大和徒然草子

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思ってたんと違う(9)志士、ヤクザ、壮士、院外団~日本の政治と暴力の切っても切れない関係はどのように作られたか~政治と暴力1

皆さんこんにちは。

 

コンプライアンスが声高に叫ばれ、全国で暴力団排除条例が制定されるようになって久しく、今では政治とヤクザなどの暴力組織が、堂々と政治のプレイヤーとなることは、考えられない時代になりました。

しかし一昔前までは、地元のヤクザの親分さんが地方議員になっている例など枚挙にいとまがなく、国政の場でも1987(昭和62)年、当時自民党総裁の有力候補だった竹下登元首相が、自身を激しく非難する右翼の街宣活動を止めるため、広域暴力団稲川会に仲介を依頼した皇民党事件など、政治と暴力組織は強い結びつきを持ち、その事実は広く一般にも認知されていたのです。

 

この近代日本政治と暴力の結びつきは、実は議会政治の発展とともに強まっていきました

言論の府である議会と暴力という、一見相反するものがどのように強く結びついていったのか、今回は幕末から男子普通選挙が行われる1920年代までの状況をご紹介します。

 

近代日本は暴力から始まった

日本の近代政治と暴力の親和性が高くなった要因の一つは、近代日本建設の原動力となった幕末志士たちの性質にあったといえるでしょう。

彼らの多くは、攘夷、倒幕といった目標達成のために、暗殺や放火などあらゆる暴力の行使を躊躇せず、桜田門外の変英国公使館焼討事件など、幕末は志士によるテロが頻発しました。

もっとも、外国人や要人を何人か殺したところで、攘夷も倒幕も実現されることに多くの人が気付き、やがて攘夷志士によるテロは1868(明治元)年の前には下火となり、志士の多くは新政府軍や幕府軍に参加して、戊辰戦争という武力動乱に発展していくわけです。

明治維新はこういった暴力を伴う運動の帰結として達成され、維新後、特に新政府側に近かった攘夷志士たちによるテロ行為は、愛国心から発した義挙としてしばしば顕彰もされました。

そしてこの愛国、憂国ゆえのテロリズムを肯定する風潮は、明治初頭に反乱をおこした不平士族や、国粋主義を標榜する団体の構成員たちに引き継がれ、現在に至るまで影響力を残すことになります。

 

幕末の博徒たち

幕末動乱は、政治権力がアウトローたちを積極的に取り込んでいった時代でもあります。

江戸時代に260年以上続いた平和により、戦国時代以来の各大名家の兵制はすでに形骸化しており、幕末の動乱に対応できるものではなくなっていました。

そこで、諸藩は広く庶民からも兵を募り、草莽隊と呼ばれる武士以外も含めた様々な階層からなる軍隊を、軍事力として組み込んでいくことになります。

この時、全国の多くの博徒がその持ち前の戦闘力を期待され、新政府や幕府軍に組み込まれていきました。

その一例が、御三家の尾張藩博徒たちを組織した集義隊です。

尾張藩は不足する兵力を補うため、戦後士分に取り立てることを条件に、領内の非武士身分の人々を草莽隊として組織しました。

集義隊もその中の一つで、尾張東部から西三河、そして東濃の一部にわたって巨大な縄張りを持っていた北熊一家の近藤実左衛門や、清水次郎長との抗争で有名な平井一家を率いた平井亀吉といった領内の大親分たちが、取りまとめ役として名を連ねました。

集義隊は新政府軍として戊辰戦争に参加し、北越戦争を中心に各地を転戦しましたが、戊辰戦争終結後に他の草莽隊とともに解散されると、戦後士分に取り立てるという約束は反故にされ、平民とされます(その後、他の部隊とともに士籍返還運動を起こして、集義隊に参加した博徒たちは士族となりました)。

都合の良い時だけ利用して、用が済めば切り捨てる構図は、その後の暴力組織と政治権力の関係にも通じる点で興味深い事実です。

 

自由民権運動博徒の「反社」化

明治維新後、政治と暴力の関係で見落とせないのが、自由民権運動です。

自由民権運動薩長藩閥政府の専制的な政治運営を批判して、国会の開設、憲法の制定、地租の軽減などを要求した社会運動ですが、この運動には多くの博徒たちが加わっていました。

博徒自由民権運動に参加していった背景には、1881(明治14)年に大蔵卿松方正義が、西南戦争の戦費調達で生じたインフレを抑えようと行った財政政策・松方デフレがあります。

松方デフレにより米価や繭の価格が大暴落し、多くの農民が没落して農村が窮乏することになりました。

現在博徒をはじめとするヤクザと言えば、大都市の繁華街で活動するイメージが強いですが、江戸時代までの博徒は取り締まりが厳しい大都市部では活動できず、活動の中心は農村部でした。

国定忠治清水次郎長など、江戸期の侠客はみな地方の街道沿いの町で活動しているのはこのためです。

明治初頭、博徒たちの上客は、少し羽振りの良い農民の旦那衆でしたが、松方デフレによる農村の壊滅的な窮乏は、農民たちの経済に依存する博徒たちにも死活問題となったのです。

そのため、多くの博徒が困窮した農民たちとともに自由民権運動に参加し、持ち前の暴力を民権運動家たちによる一連の反政府暴動・激化事件で発揮することになりました。

自由民権運動への博徒の参加を危険視した政府は、1884(明治17)年1月に太政官布告として「賭博犯処分規則」を制定し、博徒の取り締まりを大幅に強化します。

この「賭博犯処分規則」はそれまで軽微な罰金刑であった賭博犯を重罰化するだけでなく、非現行犯の逮捕や賭博犯の一審制、そして「一家」の構成員であるだけで罪とする、現在の暴対法をはるかに上回る厳しい内容でした。

賭博犯の捜査を理由に自由民権運動の活動を妨害したいという政府の意図もあったのでしょう。

「賭博犯処分規則」は徹底的に運用され、施行の年だけで前年度比25%増の3万人を超える博徒が逮捕され、当時の博徒たちは「大刈込」と言ってこの取り締まりを恐れました。

その中には、既に博徒から足を洗って実業家に転じていた清水次郎長こと山本長五郎も含まれていました。

過去の経歴から逮捕しているため全くの冤罪でしたが、あまりに有名な博徒だったため、見せしめの意味もあったと言われます。

この「賭博犯処分規則」は近代刑法の原則からは大きく逸脱していることもあり、1889(明治22)年の大日本帝国憲法の公布に伴い廃止されました。

しかし、この「賭博犯処分規則」は、それまで犯罪ながら、ささやかな反権力行動として比較的寛容であった国民の「賭博」に対する感情を、反体制行為と一体化させることにより嫌悪感、忌避感を生じさせるものに転じさせる一因となったとされます。

そういう意味では、博徒たちヤクザ者たちが、社会の構成員ではなく「反社会勢力」と見なす潮流の原点は、自由民権運動の取り締まりにあったと言えるでしょう。

「賭博犯処分規則」施行後、自由民権運動の激化事件で最も大きな動乱となった秩父事件では、首謀者田代栄助以下、多くの博徒が動乱に参加しましたが、事件終息後、政府をはじめ一般マスコミまでもが、動乱の反社会性を喧伝するため博徒=不穏分子というネガティブキャンペーンを展開して、事件の矮小化が図られたことは、博徒の「反社」化を示す大変象徴的な出来事だと思います。

 

黎明期の議会政治と暴力

自由民権運動が高まる中、博徒とともに運動の実行部隊となったのが壮士と呼ばれた人々です。

壮士という語が政治用語として現れるのは1880年代前半、ちょうど自由民権運動における激化事件が頻発し始めた時期と軌を一にして、博徒たちと同様、民権派の活動家として加波山事件や大阪事件など様々な暴力事件やテロ計画に参加しました。

壮士たちが最も過激なテロ活動を行ったのは、帝国議会が開設される以前の1880年代までで、憲法が発布され帝国議会が開設されると、それまでの要人暗殺や小規模な反乱といった活動はその意味を失い、沈静化していきます。

替わって壮士たちの主要な活動となったのは、文字通りの「乱暴」でした。

すなわち、敵対する政党の講演・演説の妨害、対立候補への脅迫や物理的暴力、有権者への恐喝といった直接的暴力を見せつけることで、自分たちの政治目標を達成しようとしたのです。

議会の開設や言論の自由を求めた自由民権運動から、暴力で異なる意見を封じる存在が生まれたのは、なんとも皮肉なことですが、有権者が全人口の1%あまりしかなかった制限選挙の時代には、有権者に対する直接的暴力の行使は選挙結果に大きな影響を与える有効な手段と考えられました

1890(明治23)年の第1回衆議院選挙では、7月の投票日に向けた選挙運動期間中、壮士たちは様々な暴力的手段で選挙運動を行います。

対立候補の集会への乱入しては、相手側の壮士たちと乱闘騒ぎを起こし、横浜では交差点ごとに対立候補へ投票したものは「皆殺し」という立札を建てるなど、暴力と恫喝で選挙に介入しました。

政府が同年5月に「投票者への脅迫」や「選挙民の拉致」、「投票日の投票妨害行為」に罰則を加える衆議院議員選挙法の「罰則補足」を追加したことからも、壮士たちの活動がいかに猛威を振るったかが伺えます。

選挙後、政党内では当選者からなる議員団と落選者からなる院外団という二つのカテゴリが生じると、壮士たちは院外団の行動部隊となり命脈を保ちました。

この壮士たちの暴力について、当時のマスコミは一様に批判的な論調で報じています。

民党拠りであった朝野新聞ですら、民党である自由党の壮士を「暴徒」「暴漢」とよび、壮士の思想は封建的で日本人少年の名誉を汚していると批判して、官憲による一層の取り締まりや規制を訴え、読売新聞でも壮士の暴力に頼る政治家を痛烈に批判しています。

このような世間の批判にさらされながらも、議会で政府寄りの吏党と政府に批判的な民党の対立が先鋭化してくると、壮士たちによる暴力の応酬は、衰えるどころかいっそう激しいものになりました。

対立する議員への襲撃は日常茶飯事であり、自分たちに向けられる暴力に対しては暴力で対抗するほかなく、政治家も自分の身を守るため、すでに壮士を手放すことができなくなっていたのです。

 

1892(明治25)年の第2回衆議院議員選挙では、さらに暴力による混沌が深まります。

その原因を作ったのは、あろうことか当時の日本政府でした。

民党が議会多数派を握っていたことで、予算の成立に苦慮していた松方正義内閣は、民党候補の当選を阻止するため、あらゆる手段を用いることを決断します。

実行の指揮を執った内務大臣品川弥次郎は、長州出身の松下村塾門下生で、英国公使館焼討事件の実行犯の一人であり、「あらゆる手段」へ暴力を含めることに全く躊躇がなく、あろうことか警察を大量動員して、吏党の壮士たちとも結託して強力な選挙干渉を行いました。

品川の選挙干渉は、全国各地で民党壮士たちと大規模な衝突事件を引き起こし、結果25名もの死者を出すことになります。

とくに民党の創設者、板垣退助大隈重信の出身県での衝突は激しく、高知では10名、佐賀では8名とこの両県の死者が全国で最多となりました。

民主政治の根幹である議員選挙で大量の死者を出した第2回衆院選は、わが国憲政史上最大の汚点の一つですが、品川の選挙干渉は結局失敗。

民党は議会多数派を確保し、政府内からも強い批判を受けた品川は辞職。松方内閣も選挙後2か月で崩壊しました。

 

議会政治の黎明期、壮士の暴力が猛威を振るった原因は、直接国税15円以上を納付した男性に有権者が限られる、いわゆる制限選挙にありました。

有権者が全人口の1%ほどであり、有権者の一票の重みが現在と比べて格段に重たかったため、有権者個々人への暴力的働き掛けが、有効な選挙運動足りえたのです。

 

院外団による暴力の組織化

20世紀となっても、壮士たちが姿を消すことはなく、院外団として政党内に制度的に組み込まれて、その命脈を保ちました。

暴力を背景に自己の存在感を高め、意見を通すことは、19世紀の自由民権運動や選挙を通じて「当たり前」のこととなっており、すっかり政治文化の中に根付いてしまった、壮士たちの暴力を、政治家たちも手放せなくなっており、暗黙の裡に許容される戦術となっていたのです。

さて、初期の院外団は、19世紀に早くも自由党で組織されていましたが、この頃の院外団は個々の政治家に個人的に仕える壮士たちの連合体でした。

19世紀時点では、各壮士たちは、党ではなく政治家個人に仕える存在だったのです。

 

こうした壮士の力を存分に利用した政治家として、星亨が知られています。

星亨(Wikipediaより引用)

強引な政治手法から「押しとおる」の二つ名を持った星は、江戸の左官職人の家に生まれ、渡英して弁護士になった後、自由民権運動の只中に自由党員となった政治家です。
党内の権力闘争を勝ち抜き、追放した対抗勢力の壮士たちを取り込むことで配下を増やすと、壮士たちの暴力を背景とした選挙運動を繰り広げて、1892年の第2回衆院選ではついに栃木1区で当選。

1894年の選挙では、神奈川、埼玉から400人を超える壮士たちを動員し、再び選挙に勝利しました。

海外で弁護士資格を取った政治家と聞くと、上品で紳士然とした知的な人物を思い浮かべる人が多いでしょうが、星は乱闘にでくわそうなものなら、荒くれ揃いの配下の壮士たちと一緒に暴れ回り、武骨な無頼漢のリーダーのイメージを周囲に振りまきました。

後世、憲政の神様と称された尾崎行雄は、星の第一印象を「博奕打の親方」と自伝に書き残しています。

 

星がとりわけ頼りとしたのは東京三多摩地域の壮士たちで、そのリーダー格であった村野常右衛門森久保作蔵は星の手引きにより政界入りしました。

1900(明治33)年に星が立憲政友会(以後政友会)の結党に参加すると、村野、森久保も政友会に参加し、1903(明治36)年に政友会院外団が発足すると、彼らの傘下にあった壮士たちも、正式に党の組織として取り込まれました。

その後、他の政党にも同様の院外団が設立されますが、その役割は「情報収集」「代議士の護衛」「集会の警備」「敵対政党の集会妨害」「選挙運動」「政治運動の計画」など、旧来の院外団と変わらないものでした。

しかし、政友会院外団は従来より大幅に組織化が進み、1910(明治43)年には政友会本部内に院外団専用の事務所が設置されて、専任の事務員も雇われます。

さらに運営委員会のもと、形式的には知的グループと暴力的グループに分けられました。

知的グループの構成員は、落選議員や卒業間もない学士たちが中心で、将来の議員予備軍であり、暴力的グループを構成したのが壮士たちだったとされますが、両者の区分は曖昧だったようです。

院外団は政治活動を志す学生などの他、博徒テキヤといったいわゆるヤクザも引き入れていましたが、暴力的活動がヤクザの専売だったわけではなく、学生など知的グループに属する人々も参加していました。

後に自民党の幹事長や副総裁を歴任する大野伴睦は、明治大学の法学生だった時、犬養毅尾崎行雄の演説に惹かれ、桂太郎内閣への不信任投票を訴えるデモに参加。警察に逮捕されたことがきっかけで、政友会の村野常右衛門と知り合い、村野の誘いで政友会の院外団に入ったのが政治キャリアのスタートとなった政治家です。

大野は、キャリア的には知的グループのであったはずですが、政友会の集会だけでなく、敵対政党の集会妨害にも参加していたことで知られます。

 

院外団に組み込まれることで命脈を保った壮士たちでしたが、その暴力の効果は選挙制度の改革で選挙権が拡大していくにつれ、弱まっていきました。

そして、決定的だったのは1925(大正14)年に制定された普通選挙です。

25歳以上のすべての男性に選挙権が認められたことにより、有権者の数は約300万人から約1200万人と4倍に増え、有権者への直接的暴力はコスト的にもメリットがないものとなったのです。

そしてこの時期、選挙における不正の主役は、暴力よりカネに転換されていきます。

実際に最初の男子普通選挙となった1928(昭和3)年の衆院選では、贈収賄で起訴された件数は216から474へとほぼ倍増しました。

暴力事件での起訴件数は3件から6件で、こちらは数が少なすぎるためほとんど参考になりませんが、表立った院外団壮士による活動、とくに選挙運動における暴力的な活動は影を潜めていきました。

 

なお、院外団自体は戦後の保守政党にも受け継がれたものの、その役割は次第に各政治家の後援会や秘書団に吸収されていきました。

自民党の院外団だった自由民主党同志会は、自民党本部内に長らく事務所を構えていましたが、自民党から関係を断たれて党本部を退去したのは2002(平成14)年。小泉政権の頃で、つい最近まで日本の政党は院外団を内包していたのです。

 

さて、普通選挙によって選挙における暴力は減っていきましたが、議場内の暴力は消えず、また1920年代から本格化する左翼と右翼のイデオロギー闘争において、政治と暴力は密接な関係を保ちますが、続きは次回でご紹介します。

 

<参考文献>