皆さんこんにちは。
江戸時代の身分制度というと、筆者が学生だった時分は、士農工商に分かれ、基本的に生まれついた身分から、別の身分にはなれないものと習った方も多いかと思います。
2000年以降は、江戸時代には士農工商といった身分制度と、上下関係は存在しなかったことが明らかになり、文部省の検定済教科書からは削除されたそうですが、一般的に武士に生まれたらずっと武士、農民なら農民のままというイメージが、まだまだ強いんじゃないでしょうか。
しかしその実態は、現在ほどではないにしても、身分間の流動性がある社会だったのです。
武士も、武士の家に生まれたら、自動的に武士になれる…という人たちばかりでは、なかったようで…。
武士も色々
江戸時代、一口に武士と言っても、実のところ、いくつもの階層に分かれていました。
その階層を、身分的に大別すると、乗馬を許された上士と乗馬を許されなかった下士の二つに分かれます。
そもそも武士というものは、平安時代末期に誕生してから、馬に乗り、弓を射る芸能を身につけた者であり、それを家芸とする家が武家でした。
この騎馬武者こそが武士であるという時代が、長く続いたわけですが、これに変化が起きるのが室町中期。戦術が騎馬武者同士の一騎打ち中心から、新たに足軽による集団戦が、戦闘の中心となったことによるものでした。
ちなみに、室町以前から弓や長刀などで武装し、徒歩で武士に従う下部・僕(しもべ)と呼ばれる人々はいましたが、もっぱら彼らの役割は、荷物運びや土木作業といった戦闘の補助的作業が中心であり、武士とはみなされていませんでした。
しかし、室町時代の半ば以降、軽装の歩兵である足軽が組織的に運用され始めると、当初は臨時に雇われる傭兵だった足軽が、戦国時代には常時雇用の武士となっていきます。
やがて戦国時代が終わり、江戸時代になると多くの足軽は牢人となったわけですが、一部は警備員や、様々な雑務、事務の要員として引き続き武士身分として残りました。
彼らが、徒士、足軽といった、武士でありながら乗馬を許されない下士身分となっていきます。
一方、乗馬を許されたのは、いわゆる従来的な武士。戦国期には所領を持ち、騎馬武者となって出陣した武士たちが、近世、上士となっていったのです。
上士と下士の間には、同じ武士でも明確に差があり、藩によっては、もし上士と下士が領内で出くわすことがあれば、下士は上士に道を譲るのはもちろん、雨の日であっても土下座せねばならないなど、厳しい身分の隔たりがありました。
こうなると、武士と言ってもほとんど庶民と変わらないような扱いですよね。
さらに、乗馬を許されない、上士に対して頭を上げられない以上の大きな格差は、その身分の相続事情にありました。
実力主義の下級武士たち
上士の家は、先祖代々の身分と知行(領地・給料)が、親から子へ、子から孫へとその血筋によって、無条件に世襲されていきます。
一方、徒士、足軽といった下士たちは、江戸時代の初め頃まで原則一代限りであり、世襲の武士ではありませんでした。
徒士は主に上士層の次男、三男の受け皿となり、足軽は広く庶民からも登用されていました。
採用の基準は、徒士は体格がよく、背の高いものが採用された例が、江戸初期の頃は多かったようです。
というのも、大名行列の際に徒歩で従うのが徒士の人々だったので、見栄えをよくしたいということだったのでしょう。
また、徒士、足軽は当然のことながら、必要とされる技能を身につけているかも重要視されました。
体格に優れている。護衛に必要な武術の心得がある。あとは文書作成や算術などの事務的技能など、適性や技能など、実力主義が徹底されていたのです。
しかし、江戸も中頃になると、徐々に徒士層も世襲が認められるようになり、江戸の後期になると徒士は世襲の武家身分として固定化されていきます。
一方、同じ下士でも足軽は原則的には世襲の武家身分とはなりませんでしたが、引退時に後継者を定めることで、事実上の世襲が可能で、株の売買なども盛んに行われました。
この世襲による武士身分であることが、公に認められていた徒士と、そうではない足軽との間に、江戸時代には大きな線引きが行われ、明治維新後、徒士以上は士族となり、足軽以下は卒族とされることになります。
さて、一見世襲の武士階級となった徒士、足軽層ですが、上士が無条件に親の地位や家禄を世襲できるのに対して、下士層の世襲は、その役割に応じた技能を有することが必要でした。
すなわち、一定の体力や弓、鉄砲の技能など、一代抱えだった頃と同様、実務的な能力を有することが、下士層は世襲が認められたのちも、求められ続けた訳です。
こういった下士たちの実情がよくわかるのが、歴史学者、磯田道史さんのベストセラーで、映画化もされた『武士の家計簿』。
この本の主人公といえる楮山(こうぞやま)家は、藩の帳簿をつけるなど、実務型の書記官のような役割をもつ、加賀藩御算用者という下士の家ですが、この家の子弟は将来出仕できるよう、幼いころから、厳しく算術や読み書きの教育を施された様子が、紹介されています。
また、上士が基本的に嫡男しか親の役職を引き継げないのに対し、下士は次男坊、三男坊でも能力次第で出仕できた。というか、下士は俸給が少ないため、嫡男以外が部屋住みで仕事をしないという訳にはいかず、自ら食い扶持を得るため、必要な技能を身につける必要があったわけです。
一家から複数の出仕者を出し、2、3人分の俸給を得るというのが、下士層の理想的なスタイルでした。
このように、武士の大部分を占める下士層は、江戸時代を通じて実力主義が貫かれたのです。
幕末動乱から明治維新
江戸時代、文書作成や経理事務などの実務的作業は、下士たちの仕事で、上士は一切かかわりませんでした。
とくに算術などの実用的なスキルは、「徳の低い」作業で、士分(=上士)がすべきものではないとされ、算盤などは徳を失わせる小人の技と卑しまれたほどです。
なので、各藩校でも算術などは、下士にしか習わせないことが多く、藩祖前田利家が算術に明るかった加賀藩ですら、その状況は変わりませんでした。
平和な時代はこれで社会もうまく回っていたのですが、幕末の動乱期になると、この上士、下士の在り方が、両者の立場に微妙な変化をもたらしてきます。
とくに幕末、海外列強の脅威が顕在化すると、各藩は兵制の近代化を迫られてきます。
本来武士は戦士であり、戦国以来、俸禄に応じた兵役義務や制度はあったのですが、太平の江戸時代が200年以上続き、すっかり各藩の兵制は時代遅れで形骸化してしまっていたのです。
そこで、西洋の兵制を取り入れようとするのですが、これに上士たちがなかなか馴染めない。まず、ライフル銃を持ちたがりません。あんなものは足軽が持つものだ。という訳です。
また、大砲の扱い、こと弾道計算などは完全に数学の世界で、これにも上士は算術など武士のすることではないと、積極的に参加するものがほとんど現れません。
そこで、幕府をはじめ、本格的な洋式兵制を取り入れた藩は、兵士や指揮官の多くを、下士や武士以外の身分から新たに取り立てました。
医者出身で長州藩の軍事指揮官となった大村益次郎などは、その代表格と言えるでしょうか。
新たな技術や知識を、自身の立身のために積極的に身につける下士層が、幕末動乱で主導的な役割を果たしたのに対し、実学を嫌うものが多かった上士層の活躍が目立たない大きな理由は、上士と下士のこういった立場の違いに根差すところが大きかったのだろうと思います。
<参考文献>
映画化もされた歴史家・磯田道史さんのベストセラー。
加賀藩御算用者、楮山家の記録から、江戸時代の下級武士たちの生活が、生き生きと浮かび上がる一冊です。
こちらは、「武士の家計簿」の著者、磯田道史さんの学術論文ですが、教養書としても非常に読みやすい一冊です。
「武士の家計簿」とセットで読むと、江戸時代の武士たちのリアルな姿を、わかりやすく理解できます。