の住職とが申し合わせて移動させたようです。
こちらの観音様は現在国宝に指定され、天平時代の傑作とも評価されています。
浄願寺
浄願寺は尼寺で、鎌倉時代の創建といわれています。
所在地は大神神社の南側、同じく大神神社の神宮寺であった平等寺との間にあったと考えられます。
こちらも神仏分離令によって廃寺となりました。
1290(正応3)年に創建された当寺の鎮守社、成願稲荷神社だけが残され、現在大神神社の末社となっています。
平等寺
平等寺は聖徳太子の開基という伝承もありますが、文献上の初見は鎌倉期の1236年(嘉禎2年)で、真言宗の立場から神仏両部神道を確立した慶円が、大神神社の近傍に真言灌頂の道場を建立したのが始まりとされます。
慶円は「三輪神道」の創始者ともいわれていますので、大神神社の神仏習合を推進した立役者といえる人物でした。
鎌倉時代から江戸時代までは興福寺の末寺となり、江戸時代以降は興福寺から独立を果たして真言宗寺院となります。
三輪明神の別当寺として栄え、おおよそ南北330メートル、東西500メートルという広大な境内の中に七堂伽藍のほか12の坊舎をかかえる大寺院でした。
平等寺に関しては、戦国武将島津義弘との奇縁もご紹介しておきたいと思います。
1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで西軍につき、戦いの終盤で世に名高い「敵中突破」で戦線を離脱した島津義弘は、配下13名を連れこの平等寺に落ち延びてきました。
その後主従は70日間平等寺に匿われたのち、寺僧たちから薩摩へ帰る路銀を融通してもらって、無事に帰郷を果たすことができたのです。
これ以後、島津氏は平等寺と懇意となり、江戸の中期には護摩堂を寄進したり、幕末までの250年間、毎年米と祈祷料を奉納しました。
藩祖の恩を主従ともども忘れなかったのですね。
明治の神仏分離令に際しては大御輪寺、浄願寺と同様、寺域は大神神社の管理におかれて廃寺となり、七堂伽藍や多くの坊舎はことごとく破却されました。
しかし、この動きを察知していた当時の住職や地元の有志達は、事前に用地を確保したうえで塔頭の一部を移します。
また、多くの仏像、寺宝が失われる中、本尊十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石等は流出から守られました。
そして曹洞宗慶田寺住職の梁天和尚が翠松庵の寺号を移して曹洞宗に改宗。こうして平等寺の法灯はかろうじて守られたのです。
その後、1977(昭和52)年に曹洞宗寺院「三輪山平等寺」として再興。
廃寺となった大神神社の神宮寺で唯一再興されました。
その後も当時の住職たちの托鉢などの取り組みで伽藍の復興も進められて現在に至っています。
本堂がそのまま社殿となった大御輪寺。
寺院は完全に消え去り、鎮守社だけが残った浄願寺。
いったんは消滅しながらも住職や近在有志の努力で復興した平等寺。
明治の廃仏毀釈で大神神社の3つの神宮寺は同時に廃寺となりながら、それぞれがまさに三者三様のその後をたどったといえるでしょう。
大御輪寺と平等寺については、何とか本尊を守りたいという、当時の住職たちの執念も垣間見えます。
また平等寺の仏像、寺宝の維持や復興を見ると、やはり地元の支援や寺を残したいという想いの有無が、廃仏毀釈で消え去った寺院と残存、復興した寺院の分かれ道になっていますね。
貴重な堂塔、仏像、寺宝が多く失われたことは残念なことですが、明治初頭に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐は、本当に地域から必要とされるお寺か否か、厳しい選別にかけられた時期だったといえるのかもしれません。
次回はこちらです。
現在の大神神社神宮寺の姿は、こちらです。
<参考文献>
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